若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>
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栗谷が「幸せな朝」を迎えても勢いの衰えない強運コンビ・カカロニの次なる展開とは?|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#36
カカロニのふたりは、なぜか、朗らかとしている。そして、自信に満ちている。撮影中の佇まいを見てそう思った。 彼らがまとう、余裕のオーラ。その秘密を知りたくなった。 芸人の初舞台について聞くインタビュー連載「First Stage」。今回はカカロニのふたりに、テレビでの初舞台や、ブレイクの舞台裏を話してもらった。そこで見えてきたのは、チャンスをものにするための徹底的な準備と、幸運を信じる前向きな姿勢だった。 【こちらの記事も】 人気コンビ・カカロニの半年遅れのファーストステージと、波乱のセカンドステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#36 目次「グレープカンパニーは各々なんです」コロナ禍のサッカーテレビに出た時期がたまたまよかった僕らは幸運である 「グレープカンパニーは各々なんです」 左から:栗谷、すがや ──2016年に結成したカカロニは、その後すぐに人力舎を退所してフリーになった。 すがや そうですね。1年間くらいですけどラスタ原宿を中心に、寄席にけっこう出てました。よかったのは、あの時期に栗谷さんが「カッコつけるキャラやってるけど、俺、本当はこういうこと思ってないんだよね」って言い出したことで。 ──どういうことですか。 すがや 「俺は落とし方とかは考えるけど、実践はできないんだよ。勇気がないから」って言われたんです。 栗谷 「そういう俺の性格で、漫才をやったほうがいいんじゃないか」って提案しました。それでナルシストにネガティブな要素を入れたらウケたんです。あと俺と組む前のすがやはずっとボケをやっててツッコミに慣れてなかった。だから俺がまっすぐナルシストすぎると全力でツッコまなきゃいけなくて、しんどかったんです。でもそれもネガティブ要素を入れれば、俺で落とせるようになる。 ──コンビの課題を一気に解消する提案だったと。その後どうやってグレープカンパニーに入るんですか。 栗谷 2016年の『M-1(グランプリ)』決勝で、「カミナリさんおもしれぇ!」ってなって、グレープカンパニーを知って。そこからサンドウィッチマンさんいる事務所じゃん、ここ行きたいってなって、メールを送りましたね。 すがや それまでは浅井企画のオーディションを受けてたんですけど、グレープにメールを送ってから数カ月後に「今ならオーディションできます」って返信があったので、浅井にはお断りを入れて。それでわりかしすぐ所属させてもらいましたね。 ──そもそも2016年のグレープカンパニーは、芸人ですらピンとこない事務所だったんですね。 すがや そうですね、カミナリさんもライブシーンで会うことってなくて、いきなり出てきた感じで。サンドさんも売れすぎてもはや事務所名で把握してなかったですし、永野さんもすでに入ってたんですけど事務所は意識してなかった。あ……でも(お見送り芸人)しんいちさんがいたから、グレープの名前は知ってたんだ。 ──2016年のしんいちさんとは知り合ってた? すがや しんいちさんとバイト先が一緒だったんですよ。まぁでも今の歌ネタをやる前のしんいちさんの事務所に行こうとはなかなか……(苦笑)。 栗谷 それまで腐っても人力舎とワタナベにいたんで、無名すぎる事務所はっていうのもありましたよね。今でこそ(東京)ホテイソン、ティモンディ、ランジャタイ、わらふぢ(なるお)さんとかいるけど、当時はサンドさん以外、誰もいなかったから。 ──その面々で一致団結してグレープカンパニーもここまで大きく……。 すがや 力を合わせた記憶はまったくない(笑)。 栗谷 各々がんばってた。グレープカンパニーって各々なんですよ。 コロナ禍のサッカー ──実際所属してどうでしたか。 すがや 「なんていい事務所なんだ!」って思いました。グレープの芸人がちょっと不満に思ってることも、いや、ワタナベと人力舎に比べたらだいぶ恵まれてる(笑)。めちゃめちゃオーディション多いですし。 栗谷 コロナ以降はYouTubeでネタが見られるようになったんで、オーディション自体減ってるんですけど、コロナ前はオーディションだけで忙しい時期とかあって。テレビにはまったく出てないし金も稼げてないのに、オーディションのはしごでした。月20日オーディション入ってた。 すがや 養成所の生徒向けに、オーディションでのハマり方で授業できるくらい必勝トークルートができ上がってました。 栗谷 こいつがここで暴露して俺がブチギレるとか。それで『ゴッドタン』の「この若手知ってんのか!?(2020)」もうまくいったんで。 ──オーディション地獄があったからこその成功だった。 すがや 俺らの感覚からすると地獄でもなかったんですよ。前の事務所ではチャンスすらもらえなかったから。 栗谷 売れてる感覚すらあったよな。売れてない芸人はテレビ局なんか行けないじゃないですか。でも今くらい行ってた(笑)。 すがや オーディションも二次、三次まであったし。 栗谷 夢に向かってがんばってる感じがあったよね。あれは青春だった。 すがや やっと軌道に乗ってきた手応えもあったし。テレビに出るまでではないけど、スタッフには気に入ってもらえて最終まで残るんですよ。だから一個番組に出たら、ほかのところも急に使ってくれるようになって。 ──おもしろいと思っても実績がないなかなかとキャスティングしづらい。そんなときにひとつハネると一気に連鎖する。それにしてもふたりになってからはわりとトントン拍子ですけど、うまくいかない時期はありましたか? 栗谷 コロナ禍ですね。なんにもなくなったじゃないですか。テレビに出てる人すら仕事がなくなって、再放送が流れてるみたいな。それだったらテレビにまだ出てない人はもう無理じゃんって。ずっと家にいてけっこう病んじゃって、とりあえず解散しようって思いました。 すがや それは初めて聞いたな(笑)。なんで解散の話しなかったんだろう。 栗谷 コロナ禍に事務所で久しぶりにネタ見せやりましょうってなって、すがやと前日にネタ合わせしたんですよ。そしたらこいつがサッカーボールを持ってきて、急にパスし始めて。 すがや ちょっと蹴ろうよって。 栗谷 それが楽しくて。で、じゃあちょっと……またがんばるかって(笑)。 すがや はははは(笑)。僕は僕で、家にこもっててしんどかったんで、ボール蹴りたかったんですよ。ネタ合わせよりも、一回リフレッシュしたかった。 栗谷 久々に外で笑ったな、笑顔になったなって思って、やっぱ悪くないなって。その直後に『ゴッドタン』に出られたんで解散しなくてよかった。 テレビに出た時期がたまたまよかった ──カカロニがテレビに現れたのは、コロナ禍だったんですね。 栗谷 コロナ禍に出られたのはラッキーでした。僕らふたりともひな壇に座って「ちょっとちょっとー!」って前に出られるタイプじゃないから。 ──たしかにテレビ収録も演者同士距離を取らなきゃいけないから、人数も限られてましたもんね。 栗谷 出演者が減ったぶん、1組を深掘りするようになった時期だったんで、ありがたかったです。僕は自分から行ける芸風じゃないんで。『ウチのガヤが(すみません!)』とか昔は30人とか出てたじゃないですか。それが5組くらいになったら、1組10分くらいプレゼンできるようになって。そこで掘ってもらって初めて僕はキャラを出せる。それでコロナが終わったら先輩にも知ってもらえてるから、『アメトーーク!』に出てもイジってもらえて。 ──ちなみにテレビの初舞台は『ゴッドタン』ですか? 栗谷 コンビでは『有ジェネ(有田ジェネレーション)』ですね。あれは2018年か。 ──ふたりが最も敬愛するくりぃむしちゅー有田(哲平)さんの番組。 栗谷 めっちゃ緊張しました。 すがや 大部屋の楽屋だったな。 栗谷 いろんな人にあいさつして、この人は返事しねぇんだなとか思ってましたね。 すがや 『有ジェネ』はみんなレギュラー外されたくなくてバチバチだったからね(笑)。 栗谷 今はみんな優しいですけど、当時はめっちゃ怖かった。 ──ネタの手応えはどうでしたか? 栗谷 あんまりよくなかったですね。ちょうどオーディションに呼ばれまくってた時期なんで、ネタをこねくり回してたんですよ。同じ番組に同じネタは持っていけないので毎回、進化版を出さなきゃいけなくて。 ──進化版なら、よりおもしろくなる気がするんですけど……。 栗谷 いや、スタッフさんに向けた進化版なんで、ちょっとわかりづらくなってるんですよ。初見の人にはもっとわかりやすいのを出したい。なので、これ伝わりづらいだろうなって思いながら本番やってました。 ──憧れの有田さんとの初対面はどうでした? すがや ずっと『オールナイトニッポン』を聴いてたから、有田さんがグイグイ来られてもあんま喜ばないのもなんとなく知ってて、ざっとあいさつしました。でもその時期、有田さんの番組の前説もちょこちょこあって、顔合わせる機会があったんです。僕たちがドッキリをかけられてる映像を有田さんが見てたこともあって、勝手に縁を感じてました。 栗谷 僕は今も『(全力!)脱力タイムズ』にカリスマ3(ぱーてぃーちゃん・すがちゃん最高No.1、リンダカラー∞・Denとのユニット)で、2週に1回お会いしてますから。 すがや 僕も半年に1回くらい『くりぃむナンタラ』に呼んでもらってますし、前編でも言いましたけど、有田さんとプライベートでゲーム大会してるんで夢のようです。 僕らは幸運である ──カカロニ、順風満帆ですね。 栗谷 もちろん不安はありますけど、そうですね。 すがや 僕らは幸運であるということは、もう知ってるので。 栗谷 不安はありつつも大丈夫かもっていう自信はありますね。事務所もちゃんと仕事入れてくれるし、バラエティの現場でも誰かが僕のことなんとかしてくれますし(笑)。去年まではずっと不安で、今年になってようやく楽しいです。 すがや 僕はわりとずっと楽しいですけどね。 栗谷 いや、もちろん楽しいは楽しいですけど……前は「この『アメトーーク!』ハネないと次はない……」って思って緊張してたんです。今はなんとかしてもらえる状況ができたので。 ──栗谷さんは2024年末に恋人ができたことを発表して、公私ともに順調ですもんね。 栗谷 2年前まで女性とまともにしゃべれなかったのに、番組でマッチングアプリをやったのをきっかけにここまで来られましたね。 ──どうやって苦手意識を克服したんですか。 栗谷 マッチングしたら1回は必ずランチするって決めて、60人ぐらいの女性と会ってたらだんだん楽しくなってきました。でも、なかなかモテないキャラという芸風があったんで、彼女作ったら仕事なくなるかもっていう不安はあって。いいなって思う子がいても、仕事を失ってまで付き合えないやって。 ──今の恋人は、その不安も払拭するほどの出会いだったんですね。 栗谷 そうですね。去年の夏に出会ったんですけど、めちゃくちゃ楽しくて。どうやらこれ彼女できても仕事なくならないっぽいぞって秋くらいに確信して、11月に付き合って。 ──どういう方なんですか。 栗谷 2歳年上で、僕が失敗してもなんでも笑って楽しくしてくれる。全部受け止めてくれる優しい人ですね。こんな幸せでいいんかって思います。結局仕事も減らず、なんなら増えてるぐらいですし。 すがや 大変なのは漫才だけですね(笑)。前編でも言いましたけど、栗谷さんに彼女ができて、今までの漫才ネタは全部使えなくなったんで。 栗谷 でもそこもラッキーで、俺が童貞卒業したと同時に、今度はこいつのポンコツがバレ始めた。今までポンコツの部分は隠してくれてたんですよ。 すがや 栗谷さんのキャラを見せたいのに、僕が目立つとブレるんで。 栗谷 いやぁ隠しきって、今このタイミングでバレるって本当に俺たちは運がいいです。だからこの先も大丈夫じゃないですかね。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 カカロニ 栗谷(くりたに、1989年9月5日、神奈川県出身)と、すがや(1991年3月5日、東京都出身)のコンビ。2016年に結成し、2017年にグレープカンパニーに所属する。2020年には『ゴッドタン』の企画「この若手知ってんのか!? 2020」の“今の時代に売れそうな新世代芸人”部門で2位に入り、ブレイク。栗谷は、すがちゃん最高No.1(ぱーてぃーちゃん)とDen(リンダカラー∞)とのユニット「カリスマスリー」でも活動する。サッカー好きで知られるすがやは、2018年のサッカーW杯「日本対セネガル戦」をゴールネット裏で観戦している際、セネガル選手のシュートをヘディングした映像が話題になった。 【後編アザーカット】
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人気コンビ・カカロニの半年遅れのファーストステージと、波乱のセカンドステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#36
ナルシストキャラなのに、繰り出すセリフはネガティブ。カカロニ栗谷の「ネガティブナルシスト」はひとつの発明だった。コロナ禍に現れた新種は、あっという間にお笑いファンのハートをつかんだ。 学生時代はともにサッカーに励みながら、くりぃむしちゅーに憧れたカカロニ。彼らがコンビを組み、初舞台を踏むに至るヒストリーを紐解くと、鼻っ柱の強い栗谷の、漢気が見えてきた。 若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage> 注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。 目次栗谷は小6まではイケメンで“俺様キャラ”だったすがやは、くりぃむしちゅーと友達だった担任に背中を押されて芸人の道へ……栗谷、不遇の養成所時代キレる栗谷、人力舎も速攻で辞める 栗谷は小6まではイケメンで“俺様キャラ”だった 左から:栗谷、すがや ──「ネガティブナルシスト」で知られる栗谷さんですが、2024年末に初めての恋人ができたことを所属事務所のホームページでお知らせして話題になりましたね。 弊社所属タレント カカロニ栗谷からのお知らせ 栗谷 「幸せな朝」を迎えさせていただきました。 すがや でも、それでカカロニの持ちネタは全部成立しなくなったんです(笑)。これまではナルシスト×ネガティブな童貞キャラだったんですけど、お客さんも「彼女いるじゃん」っていうのがよぎる台本になっちゃったので。 栗谷 だから作り直してるところです。前は僕がボケで、すがやがツッコミでしたけど、それも入れ替えて。 ──栗谷さんの「幸せな朝」は、カカロニというコンビを抜本的に変える出来事だったと。それなら事務所ホームページで知らせるのも納得です(笑)。でもなぜ女性と縁がなかったんですか。 栗谷 僕はずっと一軍だったんですよ。小中高、体育祭のリレーはずっとアンカーでしたし。小学6年生まではけっこうイケメンで、わがままな俺様キャラで。でもそのころ、鼻の骨が1本足りないことがわかって顔の手術をしたら、顔が変わっちゃってブサイクになっちゃって。それで女子に無視されるようになったんです。女子に嫌われたら、男友達からも距離取られるようになっちゃって。 ──それはつらい……。 栗谷 でも俺も学校の友達をちょっと下に見てたんですよ。サッカーのクラブチームに入ってたんで、学校のヤツらとはつるまない、みたいな。なので運動神経はいいんだけど、「何してるかわからないヤツ」みたいな扱いになってたのが中学時代ですね。 ──高校は? 栗谷 僕が通ってた厚木北高校って、中学でクラブチームに行ってた子が集まる学校だったんですよ。だから最初から友達がいっぱいいたし、先輩も俺のこと知ってくれてたんで、人間関係を作る必要がなかった。入学早々、3年生の教室呼ばれて「みんなの前でなんかやれ」みたいな。 ──イジられキャラだった? 栗谷 いや、普段はイジるほうが多かったですよ。 すがや たしかに栗谷さんの気質はイジる側ですね(笑)。 栗谷 当時は狩野英孝さんが出てきたり、出川(哲朗)さんが再ブレイクしたりして、イジられる側もすごいっていう風潮がもうあったんですよ。バナナマンの日村(勇紀)さんもブサイクイジりされておもしろかったし。「イジるほうが上/イジられるほうは下」っていう意識はなかったですね。 ──学生のときからお笑いは好きだったんですか。 栗谷 そうですね、中学のときには芸人になりたいなと思ってました。サッカーやってるせいで、夜は早く寝なさいっていう家庭だったんで、親の目を盗んでバラエティ番組観てましたね。