1973年、23才のとき、当時絶大な人気があった刑事ドラマ「太陽にほえろ」の新人刑事として鮮烈なデビューを果たした優作。役者を目指すものなら誰もがうらやむ大抜擢でした。人気絶頂だった萩原健一の後釜という大きなプレッシャーはあったものの、ボスである石原裕次郎をもしのぐ身長と日本人離れした手足の長さからなる彼の走りは若者を魅了し、最も美しく走る俳優と呼ばれました。しかし誰もがうらやむ成功の裏にこんな苦悩も…。初めての連続ドラマ、毎週放送があるためスケジュールはいつも一杯。そのため撮影も次から次へと進む。舞台俳優出身の優作にとって自分の納得がいかない演技にOKがでてしまうこともあり、スタッフとの衝突が後を絶えなかったのです。 実は、この「太陽にほえろ」の前に優作は、1本の映画に出演していました。優作の映画デビュー作「狼の紋章」です。不良グループのリーダーという準主役としてスクリーンに登場した優作は、新人離れした堂々とした演技を見せ、巷では「若いころの三船敏郎のようだ・・・」とも評されました。撮影中は誰よりも先にスタジオに入り、その日の演技の稽古をこなしていたという優作。役に対する集中力は当時から半端ではなかったのです。当時の共演者に優作はこう言っていたといいます。 「これから役者をやっていくには、日本だけなんて考えちゃだめだぜ ハリウッドにもどんどん出て行ける役者にならねえとな」 すでに世界を見据えていた優作。故郷山口の小さな映画館で、銀幕のスターに憧れ、漠然と役者になることを夢見た優作は、その勉強にと推理小説やシェークスピア、ニーチェといった戯曲や哲学書まであらゆる種類の本を読み漁ったそうです。さらに、上京後も稽古の合間に、暇さえあれば映画館に足を運び、マーロン・ブランドやジェームス・ディーンなどの人気作品からマイナー映画にいたるまで様々な映画を見て回っていたのです。「太陽にほえろ」という超多忙な作品に出演しながら優作は、当時、「F企画(えふきかく)」という自らの劇団も立ち上げ、シナリオを自ら執筆するなど精力的に活動していました。世界で通用する役者になる・・・その夢に向かってただ一心にがむしゃらに演技に取り組んでいたのです。 「太陽にほえろ」のジーパン刑事で一躍有名人となった優作は、その後文学座の後輩・中村雅俊と共演した「俺たちの勲章」、更に、渡哲也と組んだ「大都会パート2」に出演。また、兄貴と慕った原田芳雄との初共演となった映画「竜馬暗殺」、舘ひろし率いる本物の暴走族クールスと共演した「暴力教室」、低予算ながら後に優作の代表作のひとつとうたわれる“遊戯シリーズ”3部作、配給収入10億円を超える大ヒット映画「蘇える金狼」と見事に鍛えられた肉体を思う存分に活かし、躍動感あふれる演技で観客をひきつけ日本を代表するアクションスターとしての地位を築いていきました。そして優作人気を定着させたといってもいいテレビドラマが1979年9月から放送を開始した「探偵物語」です。広い世代、特に男性から圧倒的な支持を得たこの工藤俊作は、優作が、独自に作り上げた役柄。ユーモアと人間味を兼ね備え、男の優しさを持ったハートボイルドでした。優作は当時、こう語っていました 「マンガチックで楽しく、フランス映画っぽい娯楽性あふれる 洒落た作品にしたい。ライバルは『ルパン三世』かな・・・」 有名になる、という目標を成し遂げた優作でしたが、この頃、ある葛藤と戦っていました。
原田芳雄さん (文学座時代に出会い、優作の兄貴的な存在) 「悩みというか…70年代は皆めちゃくちゃに突っ走ってましたから。自分の中でも、そういうものをまた突き崩して、やっぱ常にそういうものをいつも崩していかなきゃならないし、また初対面のものを欲しがってましたからね。それが一体なんなのか分からないわけですよ」 体重を10キロ減量し、奥歯を4本ぬいて演じた「野獣死すべし」では、肉体に頼らないアクション映画を作り上げました。自らが山篭りをし、主人公伊達邦彦の狂気を演じて見せたのです。 丸山昇一さん (優作が最も信頼していた脚本家、代表作:「探偵物語」「野獣死すべし」) 「僕自身も思い出に残ってるし、優作さんも自信がついたんじゃないかな。自分がやるべきことを。お客さん挑発する、ダメだったらごめんなさい。よかったら、『だろ?よかったろ?』っていう。それはいいチャレンジだったし、ある程度成果を収めたと思う」
