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スマステーションでも過去2回に渡って特集した日本の伝統芸能「歌舞伎」。しかし、歌舞伎にはまだまだ知らないことが…。劇中の掛け声に隠された秘密、そして独特の歌舞伎メイクに込められた意味など、歌舞伎を見に行く前に是非知っておきたいことをまとめてみました。
歌舞伎を見に行くとよく「成田屋!」「音羽屋!」という声が聞かれます。役者の素晴らしい芸に対する威勢のいい掛け声…これにはいくつかの種類があるのをご存知でしょうか。役者の苗字にあたる『屋号』を呼ぶ定番の他にも、「17代目!」「18代目!」と何代目かで呼ぶものや、ここ一番の見せ場では「いよっ!待ってましたぁ!」、しっとりとした濡れ場のシーンでは「ご両人!」という決り文句も。さらに、役者が花道を引き上げる時には「ご苦労様っ!」。そして、名優の父親の演技に勝るとも劣らない時は「親父さん、そっくり!」などというものもあるのです。

この掛け声に関して、歌舞伎ではこんな言葉があります。それは『大向こうから声がかかる』。『大向こう』とは、舞台から一番遠い席のことをいい、歌舞伎座でいえば、3階席が『大向こう』。歌舞伎座の一等席が15000円するのに対し、3階のB席は2500円という手頃さ。よって、大向こうには、何回も劇場に足を運ぶ目の肥えたマニアが陣取ることが多くなります。つまり、『大向こうから声がかかる』というのは、通な客から掛け声がかかることで、役者にとっても大変、嬉しいことなのです。では、この掛け声、どんなタイミングでかければいいのでしょうか?

見得を切る時なら、『つけ』という効果音に合わせるのがコツ。『大向こう』の客の中には、絶妙のタイミングで声をかけることが出来るため、入場料無料のセミプロもいるといいます。掛け声は、効果音のような役割も果たし、歌舞伎を構成する大切な要素のひとつとなっているのです。
歌舞伎を構成するもうひとつの大きな要素が、『隈取』(くまどり)と呼ばれる化粧。歌舞伎では、専属のメイクさんがいるわけではなく、役者本人がそれぞれ自分でやっています。この隈取を最初に始めた人物が初代・市川團十郎。1673年、14歳の團十郎は、初舞台の『四天王稚立(おさなだち)』で、坂田金時を演じました。その時、舞台に上がった團十郎の姿に観客は度肝を抜かれます。なんと團十郎の顔には、これまで誰も見たことのない、赤と黒の隈が描かれていたのです。

歌舞伎の化粧『隈取』には、登場人物の性格を表す役割があります。『隈取』とは、力を入れた時に浮き出る血管や筋肉の盛り上がりに陰影をつける事によって、登場人物の表情を誇張し、その性格を表す役割を担っているのです。そんな隈取には、たった四色の色しか使われていません。それは『赤』『青』『茶色』『黒』。この4色の組み合わせとスジの描き方によって、様々なキャラクターが表現されているのです。隈取の中で最も有名なのが、赤を使って描かれる『紅隈(べにぐま)』。正義、勇気、若さ等を象徴するメイクです。目元に1本だけアイラインを引いたのが「むきみ隈」。これは、若くカッコイイ伊達男のメイク。また、「むきみ隈」の目元の隈を髪の生え際までのばしたものが「一本隈(いっぽんぐま)」。落ち着きと度量のあるヒーローに使われます。

さらに筋の数が増えたものが「筋隈(すじぐま)」。悪人達のやりたい放題に怒りが爆発し、ついに立ち上がったスーパーヒーローに使われます。同じ『紅隈』でも、「戯隈(ざれぐま)」や「猿隈(さるぐま)」のように滑稽な役に使われるものや、紅隈に対して、青が基調の「藍隈」という不気味なまでの悪の権力者を表すものも。そして、茶色や黒が基調の隈取は、妖怪変化を表し、邪悪な敵役や「土蜘(つちぐも)」など悪の化身に使われます。このように歌舞伎の化粧には、役回りをより分かりやすくする、という意味があるのです。
歌舞伎の花形芸と言えば『見得』。「見得を切る」などと使われるこの『見得』とは、感情や動作の高まりが頂点に達したことを示すために動作を一瞬静止させ、目を大きく見開いて睨んでみせることをいいます。以前スマステーションでは、この『見得』がブロードウェイの舞台にも影響を与えていることを紹介しました。いまでもロングラン大ヒットを続ける『ライオンキング』は、女性演出家のジュリー・テイモアが歌舞伎の『見得』をヒントに、動物たちの動きを作り上げたのです。更にこの『見得』は、日本のあるエンターテイメントにも応用されています。それが『日本アニメ』。『巨人の星』や『あしたのジョー』で多用されたストップモーションも歌舞伎の『見得』から生まれた手法だと言われているのです。