『ワンナイ(R&R)』、『内P(内村プロデュース)』、『(くりぃむしちゅーの)たりらリラ〜ン』(のちに『くりぃむしちゅーのたりらリでイキます!!』に改名)、『くりぃむナントカ』……。くりぃむしちゅーさんは特に好きでした。 すがやは、くりぃむしちゅーと友達だった すがや 僕もくりぃむさん、大好きでした。テレビもそうですけど、やっぱり『(くりぃむしちゅーの)オールナイトニッポン』ですね。中3の夏に始まってハマって、それきっかけでTBSラジオの『JUNK』も聴くようになって、お笑いにずっぽり。僕もずっとサッカーやってたんですけど、高3の冬にくりぃむさんのANNが終わるってなって、「よし、芸人になろう」と思いました。 ──かなり飛躍があるように感じるんですけど(笑)。 すがや ラジオを聴きすぎて、くりぃむさんと友達になったような錯覚を起こしてたんです(笑)。なんなら友達としゃべってる時間より、ラジオを聴く時間のほうが長かった。ラジオが終わって、この人たちに会えなくなるのはイヤだから、芸人になれば会えるぞってことです。 ──なるほど(笑)。実際に共演の機会もありますか。 すがや 番組でもたまにご一緒させてもらいますし、今は有田(哲平)さんとプライベートでゲーム大会とかして遊んだりしてます。 ──本当に友達になった……! すがや 友達っていうと恐れ多いですけど(苦笑)。でも夢のようです。リスナーだった当時の自分に教えてあげたい。 ──高3で芸人になろうと思って、すぐ養成所に行ったんですか? すがや いや、くりぃむさんのANNが終わったのが高3の冬で、いきなり「受験辞める」って親に言い出せなかったんで、大学には行くことにしました。バイトでお金貯めて、3年生のときに養成所入って。その1年で無理そうだったら就活しようって。なんだかんだ逃げの手は残しておいて(笑)。それで最初はワタナベコメディスクールに行きましたね。 ──養成所はどうでした。 すがや 200組くらいいたんですけど、ハガキ職人をやってたおかげで、最初は上のクラスに行けましたね。相方が「俺は島田紳助になる」ってトガり散らかしてるのに、「ネタはお前が書いてくれ」っていう変な子で。 栗谷 ネタ書かない島田紳助さんはあり得ないって。 すがや 最初のライブでは、舞台裏で女芸人に「全然目見て話してくれないじゃん」ってイジられてふてくされて、ネタ合わせしてくれなくて(笑)。たぶん、栗谷さんと同じで女性が苦手な人だった。でも、そこをネタ書かない上に、女子に免疫がないことをイジられてふてくされちゃう人とは、コンビ続けられないなって思いましたね。そのあとは今、モンローズっていうコンビをやってる宮本(勇気)と、ベアードノーズっていうコンビを組んで卒業しました。 ──ベアードノーズは何年くらい活動したんですか。 すがや 4年くらいですね。見た目はちょっとシュッとしてたから、それなりに笑ってもらえたんですけど、テレビのオーディションでは手応えがまったくなくて解散しました。仲悪いとかではなかったんですけどね。そのあと栗谷さんと組みました。 担任に背中を押されて芸人の道へ…… ──おふたりが合流する前に、栗谷さんの経歴を聞かせてください。 栗谷 高校卒業したらNSCに入ろうと思ってたんですけど、なかなか言い出せないうちに大学も指定校で決まっちゃって。 すがや スポーツ科だったから内申点が取りやすかったんですよね。 栗谷 そうそう。でも担任の先生だけには「お笑いやりたい」って言ってて。その先生は『(痛快なりゆき番組)風雲!たけし城』に出たことがあって、たけし軍団にもスカウトされたらしくて。 ──そんな先生が身近なところに。 栗谷 すごくおもしろい先生でした。それで「栗ちゃん、お笑いやりたいんじゃないの? がんばりなよ」って背中を押してくれて、三者面談でも「お父さん、悟史くんはお笑いやりたいんですよ」って言ってくれて。父親が「いや、お笑いなんて……」って言っても「一回やらせてあげてください」って説得してくれて。結局、推薦が決まってた大学にも、校長先生と一緒に謝りに行ってくれて、それで1年間お金貯めて、NSCに行きました。 ──NSCはどうでした? 栗谷 1週間で辞めました。 すがや 先生があそこまでしてくれたのに(笑)。 栗谷 有吉(弘行)さんがブレイクしたときだったんで、自分もいけると勘違いして、同期に毒舌でバーッて言ってて。当然それがウケなくて、この状態でネタ見せして「つまんないヤツじゃん」って思われたらいよいよヤバいなと思ったら怖くて行けなくなっちゃいました。 ──担任の先生はそのこと知ってるんですか。 栗谷 いや、言えないです。あれ以来会えてないんで、一回謝りたいし、感謝も伝えたいですね。 ──ぜひそうしてください。その後、栗谷さんはどうするんですか。 栗谷 20歳になるんだし、やったことないことやってみようと思って、ヤンキーになってみました。近くのコンビニに小学校のとき仲よかったヤンキーの子たちがたまってたんで、「仲間に入れてくんない?」って。 ──歓迎してくれた? 栗谷 俺がおもしろいっていうのも伝わってたんで、普通に入れてくれましたね。ずっと駐車場でくっちゃべって、ダーツ行ったり、ボーリングしたり、ほかの人が車イジってるの見たりして。その間はお笑いは何もしてなかった。 ──いずれ芸人に戻る気はあったんですか。 栗谷 それはありましたね。でもヤンキーも楽しそうだった。で、ある程度遊んで満足したんで、工場で1年間働いて貯めたお金で(スクール)JCA(人力舎の養成所)に行きました。人力舎ってみんな仲がいいイメージがあるじゃないですか。おぎやはぎさん、アンタッチャブルさん、(東京)03さんの雰囲気ですよね。みなさん好きでしたし。 栗谷、不遇の養成所時代 ──じゃあ栗谷さんの芸人としての初舞台は、人力舎時代ですか。 