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SmaSTATION特別企画『“日産を甦らせた男”カルロス・ゴーンとは?』
2005年、イギリスの新聞「ファイナンシャル・タイムス」紙で『世界で最も尊敬できるビジネスリーダー』が発表されました。第1位は、マイクロソフト社長のビル・ゲイツ。第2位は、ゼネラル・エレクトリック社のジャック・ウェルチ。そして第3位に日本企業からただひとり選ばれたのが、日産自動車社長カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)氏です。1999年、かつてトヨタと並んで日本自動車業界の2大巨頭として君臨していた日産自動車は、上場企業としては史上ワースト記録となる6844億円というとてつもない額の赤字を計上、倒産の危機に陥っていました。その状況を打開すべく、2000年3月、提携先のルノーから送り込まれてきたのが、カルロス・ゴーン氏でした。長年続いた赤字をたった1年で黒字に転換させ、ブランドイメージまでも急上昇させたゴーン氏。倒産寸前とまで言われた日産を救ったその手法とは? SmaSTATION-5は、ゴーン社長の超多忙な一日に完全密着し、その素顔に迫りました。
ミシュランを再生させ、ルノーへ
1954年3月9日、ブラジル西部の田舎町・ポルトベーリョでゴーン氏は生まれました。クラクションの音で車種を当てることが出来るほど車好きだったというゴーン少年が経営の道を歩み始めたのは、大学卒業後、フランスの大手タイヤメーカー・ミシュランへ入社した24歳の時。製造部門に配属されたゴーン氏は、新入社員でありながら工場の従業員たちと会話をすることで問題点を浮き彫りにし、製造工程の合理化を上司に訴え、実現していったのです。そんなゴーン氏の行動力が認められ、彼は26歳という若さで工場長に就任しました。
1985年、30歳になったゴーン氏は、故郷であるブラジルのブラジル・ミシュラン社長に大抜擢されました。しかし当時のブラジルはインフレ率が1000%を超え、ブラジル・ミシュランも膨大な赤字を出し、まさに閉鎖寸前だったのです。しかしゴーン氏は、たった1年で黒字に転換、3年後には100社以上にも上るグループ会社の中で最も売り上げ利益を上げている子会社として再生。その後、北米ミシュランも同様に再生させたゴーン氏は、その手腕を買われ、42歳の時にヘッドハンティングされました。ゴーン氏を見初めたのは、フランスの自動車メーカー『ルノー』でした。
当時、ルノーは、アメリカ進出とボルボとの提携というふたつの国際的戦略に失敗し、グローバル化に出遅れたヨーロッパの落ちこぼれメーカーでした。しかし、子供の頃から車好きだったゴーンにとって、自動車メーカーは憧れの存在だったため、ふたつ返事でルノーのオファーを快諾。そのルノーで、ゴーン氏は社運を賭けた極秘プロジェクトを任せられる事になりました。そのプロジェクトとは『日産との資本提携』。幾多の失敗を繰り返し、もう後がないとまで言われたルノーにとって日産との提携は、国際競争に生き残る生命線だと考えられていました。しかし、その当時の日産も実はルノー同様瀕死の状態にあったのです。
「ダサい」「面白くない」「オヤジっぽい」
1914年、「DAT号」で日本純国産車第一号を作り上げた日産は、トヨタ自動車と共に日本の自動車産業を担ってきました。「技術の日産」「販売のトヨタ」 そういわれ続けしのぎを削ってきた2社ですが、販売台数では常にトヨタがリードしてきたのです。
1966年、日産が大衆向け小型実用車として「サニー」を発売すると、その半年後には、トヨタも「カローラ」を発売。サニーを意識して作られたカローラは、開発途中でサニーのエンジンより排気量が100cc多い1100ccに変更され、発売当時そのキャッチフレーズは『プラス100ccの余裕』。この宣伝が功を奏し、トヨタ・カローラは発売1ヵ月で登録台数5385台を記録し、日産・サニーの3355台を軽く抜き去ってしまったのです。その後、トヨタ・カローラは、1969年から2001年までの33年間連続して国内販売台数1位を維持するなど、名実ともに日本を代表する車となりました。
常にトヨタを追いかける立場の日産でしたが、ブランドイメージで、トヨタより上位に来た時代もありました。1968年、ハコスカの愛称で知られるスカイラインが誕生し、そして1972年、『ケンとメリーのスカイライン』を世に送り出したことで、当時の若者にとって、スカイラインがステイタスシンボルとなったのです。大学生就職人気企業の上位にランキングされ始めたのもこの頃でした。
その後、フェアレディZやプレジデントなど世界が注目する人気高級車も発売した日産でしたが、1988年のシーマ、シルビア、セフィーロのヒットを最後に、その後、17年間にわたって日産の市場シェアは減り続けました。その原因は、ホンダやマツダの台頭、更に低価格外国車などの影響。そして1999年、遂に上場企業としては史上ワースト記録となる6844億円という赤字を計上。代わり映えのしないデザインや機能性に、いつの間にか、日産といえば、若い人たちの間では「ダサイ」「面白くない」「オヤジっぽい」というイメージが浸透。1991年には自動車メーカーでトップの7位にあった大学生就職人気企業ランキングも圏外へと墜落してしまったのです。
その日産と、フランスの赤字メーカー『ルノー』の提携には誰もがクビをかしげ、専門家の中には、こんなことを言う者もいました。「落ちこぼれ同士が一緒になっても、レースには勝てない」。前クライスラー社長ボブ・ルッツは、「日産と提携するなんて、50億ドルをコンテナに詰め込んで海に捨てるようなものだ」と、この提携をからかいました。
1998年、ルノーのシュヴァイツァー会長は、日産の塙社長と秘密裏に提携を進めるため、密会を重ねていました。そこで、ルノー側の担当者ゴーン氏は、日産再建の青写真を説明しました。ゴーン氏の説明は非の打ち所がないほど、全てにおいて的確だったそうです。

