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Vol.26 「飛鳥の里」 (2005/11/5)

出来るなら、真っ白な画用紙に色鉛筆を重ねたいのですが…。
遅めの夏休みを頂いて、万葉の里で知られる、奈良県明日香村を訪れました。
母は、前日から解説に乗り気です。
「額田王の悲恋はね…」
万葉集と聞いて思い浮かぶのは、
“柿本人麻呂”“大伴家持”といった、教科書に載っていた歌人の名前ばかり。
何を歌っていたのかは、あまり思い出せません。

当日は、朝早くから出かけました。
カバンの中には水筒とお弁当。
電車の振動と、やわらかな秋の陽射しにうつらうつら。
やがて、ビルが屋根に、屋根が田畑に、だんだんと風景が腰をかがめます。
あぜ道では、保育園の子どもたちが電車ごっこ。
つないだ縄跳びの中にくるりと収まって、こちらに向かって小さな手を振っていました。

飛鳥駅に到着したのは、お昼前でした。
村内は歴史的風土保存の対象となっているため、
建築には厳しい制限がかけられているようです。
駅前で自転車を借りて、万葉の里を一日かけて思い思いに巡ります。
いつの間に用意したのか、母は綿の手袋とサンバイザーを装着済みです。
私はジャケットを腰に巻きつけ、二台の自転車はふらふらと走り出しました。

しばらく走ると、無数のコスモスが群れ咲いていました。
白とピンクの天然スパンコールの連なり。
その先には、大ぶりの柿が鈴なりになっています。
ゆっくりと響く、ペダルの軋む音。
それを笑うかのように、風がぼうぼうと、耳元を走り抜けていきます。

ようやく、蘇我蝦夷・入鹿父子の大邸宅跡といわれる甘樫丘に辿り着きました。
自転車を止めて、道を上っていきます。
丘の上の展望台。
視界を遮るものは何もありません。
ゆるやかな山の稜線に視線を滑らせると、眼下には一面のススキ。
キツネのしっぽの連なりが、ふっさりと秋風に揺れています。
お弁当を広げながら、「この卵焼きと同じ色だね」。

止まっていた記憶が、少しずつ溶け出していきます。
万葉の時代に生きたわけでもなく、かつてこの場所を訪れたこともない。
それなのに、なぜか懐かしい。
凝り固まった気持ちのコリが、音を立ててほぐされていくような気がしました。
遠くに霞んだガスタンクは、まるでどこかの惑星のように見えます。
自分は時空をも飛び越してしまったのだろうか。
山々に囲まれた、その奥の高まりに位置するのは?

日焼けを気にしていた母の手は、日々の家事で少し荒れていました。
お弁当の卵焼きはおいしかったけれど、どう告げていいのかは分かりませんでした。
話題になったのは額田王の悲恋ではなく、二人の恋愛観でした。

大人の遠足に、明日香はいかがですか。
どうか、大切な人と一緒に。


(「日刊ゲンダイ」11月5日発刊)
   
 
 
    
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