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SmaSTATIONランキング!!「20世紀を代表する美女ベスト20」
 古今東西、いろいろなタイプの美人がいるなかで、国境、世代を超えて今なお多くの人たちから愛され続ける美女たち。そこで、スマステでは、私たち日本人が選んだ20世紀を代表するにふさわしい美女を大発表! あなたが、もっとも心を奪われた美女は誰ですか?

第1位「銀幕の妖精」 オードリー・ヘプバーン [1929〜1993]

53年公開の『ローマの休日』で天真爛漫なアン王女を演じ、一気に世界中の人々の心をわしづかみにしたオードリー・ヘプバーン。しかし、彼女はなんと自分の顔にずっとコンプレックスを持っていたというのです。特に彼女はエラの張った自分の顔があまり好きでなく、いつも左側から写真を撮られるようにしていたのです。どうしても正面から撮る場合には、顎に手をあてて少しでも気になる場所を隠していたのです。さらに彼女は太りやすい体質であることを常に気にして生活。61年の映画『ティファニーで朝食を』でも高カロリーのデニッシュが気になり、食べるシーンで、おいしそうに食べることができず何度もNGを出してしまったといいます。そしてそれほどまでに食事制限を行い、身長173cm、体重46kg、バスト86cm、ウエスト51cm、ヒップ86cmという驚異的な体型を保ち続けたのです。

Q.ここでクエスチョン。
オードリーが今なお愛される理由のひとつがそのファッション。彼女が映画で着用し、あっという間に大流行したこちらのパンツ。なんという名前でしょうか。

正解は…サブリナパンツ。

54年公開映画『麗しのサブリナ』ではいた事で大ブレイク。今も親しまれるその名前の由来となりました。スクリーンを引退した後の彼女は93年に亡くなるまで、ユニセフ親善大使として積極的に活動。多くの子供たちに夢と希望を与え続けました。


第2位「日本が誇る映画女優」 吉永小百合 [1945〜]

清純派女優として、彼女が一躍注目されることになったきっかけが、1962年の映画『キューポラのある街』。貧困の中、ひたむきに生きる主人公ジュンを清々しく演じると、多くの日本人が熱狂、「サユリスト」と呼ばれる熱烈なファンも生まれました。そして、彼女の人生に大きな影響を与えることになったのが、1981年のテレビドラマ「夢千代日記」。吉永演じる主人公「夢千代」が、胎内被爆による白血病で余命3年という役柄だったことがきっかけで「原爆詩の朗読会」をスタート、彼女のライフワークとなったのです。公開中の映画「母べえ」が出品されたベルリン国際映画祭で熱烈な歓迎を受けたばかりの吉永小百合。生涯女優を貫きたいと語る彼女は現在63歳。既に次の作品に取り組んでいます。


第3位「情熱を秘めた伝説の女優」 夏目雅子 [1957〜1985]

その美貌からデビュー当初は「お嬢様女優」と呼ばれた彼女。しかし82年、『鬼龍院花子の生涯』では極道の娘役を熱演、迫真の演技で演技派女優の名を不動のものにしました。さらに、映画で彼女が口にした「なめたらいかんぜよ」というセリフは当時の流行語に。また、人気絶頂の84年には作家・伊集院静と結婚。そんな彼女の代表作と言えば、78年スタートのドラマ「西遊記」。総制作費に破格の10億円を費やした高視聴率ドラマで、当時20歳の夏目雅子は、三蔵法師役に挑戦。厳しさとやさしさを兼ね備えた三蔵法師の神秘的な美しさに人々は釘付けとなりました。そんな活躍の最中、1985年9月11日、彼女は、急性骨髄性白血病をわずらい、27歳という若さでこの世を去ってしまいます。まさに「美人薄命」のこの知らせに日本中が悲しみにくれました。死後22年がたった今なお、写真の展示会が催されるなど、多くのファンに愛され続けています。


第4位「イングランドのバラ」 元イギリス皇太子妃・ダイアナ [1961〜1997]

1981年7月29日、豪華なウェディングドレスを身にまとい、王室に嫁いだ20歳のダイアナ。宮殿バルコニーでのロイヤルキスに世界中が熱狂、祝福の歓声をあげた。こうして世界一美しい皇太子妃となった彼女は、古い伝統や常識にとらわれず、自分の意思を貫くことでも有名でした。結婚からほぼ1年で母となったダイアナは、公務に専念するため子供の世話は乳母がするという王室の慣習を意に介さず、母乳で子供を育て、自分でお風呂にも入れたのでした。

Q.ここでクエスチョン!
ダイアナはエリザベス女王から贈られた200万ポンド、およそ4億円もするネックレスをちょっと変わった付け方をしてパーティーに現れました。いったいどんな付け方をしたのでしょう?

