2009年8月3日
今から64年前、1945年8月6日。広島では、前夜から夜通し何度も鳴り響いた警戒・空襲警報も7時31分には解除され、人々は生活の営みを開始した。その40分後、3機の米軍機が来襲し、8時15分、広島に原爆を落とした。この時だけはなぜか警戒警報は鳴らなかった。世界で初めて使われた原子爆弾は人々が無防備な中、投下された。
当時14歳だった岡ヨシエさん(78)は、広島城内の旧陸軍司令部の地下通信室で、軍人から渡されたメモを読み上げ、放送局や役所に警戒警報を伝える任務についていた。岡さんは、8時9分過ぎにB−29が東の方向から侵入という情報が入り、また来たのかと思ったという。岡さんは、広島と山口に警戒警報発令というメモを受け取り、いっせいに放送局直通の受話器を手に叫んだ。しかし「警戒警報発…発令の“発”というところで原子爆弾が炸裂して、窓からすごい光が入ってきた」と話す。警戒警報は鳴らなかった、瞬時にして広島の町は崩壊した。原爆を積んだB−29、通称「エノラ・ゲイ」の一団3機は、なぜその直前まで発見されなかったのか。広島市の北東60キロ、世羅町にある甲山防空監視哨跡。64年前、寺地文人さん(99)は、ここでエノラ・ゲイの一団3機を発見した。エノラ・ゲイは南の空から、監視哨まで迫っていたが、思わぬ動きをしたという。「(爆弾を)落とさずに、急角度で向きを変え、広島方向に行った。不可解に思った」と話す。寺地さんは、すぐに通報したが、数分後、広島市内に閃光が走った。「あれを食い止めることは到底出来なかった」
いち早く原爆の開発を行い、世界をリードしようとしていたアメリカは、その威力と効果をライバル国ソ連などに見せ付ける必要があったという。「原爆の視覚的効果や破壊力を最大限に引き出したかった。だから(投下の際)、工場や軍事施設、一般住宅など区別しなかった」とスタンフォード大学のバーンスタイン教授は指摘する。
エノラ・ゲイの一団3機は、テニアン島からほぼ一直線にやってきたと言われているのに、なぜ日本側の発見は遅れたのか。雑誌AERAの長谷川煕記者は、その疑問を長年抱き続けていた。そういった中、長谷川記者は、エノラ・ゲイが一度、広島上空を通り過ぎ、警戒警報が解かれた隙に舞い戻って来たのではないかという、原爆の研究家の説があることを知る。