ディレクターズアイ


 ■制作後記

左:土江ディレクター 中央:木原ディレクター

ベトナム戦争で多くの被害者を生み出し、40年以上の年月がすぎてもなお人体へ影響を残している化学兵器「枯れ葉剤」が、当時沖縄に持ち込まれ、散布されていた事実が明らかになった。
当時の沖縄の米軍基地は、アメリカのベトナム戦争を後方で支える重要拠点であった。
沖縄を経由して兵員や物資がベトナムへ送られた。超距離爆撃機B-52が沖縄の嘉手納基地から飛び立ちベトナムの森や村や町を破壊して舞い戻る日々が続いた。まさに戦場と隣あわせの暮らしが、当時の沖縄では米軍基地を通じて日常化していた。
その沖縄に駐留していた米兵たちが、枯れ葉剤による後遺症に悩まされている。その数は100人を超え、アメリカ政府に対し補償を求めている。しかし、認定されたのは3人だけ。多くの元米兵はアメリカ政府から見捨てられたとの思いを抱きながら、余命いくばくもない生活を送っている。そんな元米兵たちを訪ねる取材が始まった。
会ってみると「話したかった」「墓場まで枯れ葉剤を持ち込みたくない」とわたしたちに長年心にしまっておいた思いを吐き出した。枯れ葉剤が入ったドラム缶が沖縄から秘密裏に持ち出されたのを目撃した、枯れ葉剤を散布した、浴びたと証言する元米兵たち。初めて聞く証言ばかりだった。彼らの言葉は痛ましい。彼らは枯れ葉剤の後遺症である前立腺ガンや糖尿病、皮膚病に苦しんでいた。子供や孫の世代にも影響が現れていた。「この苦しみはいつまで続くのか」と問いかけられて、取材するわたしたちは言葉を無くしてしまった。
ベトナム戦争で枯れ葉剤が投入された頃、沖縄の米軍基地周辺では小動物や野菜、海にも異変が起きていた。グズグズと崩れるサンゴ。黒くなった野菜。海水浴の小学生たちは火傷のような皮膚炎を発症した。8本足のカエル。沖縄本島北部の基地周辺の住民は50代以上の男性の生存率が極端に低く、ガンの発生率も高いと地元の人たちが語る。因果関係は明確ではない。しかし、奇妙だ。何かが起こっていた。
ベトナム戦争に整備士として送られた沖縄の男性を見つけた。ベトナムで体中に枯れ葉剤を浴びた兵士たちや沖縄で枯れ葉剤の入ったドラム缶を米兵が埋める現場を目撃していた。同様に韓国の米軍基地で1975年に650本もの枯れ葉剤が入ったドラム缶を埋めたという元兵士に話を聞いた。「アメリカは海外でやっかいなものを密かに埋めて知らん顔をしている」「命令に従っただけだったが、私がしたことは間違っていた」と自分の行為に後悔し、苦しみ続けていた。しかし補償を申請している元米兵の多くは怖れていた。軍からの恩給が切られるのではないか、軍の病院で診察してもらえなくなるのではないか。軍によって受けた傷と今、現実の軍の恐怖に怯えていた。
元米兵たちに共通するのは発症した病気だけではない。カルテや海外への出入国記録が行方不明になっている。枯れ葉剤の被害を証明するために退役軍人たちが準備しなければならないものの中に、カルテや沖縄や韓国に駐留していたことを証明する書類がある。しかしなぜか「行方不明」「存在しない」となっている。彼らはアメリカを出国して、どこにいたのか。どこからアメリカに帰国したのか。「枯れ葉剤に被曝した」と書かれたカルテはどこにいったのか、誰にもわからない。
ベトナムでは今も枯れ葉剤が滲みだし川の表面に油膜がぎらつき、障害を持った子供たちが生まれている。沖縄でも奇形のカエルや亀がいまだに見つかる。沖縄の土壌や人々の健康に影響はないのか。当時,枯れ葉剤は沖縄以外の日本の米軍基地に持ち込まれなかったのか。「枯れ葉剤」は過去のものではない。米兵士だけの問題ではない。まだまだ検証しなければならない課題は多い。

ディレクター 土江真樹子


 ■制作後記 

ベトナム戦争が終わったのは1975年4月30日のことである。ファットジャーナリストの中村梧郎さんは、その翌年から枯れ葉作戦の影響をすべて記録し、今年で36年になる。中村さんは人生を通して枯れ葉作戦という、アメリカがベトナムで犯した「戦争犯罪」を地道に調べ上げ、その非道を伝えてきた。そして、アメリカがダイオキシンの毒性とその混入を知ったまま散布したという事実を明らかにしてきた。

“枯れ葉剤”や“枯れ葉作戦”は日本人にとって「どこかで起きた話」ではない。
戦後、日本でも2,4-Dや2,4,5-Tという「枯れ葉剤」と同じ成分が入った農薬が、普通の除草剤として市販され、農業用に使われていたからである。水田の草取り、山林の下生え処理、はてはゴルフ場の雑草取りにまで使われていたりしている。以前、中村さんと農薬として2,4-Dを使っていた、九州のある山林を取材した時に、山から流れ出た水を飲んでいた下流の村では異常な数のがん患者が発生していたことがわかった。
こうした農薬は、もともとアメリカが第二次大戦末期に化学兵器開発の過程で発見し、採りあげられた物質だった。そして、アメリカが化学兵器としての枯れ葉剤利用を最初に思いついたのも第二次大戦末期、そのターゲットはなんと日本だったのだ。今回の取材において、ワシントンにある連邦議会図書館でその計画書が見つかった。陸軍の機密文書には日本列島の地図に東京や大阪など6都市が散布予定地として塗りつぶされていた。もし原爆が落とされた後も戦争が続いていたら、日本で枯れ葉作戦は確実に行われていたのだ。しかし日本は降伏したため、枯れ葉作戦は温存され、ベトナム戦争を待って遂行されることとなった。
一方、兵器として産声をあげた2,4-Dや2,4,5-Tという薬品は、すぐれた農薬として市場に出ている。1944年には「ウィ―ドン」の商標名で登録され、日本での生産も各企業の手で開始されたという。もちろんその毒性は内に秘めたままのことだった。

今回の番組では、「枯れ葉剤」がベトナム戦争の最中、沖縄に持ち込まれ、そして、沖縄でも使用されていた疑惑が浮上し、その謎を追って沖縄、アメリカ、ベトナムを取材した。中村梧郎さんが「沖縄の枯れ葉剤」を初めて取材したのが1978年、それから34年間、彼はこの企画を温め続けてきた。そして今回やっと、枯れ葉剤という化学兵器を投機していた事実の一端が明らかになった。アメリカが犯してきた戦争犯罪の全体像を明らかにする上でも、これからも取材を続けていかなければいけない。

ディレクター 木原均


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