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「愛と死をみつめて」スペシャル企画!「時代を駆け抜けたラブレター」
3月18日、19日と2夜連続で放送される草なぎ剛・広末涼子主演ドラマ「愛と死をみつめて」。これは、難病と闘った女子高生・大島みち子さんと、彼女に恋をし、献身的に付き添った大学生・河野実さんとの3年間に渡る実話に基づくドラマです。大阪と東京と離れて暮らす二人が愛を育んだ手段が、ラブレターでした。お互いを「ミコ」「マコ」と、ペンネームで呼び合い、やり取りされたラブレターは実に386通にもなりました。そこで、今回は、世界中の「ラブレター」をめぐる素敵なエピソードをご紹介します。

愛を伝える手段として、4千年にも渡りやり取りされてきたラブレター。紙が発明される以前は、石や木の葉などに綴られたといいます。やがて、ヒトは手紙で愛を伝えるようになるのです。その歴史の中には、とんでもないラブレターも多く存在します。今から約55年前、アメリカ人女性ルイス・ゴードンさんが、朝鮮戦争に出兵中の恋人に送ったラブレターの長さは、なんと、975メートル。ゴードンさんは、便箋ではなく、計算機の巻き取り紙に、延々と1ヵ月に渡り、その愛する想いを書き綴ったのです。
1875年、フランスの画家、マルセル・ド・ルクリューが、あこがれの貴婦人にあてたラブレター。その回数は実に、187万5000回。内容は、「愛しています(“Je vous aime” ジュブゼーム)」の一言だけ。その年の年号、1875年にちなんで187万5000回も送ったというのです。さらに、フランスの文豪・オノレ・ド・バルザックは、33歳のとき、ポーランドの伯爵夫人と恋に落ち、彼女の夫が亡くなるまで、なんと18年間にもわたってラブレターをやりとりし続けました。夫の死後、二人は念願かなって結婚。しかし、その数ヵ月後、バルザックは急病を患い、この世を去りました。

2002年に発見された故ダイアナ妃のラブレターも話題となりました。1997年、パリ郊外で、不慮の自動車事故により、この世を去ったダイアナの元愛人・ヒューイット氏が、ダイアナから受け取った64通ものラブレターを売りに出したのです。その額、なんと、20億円。ラブレターには、チャールズ皇太子と離婚後のダイアナとヒューイット氏の求愛の様子が、赤裸々に書かれているといわれていますが、これらの手紙の中身は、まだ明かされていません。そして、歴史にその名を刻む英雄や偉人、ハリウッドスターも、思いの丈を綴ったラブレターを残しています。

フランスの皇帝・ナポレオンが、愛する新妻・ジョゼフィーヌへ送ったラブレター。それは今から約200年前の1797年春、戦地・イタリアのローマから、戦いのさなかに送ったもの。そこには新妻に対する、恨み節とも言える想いがしたためられていました。

私はもはやお前を愛してはいない。それどころかお前を憎んでいる。お前はまるで手紙をよこさない。夫である私を愛していないからだ。お前の手紙がどれほど、夫を喜ばせるものかわかっていながら、ちょっとペンを走らすだけの、たった5、6行の手紙さえ書こうとしないではないか! 新しい恋人ができたのか。用心するがよい、ジョゼフィーヌ。ある晴れた夜、ドアが蹴られ、この私が現れるであろう。実際、いとしきひとよ。私はお前から手紙がこないのが心配なのだ。

事実、妻・ジョゼフィーヌは、夫が、戦火の真っただ中で戦っていたにも関わらず、寂しさのあまり、何度も浮気を重ねていたそうです。その後二人は離婚。ナポレオン率いるフランス軍は、離婚のショックをひきずるかのように、ロシア軍、そして連合軍に大敗。ナポレオンは、退陣を余儀なくされました。