正解は・・・「バンダナのように頭に巻いた」

斬新な発想で800人近いパーティー参加者を驚かせたといいます。周りからは全ての幸福を手に入れたと思われていたダイアナ。しかしチャールズ皇太子の浮気などその結婚生活は決して幸せなものではありませんでした。そして迎えた、あの日・・・。1997年8月31日、帰らぬ人となったのです。未だ様々な憶測を呼ぶ、衝撃の死から10年となった2007年、息子である2人の王子が企画した追悼コンサートには彼女を慕うように6万人以上の観客が詰め掛けました。


第5位 「永遠のセックスシンボル」 マリリン・モンロー [1926〜1962]

彼女のイメージといえば、55年公開の『七年目の浮気』でのスカートが地下鉄の風で舞い上がる姿。実は、実際の映画には、このシーンがないことをご存じでしょうか。撮影後、検閲により「このままではセクシー過ぎる」という理由で、このシーンは上映できないことになってしまったのです。そこで、映画では足元だけが映るシーンに変更。あまりにも有名なあの写真は、宣伝ポスター用につくられたものだったのです。

Q.ここでクエスチョン!
腰を振って歩く有名なモンローウォーク。これは、モンローが靴にある細工をして生まれました。さてどんな細工をしたのでしょうか?

正解は・・・片方の靴のヒールを切り、両方の靴の高さを変えた。

セクシーなモンローウォークはこうして生まれ、人々に強烈な印象を与えたのです。一躍ハリウッドのスターになった、モンロー。しかし1962年8月、有名なケネディー大統領へのハッピーバースデーソングを歌った3ヵ月後、自宅で息を引き取ってしまう。ベッドで全裸で受話器を握りしめたままという謎の死でした。生前から浪費癖のあったモンロー。亡くなった時の銀行口座には、なんと500ドルしかなかったといいます。


第6位 「クール・ビューティー」 グレース・ケリー [1929〜1982]

彼女の魅力を初めて効果的に生かした作品が、1954年公開の、ヒッチコックの名作『裏窓』。気高い美しさのなかに、男性を惹きつけるセクシーさが随所に散りばめられていました。1956年には、モナコ公国のレーニエ大公と「世紀の結婚」。わずか11本という出演作を残し、映画界から姿を消したのでした。

Q.ここでクエスチョン!
結婚後、妊娠中の彼女が持っていたバッグでお腹を隠す写真がきっかけで、名称が変えられたバッグはなんでしょう?

正解は…ケリーバッグ

このバッグのメーカー、エルメスはモナコ公国に了解をとってバッグの名前を変更。ちなみに以前は「サック・ア・クロア=ベルト付きバッグ」という名前でした。結婚後は、公務に励んでいたグレース公妃でしたが、1982年、乗っていた車が40メートルのがけ下に転落し、帰らぬ人となりました。52歳でした。この死には「国王との不仲による自殺説」などさまざまな憶測が飛び交い、真相は未だ謎に包まれています。


第7位「永遠の女優」 イングリッド・バーグマン [1915〜1982]

「君の瞳に乾杯」の名セリフで知られる42年公開の不朽の名作『カサブランカ』、44の初のオスカー受賞作『ガス燈』など代表作を数多く持つ彼女は、キスシーンが美しいことでも有名。46年の『汚名』でのケイリー・グラントとのキスシーンは、映画史に残る名キスシーンとして知られています。ちなみに当時のハリウッドではモラル上、キスは3秒以内という暗黙のルールが存在。そのため、彼女の映画でも、3秒以内のキスが細かく何度も繰り返されています。


第8位 「史上最強の美女」 エリザベス・テイラー [1932〜]

1956年の『ジャイアンツ』では、あのジェームズ・ディーンと共演、ハリウッドを代表する美人女優となったエリザベス・テイラー。当時、360度どこから撮られても完璧な美貌と絶賛されました。彼女は、13歳の時『緑園の天使』で類まれな美貌を持った少女としてスクリーンに登場。そして、31歳のときには、絶世の美女と謳われたクレオパトラを演じることになります。ちなみに、豪華絢爛なこの作品は、20万人以上のエキストラ、豪華なセットや衣装の数々、総制作費は現在の価値で約300億円と、史上最高額となりました。

Q.ここでクエスチョン!
彼女が67歳のときに9回目の結婚相手と噂された年下の超有名アーティストは誰でしょう?