栗谷 そうっすねぇ。でもその前にまたいろいろあって……。僕がJCAに入った年に、本来あった2クラスに加えて、「阿佐ヶ谷クラス」っていうのが新しくできたんです。そこに配属されたんですけど、授業初日に講師の方が「このクラスは実験クラスです。1年間何もしなかったらどうなるか見てみます」って言い出して。 すがや 60万円払ってるのに(笑)。 栗谷 最初はボケだろうなって思いましたけど、本当に誰も教えてくれなくて。で、夏に初めてのネタ見せがあったんですけど、当然誰もうまくいかなくて、講師が「このクラスはダメです。このままだったらライブやりません」って言い出して。 ──そんな理不尽な……。 栗谷 しかも、僕だけ呼び出されて「こいつらやる気ないから、お前が辞めさせろ。そうしないとライブやらせないよ」って。 すがや 栗谷さんが同期にリストラを告げたんですよね。 栗谷 うん、それで「ちゃんとやるならやる、やらないなら辞めてくれ」ってはっきり言って辞めてもらいました。で、ようやく9月に初ライブでしたね。そのネタはウケたんですよ。そのときの相方は、ソニーで2年くらいやってた経験者だったんでネタが作れて、みんなより完成度も高かった。「おやじ狩り」のネタでしたね。僕が親父役で「金出せよ」って言われるんだけど、変なものをどんどん出すモノボケみたいなネタで。 ──当時はコントだったんですね。 栗谷 人力舎だしコントかなって。でも当時はフリーライブに出ちゃいけないルールがあって、かといって事務所ライブも月1〜2回しかない。『キングオブコント』で結果を出さないとK-PROにも呼ばれないし、当時はネタ番組が軒並み終わって、お笑い氷河期みたいになってたんで。そんななかでも同期のトンツカタンとかは2年目で『おもしろ荘』に呼ばれてたから、オーディションにすら行けない俺らは絶対売れないってことで解散しました。 すがや その解散のタイミングが、僕の解散と同じ時期だったんで、組むことになったんですよ。 キレる栗谷、人力舎も速攻で辞める ──もともとふたりは知り合いだったんですか。 栗谷 いや、全然。共通の知り合いがいて、「ちょうど解散したヤツいるから会ってみれば」ってところからです。 すがや 新宿のベローチェで、ふたりっきりで会いましたね。 ──本当にお互いのこと何も知らない状態で。 すがや 最初、趣味の話したかな? どんな芸人が好きかとか、どんなネタやりたいのかとか。あと、ふたりともサッカーやってたっていうのは教えてもらってたので、その話。そういえば、組む前に一回、フットサル大会出たよね。 栗谷 優勝したんだよな。 すがや その景品でワールドカップ予選のチケットをもらったんだ。チームメイトがMVPになったんですけど、その人が気遣って「お前らで見てこいよ」って言ってくれたんです。 ──最初は友達みたいな感じでスタートした。でもふたりとも当時は人力舎とワタナベで他事務所だったんですよね? すがや まずは僕が人力舎に行くことになりました。ワタナベに栗谷さんが入るのは難しそうだけど、人力舎は行けそうな雰囲気があったから。 栗谷 それでいったん預かりになったんです。でもなかなかライブに出られなかったんですよ。当時あったじゃないですか、事務所移動したら半年間活動しちゃいけないっていう謎ルール。 すがや そんなところだけ若手芸人にも芸能界のルールが適用されるんだって(笑)。 栗谷 なので初舞台はコンビになってから半年後でしたね。 すがや 初舞台はわりとうまくいったんですよ。ナンパの成功数で競って、負けたほうが一枚ずつ服を脱いでく設定のコントで、栗谷さんが男前キャラのまんま、どんどん裸になっていく。 栗谷 あのネタがめっちゃウケた記憶がありますね。 すがや でもその次のライブで事務所を辞めましたけど。だから人力舎のライブは2回しか出てないんです。 ──何があったんですか。 すがや 出番直前に栗谷さんがマネージャーとケンカして辞めることになったんです。 栗谷 半年出してもらえなかったのに、ネタやる直前に「このネタおもしろくなかったら、もう来なくていいから」って言われたんですよ。それも舞台袖で。そのまま舞台出ていってウケたんですけど「辞めます!」って言って、それで終わり。 すがや 完全にふてくされた栗谷さんが、カツラ脱いで、去っていきましたね。 栗谷 あれに関してはこっちに完全に非はなかった。まぁもうその人はいないんですけど。「ピンだったら残っていいよ」みたいな、すがやに対してすごい失礼な感じだったんすよ。いや、お前らがすがや連れてきていいって言ったのに、そんな言い方ないだろって、すげぇムカついたんですよね。 すがや 止めてくれたマネージャーもいたんです。その人は「私が担当するんで」って泣きながら止めてくれて。だから俺は「面倒見てくれるって人もいるから残ってもいいんじゃないの」って言ったんだけど、栗谷さんは辞めるって聞かなくて。しかもそのとき栗谷さんが「栗谷だけピンで残るならいいよ」って言われてたことを、俺は知らなかったんです。 栗谷 別に隠してたつもりもないですけど。怒りがピークに達して感情的になったから説明してないだけです。 すがや 今でこそ感謝してますけど、当時は何も言ってくれないから「意地張って辞めなくてもいいのに」って思ってました。まぁあそこで辞めて、結果よかったんですけどね。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 カカロニ 栗谷(くりたに、1989年9月5日、神奈川県出身)と、すがや(1991年3月5日、東京都出身)のコンビ。2016年に結成し、2017年にグレープカンパニーに所属する。2020年には『ゴッドタン』の企画「この若手知ってんのか!? 2020」の“今の時代に売れそうな新世代芸人”部門で2位に入り、ブレイク。栗谷は、すがちゃん最高No.1(ぱーてぃーちゃん)とDen(リンダカラー∞)とのユニット「カリスマスリー」でも活動する。サッカー好きで知られるすがやは、2018年のサッカーW杯「日本対セネガル戦」をゴールネット裏で観戦している際、セネガル選手のシュートをヘディングした映像が話題になった。 【前編アザーカット】 【インタビュー後編】 栗谷が「幸せな朝」を迎えても勢いの衰えない強運コンビ・カカロニの次なる展開とは?|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#36
