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Vol.32 「江戸川土手にて」 (2006/03/25)

花便りが待ち遠しい春浅く。
お勧めの散歩コースを紹介する新番組『ちい散歩』のロケで、柴又を訪れました。

駅前から少し歩くと、程なくして江戸川の土手にたどり着きます。
カメラスタッフが周辺の景色を撮影している間、若草の中に座って待機していました。
春の小川、朧月夜、花。
強い風にくるまって、どこからか、耳慣れた旋律が聞こえてきます。
さくら、荒城の月、なごり雪。
音色は少しずつ輪郭を帯び、辺りを見回すと、
白いハンチングを被ったおじさんがハーモニカを吹いていました。

「いつも、この場所で吹いていらっしゃるのですか?」
銀のハーモニカに、日射しがきらきらと跳ねています。
おじさんは黙っていました。
「邪魔をしてしまってごめんなさい…『なごり雪』が聞こえて来たので」
「…なごり雪、知ってるの」
「はい」
顔は前を向いたまま、おじさんはやっと口を開いてくれました。
ハーモニカを始めたのは40歳を過ぎてからで、
時々この場所へやって来ては、その日の気分で演奏しているそうです。
やや外れた音程と変則的なリズムは、独学のせいでしょうか。

うららかな午後。
川べりでは、黄色いスモックを着た園児たちが遊んでいます。

「何か、リクエストある?」
「ええと…」
この季節の歌を必死に考えあぐねていると、にわかに私の携帯電話が鳴りました。
どうやら撮影が終わったようです。
「そろそろ、行かないと…」
何となく後ろめたい気持ちになりながら、電話を切っておじさんにそう伝えました。
すると、「それ、これとちょっと似てるね」。
フィ、フィ、フィ。
おじさんはハーモニカで携帯電話の着信音を真似ると、目を合わせないまま少し笑いました。
「ありがとうございました」
そう言って土手を駆け上り、一行に合流して、
すっかり小さくなった白いハンチングに向かって手を振ると、
おじさんは初めて顔を上げて、大きく手を振ってくれました。
よく見ると、耳にハーモニカをあてています。

もしもし。
春の音色が、届きました。
もしもし。
帽子が、飛ばされそうです。


(「日刊ゲンダイ」3月25日発刊)
   
 
 
    
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