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SmaSTATION特別企画『武道とロックの聖地 日本武道館』
かつては徳川将軍家の居城・江戸城の敷地であり、現在は皇居に隣接する北の丸公園として整備された歴史ある場所に建つニッポン武道の聖地『日本武道館』。東京オリンピック柔道大会会場の為に、1964年に建設されたこの日本武道館では、武道の聖地の名にふさわしい、数々の伝説の名勝負が繰り広げられてきました。その一方で、ここ日本武道館はこれまで多くの海外のトップアーティストが伝説的なライブを行った場所としても知られています。武道家だけでなく国内外のミュージシャンにとっても聖地となった『日本武道館』にスポットを当てました。
『術』から『道』へ
現在、一般に『武道』と呼ばれるものは、柔道、剣道、弓道、相撲道、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道の9種類。そもそも『武道』とは、江戸時代に武士が相手を倒し、時には殺害する為に習得した剣術や柔術などのいわゆる『武術』でした。しかし明治以降、近代法により、もちろん人を殺める事が禁止され、武術という概念は衰退。人を倒すための『術』から、自らを鍛錬し、己の肉体や精神を高めることを目的とする『道』へと発展したのです。そう、『武道』とはまさしく日本の象徴であり、日本人の精神を体現したものなのです。
しかし、この日本人の精神である武道競技が、その試合はもちろん、練習を行うことすら全面禁止とされた時代がありました。第二次大戦後、日本を統治したGHQが、『武道は軍国主義を繁栄させた元凶である』として、柔道や剣道などの用具を没収し、学校で教えることも一切禁止したのです。彼らの目には、西洋のスポーツには無い、自己鍛錬という独特な精神性を持つ『武道』が、とらえどころのない、恐ろしいものとして映ったのかもしれません。
やがて1949年(昭和24年)に柔道が解禁され、その2年後、『侍』の象徴として最も警戒されていた剣道も解禁されると、武道はスポーツ競技としての側面が強調される形で復活を果たしました。しかしそこにはある問題が…。戦前に数多くあった道場や試合会場は、GHQによってことごとく取り壊されてしまっていたため、試合はもちろん、稽古をする場所さえなかったのです。
『武道の殿堂』の精神
そんな中、日本の武道にある転機が訪れます。それが、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催。この大会において、オリンピック史上初めて、柔道が正式種目として行われることになったのです。日本古来の『武道』が世界的競技として認められるというこの快挙。その影には、ある武道家の並々ならぬ努力がありました。日本柔道の父、と呼ばれた男・嘉納治五郎です。明治15年、東京・下谷に道場・講道館を創設した嘉納こそ、その理論やルールを整備し、スポーツとしての柔道を作り上げた人物。嘉納は、数多くの柔道家を育て上げただけでなく、自らヨーロッパに渡り、各国に柔道競技を紹介するなど、海外への普及活動も精力的に行いました。こうした嘉納の努力もあり、柔道は少しずつ世界各国へと広まっていき、ついに戦後、オリンピックの正式種目へと認められるようになったのです。
ところが、そんな日本の象徴である『武道』を世界へと披露する機会に、その正式な試合会場がありませんでした。こうした危機的状況を受けて、来るべき東京オリンピックを目指した『武道の大殿堂』建設の動きがスタートしました。1961年(昭和36年)、当時国会議員だった正力松太郎が中心となり、「武道館建設議員連盟」を結成。この武道館建設を手がけることになったのが、当時すでに、日本を代表する巨匠建築家であった山田守。いまも東京・御茶ノ水にかかる聖橋や、京都駅前にそびえる京都タワーなどをデザインしたことで知られる山田は、曲面や、曲線美を大胆に取り入れる手法が特徴で、その技法は武道館建設にも巧みに取り入れられました。
武道館最大の特徴は『八角形』。山田は当時、その意図を次のように説明しています。

「武道とは古来、天皇や将軍が南を向いて座り、選手は東西両方から登場し、試合をするもの。こうした日本古来の東西南北の方位を明確にするためには、八角形という形が最も適している」

さらにその屋根の上に輝く武道館最大のシンボルであり、この地を訪れる人々の目に必ず残る象徴的なモノ…それが『偽宝珠(ぎぼし)』。橋の欄干や、神社、お寺の境内などでも良く見かけるこの擬宝珠は、もともと仏教で仏像が手に乗せている『宝珠』をもとにしたものである、という説と、ネギをイメージしたもので、ネギの持つ臭いが魔よけにつながると考えられていたから、というふたつの説があります。こうした「日本精神の象徴」を追い求めた結果、生み出された世界に類を見ないこの競技場は、後に海外のメディアや専門家からその美しさを賞賛される事となりました。