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賞レースでも活躍し、ブレイク間近と話題のコンビ・ひつじねいりが抱く焦燥と野望|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#35
細身の元慶應ボーイ・細田が並べ立てる屁理屈に、ふくよかな男・松村が濃厚な関西弁で熱くツッコむ。東と西の笑いが融合したしゃべくり漫才が魅力のコンビ・ひつじねいり。 前回の『M-1グランプリ』では惜しくも準決勝敗退。しかし確実に認知を広げ、活躍の場は広がっている。 はたから見ているとのぼり調子なひつじねいりだが、本人たちの自覚は違うようだ。死屍累々の芸人界でひと旗あげるべく、がむしゃらに戦う彼らの現在地を聞いた。 【こちらの記事も】 紆余曲折を経て主役の座が見えてきたコンビ・ひつじねいりの期待にあと押しされた初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#35 目次ひつじねいりには、何かが足りんライブシーンに居座ってしまったテレビで傭兵として爆死したい ひつじねいりには、何かが足りん 左から:松村祥維、細田祥平 ──ネタ作りはどうしてますか? 松村 細田が0→1を出して、台本を持ってくるんですけど、一言一句決まってるわけじゃないんで、僕が編集する感じです。前のコンビではネタ作りしてましたけど、僕はゼロからイチを生み出すのが苦手やなと思ったんで、このかたちになりましたね。 細田 最初のころは(松村が)遠慮じゃないけど気を遣って、台本をまんまやってくれてて。でもこれじゃM-1勝てんぞってなって、気になるとこを言ってくれるようになりましたね。 松村 組んで1年くらいは細田の発想にシンプルにツッコむみたいな感じで。それがちょっと戦うには弱いなってなってから、お互いの違いを乗せたかたちになってきた。 細田 あと今年になって、ラジオを通して外部の意見をくれる人を募りました。2年くらい前に、ふたりで詰めるやり方だと、天井このへんかなぁって。 松村 今、3人いますね。ひとりはガッツリお笑いの作家さんですけど、あとは別の畑の方です。ネタの種だけあるときに、「どういう拾い方がいいですかねぇ」って聞いたりして。 ──客観的な視点を入れているというのは意外です。どのネタもふたりの人柄(ニン)が立ってるので気づきませんでした。 松村 組むときの目標として、M-1で決勝行きたい、優勝したいっていうのがはっきりあったんで、そこに行けない間はずっとテコ入れは繰り返すでしょうね。 ──昨年のM-1では初めて準決勝に進出しました。着実にステップアップしてる印象があるんですが。 松村 やってることは間違ってはないんでしょうけど、決勝に届かないってことは単純なウケ以外の部分で、何かが足りんってことでしょう。だったら何かやらんとあかん。まぁ落ちても「なんでやねん!」とはならないですけど。 ──その足りない「何か」って、現状ではなんだと思いますか? 細田 ネタの切り口、設定のところがまだ弱いのかなと。今まではふたりの人間性と対照性を見せてきましたけど、それだけだとまだ足りない。 ──昨年末のM-1敗者復活戦は初めての舞台でしたが、いかがでしたか。 細田 勝つかもとは思ったんですけど、まぁ勝ったところで……とは思いましたね。 松村 決勝行ったとて、令和ロマンにボコボコにされてたから。 細田 たぶん損してたと思うんで、結果、勝ち上がれなくてよかったです(笑)。 ライブシーンに居座ってしまった ──近年マセキ芸能社では、おふたりより芸歴の長いモグライダーやハンジロウといった中堅や、同世代のきしたかのが活躍されています。やや遅咲きの面々を見ていて、自分たちもまだまだ間に合うぞって背中を押されるところはありませんか。 松村 いや、普通にめっちゃ焦りますよ。子供のころテレビで見てたスターは20代後半だったんで、僕らみたいに30代半ばでお金はギリギリ、テレビもちょっとしか出てないってヤバいなと思います。SMAにいたときにバイきんぐの小峠(英二)さんにお世話になってて、今もたまに飲ませてもらうんですけど、あの人が『キングオブコント』で優勝したのが、36歳のときなんです。 ──松村さんは今年37歳になるから、小峠さんがチャンピオンになったときを超えると……。 松村 そうなんですよ。当時のバイきんぐさんって、死ぬほど遅咲きで苦労人っていう扱われ方だったじゃないですか。それでも36歳やったっていうのがヤバくて。あんなに苦労人やって言われてた、つるっぱげのおじいちゃんが報われたのに、俺はまだ報われてない。 ──たしかにそう聞くと焦るのもわかります。 松村 それこそ前編でも話題になったストレッチーズって、2022年に『ツギクル(芸人グランプリ)』で優勝して、M-1も準決勝まで行ってるんすよ。俺らより前に「次はストレッチーズの時代や!」