アクションスターではなく、芝居のできる俳優への変貌を望んだ優作は、1980年を境に出演する作品の趣向ががらりと変わっていきました。さらにこの頃、演技の幅を広げるために歌の世界にも進出しました。役者同様、音楽に関してもすべてこだわり、プロデューサー的な仕事までこなしたのです。優作は、通算8枚のアルバムをリリース、精力的にライブも行いました。決して俳優の片手間の仕事ではなく、そこには歌手・松田優作が確かに存在していたのです。 1980年の秋、優作は映画青年だったころからの憧れで、すべての作品を見ていたほど尊敬していたある映画監督と出会います。代表作「肉体の門」や「ツィゴイネルワイゼン」などで、独特の色彩感覚による絵作りが話題となった日本が生んだ天才監督のひとり、鈴木清順監督です。 当時誰もがミスマッチといったふたりが生み出した作品、それが「陽炎座(かげろうざ)」です。大正から昭和に移り変わる時代を舞台に、優作は美しい女性に翻弄され生死の狭間を彷徨う新派の劇作家松崎春狐(まつざきしゅんこ)を演じました。優作は、この作品で出会った鈴木清順監督の印象をこう表現しています。 「監督は大好きだけど、苦痛でしたね。遊泳感覚みたいなもので、頭の中ではわかってるつもりなのに、いざ本番となるとそれができない。やればやるほど違っていっちゃう。監督に『それでいいんです』と言われてもう悔しくてね」 撮影中、いつもなら自分の役柄に対し、少しでも監督と意見が違えば堂々とやりあった優作も、自らの憧れでもあった鈴木監督の前では一切逆らわず、監督の注文をすべてこなしていきました。 その後、優作は再び大きな出会いを果たします。爆笑問題太田さんも大好きな直木賞作家、向田邦子です。演出家久世光彦が夏目漱石の「虞美人草(ぐびじんそう)」を向田邦子脚本で演出することになり、その主役に優作が選ばれたのです。優作は、生活の中の非常に暗い部分や苦しい部分をじっくりと克明に見せる、向田が描く世界に魅力を感じていました。「自分に無いものを引き出せるかもしれない」。優作は、そう考えて役を引き受けたのです。しかし、1981年8月22日――台湾の飛行機事故で向田邦子が帰らぬ人となってしまい、結局「虞美人草」は脚本未完成のまま日の目を見ることはありませんでした。 優作は、向田作品に追悼番組で出演を果たすことになります。1982年元旦に放送された「春が来た」です。「虞美人草(ぐびじんそう)」で予定されていたスタッフ、キャストがそのまま起用され、主役は向田作品の常連であった桃井かおり。その恋人役が優作でした。向田作品独特の家族団らんの食卓などの日常風景が多い撮影。当初、優作は物足りなさを感じていました。しかし、そんな姿を見ていた昔ながらの友人の桃井は・・・ 桃井かおりさん (文学座の一期先輩、優作を最も知る女友達) 「『この手のホームドラマね』って感じで来たのよ。まあ、かおりもいるしって感じで。凄く頭きちゃって私。『なめてんじゃないの?TVをなめんじゃないわよ』って言っちゃったんです。この手のこの芝居ね、って感じの優作を見たときに、食欲なくなるぐらい嫌だった。そんな話をしてて大喧嘩したんですよ、現場で。私と優作が喧嘩するって最悪じゃない?ゴジラ対モスラみたいになっちゃうわけ。そしたら『一生口ききたくない』って言うから、優作のことだからもう口きいてくれないなと思ったら、2時くらいかな、夜中の。電話かかってきて、『いま台本読み返してるんだけど、確かにこれはおもしろい!』と。『いまから取り返しがつくかなぁ』と。ちょっと感動的な夜の電話だったんですよ。好青年を松田優作がやるんだけど、なんか怖くて。『お前は演技派とか言われてるかも知れないけどさ、俺は10年ピストル持って走ってるんだよ』って何回も言われた気がする」 こうして拳銃をお茶碗に持ち替えた優作は、普通の人間という役を、ひとつひとつプランを立てて一生懸命演じ、日常生活のディティールにドラマがある事をこの作品で見いだしたのです。このころ優作はこう語っています。 「俺は、これまで観念的なもの、意識的なものを取り込みすぎていた。