歌舞伎でよく目にする、片足で跳びながら去っていく動きは、『六方』と呼ばれる芸。感極まった思いを胸に全速力で走り去って行く姿を表現しています。様々なバリエーションがある六方の中でも有名なのが、『勧進帳』幕切れの弁慶や、『鳴神(なるかみ)』などで見せる「飛び六方」。実はこの『六方』、その特徴は、現在の我々の歩き方とは違います。右足が出たときには右手を、左足が出たときには左手が前に出てくるのです。なんとも奇妙な歩き方ですが、この動きは『なんば』と言い、江戸時代以前の日本人は、みんなこうした歩き方をしていたそうです。しかし、さすがにこのままでは走りにくいので、走る時は、両手を上に挙げて走っていたとか。『なんば』は現在でも古武術や能の歩き方、相撲のすり足などで使われており、陸上の末續慎吾選手もこれを応用した『なんば走り』で日本人初のメダルを獲得しています。
江戸時代の人々にとって、歌舞伎は非常に大きな存在でした。そのため、歌舞伎から実に様々な言葉が誕生したのです。『十八番』という言葉もそのひとつ。七代目市川團十郎は、『助六』や『勧進帳』などの十八演目の台本を、市川團十郎家に伝わる得意芸として、「無闇に上演をしてはならぬ」と箱に入れて封印し、「歌舞伎十八番」としました。これが『十八番』の元となって、いまでも得意とすることを、「十八番」と書いて「おはこ」と読むのです。

他にも、歌舞伎を語源としているのは『二枚目』という言葉。江戸時代、歌舞伎小屋では、入り口に「俳優の絵姿看板」を掲げていました。1枚目の看板は主役を勤めた座長の看板。そして、2枚目の看板には、男女のしっとりとしたシーンを演じる「色男役」の俳優を掲げていたのです。そのため、いつしか色男のことを「二枚目」と呼ぶようになったのです。ちなみに、3枚目の看板に掲げられていたのは、滑稽な役を演じた『道化役』の看板。いまでも「3枚目」と言うと、その場をなごます「面白い人」のことを指すのはそのためなのです。

更に、せっかく立てた企画や催し物が途中で中止になることを指す「お蔵入り」または「お蔵になる」という言葉も歌舞伎が語源だといわれています。「お蔵入り」というと、上演中止になった歌舞伎の台本が、「蔵」にしまわれてしまうことに由来すると思われがちですが、現在有力な説は、もともとお客様が入らず、公演打ち切りになることを、最終日である「千秋楽」を迎えることが出来ず、「楽になる」ということから、皮肉を込めて「お楽になる」と言っていたのです。そこに、江戸時代からあったという芝居の世界特有の逆さ言葉が加わり、「楽」(らく)を「蔵」(くら)と変えたため、「お蔵になる」となったといわれているのです。

演技が下手な役者のことを『大根役者』といいますが、実はこれも歌舞伎から生まれた言葉です。大根は、食べてもその殺菌効果から、絶対に当たらない――つまり、大根役者がいると、公演が絶対に当たらない、という意味なのです。大根の辛み成分イソチオシアネートには殺菌効果があり、食中毒の予防になります。刺身のツマに使われているのもそのためなのですが…。
昨年7月、七之助さんの父、中村勘三郎さんが大成功を収めた中村座NY公演。劇場ごと海外に持って行っての公演は、歌舞伎400年の歴史で初めての快挙でした。歌舞伎の最初の海外公演が行われた国は、『ソビエト社会主義共和国連邦』。いまから77年前の1928年(昭和3年)、2代目・市川左團次がソ連のモスクワとレニングラードで公演したのが、歌舞伎の最初の海外公演でした。当時、日本は国際社会から孤立し始めていました。ワシントン条約で軍事縮小を命じられるほど、軍国主義へとひた走っていたからです。ちょうどその頃、新しく誕生した大国が、ソビエト連邦。日本は、このソビエト連邦と手を組むことで、他の大国に対抗する手段になると考えたのです。そして、友好関係を築くため、文化・芸術の交流を推進。その手始めとして、歌舞伎の公演が決まったといわれています。