政府の全面的なバックアップのもと、工事は猛烈なピッチで行われ、オリンピック開催まで1ヵ月を切った1964年9月15日、ついに日本武道館は産声をあげました。地上3階、地下2階建て、メインの競技場にあたるアリーナはおよそ2000平方メートル。もしも全てに畳を敷き詰めると、なんとおよそ1200帖という、世界に誇る立派な競技場が誕生したのです。
そして迎えた東京オリンピック。初種目として、世界の注目を集める中行われた柔道は、男子のみの競技で、軽量級、中量級、重量級、無差別級の4階級で試合が行われました。全階級制覇という使命を背負って最初に登場した軽量級の中谷雄英は、オール一本勝ちで見事金メダルを獲得。武道館のセンターポールに最初の日の丸を掲げると、続く中量級で岡野功が、重量級でも猪熊功が相次いで金メダルを獲得。そして10月23日、柔道最大の花形でもある無差別級の日を迎えました。
日本代表、神永昭夫は予想通り決勝まで勝ち進み、オランダのアントン・ヘーシンクと顔を合わせました。神永よりも頭ひとつ以上大きなヘーシンクの前に、苦戦を強いられる神永。『武道』の本家を自負していた日本にとっては、まさかの敗戦でした。
ザ・ビートルズの来日
東京オリンピックの試合会場として、世界に日本の精神、武道を広めるというその役割を十二分に果たした武道館。ところがこの『武道の殿堂』は、やがて建設当初の目的とは全く別の形で、新たな日本文化の形成に貢献して行くことになりました。その大きな節目となったのが、ザ・ビートルズの日本公演です。
しかしその実現には大きな問題がありました。日本武道館が会場として決まるまでには紆余曲折があったのです。ワールドツアーでは、ロンドンのウェンブリースタジアムやニューヨークのカーネギーホールなど、各国を代表する大規模な会場で公演を開いてきたビートルズ。そんなビートルズ側が求めてきた条件は、「最低でも1万人収容できる会場」というものでした。公演が梅雨時の6月であり、野外での公演はNGだったため、当時屋内でこの条件を満たせるのは、日本武道館のみ。ビートルズ側も、建設されたばかりで当時最新鋭の設備を持つ、日本武道館での公演を強く希望していました。しかし、それまで武道館でロックコンサートが開かれた事などもちろん無く、何より武道館は『日本武道の殿堂』として建設された由緒正しき建物。関係者らは一斉に反対の声をあげました。時は、60年安保闘争から始まる学生運動が盛んに行われ、若者と大人の衝突が度々繰り広げられていた頃の事。
旧世代の断固たる反対を動かしたのは実はこういう背景もあったと言われています。ビートルズは来日の前年、イギリスの新しい音楽を世界に広め、外貨獲得に貢献したという理由で、エリザベス女王から大英帝国勲章を授与されていました。一方、『武道』も東京オリンピックを機に世界に広められようとしていたもの。その象徴である日本武道館が、日本の皇室とも交流のあるイギリス王室から勲章を授与されているような世界的アーティストの公演を拒否するのは如何なものか…そんな世論の高まりもあり、結局、武道館での公演が決定したのです。
1965年6月30日、ついに実現したビートルズの来日公演は、3日間、延べ5万人の観客を集め、武道館は若者らの熱狂に包まれました。公演当日にはなんと1万人の警官が配備、機動隊の装甲車が武道館に配置されるなど、安保闘争さながらの厳戒体制が敷かれたそうです。ビートルズ公演とは、まさに当時の時代を象徴する出来事のひとつだったのです。
日本を熱狂に巻き込んだこのビートルズ公演では、いまではどのコンサートでも当たり前のように行われるようになったある事が初めて行われました。それは『グッズ販売』。会場では、彼らのプロマイドやパンフレットが売り出され、飛ぶように売れたといいます。まさに日本コンサート史上に残る画期的なステージでした。
日本最高のコンサートホールへ
実際、この後、世界各国から大物アーティストが来日するたびに、ほぼ例外なく武道館が公演会場に選ばれるようになっていきました。そしてもちろん日本人ミュージシャンの多くも、武道館を目指しました。そのステージに立つことは一流の証であり、何より『ロックの聖地』だからです。ちなみにこの日本武道館で最多公演記録を持っているのは矢沢永吉。1980年(昭和55年)に初演を行って以来、その公演回数実に92回。この記録はいまも更新され続けています。一方、連続最多公演記録を持っているのがハウンドドッグ。その記録、なんと15日連続!