これからは女性的なものの見方、思考性を取り入れなければいけない」 そして1983年、優作は、新たな松田優作像を確立する作品と出会います。森田芳光監督の「家族ゲーム」です。どこにでもありそうな普通の家庭に雇われた家庭教師が、子供の受験や進学しか話題の無い貧弱な家族関係を痛快にぶち壊していくという、当時の日本の平均的な家庭の実態を皮肉たっぷりに描いたホームドラマでした。撮影前、この脚本を読んだ優作は、「足が5センチ浮いたよ」と絶賛。新人監督ながら独特の世界観を持つ森田監督に惹かれ、即座に出演を快諾しました。 その製作発表の席上で森田監督は「この映画は世界的な映画にします」と言い放ちました。森田監督は、決して扱いやすい俳優ではなかった優作を自らの世界観に引き込ませ、衝突も無く撮影は順調に進んだのです。 宮川一朗太さん (「家族ゲーム」で共演) 「監督とは歳も近かったのかな?何でも言い合える仲というんでしょうか、基本的に監督の言うとおりやってました。優作さんと森田監督というのはお互いを認め合っていたと感じましたし、優作さんて、言われてるよりも怖くないのかもって思いました」
この作品は、森田監督の言葉通りNYリンカーンセンターで行われた「New Directors & New Films Festival」のオープニング作品として上映されました。ゴダールなど有名監督の作品と共に公開されたこの「家族ゲーム」は、なんと連日チケットソールドアウトという快挙を成し遂げ、その後、ロス、シカゴなど全米6つの都市で公開され、世界的な映画となったのです。さらにこの映画は、日本でも数々の賞を総ナメに…。優作も主演男優賞を受賞――デビューから17作品目にして初めて手にした賞でした。 1986年、優作の映画人生に大きな転機が訪れます。初めて監督にチャレンジすることとなったのです。キッカケは、当初メガホンを取っていた監督が、主演だった優作の考えとの食い違いが重なり降板したことでした。 桃井さん 「やってて監督を超えてしまった時に、彼は自分で監督をやらなきゃいけなくなってしまった。私は凄く反対したんですよ。これ以上嫌われることはない。私たちはすこぶる評判が悪いんで、絶対にやらないほうがいいって。これは、いじめられるって。そしたら、『男だから、やらなきゃいけない時もあるし』って」 丸山さん 「スタッフが優作さんと始めたときからの人たちだから、もう優作撮っちゃえ、ということになって。脚本も変えないといけないので、ふたりでひと晩で書いたんですけど…。現場いくと、まるで監督ですよ。何の違和感もないし、長いキャリアのなかでずっと彼はやってきたんで、フィルムそのものが彼のなかで回ってるから、俳優に対しても的確だし、スタッフに対しても的確で、何の問題もないわけですよ」 こうして松田優作監督第1作目となったのが「ア・ホーマンス」。記憶をなくした主人公が超人的な活躍をする一風変わったアクション映画です。幻想的な映像とビートの効いた音楽を使用し、独特の世界と細やかな心理描写がたくみに描かれている作品でした。優作はいつも日本独自のSF映画を見たいと思っていました。優作はこの映画で、低予算でもそれができることを証明したかったのです。少年時代、近所の映画館で夢中で映画を見た後は、決まって友達とダンボールを使ってメガホンをつくり、板で作ったカチンコ、そしてライフル銃を片手に、監督兼主演を繰り返し演じていた優作が、ついに本当の監督になったのです。 優作なりの工夫を凝らして出来あがった作品でしたが、その評価はいまひとつでした。しかし優作は、初めから酷評されるのは覚悟の上でした。 「いま、黒澤や小津と同じ手法で作ってもしょうがないんだ。俺たちの時代の角度で、俺たちの時代を撮らなくちゃいけない。だから俺の作りたい映画をこれからも作っていくんだ」 1988年、優作は、吉田喜重監督の文芸作品「嵐が丘」に出演しました。エミリ・ブロンテの原作を、優作と田中裕子の主演で、中世日本に置き換えた激しい愛の物語です。この作品は、カンヌ国際映画祭コンペ部門参加作品として招待され、優作は監督と共に映画祭に出席。賞を獲得することは無かったが、帰国後優作はこう語りました。 「カンヌでは惨めなもんじゃった。外人は日本の役者など相手にしてくれん・・・おれは絶対日本の映画を変えてやるんじゃ」 そして優作はついに、ハリウッドへと旅立つのです。