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トムクルーズ主演の映画「ラストサムライ」。この映画での演技が高く評価され、ゴールデングローブ賞助演男優賞にノミネートされたのが渡辺謙です。来週25日の発表を前にハリウッドでその評判は更に高まっています。
映画界の最高峰「アカデミー賞」でも、渡辺謙は助演男優賞、更には最優秀賞を受賞する可能性も十分にあるといわれているのです。が、渡辺謙よりもさかのぼる事47年。ゴールデングローブ賞最優秀助演男優賞にノミネート、さらにはアカデミー賞ノミネートをも果たしている日本人俳優がいます。それが早川雪洲でした。一体、早川雪洲とはいかなる人物なのでしょうか!?

1957年、映画「戦場にかける橋」においてアカデミー賞助演男優賞に日本人男優で初めてノミネートされた早川雪洲。しかし、そのノミネートも栄光のほんの一部でしかなく、彼の全盛は1920年代。その人気ぶりはあのチャップリンを凌ぐほどで、人は彼を「グレート・セッシュウ」と呼びました。当時のギャラは週給1万ドル。年収はいまの価値で40億円。ハリウッドを代表するスター、ルドルフ・バレンチノ、ハンフリー・ボガードも、銀幕の雪洲に憧れて映画界入りしたというほどの、まさに大スターなのです。そんな雪洲はラブシーンなどの撮影の時、いつも台に乗って演技をしていたといわれています。そのため、ハリウッド、そして日本でも、台を使って俳優を大きく見せることを、「セッシュ」する(「Do it sessue」」と呼ぶようになったのです。
正解は「175センチ」。
実は、当時の日本人としてはむしろ大柄で、アメリカ人俳優と比べても遜色なかったという雪洲。では、なぜ雪洲は台に乗って演技をしていたのでしょうか? 彼はこんな言葉を残しています。「僕のファンは僕の演技を見にくるのではない。僕を見に来るのだ」。常に人よりも目立とうとしていた雪洲。そのため自分をより大きく魅力的に見せるために台を使っていたのです。
そんな雪洲が生まれたのは1886年6月、千葉県安房郡、現在の千倉町。本名は、早川金太郎。幼い頃から厳格な父親に「おまえは海軍に入るのだ」といわれ、育ちました。そんな中、彼の運命を左右する事件が起きました。1904年、故郷、千倉町の海岸にアメリカ客船ダコタ丸が座礁したのです。ここで救助活動を手伝ったことでアメリカへの強烈な憧れが芽生えた雪洲は、父親をくどき落とし、必死に英語を勉強。そして1909年、23歳になった雪洲は単身アメリカへと渡ったのです。ここでまた彼の運命を大きく変える出来事が…。後に妻となる、青木鶴子との出会いです。鶴子は、あのオッペケペ節で有名な川上音二郎の姪で、ハリウッド初の日本人女優として既に名声を得ていました。そんな鶴子の目に止まったのが、エキストラとしてハリウッドに出入りしていた雪洲でした。彼女は雪洲を大物プロデューサー、トーマス・インスに紹介しました。するとインスは、雪洲にただならぬ才能を感じ、なんと長年暖めていた企画「タイフーン」の主演に彼を起用することにしたのです。思いもよらない大抜擢…。しかし、雪洲はここで大博打に打って出ます。大物プロデューサー・インスに対して、大胆な出演条件を突きつけたのです。その内容とは「契約期間は3ヶ月、自動車の送迎つき、そして週給500ドルだ」。名のあるスターでも週給200ドルだった時代に法外ともいえる要求を突きつけたのです。しかし、インスはこの条件を承諾しました。こうして、無名のニッポン人俳優、早川雪洲は一夜にしてハリウッドの主演男優となったのです。
「タイフーン」公開時、雪洲は28歳。雪洲が、パリを舞台に殺人を犯し良心の呵責に耐え切れず苦しむ日本人スパイを見事に演じきったこの映画は、公開と同時に大ヒットを記録。瞬く間にセッシュウ・ハヤカワの名前は全米へと広まり、以後、グレート・セッシュウ伝説を築いていくこととなるのです。

「タイフーン」の撮影中に鶴子と結婚した雪洲は、その翌年、大手映画会社「パラマウント」に引き抜かれ、ギャラも倍の週給1000ドルに。当時の大スターチャップリンのギャラが1250ドルであったことを考えても異例の待遇です。その後、次々と主演映画を世に送り出し、波に乗る雪洲はある男との出会いで再び大きな脚光を浴びます。その男とは…セシル・B・デミル監督。チャールトン・ヘストン主演の名作「十戒」を手がけた、ハリウッドの巨匠の映画で主演を努め、なんと雪洲はキング・オブ・ハリウッドとまで言われるようになるのです。その映画が、「ザ・チート」。雪洲が演じたのは、借金をカタに女性を自分のものにしようと企む残忍な日本人美術家役でした。この映画は500万ドルの興行収入をあげ、それまでのパラマウントの業績を塗り替える、空前のヒットとなったのです。そのヒットを支えたのは、雪洲に魅せられた全米の女性たち。悪魔のような美しさで、男性が持つ潜在的な怖さを見事に表現した雪洲に全米の女性達は言い知れぬ魅力を感じたのです。