天才物理学者、アルバート・アインシュタイン。彼が、チューリヒ工科大学に通っていた3歳年上のミレバ・マリッチに送ったラブレターもあります。

愛しい人よ、きみに出会う前、ぼくはひとりで、どうやって、生きていられたのだろう。きみなしでは、ぼくの人生は人生ではない。
愛する人よ 結婚したら、一緒に科学の研究を続けよう。教養のない俗物として、年をとりたくないからね。今、きみ以外の人はすべて、目に見えない壁の向こうにいるようで、よそよそしく感じるんだ。

このラブレターをキッカケにアインシュタインはミレバと結婚。その翌年、1905年、アインシュタインは「相対性理論」を発表。この世紀の大発明は、アインシュタインが「私の小さな右腕」とよんでいたミレバの存在があって初めて、この世に誕生したのかもしれません。

マリリン・モンローが、ケネディ大統領の誕生日にプレゼントとして贈ったロレックスの腕時計には、一通のラブレターが添えられていました。そこには、モンローのケネディに対する、熱烈なまでの愛の気持ちが、刻み込まれていたのです。

JACK with love as always from MARILYN May 29 1962
(ジャックへ変わらぬ愛を込めて マリリンより)

さらに、こんな一文も。

Let me love or let me die.
(あなたを愛させて。さもなくば死を)

モンローはこの3カ月後、36歳の若さで謎の死を遂げています。これが、モンローからケネディに送られた最後のラブレターとなったのです。

愛するが故の悲劇的な結末。そんな愛の軌跡の中にもラブレターは存在します。日本を代表する文豪・芥川龍之介は、東大在学中の19 16年、就職も決まらず、収入は不安定でした。大学院に留まり作家としての第一歩を踏み出そうとしていた芥川が、恋人の塚本文に送ったラブレターです。

僕のやってる商売は、今の日本で一番金にならない商売です。その上、僕自身もろくに金はありません。ですから、生活の程度からいえば、何時までたってても知れたものです。それから僕は、からだもあたまも、あまり上等には出来上がっていません。あたまの方は、それでもまだ少しは自信があります。うちには、父、母、伯母と、としよりが三人います。それでよければ来て下さい。理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それだけでよければ来て下さい。
芥川龍之介

このラブレターからしばらくして、芥川は文と婚約。文がまだ女学生だったため、2年後、彼女の卒業をまって、二人は結婚しました。その後、芥川は、鋭い洞察力と新技巧派と称された緻密、かつ自由な表現力で「枯野抄」、「羅生門」、「舞踏会」、など、文学史に残る名作を次々と世に放ったのです。しかし、結婚から9年後の、1927年。「将来へのぼんやりとした不安」と「体力の衰え」を理由に、芥川は、服毒自殺。35歳の若さで、この世を去ります。

間もなく15回忌を迎える今も、熱烈な支持を受けるカリスマ・尾崎豊。彼が、後に妻となる、繁美さんにあてたラブレターは、昭和62年、覚醒剤取締法違反で逮捕された尾崎が、拘置所でノートの切れ端に書き記したものでした。

Dear My Life Shigemi
最近、こんな夢を見たんだ。それは君と僕が二人でお遍路さんのように、白い光の中で、日本の各地をずっと歩いている夢でした。辺りには一日を象徴するほどの濃さの霧が立ち込めていて、それ以外僕らを邪魔するものは何もないんだ。君は僕の手を引きながらさかんに何か言っている。君に手を引かれた僕はまだ三歳位の子供なんだ。君ははっきりとした口調でまだ三つの僕に言い聞かせるんだ。
『はじめの一歩!!』それでもまだ三つの僕には何のことかわからないらしく、君はほとほと困り果ててしまう。それでも君はまたもう一度はっきりとした口調で言うんだ。
『いいっ!いくわよっ!はじめの一歩っ!!』
『もう・・・・』
『はじめの一歩!!』
『ユーちゃんはじめの一歩っ!!』
『は・じ・め・の・いっ・ぽっ!!』と続けた。
四度くりかえした後、君がニコッと微笑んで目が覚めた。はたして僕は、はじめの一歩に成功したのだろうか。それともまだ出来ぬままなのだろうか。出来れば、今すぐにでも一緒に「はじめの一歩っ!」ってとびはねて、君と一緒に一日一日を過ごして行きたいです。(早く会いたい・・・・・・)
はじめの一歩!!!ビョン!!!