1988年9月5日、映画「ブラックレイン」のための最終オーディションがホテルオークラのスィートルームにおいて行われました。佐藤役には、25歳から40歳前半まで、200人を超える俳優がオーディションに参加し、最終選考まで残ったのはいずれも日本を代表する個性派俳優ばかりでした。しかし、アメリカ形式のオーディションスタイルに慣れていないせいか、中には緊張を隠せず、声や手が震える者もいたそうです。 目の前には、監督のリドリー・スコット、主演のマイケル・ダグラス、プロデューサーのスタンリー・R・ジェッフェなど、ハリウッドの第一線で活躍する錚々たるメンバーが並んでいました。シルバーグレーのスーツを着た優作は、そのメンバーを前にしても、まったく動じるそぶりも無く、実に堂々としていました。優作が部屋に入るなり、スコット監督がこう言いました。 「早速で悪いが、マイケルと台詞のやりとりをやってもらえないか」 その時に、監督自らが撮影した貴重なVTRが残っています。監督の「GREAT!」の声と共に、大きなため息をついた優作。やはり緊張していたのでしょうか。このときスコット監督は、スタッフにこう言ったそうです。 「彼だ!これでカメラをまわせるぞ。いまからでも撮れる」 リドリー・スコット監督 「私はいつも直感を頼りに演出する。さまざまな考慮は必要だが直感がすべてだ。松田を見たときも、この男だと直感し彼しかいないと確信した。松田とは東京で会ったがとても魅力ある男だった。言葉は通じなかったが 感じが良くエレガントで とてもユーモアがあった。会話には通訳を使う必要があったが、彼はほんの3秒で理解したよ。ただ、多少心配な点もあった。彼はコメディドラマで一躍人気者になったので悪役になれるだろうかと。彼の才能はコメディで開花した。コメディドラマのスターが悪役になれるだろうか?それだけが不安だった」
スコット監督は、オーディションの前に、各俳優のそれまでの芝居を資料で目を通していました。優作の作品も“遊戯シリーズ”などを見ていたはずでしたが、「探偵物語」でのイメージがとても強く、優作をコメディースターだと思っていたのです。 桃井さん 「向こうにいった時に『俺バイクに乗れるんだ』って言ったら、バイク乗りながらアクションできる。『スタントいらない』って言ったら、『芝居だけじゃなくてアクションもできるのか』って言われたんだって。それで、これもできるあれもできるってなっちゃうでしょ。『10年間アクション俳優やってきてよかったよ』って自慢ぽくいわれたの、ホントくやしかったんですから、私」 1989年1月、「ブラックレイン」は大阪での撮影を終え、ニューヨークへと移動。優作は、子供のころから映画の父と憧れていたアメリカでの撮影に興奮せずにはいられませんでした。優作は、自分の居場所を見つけたかのように極悪非道な佐藤を存在感たっぷりに演じました。撮影が進むにつれ、優作の仕事ぶりに全スタッフが深い信頼を寄せていくようになったのです。実は渡米前、優作は体調不良で一時入院し、その後も熱が下がらず、薬の力で熱を下げていました。すでにこのころ、優作の体は病魔に冒されていたのです。NYでの撮影中も血尿がとまらず、腰には激痛が走りました。が、精神的な充実感が痛みを忘れさせ、優作を演技に没頭させました。実は優作がそんな状態であったことを、スタッフの誰ひとり気づかなかったほどでした。 こうして撮影は快調に進み、最後にサンフランシスコにおいて優作とマイケル・ダグラスが格闘するシーンの撮影が行われました。畑の中をオートバイにのり全速力で走りぬける危険なアクションもスタントなしで自らこなし、泥にまみれての格闘シーンも持ち前の空手で難なくこなす優作。このすさまじい格闘のラストシーンにはこんな秘話が隠されていました。 R・スコット監督 「私の中では『殺せ』と叫ぶ声もあったが、佐藤をその場で殺してしまえば すべてがそこで終わってしまう。しかし 松田はあまりにも魅力あふれる悪党なので服役させて長生きさせたいと思った。そこで2通り撮って後で考えることにした」 当初、優作演じる佐藤は、この格闘で敗れ死ぬという台本でしたが、スタッフの誰もが認める優作の存在感に監督も急遽ストーリーを追加したのです。 マイケル・ダグラス 「最後のシーンでついに奴を追いつめ、胸ぐらを掴むが彼の背後を見ると地面から木片が突き出ている。その後の展開を2通り撮った。ひとつは彼を木に突き刺す。しかし私たちは考えた。ニックが何かを学んだのなら、佐藤を殺さず連行するはずだと・・・」