1994年(平成6年)元日に行われたSMAPのコンサート。通常コンサートは歌舞伎や舞台のように1日に2回公演程度が常識でした。しかし、この日SMAPはなんと6回公演を実施。初回は午前9時半からで、その後2時間おきにライブを行うという当時としては信じられないスケジュールを実現したのです。
伝説の名勝負
このような数々の歴史を重ね、多くのアーティストを虜にしてきた日本武道館。更に武道の域を超え、1976年(昭和51年)には、日本プロレス界の大エース、アントニオ猪木と、ボクシングの現役ヘビー級世界チャンピオン、モハメド・アリの異種格闘技戦も行われました。東京、NY、ロスを三元中継する形でテレビ放映されたこの試合、日本国内の最高視聴率はなんと54.6%を記録。リングサイド席は30万円の値がつけられるほどの話題を呼びました。
そして武道館建設の最大の目的であった柔道で、忘れてはならないのが全日本柔道選手権。階級わけをせずに真の柔道日本一を決めるこの大会で、1985年(昭和60年)、前人未到の9連覇を達成したのが山下泰裕です。そして1994年(平成6年)の全日本柔道選手権は、日本柔道史に残る伝説の大会となりました。当時、大会5連覇中の重量級チャンピオンで無敵といわれた132キロの小川直也を、たった86キロの中量級の男が準決勝で破ったのです。その男こそ中量級チャンピオン吉田秀彦。当時24歳。吉田は『中量級選手としての優勝』という極めて異例の快挙を目指し、決勝の場へと進みました。対金野潤戦。重量級の意地を見せる金野は、国際試合で禁止されている『かにばさみ』などの奇襲で、吉田を攻め立てました。金野の反則すれすれの攻撃に引き手の左手を負傷し、うずくまる吉田。しかし優勝への執念を見せる吉田は、試合を続行。結局両者ポイントなしのまま、判定へ。惜しくも敗れた吉田は「小川さんに勝った以上、何としても優勝したかった」と唇をかみ締めたそうです。
中量級選手の優勝という快挙こそなりませんでしたが、優勝候補の小川を破り、堂々の準優勝に輝いたこの大会は、いまも柔道界で語り草となっています。『柔良く豪を制す』。吉田はまさしく日本武道の真髄とも言えるその言葉を、武道の殿堂・日本武道館で成し遂げてみせたのです。
時に『武道の殿堂』として、そしてまた時に『ロックの聖地』として、日本のカルチャーシーンに君臨し続けてきた日本武道館。昨年1年間に、この日本武道館で行われたイベントは実におよそ200種類。スポーツやコンサート以外にも、天皇陛下がご出席される全国戦没者追悼式などの国家行事から、毎年春の恒例行事ともなっている各大学の卒業式など、「空いている日は無い」といわれるほど、様々なイベントに用いられています。まさに40年以上にわたり、日本の文化を支えてきた偉大なホール――それが『武道の殿堂/ロックの聖地・日本武道館』なのです。
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