ってなってたんです。でも、ちょうど昨日(高木)貫太を飲みに誘ったら「行きてぇけど……金がない」って言うんですよ。 ──なんと……。 松村 僕もびっくりっすよ。さすがに「今日俺がおごったるわぁ。俺の金で飲め!」って言っちゃいましたね。自分らより先にガッと行きかけてたヤツらが金ないのは焦ります。 ──ちなみにマセキだと、どのあたりの芸人がバイトを辞めて芸人仕事だけで食べていけてるんですか。 松村 僕らとサスペンダーズがギリギリで食えてる。 細田 カナメ(ストーン)さんも食えてるはずだけど、借金が(笑)。 松村 吉本(興業)だけですよ、若手でもたくさん食えてるのは。僕らがガッと上行って、仲間をフックアップできる立場になれればいいですけどね。ライブシーンでいうと、僕らってもうだいぶおじさんなんでいい加減上がらないといけないんですけど、実は下もあんまり育ってないんですよ。次の若手があんまり出てきてないから、僕らが中心に居座ってしまってる。吉本はそのへんもうまく回ってるんですけどね。 細田 僕はライブシーンがどうこうっていうより、自分のことで精いっぱいですね。 松村 細田はこの世代の中で一番熟してないんですよ。この芸歴ではありえんパフォーマンス。コイツだけマジで大学生みたい。 細田 本当にそうなんですよ。僕はしゃべりもステージングも全然ダメで……。ここから僕らが勝ち上がるために必要なものを考えると、僕の足りてないところばっかりなんです。 松村 これは自分らのラジオでもしゃべってることなんすけど、細田は青臭いまんま、ここまで来てる。たぶんコイツはお笑いを頭の中でだけやってきたんやなって。でも今は本人が意識して成長しようとしてるぶん、まわりの先輩も「最近の細田、接しやすくなったな」って徐々に認められてきてますけど。 細田 年齢的にも芸歴的にも、かわいげを出すとかってやり方はギリギリアウトなんですけどね……。 松村 20代前半のヤツ育ててるみたいな気分ですよ(笑)。 ──松村さんは相方として、細田さんの青臭さに気づいてたはずですよね。なんでここまで放置したんですか? 松村 もちろん気づいてましたよ! でも自分でなんとかすると思ってたんです。なのに、いよいよなんともならんから! 組んで3〜4年目までは我慢してたんです。でもこれはいよいよあかんわって。僕らほんまにずっとジタバタしてますね。 テレビで傭兵として爆死したい ──今後はどんな活躍のビジョンを描いてますか? 細田 僕はずっとおもしろいことを言ってカッコいいと思われたいんです。だから学生気分でやんなって言われるんでしょうけど。 ──前編では「『火花』憧れはもうない」って言ってましたけど、まだ引きずってる……? 細田 そうかもしれないですね。僕は足りてないところを宿題としてまじめにやっていって、その先でおもしろいこと言いたい。 松村 細田はまだまだ自分磨きで必死なんですよ。自分がちゃんと磨けてないから、具体的に何になれるかまだわかってない(笑)。 細田 でも僕、めっちゃまじめなんで、一個一個がんばるのは性に合ってます。 松村 こっちは次の課題を毎回提示せなあかんので大変ですよ(笑)。「これできた! ハイ次これ!」ってずっとやってるんで。最近だと『大喜る人たち』でも「MCをやるんじゃなくて、お前もやる側に回れよ!」って。この見た目は絶対大喜利できると思われるんで。 まぁ僕だけでも先に売れればいいんですけどね。そしたら「コイツ、ヘンなヤツなんですよ」って紹介できるじゃないですか。そのために「プレイヤーとしていろんなことできますよ」ってことで、いろいろやってます。サツマカワ(RPG)さんと、ストレッチーズの貫太とやってる『トゥリオのKOC優勝への道』ってPodcastもやってるし、『こちら幡ヶ谷待機所』っていうYouTubeチャンネルをスタミナパン・トシダと、大仰天・田口とも組んでますし。 ──YouTubeやPodcastで活動の幅を広げている松村さんは、テレビよりネットのほうに活路を見出している? 松村 いや、本当はいっぱいテレビに出たいですよ。ウエストランドの井口(浩之)さんと仲いいんですけど、あの人みたいにレギュラー番組はあんまなくても、この人おったら全部おもろなるなって芸人になりたい。 あと、芸人のおもちゃになりたいですね。子供のころからずっとイジられてやってきたんで、そういうところを見せていきたい。きしたかのさんとかって、ネタが高野(正成)さんの説明書になってるじゃないですか。ああいうネタも必要やなって思います。そんで、食べたいもの食べられて、いくらでもおごれるくらい稼ぎたい。 ──テレビで活躍したいんですね。 松村 めちゃめちゃテレビ至上主義です。YouTubeは結局ナメちゃうっていうか。テレビってどんだけしんどいことになっても、結局、一番影響力がある。だから、そこで自分も戦っていきたいんですよ。ルールとかコンプラはどんどん厳しくなるんでしょうけど、その網目をくぐっていきたいですね。 どうせ僕らはテレビにフィットできない側の人間ですけど、若い子らはそのへんうまいことやるじゃないですか。その手前でがんじがらめになった僕は、わめき続けたい。最後まで「女がめっちゃ好きやねん!」って叫び続けたい。テレビでまだこんなん言ってるでって呆れられたい。 細田 僕らってさらば(青春の光)さんとかAマッソさんみたいに、自分らの国を作っていくタイプではなくて、もらった仕事を一個ずつこなしていく傭兵タイプだと思うんです。だからどんな仕事もスケジュールが空いてたら行きます。 松村 傭兵として戦いますよ。僕らはどうせ爆売れはしないんで。 ──今回はブレイク直前のひつじねいりさんの焦燥を聞けて、貴重なインタビューになった気がします。 