2006年8月6日放送

ザ・スクープスペシャル 
  

<特集1>幻の原爆開発計画 〜若き科学者たちの知られざる戦い〜

国会図書館にあるGHQ文書にはこう書かれている。
「日本に原爆開発計画はなかった。」(45年9月ファーマン少佐報告書)
一方、アメリカの国立公文書館には驚くべき機密文書が保管されている。
「日本は終戦3日前、原爆を完成しその実験に成功した。」
                     (46年スネル・リポート)
一体、何が「真実」なのか?
原爆開発の極秘プロジェクト「ニ号研究」に動員された研究員は
わずか20人余。延べ45万人を動員したアメリカのマンハッタン計画とは
あまりにも規模が違いすぎ、それは非現実的な夢物語だった。
しかし、戦争末期の過酷な状況の中、“栄光なき科学者たち”の報われることのない、
しかし、懸命な挑戦は続いた。

東京や大阪、尼崎でウラン濃縮装置を死守しようとした人々…
福島県の山村で粗末なスコップ1つでウラン鉱石を掘り続けた人々…
旧制山形高校の理科室で原爆の原料を合成し続けた人々…
日本の科学史上、“タブー視”され本格的な研究がほとんどなされなかった
「幻の原爆開発計画」の全貌とは?
当事者の証言や埋もれた資料を丹念に発掘し、その驚くべき実態に迫る。


<特集2>許されざるメス〜九州大学生体解剖事件〜


原爆開発だけが形勢逆転の一縷の望みとなった太平洋戦争末期、
九州大学医学部に“実験材料”が届いた。目隠しされた人々の正体は、
B29で空襲しようとして撃墜され、捕虜となったアメリカ兵だった。
片肺を取り除いても人間は生きていられるのか?
血管に海水を注入するとどうなるのか?
医学部教授による人体実験は4回にわたって行われ、犠牲者は8人に上った。

一体なぜ、どういう思いで医者たちは“悪魔の実験”に突き進んでいったのか?
この事実は、終戦後、GHQによる横浜軍事裁判によって明らかとなり、
公判記録を元に遠藤周作が小説「海と毒薬」を発表した。
しかし、当事者たちは堅く口を閉ざしたまま全員が他界してしまった。
最後の目撃者、福岡で開業医を営む東野利夫氏を除いて…。

当時、九州大学医学部に入学したばかりで、訳も分からず解剖学教室の助手を務めて
いた18歳の少年が目撃した真実とは?
あれから61年、今年79歳になった東野氏の世界初証言をはじめ、
米国立公文書館に保存されていたGHQの裁判資料や遺族の証言などから、
恐るべき悲劇の全貌に迫る。


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