正解・・・マイケル・ジャクソン

実際は結婚しなかったが、マイケルは彼女に対し「良い時も悪いときもそばにいてくれる、世界で一番信用できる人」と、今でも絶大な信頼を寄せているといいます。


第9位  「情熱の美女」 ヴィヴィアン・リー [1913〜67]

ヴィヴィアン・リーの名を世界に広めたのは歴史に残る大作『風と共に去りぬ』で演じた、気高くも情熱のままに生きるヒロイン、スカーレット・オハラ。1940年、この映画でアカデミー賞に輝いた彼女は、イギリスが誇る名優、ローレンス・オリヴィエと結婚。しかし、妻と女優の両立というプレッシャーから徐々に精神を病んでしまいます。さらに、愛する夫との間に授かった子供を流産、その後、結核を患った彼女は、夫にも別れを告げられ、53歳でこの世を去りました。


10位 「クイーン・オブ・ポップ」 マドンナ [1958〜]

1984年の「ライク・ア・ヴァージン」で全米1位を獲得。その後も90年の「ヴォーグ」、92年の「エロティカ」、2000年の「MUSIC」、2005年の「HANGUP」と、音楽性を常に進化させながら、どの時代においてもメガヒットを連発。デビューから26年、今年で50歳を迎え、2児の母となった彼女。その美貌・ダンスはまったく衰えず、これまでに全世界で約4億枚のアルバムを売り上げ、史上最も成功した女性アーテイストとなりました。

Q.ここでクエスチョン!
彼女は若かりし頃、成功を夢見てニューヨークに単身乗り込みます。そのとき彼女は、「○○より有名になる」と自分に誓ったのですが、○○とは一体何でしょうか。

正解は・・・神

今では世界で一番有名で、最もお金を稼ぐ女性シンガーになった彼女。「神よりも有名になる」と誓った時、彼女の手元にはたった35ドルしかなかったといいます。今月には新曲、「Four Minutes」、そして来月には新しいアルバム『ハード・キャンディー』を発表。そのなかには、木村拓哉さん主演ドラマのために作った主題歌「マイルズ・アウェイ」も含まれるといいます。


第11位 「フランス映画界の女王」 カトリーヌ・ドヌーブ [1943〜]

最初に脚光を浴びたのは1963年ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』。結婚できぬまま、恋人の子供を出産する未婚の母を演じた彼女は、皮肉なことに私生活でも未婚の母になったばかりでした。そのとき彼女は19歳。その後、1967年の『昼顔』では「貞淑なかわいい妻」と「娼婦」という2つの顔を持つ「魔性の美女」を巧みに演じ、新境地を開拓。やがて、誰もが認める大女優となったのです。その後、イタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニとの間にも子供を授かるも、彼には妻子があり、再び未婚の母となってしまいます。


第12位 「日本一の美女」 山本富士子 [1931〜]

彼女が注目を浴びるきっかけとなったのが、1950年の第一回ミス日本コンテスト。山本富士子は満場一致で初代ミス日本に選ばれ、その美貌で世間をにぎわせました。彼女の魅力は、なんといっても黒く潤んだ瞳。1961年の代表作『黒い十人の女』では、多くの女性と浮気する夫の妻をミステリアスに演じました。その後、彼女は活躍の場をテレビや舞台の世界にうつすと、高視聴率を連発。76歳となった現在でも、舞台で主演をはるなど活躍を続けています。


第13位 「絶世の美少女」 ブルック・シールズ [1965〜]

1980年公開の映画『青い珊瑚礁』で無人島に流れ着いた少女を大胆に演じ、大ブレイクしたブルック・シールズ。その太い眉やファッションは常に話題となり、多くの女性たちがお手本にしました。ちなみに、皇太子様も彼女のファンであることを公言。皇太子様がアメリカのプリンストン大学で、彼女に会われたときには、日本中で大きな話題となりました。「ハリウッド女優ナンバー1美女」の名を欲しいままにした彼女は、あのマイケル・ジャクソンと交際。お互いの家を行き来する現場をスクープされました。さらに、97年、テニス界のスーパースター・アンドレ・アガシと結婚するも、2年後には離婚しました。


第14位 「伝説の女優」 原 節子 [1920〜]

国際的にも有名な、あの小津安二郎監督作品には欠かせない女優として、『東京物語』など数多くの名作映画で主演を務めた伝説の美女です。

Q.ここでクエスチョン!
当時、その清楚なイメージ通り、原のプライベートは一切謎。そこで、ついた呼び名が「永遠の○○」なのですが、○○に入る言葉はなんでしょうか?