当時の日本人には、言葉の通じない外国人が、江戸っ子気質を描いた歌舞伎を堪能する姿など、到底、想像できるものではありませんでした。しかし、海外公演の話を聞いた左團次は『どんな犠牲を払っても、行ってみたい』と即答しました。市川左團次一行がモスクワへと向かうコースは、当初、朝鮮経由のコースをとる予定でした。しかし出発直前、『満鉄爆破事件』が起こりました。このため、一行は急遽予定を変更し、敦賀から船でウラジオストクへと渡り、そこからシベリア鉄道で目的地のモスクワへと向かったのです。長い列車での旅の道中、左團次の妻・とみは、アルコールランプでご飯を炊いて一行に振舞ったそうです。日本食に飢えていた役者たちは痛く感動したとか。目的地のモスクワに着いたのは、東京を出発してから2週間後のことでした。ミステリアスな東洋の国からやってきた一行をモスクワ市民は熱狂的に迎えました。歌舞伎初の海外公演は、“世界最高峰の劇場”と呼び声の高い「ボリショイ劇場」で行われました。その劇場の収容人数はなんと5000人。しかも予約受け付けでは、5000人の定員に対して、その10倍近い4万人以上もの申し込みがあったそうです。オペラなどと違い伴奏なしで台詞を言う歌舞伎が、これほどの大観衆の前で演じられることも、歴史上、初めてのことでした。

そんなモスクワでの公演に際し、左團次は、あることを決めていました。それは、「外国人の趣味に合わせることなく、純日本式の歌舞伎を忠実に再現したい」というもの。その思いは、見事に結実し、公演は大成功を収め、翌日のモスクワの新聞には、東洋の国から来た劇団への賛辞が並び、『サダンジ』という言葉は、「人気者」を意味する流行語にもなりました。そして、この評判を聞きつけたフランス・ドイツなどヨーロッパ各国から出演依頼が相次いだそうです。このモスクワ公演には、『戦艦ポチョムキン』で世界の映画界に革命を起こした異端の天才監督・エイゼンシュタインの姿もありました。歌舞伎に感銘を受けたエイゼンシュタインは、彼の最高傑作と言われる『イワン雷帝』の中で、主役のイワン4世が目を見開いて見得を切るという演技をさせたのです。
この初の歌舞伎海外公演と時を同じくして、実は、もうひとりの人気歌舞伎役者が海を渡っていました。その歌舞伎役者とは『第15代・市村羽左衛門』。当時、羽左衛門は「江戸の風俗の代名詞」とまでいわれ、その日本人離れした顔つきから圧倒的な存在感を持った人気歌舞伎役者でした。「女に生まれて、市村に惚れざるは女にあらず」という言葉も生まれ、歌人・与謝野晶子も大ファンだったそうです。市川左團次がモスクワ公演を行ったのは、昭和3年の8月。一方、羽左衛門は、同じ年の4月~9月の約半年間、アメリカ・ヨーロッパを渡り歩きました。しかし、その目的は歌舞伎公演ではなく、「豪遊」。羽座衛門はなんと6ヵ月間、買い物、グルメ、観劇に明け暮れたのです。パリでは、買い物の後、トゥールダルジャンで食事をし、ニュ―ヨークでは、アポロシアターに芝居を見に行きました。さらに、ハリウッドではあのチャーリー・チャップリンにも会っているのです。しかし、この豪遊さえも羽左衛門のイメージダウンにはなりませんでした。逆にそのキップの良さが江戸っ子の羽左衛門らしいと、羽左衛門が帰国すると、待ちわびたファンで劇場は連日超満員だったそうです。

その羽左衛門の舞台を見つめるひとりの男がいました。以前、スマステーションでも紹介した“歌舞伎を救ったアメリカ人”フォービアン・バワーズです。歌舞伎の危機を救ったバワーズは、歌舞伎に取り付かれるキッカケとなった羽座衛門に関してこんな言葉を残しています。「羽左衛門の足はきれいで、鼻が高くてね。毎日、立ち見で羽左衛門の『直侍』は25回も見たんだ。初めて羽左衛門に会った時は震えちゃって満足に口も聞けなかった・・・」。外国人のバワーズさえ憧れたという、日本人離れした顔立ちだった『第15代・市川羽左衛門』には、実はこんな噂があるのを、ご存知でしょうか? 羽左衛門が亡くなって10年後の昭和30年、羽左衛門の出生の謎に迫った一冊の本が出版されました。それが『羽左衛門伝説』です。その本の中には、「羽左衛門は、フランス系アメリカ人のル・ジャンドル将軍と福井藩主・松平慶永の娘、絲(いと)の間に生まれたハーフだ」という驚くべき一文があったのです。これには謎の部分も多く、あくまで仮説であり、いまとなっては、その真相はわかりません。
 
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