正解は、「スクリーンの雪洲に見つめられて、恥ずかしい格好でいるのは耐えられないから」。
とある試写会では、颯爽と高級車でやって来たセッシュウが車を降りようとしたとき、その足元には水溜りが…。
そのことに気付いたひとりの女性ファンが、なんと、自分の着ていたミンクのコートを水溜りに投げ出し、雪洲の靴がぬれないよう、その上を歩かせたというエピソードも残っています。
1918年、雪洲は独立プロダクション「ハリアス・ピクチャーズ」を設立。彼の勢いは留まることを知らず、ギャラは週給1万ドル以上、年収40億円をも稼ぎ出す、ハリウッドでも1、2の出世頭となりました。しかし、そんな絶頂期の雪洲を襲ったのが日米関係の悪化。当時、不況の真っ只中にあったアメリカでは、勤勉な日系人に職を奪われるという危機感から日本人に対する風当たりが強まっていたのです。それは、大スター雪洲に対しても例外ではありませんでした。ある時、撮影中の雪洲めがけてセットの壁が倒れ、危うく下敷きになりかける事件が起こります。これは日本人を嫌うアメリカ人スタッフが仕掛けた嫌がらせでした。雪洲は無事、難を逃れたのですが、こうした事件が度重なり、1922年彼はついにアメリカを去ることとなるのです。その後、日本、そしてヨーロッパでも活躍を続けるが、、日本とアメリカは太平洋戦争へと突入。アメリカにとって日本は敵国。ハリウッドでも雪洲の名が上ることはなくなりました。
しかし、終戦まもない、1948年、当時フランスにいた雪洲のもとに一通の電報が届きます。差出人は、ハンフリー・ボガード。当時のハリウッドを代表する名優であり、雪洲に憧れ、銀幕の世界に飛び込んだ人物でした。彼からの電報には一言「どうしてもあなたと共演したい映画がある」。そう書かれてありました。実はハンフリー・ボガードは、当時、行方知らずとなっていた雪洲を探すために、なんとアメリカ軍まで巻き込み、その捜索に当たっていたのです。再びアメリカへと渡ることとなった雪洲は、この時62歳。そして、出演した映画が「東京ジョー」でした。この作品で劇的な復活を果たした雪洲の元に超大作のオファーが舞い込みます。その作品こそ、雪洲にとって生涯の代表作となり、映画史に輝く名作「戦場にかける橋」でした。アカデミーを総ナメにしたこの作品は、デイビッド・リーン監督が「斎藤大佐役には雪洲しかいない」と、すでに70歳になっていた雪洲を口説き落としたのです。この作品で雪洲は日本人男優として初となるゴールデングローブ賞助演男優賞を受賞、アカデミー賞でも助演男優賞にノミネートされたのです。ちなみに、この作品で主演を努めたウィリアム・ホールデンは、雪洲がハリウッドに住んでいた頃、彼の城に新聞を配達していた少年でした。その彼に、「俳優をやってみないか」と声をかけたのが、雪洲だったのです。その後、日本に戻り、余生を送った雪洲。その最期は、栄光に彩られた人生に似つかわしくないほど静かなものでした。享年87。今は東京・世田谷の松蔭神社に妻・鶴子と共に眠る早川雪洲。彼は生前、自らの俳優人生を振り返り、こんな一言を残しています。「私は役を演じたのではない。スターを演じたのだ」と…。
早川雪洲の本名は早川金太郎。
「早川雪洲」という芸名はどうやって付けられたのか。これは彼が崇拝していた西郷隆盛の別名「南洲」にちなみ、自らを「北洲」と名乗っていました。しかし、同じ名前の俳優がいることが判明。ということで、北には雪が降るという理由で「雪洲」に変名。ちなみに彼は雪洲のことは知らなかったそうである。
幼い頃から海軍大将に憧れ、海軍予備校(現在の海城高校)を卒業するものの。身体検査で不合格に。それは耳に炎症を起こしていたから。千葉の地元で素もぐりをしたことが原因だといわれています。ゆめだった海軍兵学校への入学直前のことでした。
このコーナーで早川雪洲が1957年、ゴールデンクラブ賞で最優秀助演男優賞を受賞したとの記述がありましたが、 ノミネートの誤りでした。おわびして訂正いたします
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