P.S. もしかしたら、その子供は僕らの子供なのかも…。僕には夢がある。その夢へのはじめの第一歩を君と歩き出したい。早く結婚しよう。愛しているよ…繁美へ

翌年、釈放された尾崎は、繁美さんと結婚。やがて長男が誕生しました。しかし結婚から、5年後の平成4年4月25日、肺水腫により、尾崎は26歳の短い生涯を終えるのです。
妻・繁美さんが、この手紙を受け取ったのは19歳のとき。手紙を読み終えた瞬間、彼と結婚するだろうと、はっきり意識したと語っています。

そして、ジョン・レノン。ジョンが、交際中のオノ・ヨーコにあてたラブレターは手紙ではありませんでした。彼はヨーコへの思いを楽曲にしたためたのです。この曲が、その後のビートルズの運命を変える一曲となります。その曲とは、「DON'T LET ME DOWN」ジョンは、曲中、『「DON'T LET ME DOWN」(僕を悲しませないでおくれ)』というフレーズを何度も登場させます。
さらに、

I'm in love for the first time(僕は初めて恋に落ちた)
Don't you know it's gonna last(この愛は続くよ)
It's a love that lasts forever(永遠に続く愛なんだ)
It's a love that had no past (過去のない愛なんだ)

ジョンは、今の自分を何とかしてほしいと、助けにも似た、愛のメッセージをヨーコに訴えていたのです。この曲を発表した1969年。ジョンは妻と別れ、ヨーコも夫と別れ、2人は結婚します。ジョンがヨーコに傾倒していくにつれ、次第にメンバーの間で不協和音がおこるようになり、結婚の翌年、ビートルズは解散。ファンの間で、ヨーコは「ビートルズを解散させた女」といわれるようになります。ビートルズ解散後、ジョンは、ヨーコとの間に生まれたショーンの子育てを理由に、アーティスト活動から遠ざかり、主夫業に専念することに。復活を待つファンの前に、ジョンが戻ってきたのは、5年も経ってからのことでした。そして、ジョンはヨーコとの競作で、アルバム『ダブル・ファンタジー』を発表します。しかし、その1ヵ月後の1980年12月8日。ジョンは、ニューヨークの自宅・ダゴダアパート前で、熱烈なファンであるマーク・チャップマンの凶弾に倒れることになるのです。チャップマンはジョンを殺害した理由を「自分のものにしたかった」と語りました。それは、ヨーコからジョンを取り戻したかった、ということを意味するのでしょうか。真相は明らかになっていません。

そんな中、我らが香取編集長にも、ラブレターにまつわる思い出があるそうです。それは、編集長が小学生のとき、もらったラブレターを、編集長の友達がみんなの前で声を出して読んでしまったというもの。当然、この行為は女子からブーイングの嵐で、編集長は、リーダー格の女子からお叱りを受けたそうです。ほろ苦い思い出ですね。

