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日本という枠組みを越えて、世界に羽ばたくニッポンの伝統文化。国交の無い閉ざされたあの国に単身乗り込み、日本の笑いを伝えたひとりの女性や古典とシェークスピアを融合させた狂言界のパイオニア、そして極貧の旅芸人から身を起こし、ついには全米7大都市を熱狂させた、ある三味線奏者の人生を振り返ります! |
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この夏、ニューヨークを熱くさせたのは歌舞伎役者・中村勘九郎。ブロードウェイ・ミュージカルを始め、良質な演劇が集うこのマンハッタンの一角に、勘九郎さんが立ち上げたのが、「平成中村座ニューヨーク公演」。7月17日の柿落としから九日間の上演期間中、客席は連日超満員。遂にはダフ屋まで現れ、通常75ドルのチケットが500ドルにまで跳ね上がったとか。今回行われた演目は、派手な大立ち回りが見物の「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」。ラストには主人公を逮捕するためにニューヨーク市警が登場するという、アメリカ公演ならではの演出も加わって、観客は大喜び!あの「ニューヨークタイムズ」は、「スパイダーマン2以上のスリルが味わえる」と大絶賛し、勘九郎さんに対しても、「比類なき役者」と最大級の賛辞を送りました。この「平成中村座」は、江戸時代に大衆の人気を集めていた「中村座」を現代に蘇らせたもので、2000年11月、勘九郎さんが期間限定の芝居小屋として浅草で旗揚げ。その当時からすでに、勘九郎さんは「いつかは海外へ…」という夢を膨らませていたそうです。念願のニューヨーク公演を成功に導き、最高の形で海外進出を果たした勘九郎さん。来年には、偉大な亡き父の名を継ぎ、18代目中村勘三郎を襲名。そして近い将来、再びニューヨーク公演を実現しようと計画しているそうです。 |
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以前、SmaSTATION-3でもご紹介したのが、文化庁の文化交流使として、落語の海外普及に力を尽くしてきた落語家・笑福亭鶴笑さん。ことしの春、活動の場をシンガポールからイギリスへ移し、8月には、世界3大コメディーフェスティバルのひとつ「エジンバラ・コメディーフェスティバル」に参加!英語を織り交ぜた得意のパペット落語で、連日大爆笑を勝ち取りました。そしてこの9月からは、ドイツへ。汗を拭う暇もなく、鶴笑さんは世界を飛び続けています!! |
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女性落語家・古今亭菊千代さんは、日本と国交の無いある国で、史上初めて落語の公演を行った噺家。彼女が落語を披露した国とは、北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国です。
このとんでもない企画が実現したのは、ひとえに菊千代さんのチャレンジング・スピリッツの賜物でした。寄席の大トリを任せられる人物を落語界では「真打ち」と呼びますが、彼女は女性落語家として初めて、この「真打ち」昇格を果たした人物。「より多くの人たちに笑ってもらいたい…」それをモットーに、これまで「手話落語」を駆使して、耳の不自由な人たちにも落語を楽しんでもらえるよう尽力してきた彼女に、2000年夏、大きな仕事のオファーが舞い込みます。民間団体が中心となり、北朝鮮と日本の文化交流の場が持たれる事になったのですが、その平城の会場で、日本の芸人を代表して落語を、しかも朝鮮語でやって欲しいというのです。さすがの菊千代さんも、日本語以外の言葉で落語をやったことはなかったので、当初は戸惑ったそうですが、相手側の熱心さに負けて、このオファーに応じることに…。悩んだ末に菊千代さんが選んだネタは「松山鏡」という古典。親孝行の青年が主人公の物語で、最後はハッピーエンドのストーリーです。しかし、普段の仕事に忙殺されている内に時間ばかりが過ぎ、気がつけば、訪朝までわずか1ヵ月しかありませんでした。菊千代さんは、ハングルに翻訳された「松山鏡」の台本を片時も離さず、徹底的に反復練習しました。2001年7月、ついに迎えた北朝鮮訪問。皮肉にも、小泉首相の靖国神社参拝や、歴史教科書問題でアジア諸国の反日感情が異常に高ぶっていた折。菊千代さんは押しつぶされそうなプレッシャーの中で、ハングル落語を披露し、北の人々の心を揺さぶったのです。その後、菊千代さんは、北朝鮮で喝采を浴びたハングル落語にアレンジを加え、日本人と韓国・朝鮮の人々が一緒になって楽しめるように、ふたつの言葉で交互に進行していく「2元落語」を完成させました。「いつの日か、3元落語、4元落語へと幅を広げ、世界中の人たちを同時に笑わせたい!!」。菊千代さんの夢は膨らみます。 |