塙 義一名誉会長(当時:社長)
「最初の印象は、非常にシャープな感じでしたよ。それから迫力があったね。日産の各部門のトップ10人くらいとゴーンさんで半日話し合いをしたところ、『なかなかあの人はすばらしい人だ』『あの人だったら一緒に仕事をやっていきたい』と言う反応だったので、みんなそうならば間違いないなということで決めたんです。」
なんと、ゴーン氏はルノーによって送り込まれたのではなく、実は、塙社長直々の逆指名だったのです。しかし、日本のメディアは、突然、やってきたカルロス・ゴーンという謎の人物にネガティブな言葉を並び立て、新聞紙上にも『大リストラ』『首きり』という見出しが躍りました。
復活へのキーワード
マスコミや社員の不安をよそにゴーン氏は復活への青図をふたつのキーワードとともに記しました。それは『現場』そして『スピード』。日産にやってきたゴーン氏が真っ先に向かったのが“ゲンバ”でした。工場や、営業所に直接出向き、様々なセクションの人間にあらゆることを聞き出してまわったのです。直接話した社員は1000人以上にも上ったといいます。
ゴーン氏が“ゲンバ”の声を聞き見抜いたのが「いまの日産には『責任転嫁』の文化が根付いてしまっている」ということでした。「デザインが悪いから売れない」「販売が悪い」「マーケティングが悪い」と他の部署に責任を押し付け、組織として機能していなかったのです。更にゴーン氏はこんな行動に出ました。

レース技術部 飯嶋 嘉隆氏(当時:実験部部長)
「日産の車が全然分からないというので全ての日産車を準備してくれというので、私たちも見たことない乗ったことないというような70台くらいを当時の実験部に用意してもらいました。朝から晩まで全部乗るんですね。他社と比べて、車をもっと勉強しなさいということと、あとお客さんは本当は何を求めてるのか、そこをもっと調べてそこに一番開発に注力しなさいと。100台以上の常に最新の世界中の車をNTC(日産テクニカルセンター)においてあります。従業員がいつでも乗れるような状態で、常に最新の車、ベンチマークを忘れないようにというゴーンさんからのメッセージだと感じてます。」

実際、ゴーン氏は、時間のある週末には箱根まで競合他社の最新車を自ら運転しその性能を確かめているのです。また、それまでは本社の会議室で行われていた役員会を、月一回、新車の試乗が出来るテストコースで開くことを決めました。更に日産の多くの社員が驚かせたのが、ゴーン氏の『スピード感覚』。

嘉悦 朗役員
「それは僕たちにとってすごくショックで、日産の再生をかけるプロジェクトの提案を2ヵ月でもってこいと。過去の日産では考えられないことなんですよ。何かプロジェクトを作るときにはそれなりの人材を集めたいわけですから、そうすると他の部署にとってみると、『冗談じゃないこの忙しいのに出せるか!』ということで、人選にも1ヵ月ぐらい平気でかかってましたし、あげくの果てに出てくる人材が第一希望と違う人が出てきたりしてたわけですけど、それが第一希望の人が1週間で出てきたというのが、私にとって驚きでしたよね」。

更にゴーン氏は各セクションから若手のエース級社員200人を集め、部署の垣根を越えて、日産の問題点を洗い出させました。そうして、わずか3ヵ月で作り上げたのが、『日産リバイバルプラン』です。それは、赤字を長年出し続けて、倒産寸前とまで言われた日産を1年で黒字転換、さらに3年後には営業利益率4.5%達成を掲げた仰天プランでした。それには社員は勿論、財界、マスコミもこぞって耳を疑うものでした。が、ゴーン氏は確固たる表情でこう続けました。「もし来年度、黒字にならなかったら、私を含め、役員24人は全員退陣します」。ゴーン氏は、達成できなかったら全員辞めると宣言することで、『責任転嫁』という日本の企業文化そのものにメスを入れようとしたのです。
ゴーン氏の日産リバイバルプランには、『現場』を知ることや『スピード化』による社内構造の改革の他に、徹底したコスト削減がありました。無駄な設備、無駄な時間を排除し、社員全員が責任を持って仕事する――それは根本からの構造改革でした。また、「日産車がなぜ、ダサイと言われるようになってしまったのか?」という問題にも真剣に取り組み、日産デザインチームの組織を一新しました。そして、チーフデザイナーに選ばれたのが、1993年の東京モーターショーで『ビークロス』という先進的なデザインの車を手がけ、ヨーロッパのデザイナーの度肝を抜いた競合他社である「いすゞ自動車」中村史郎氏だったのです。