ストーリーも変えさせてしまうほどの魅力ある悪役を演じきった優作。こうして出来上がった映画は3週連続で全米トップの観客動員を記録し、優作の演技はアメリカでも高い評価を得ました。アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされる可能性もあるとも言われたのです。 もちろん日本でも大ヒットを記録。久しぶりに見る優作のアクションに誰もが酔いしれました。 水谷豊さん (「太陽にほえろ!」で初共演以来25年間優作の親友) 「いや〜、やっぱりゾクゾクしましたよ。あまり期待し見ると、見たときにちょっと自分の期待よりも、『う〜ん…』という現象が起きたりするものですけど、あれにはもう期待してたし、やっぱりわくわくしたし、もううれしかったですよ」
優作は、映画を見てきた友人にこう言ったそうです。 「俺の力はまだまだこんなもんじゃないぜ」 しかし、「ブラックレイン」が日本で公開されたその1ヵ月後…。運命は非情にも優作を再びハリウッドで演じさせることはありませんでした。1989年11月6日 膀胱癌により俳優・松田優作はこの世を去りました。世界という舞台に飛び出した矢先の早すぎる死でした。 M・ダグラス 「長い話を手短に言うよ。松田優作はこの映画の後、亡くなった。彼はガンに侵されながら何も言わずに撮影してたんだ。最後に見た彼の姿をいまでもよく思い出すよ。微笑みを浮かべて 死を悟ったあの姿がね」 原田さん 「『ブラックレイン』なんかほんの名刺を渡したに過ぎない。あれは優作にとってお手のもんですから。あれからなんですよ、多分。ファンの人だってあれ以降のやつを一番見たかったと思いますよ。まだまだ優作がやりたいと思ってた作品群はたくさんありましたからね。丸山昇一さんとのシナリオ集にも非常にいい企画だなと思うものも何本かありますし、そういう意味でまだこれから新しい方向には行ったと思いますね。(優作は)いい遊び仲間でもあるし、もの凄く個人的なことでは、『唯一血縁を感じる他者』ということ」 桃井さん 「伝説なんてどうでもいいから、いっぱいいろんなことやったほうがいいに決まってるでしょ。だから、馬鹿だなって思って。私は長生きして、やりたいこと全部やってやるって思ってるんだけど。もしも死んで向こういったら、優作に、長生きするとこうも違うんだってことを見せなきゃいけないから」。 宮川さん 「優作さんと一緒の空間にいられたということは、僕にとっては探してもみつからない宝物なんですよ。あの時間、あの空間。優作さんと出会えたということが、そして優作さんと一緒のスクリーンに刻まれたということは誇りでもあるし、僕の中で金字塔になってます。かけがえのない財産ですね」。 丸山さん 「一生に一度出会えばいい人だよね。大好きだっていう思いと、こんな奴大嫌いだ、っていう思いがまったく同時に、一緒に心の中にいる、存在する相手っていうのはさ、もう世界中旅しても、あるいは仕事してもさ、そんなに出会えないと思うんだけど、出会えたね。本当に貴重な経験させてもらったって思ってる。新しい世代の人が、やっぱり松田優作って、親父とか兄貴から聞いてさ、変な役者がいたんだぁと思ってさ、なんかの拍子にフィルム見てくれたらね。ああ世にこんな俳優がいたんだってね」 水谷さん 「もう言葉もないっていうのはこのことなんだなという感じでしょうね。どう受け止めていいのか分からない。どう言っていいのか分からない。だから、現実の中で自分がいるとは思えないくらいな感じでしょうかね。俳優としてはいてくれてよかったと思います。僕なんか俳優としてやっていけると思っていなかったし、やっていこうとか思ってなかったですから。そもそも最初はね。優作ちゃんのを見て頑張れたってのはあったと思いますよ。いま思うと、あの日々が信じられない。でもあれは現実なんですよね」 演じることにすべてを賭けた俳優・松田優作は、日本が生んだ世界に誇れる役者だったのです。