正解は…永遠の処女

スキャンダルなど一切なく、その神秘性は現役時代を通して保たれました。そして、1962年、映画『忠臣蔵』を最後に、突然映画界を引退。このときも一切の理由を明かしませんでした。その後、敬愛し続けた小津安二郎監督の葬儀以降、現在に至るまで45年間、公の場に姿を見せていません。


第15位 「最も美しいジュリエット」 オリヴィア・ハッセー [1951〜]

まだあどけなさが残る17歳の少女が世界を虜にしたのは、1968年公開の映画『ロミオとジュリエット』で悲劇のヒロインを演じた時でした。愛し合うことが許されない関係と気づきながらも、愛しい人への想いを言葉にするバルコニーのでシーンはあまりにも有名です。
(※バルコニーでの告白のシーン)

Q.ここでクエスチョン!
オリヴィア・ハッセーは、27歳の時に出演した化粧品のCMがきっかけで、ある有名な日本人歌手と結婚しました。その男性とはいったい誰でしょう?

正解は・・・布施明さん

そのCMソング「君は薔薇より美しい」を歌っていたことで知り合い結婚。当時、大変なビッグニュースとなりました。


第16位 「ルーマニアの白い妖精」ナディア・コマネチ [1961〜]

1976年、モントリオールオリンピック女子体操にルーマニア代表として14歳で出場したナディア・コマネチ。非の打ち所のない演技でオリンピック史上初、10点満点を記録したのです。ちなみに、このとき電光掲示板に表示された点数は、なぜか1.00。10点満点が出る可能性は非常に低く、10の位の表示欄は用意されていなかったのです。しかも、コマネチはこの大会で10点満点を7回も出すという驚異的な記録を残しました。それから、13年後の1989年12月1日、28歳のコマネチは突如アメリカに現れました。実はコマネチは、当時、独裁政権下のルーマニアで、チャウシェスク大統領の次男にしつこく交際を迫られ逃げるように亡命したのです。そして2004年、42歳となったコマネチはアテネオリンピックの聖火リレーに登場。変わらぬ元気な笑顔を見せてくれました。


第17位「ミニスカートの女王」ツィギー [1949〜] 

来日した1967年、記者会見に膝上30センチのミニスカートで登場。身長167cm、体重41kgのスリムな身体でミニスカートを着こなすイギリス人モデルの姿は、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。そして、この来日をきっかけに日本にもミニスカート旋風が巻き起こり街のあちこちに、ツィギーばりのミニスカ女性が出現したのです。

Q.ここでクエスチョン!
「ツィギー(Twiggy)」というのは、芸名で彼女の体型をたとえた「○○ちゃん」という意味ですが○○に入る言葉は何でしょう?

正解は…「小枝ちゃん」

彼女の手足が「twig、小枝」のように細かったことからTwiggy、小枝ちゃんという愛称(芸名)がつけられました。


第18位 「歴史に翻弄されたスター」李香蘭(り・こうらん)[1920〜]

日本人であることが伏せられ、中国人女優として旧満州国でデビューした李香蘭は1940年、日本の映画『蘇州夜曲(そしゅうやきょく)』に出演。ラブストーリーを演じる美しい中国人女優の姿と歌声は日本人の憧れとなりました。しかし、日本の武力支配に苦しむ中国人からみれば、この映画は中国を侮辱する内容だったため、終戦後、軍事裁判にかけられることに。そして、愛する中国から追放されてしまうのです。その後、彼女は日本で本名である山口淑子(よしこ)を名乗り女優・歌手として再出発。さらにテレビキャスター、国会議員を務めるなど真の国際平和のために、今なお活躍を続けています。


第19位 「魅惑の女優」 若尾文子(あやこ) [1933〜]

学生時代から知らない人はいないというほど、有名な美少女だった彼女は、1951年、映画界に入ると、その名は瞬く間に全国区に。66年には、主演の『刺青(いれずみ)』で芸者役として大胆な演技を披露し、次第に妖艶な大人の女優へと成長していきます。特に妖艶な声は、男性たちを虜にしました。74歳を迎えた今なお、映画や舞台で活躍を続けています。


第20位 「イタリアの太陽」ソフィア・ローレン [1934〜] 

アメリカとイタリア両方で活躍した彼女は、ハリウッドでは歴史大作『エル・シド』に登場するヒロインのように、りりしい美女の姿を強く印象づけました。その一方で、ラブコメディーでは愛らしいキャバレーの踊り子<『ナポリ湾』(60)>、そして西部劇では演劇一座のブロンド美人女優<『西部に賭ける女』(60)>と、実に幅広い役をこなす演技派女優として君臨していきます。今月6日には、イタリアのジュエリーブランドPRのため、30年ぶりに来日。元気な姿を見せてくれました。






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