中村 史郎氏
「ニューヨークにあるへッドハンティングの会社から前の会社に電話がかかってきまして、一体何事かなと思いました。ルノーと提携して大きく変わろうとしているのが外から見てもよくわかりましたし、デザイナーのトップを同業他社から探しているのがいままでの日本の会社じゃないなと思いました。」

それまでの日産に優れたデザイナーがいないわけではありませんでした。しかし、デザインチームが権限を持たないために新車のデザインが出来ても、営業や幹部の注文で原型を留めないほどにいじくり回され、結果、個性のない、印象の薄い車に仕上がってしまっていたのです。これが、日産車が日産らしさを失い、ダサイと言われるようになった原因でした。その凋落してしまったブランドイメージを回復するためには、新生ニッサンをイメージさせる車が必要でした。
そこでゴーン氏が拘ったのは、全世界で一世を風靡したあの『フェアレディZ』でした。初代フェアレディZは、1969年にアメリカ市場をターゲットに作られた世界で一番売れたスポーツカーで、長きに渡り、スカイラインとともに日産のイメージリーダーと目されてきました。しかし、近年のコンパクトカーブームで、スポーツカー人気にも陰りが見え、1989年の4代目Zを最後にその勇姿は姿を消していたのです。
2001年1月、デトロイトモーターショーでゴーン氏は、このフェアレディZの復活を高らかに宣言しました。「日産の魂の復活だ!」。フェアレディZの復活は、社内の様々なセクションを活気づけました。新型Zは、日産復活の象徴となったのです。そして『日産リバイバルプラン』は誰もが予想だにしなかった成果をあげました。『1年で必ず黒字にする』という目標を、驚くべき数字で達成したのです。2000年度の決算で日産は、当期利益3311億円、という創業以来、最高の数字を叩き出し、更に、この時点で、『3年後の2002年度には、営業利益率4・5%』というもうひとつの目標もすでに達成してしまったのです。
そんなゴーン社長に『SmaSTATION-5』が完全密着!超多忙を極めるゴーン社長の1日とは?
1月20日金曜日
朝7:30
朝は他の社員の誰よりも早く出社。コーヒーを飲みながら、株価やメールをチェックする。
ーー日本では重役は社員よりも遅く出勤することが多いのですが、どう思いますか?
ゴーン 日産の場合は違います。ほとんどの役員は早く出社しますよ。上司の出社が早ければ、部下も早く出社し、上司が遅く来れば、部下の出社が遅いという傾向があるからね。
8:00
エジプト工場での新車を製造開始にあたり、現地のメディア向けに日産の意気込みを、流暢なアラビア語で収録。実はゴーン社長、このアラビア語の他にも英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語と、計5ヵ国語を使いこなす。
11:00
アメリカを衛星でつなぎ、2010年の本社移転に伴う課題を議論する会議に出席。
12:00
他の社員とコミュニケーションを図るために、社食にて昼食を取る。ゴーン社長が頼んだのは「ラーメン!」。なんとゴーン社長はラーメンが大好物なのです。
13:00
本館から新館へ移動。役員クラスのメンバー40人と会議。会議はもちろん英語。しかし英語が不得意の方のために同時通訳システムも完備しています。
17:00
帝国ホテルに移動し、東京証券取引所より「個人株主拡大賞」を受賞。その後一旦帰宅。そして、その日の深夜0時、誰もいなくなった羽田空港から、チャーター機で出発。ルノー本社があり、家族が住んでいるパリへと飛び立ちました。
そして、今月9日にはルノーの経営計画を発表!さらに、今週月曜日にはアメリカに渡り、長女の通っているスタンフォード大学にて講演を行いました。講演の合間に長女キャロライン・ゴーンさんとつかの間の団らん。

リタ・ゴーン(ゴーン氏の妻)
「彼が安らげるのは家族と一緒にいる時だと思います。私達家族はとても結束力が強くて、このことは彼にとってとても大事なことなんです。子供にはとってもやさしいわね。やさしすぎて困るくらい」。



2004年、日産の純利益は5年連続で最高を記録。カルロス・ゴーン氏は、6844億円の赤字を抱え、瀕死の状態だった日産を過去最高の3310億円の黒字へと導いたのです。その手腕を買われて、日本自動車殿堂入りが決定。日本政府からも、外国人としては初となる藍綬褒章を受章しました。日産がルノーと提携が決まった時、「日産と提携するなんて、50億ドルをコンテナに詰め込んで海に捨てるようなものだ」とからかった前クライスラー社長・ボブ・ルッツは、日産が驚異的な復活を果たした2年後に、こんな言い訳をしています。「あれは、カルロス・ゴーンを考慮に入れるのを忘れていたのだ」と・・・。
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