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イギリス・ロンドンのグローブ座。シェークスピア劇の聖地と呼ばれるこの由緒ある劇場で、日本の古典芸能を広く世界に知らしめたのが、狂言師・野村萬斎さんです。狂言は、その源流をたどると、奈良時代に中国から伝わった「散楽」に行き着きます。大衆を相手にした、曲芸・奇術・物真似などの大道芸「散楽」は、平安時代に入ると「猿楽」として親しまれ、室町時代には、歌と舞を中心にした「能」、滑稽な喜劇を中心にした「狂言」として確立。激動の時代の中で栄枯盛衰を繰り返しながら現代に引き継がれてきました。現在、狂言は能と併せて「能楽」と呼ばれ、世界文化遺産に指定されているのです。そんな狂言界の伝統的な家系に生まれた萬斎さんは、古典の復興と継承を行う一方で、映像や照明、音響効果を駆使した新しい狂言や、現代劇と古典とを融合させた前衛的な演劇を生み出してきました。が、実は、そんな彼のキャリアに大きな影響を与えた、ターニングポイントとなる出来事があったのです。それが1994年のイギリス留学。本場で学ぶシェークスピア演劇を通して、萬斎さんの舞台芸術に対する価値観に、新しい風が吹き込むことになったのです。「間違いの喜劇」というシェークスピアの原作を狂言化したのが、「間違いの狂言」。もちろん、西洋の演劇を日本の伝統芸能に作り変えるのは、一筋縄ではいきませんでした。2001年8月、萬斎さんは再び渡英。シェークスピアにゆかりの深い、ロンドン・グローブ座で、「間違いの狂言」を上演しました。東西の芸術の融合、その鮮烈な印象に感銘を受けたイギリスの観衆は、萬斎さんが演出・主演を務めたこの舞台に惜しみない拍手を送ったのです。来年2月から、萬斎さんは「間違いの狂言」北米ツアーを計画中。1000年以上の歴史を持つ古典芸能・狂言は、いま、進化を続ける現代の芸術として世界に羽ば羽ばたいているのです。 |
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2003年2月、アメリカ東海岸ツアーを敢行、ニューヨーク、ボストン、コネチカット、ボルチモアの4都市5公演を行い、大成功を収めた津軽三味線奏者・上妻宏光。そして、「YOSHIDA
BROTHERS」という名で、昨年8月に全米CDデビューを果たし、デビュー直後の昨年10月には、ニューヨークとロサンゼルスでコンサートを実現。その力強い撥捌き(ばちさばき)で、満員の聴衆を魅了しました吉田兄弟。日本の伝統楽器・三味線が、いま世界中の音楽ファンから高い評価を得ています。が、上妻さんや吉田兄弟の世界進出から遡ること17年、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコなど、全米7大都市でスタンディングオベーションを受けた、ひとりの名人がいました。それが高橋竹山さんです。1910年(明治43年)に、青森県津軽郡の貧しい農家に生を受けた彼は、幼い頃に麻疹(はしか)をこじらせて半失明状態に。一家の負担を減らすため、14歳で三味線芸人に弟子入りし、道端で演奏しては小銭や米の施しを受ける、過酷な放浪の旅に出た竹山さんは、16歳ひとり立ちし、以来食うや食わずの野宿生活を実に20年も続けました。当時、三味線はまだ、独立した音楽として認知されていた訳ではなく、あくまで民謡の伴奏楽器に過ぎませんでした。その三味線音楽を芸術にまで高めたのが、高橋竹山さんなのです。そんな竹山音楽に、運命的に巡り合ったアメリカ人がピーター・グリリー氏。日本文化の魅力を世界に伝えようと、積極的にコンサートやイベントのプロモーションに尽力してきた彼は、80年代初めに、渋谷のライブハウスで演奏していた竹山の三味線に偶然出会ったのです。津軽三味線をアメリカへ――グリリー氏は竹山さんを口説き落とし、その辣腕をもって、当時ほとんど知名度が無かった津軽三味線の、アメリカ史上初のコンサート開催にこぎつけたのです。1986年、高橋竹山さんのアメリカ7大都市10公演が実現。この時、竹山さんは77歳でした。連日チケットは完売。わずか3本の弦から奏でられる多彩で美しい音色に、アメリカの聴衆は陶酔。「ニューヨークタイムズ」は「彼の音楽は、まるで霊魂探知機でもあるかのように、我々の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と竹山さんの演奏を絶賛しました。「芸人は、死ぬまで舞台に上がらなければだめだ…」。その言葉のとおり、不屈の精神を貫き、1990年、80歳を迎えた竹山は、年の数だけ公演を行う日本全国80ヵ所でのツアーを決行。1992年には、パリ公演も大成功させました。そして、ガンによって身体の自由を奪われるまで、彼は魂の叫びを奏で続けたのです。1998年、他界。享年87。明治から平成の時代を生きた偉大なる名人は、その波乱万丈の生涯に終止符を打ちました。しかし、竹山さんの熱い情熱はいまも生き続けています。弟子で2代目を襲名した、高橋竹山は和太鼓との競演など精力的な活動を展開。そして新世代の三味線奏者、上妻宏光さんや吉田兄弟といった若手の旗手たちも、その遺志を継ぐかのように、情熱と夢を抱いて海外進出を続けているのです。 |