ディレクターズアイ


 ■制作後記

“緑十字機による真の終戦に向けたラストミッション”
現在までほとんど語り継がれてこなかったこの秘話を、今回番組として放送することができた。きっかけは、番組の最後に登場して頂いた磐田在住の郷土史家・岡部英一氏から昨夏、当番組に「緑十字機の記録」という自費出版の著書を送って頂いたことに始まる。日本を終戦へと導いた重要な出来事だったが、私もほとんど知らなかった。
そこから、およそ1年間、関連資料や証言者をさがし、こつこつと取材を重ねてきた。今回登場して頂いたほとんどの方が、当事者でその証言は、非常に重要で説得力がある。
降伏軍使の横山少将の証言からは、進駐のスケジュールを決めるマニラ会談では、日米の緊迫した交渉が行われ、そのビリビリするような緊張感がはっきりと感じ取れた。
搭乗員だった駒井氏のインタビューや、須藤機長の手記からは、交渉を成功させ、終戦へと導くため、命を賭して緑十字機に乗り込んだのだとわかった。その覚悟は私にはとても想像しきれなかった。
 また、厚木航空隊の反乱を指揮した小園司令は、隊員達からは今も尊敬されていた。息子さんから伺った話によれば、小園司令は戦争末期、海軍上層部から特攻隊の命令を受けていたが、自分の部下からは一切出さなかったという。
今回取材して改めて、歴史に残っている出来事は、あくまで一面であり、その裏側にはまだまだ知らない事実がたくさんあるとつくづく感じた。自分も報道という現場にいる以上、今後もいろんな事象を多角的に報じていきたい。

ディレクター 堀江 真平


 ■制作後記 

私が緑十字機の存在を初めて知ったのは今から5年前、浜松支局記者であった2011年だった。静岡県磐田市の遠州灘沖でシラス漁船が引く網にかかった金属製のタンクを市の教育委員会が緑十字機の増設燃料タンクと特定し報道発表したのだ。
提供資料には緑十字機の写真が添えられていた。まるでドイツ軍機のような十字の識別マークを付けた日本軍機などそれまで見たことはなかった。
終戦の夏、降伏軍使を乗せていたことなどが解説されていたが、資料だけではその裏に隠された7日間のスペクタクルなど知り得ようもなく、日々のニュース取材のひとつとしてその場は終わってしまっていた。
 しかし、緑十字機に関する様々な情報、史実を丹念に調べ上げていた人物との出会いが私の目に張り付いていた鱗を取り去ってくれた。
 地元郷土史家の岡部英一氏。岡部氏は緑十字機のタンク発見以前に、緑十字機が不時着した海岸で見つかった尾翼の一部が磐田市内で展示されていたのを見たことをきっかけに独自の調査を開始。地元の目撃者や搭乗員の遺族や関係者をくまなく訪問。聞き取りや手記の収集という苦労を重ね、それまでバラバラだった史実をジグソーパズルのように一つに組み上げていったのだ。
 そして、緑十字機とそれを取り巻く男たちが、ドイツや朝鮮のような国家分断の危機に立たされた日本を救い、9月2日の降伏調印に至ったという事実に行き着いた岡部氏は、是非世の中に知らせたいと終戦70年の去年、「緑十字機の記録」を自費出版した。私はその本を読んで緑十字機のミッションの壮大さに驚き感動し、去年8月、県内ローカルニュースの終戦企画として放送させていただいた。このたび、番組の一ディレクターとして再び参加させていただくことになったが、全てのスタートは岡部氏の熱意からであり、今回岡部氏の果たした功績は非常に大きいと感じている。
 また下調べの際、浜松市立図書館で見つけた小冊子の存在も大きかった。冊子著者の佐藤守氏は緑十字機の飛行責任者だった寺井義守海軍中佐の義理の息子。「佐藤氏は絶対に寺井氏から不時着当時の話を直接聞いている」と確信した。寺井氏と佐藤氏は同じ飛行機乗りであり、国防という観点からもミッションの重要性を理解できる立場であったからだ。
 都内の自宅で行ったインタビューで佐藤氏は、緊迫した当時の機内の様子を詳しく描写してくれた。そして、遭難した軍使一行が早く東京に帰りつけるようにと献身的な救援活動をした名も無き磐田の人々に対する感謝の言葉を、戦後の寺井氏が口にしていたと話してくれたとき、例えようもない感動を覚えたのだ。今回、番組で戦後日本の姿を形付けた終戦秘話を伝えることができた。それに微力ながら関わることができたことに大きな喜びを感じる。岡部氏や佐藤氏にはこの場を借りて改めて感謝申し上げたい。

静岡朝日テレビ 柚垣康平


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