誰しもラブレターにまつわる思い出はあるもの。英雄やカリスマではない、普通の人の普通のラブレターにも、感動の物語がありました。1956年。日本で初めて、南極観測隊が派遣されました。数カ月間、厳寒の地で過酷な任務を強いられる隊員達にとっての唯一の楽しみは、彼等のもとに送られてくる家族からの年賀電報。メールや衛星電話のない当時、銚子無線電信局から送られるこの電報だけが、たった一つの通信手段だったのです。日本を発って417日。食料も底を尽きかけ、国内では観測隊11名の安否が気遣かわれていました。そんな中、昭和基地で迎えた2度目の新年。日本に残されていた家族から隊員達へ、新年のメッセージが届けられたのです。モールス信号によって送られるのは、カタカナと数字のみ。限られた通信時間のほとんどは、公的機関からの指示などに費やされてしまいます。そのため私的な電報は、極力少なめにと制限されていたのです。新年を迎えた昭和基地で、メッセージを受け取った隊員たちは、一部屋に集まり、自分宛てに届いた家族からの電報を全員の前で披露しはじめました。隊員たちは、それぞれの家族からの電文を、自分のことのように聞き入りました。隊員の健康を気遣うもの、留守家族の近況を伝えるもの、無事に帰ってきてほしいなど、次々と披露されていったのです。隊員からは笑い声が起こったり、目頭を押さえているものを冷やかしたり、豊かで楽しい時が過ぎていきました。やがて、当時36歳の機械技術者、大塚正夫隊員が妻・ツネ子さんからの電文を披露する番になりました。しかし、彼は披露するのを躊躇していました。みんなから促されるようにして、ようやく読み上げられた電文に、隊員達は言葉を失いました。読み上げられた電文、それはたったの3文字、こう書かれていたのです。

「アナタ」

たった3文字のラブレター、その中には奥さんの寂しさや、不安、押さえきれない愛情が詰まっていました。夫妻に子供は無く、妻・ツネ子さんはたった一人で夫の無事を祈っていたのです。それから40日後の1958年2月10日、隊員達は、食糧危機を耐えしのぎ、小型飛行機で救助され、全員、無事帰国。日本中が勇気ある隊員たちの帰国のニュースに、沸きかえりました。隊員たちを迎える家族達の中には、もちろん、ツネ子さんの姿もありました。実は、「アナタ」という3文字のラブレターは、ツネ子さんが電報局まで出向き電報技師の助けをかりつつ、自ら思いを込めて打った言葉だったのです。

今から7年前の1999年。ある男性が妻にあてた一通のラブレターが、85年ぶりに発見されました。手紙の送り主は、第一次大戦で戦死したイギリス人兵士、トーマス・ヒューズさんです。ヒューズさんは、愛する妻と2歳になる娘を残し、戦地へ赴くことに。自らの死を予感したのでしょうか、その途中の船上で妻宛にラブレターを書き、清涼飲料水の瓶に入れ、英仏海峡に流しました。そして、85年の時を経て、その手紙が英国人漁師スティーブ・ガーワンさんの手によって、テムズ河の河口で発見されたのです。たまたま漁の網にかかった古くさい瓶、泥を拭うとそこには手書きの文字が見えたのです。そこにはこう記されていました。

どなたであれ、この手紙を受け取られた方へ同封の手紙をこの住所へお届けいただき、1914年9月9日、戦線に赴く哀れな英国人兵士の祈りをかなえて下さるようお願い申し上げます。
署名:上等兵T・ヒューズ、第二ダーラム軽歩兵隊、第三軍隊派遣部隊

この瓶に入ったラブレターは、ほぼ85年前の状態のままでした。そこには、こんなことが綴られていたのです。

愛する妻へ
船の上でこの手紙を書いて、海に投げ込んでみる。君に届くだろうか。愛する人、しばらくの間、お別れだ。
愛する夫より

ヒューズさんはこの手紙を流した12日後、フランスで戦死。妻のエリザベスさんもまた、この手紙の存在を知ることもなく1979年に亡くなりました。しかし、当時2歳だった娘さんがニュージーランドにいたのです。亡き父・ヒューズさんの手紙は85年の時を超え、娘・エミリー・クローハーストさんに届けられました。時には時代を超え、時にはどんな困難をも越え、人々の愛する気持ちを伝えてきたラブレター。
そこには、たくさんの真実の愛が詰まっていました。

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