松村 ブレイクできるかほんまにわからないですからね。このFirst Stageさんがストレッチーズを取材したのってちょうど『ツギクル』優勝して、M-1準決勝行ったタイミングですよね。そう考えると、僕らも踏ん張らなあかんと思いますよ。 ──テレビで活躍するふたりを見たいです。 松村 早くボロ雑巾になりたいです。 細田 もっと働きたいですね、働かせてください。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 ひつじねいり 細田祥平(ほそだ・しょうへい、1991年11月30日、埼玉県出身)と松村祥維(まつむら・よしつな、1988年7月2日、大阪府出身)のコンビ。2019年に結成し、2023年には『ツギクル芸人グランプリ』で準優勝する。『M-1グランプリ2024』では初めてセミファイナリストとなった。大喜利ライブ『大喜る人たち』のMCとして、お笑いファンの信頼も厚い。 【後編アザーカット】
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紆余曲折を経て主役の座が見えてきたコンビ・ひつじねいりの期待にあと押しされた初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#35
細身の元慶應ボーイ・細田が並べ立てる屁理屈に、ふくよかな男・松村が濃厚な関西弁で熱くツッコむ。東と西の笑いが融合したしゃべくり漫才が魅力のコンビ・ひつじねいり。 前回の『M-1グランプリ』では惜しくも準決勝敗退となったが、次の主役の座を虎視眈々と狙っている。 コンビ歴は7年目だが、実は今年、細田が34歳、松村が37歳と若手とは言い難い。紆余曲折を経たふたりは、どうして組んだのだろうか。ふたりのさまざまな初舞台を聞きながら、ひつじねいりの軌跡をたどる。 若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage> 注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。 目次細田の遅刻と、松村のモテテクニック突如の上京と運命にならずの出会い寂しさとエッチな問題で解散実はNSCに入りかけた 細田の遅刻と、松村のモテテクニック 左から:細田祥平、松村祥維 松村 すんません、細田がまだ来てなくて……。 ──よく遅刻されるんですか? 松村 いや、全然ないっすね。電話していいっすか……。出えへん。大丈夫かな。いったん先に僕だけ取材してもろても大丈夫ですか? ──もちろんです。では、ひつじねいりを組むまでの話を聞かせてください。大阪で生まれ育った松村さんにとって、お笑いはやはり身近でしたか。 松村 そうですね。逆に東京来るまではこれが当たり前やと思ってたんですけど、フル尺の漫才を20分番組とかでやってるんですよ。あと、『吉本新喜劇』。僕らが子供のころは土曜日は午前授業があったんで、学校終わったらすぐ帰って、お昼ごはん食べながらテレビで観てました。月曜は『新喜劇』(MBS)か『ごっつ(ダウンタウンのごっつええ感じ)』(フジテレビ)の話で盛り上がる。大阪ってほんまにおもしろいヤツがクラスの中心メンバーになるんですよ。足が速いとか顔がええとかより、おもしろいほうが偉い。 ──ちなみに松村さんは人気者だった? 松村 僕はもうほんまにずっと人気者でした! ──(笑)。 松村 いや、ほんまなんですよ。とにかくイジってもらえたんです。友達もそうですけど、先生もイジってくる。そこでうまく返そうっていうのは、小学生のときからやってましたね。 ──よく言われることですけど、ブラジルの少年たちが当たり前に路上でサッカーしてるみたいに大阪ではお笑いが日常なんですね。 松村 ほんまにそうでしたね。あと、女の子がめちゃめちゃ好きでモテたかったんです。顔はブサイクやから、笑いで勝負したろと。 ──その努力は実ったんですか。 松村 これが実ってるんですよ。変な話、初体験もまわりよりちょっと早いし。そういう人生だったぶん、モテない自虐をネタでやっても、ウソってバレる。 ──笑いでモテるってどういうことなんですか。 松村 小中学生のときはあんまわかってなかったんですけど、高校生ぐらいになると女子との会話の中で、ちょっとしたことにツッコんだり、イジったりすると、女子がめっちゃ笑ってくれるのに気づいて。それで女子との間(ま)の取り方がうまくなった気はします。大学に入ったら、心斎橋でめちゃめちゃナンパもしてて。見た目カッコいい友達はサクサク行くでしょう。でも僕は女子からしたら「なんでお前いかなあかんねん」って見た目やから、そこは戦死する覚悟で笑かしてました。 ──女性が笑ってくれる定番のフレーズとかあるんですか。 松村 いや、これを言ったらっていう鉄板の言葉はないんです。それこそ女子の前にスライディングしたこともありますよ。「うわ、セカンドベースやなかったんかい!」とか言うて。その瞬間のインスピレーションだけ。せやからむちゃくちゃ失敗も多かったですし。ただ、そういうところで鍛えられた根性が、芸人になった今も少なからず活きてるやろうなって思います。 ──まだ細田さん来ないのでもう少し「笑いとモテ」について聞きたいんですけど、笑わせてハートをつかんだあと、男性としての魅力はどうやって出すんですか。 松村 僕はこの見てくれなんで、やっぱ色気は出せなくて。なんで、笑わせたあとは「聞く力」ですね。最初は僕からめちゃくちゃしゃべって盛り上げてからは、ひたすら聞く。で、相手が投げてきたワードにちょっとだけおもしろを乗せて笑かすみたいな。(明石家)さんまさんみたいに「ほんで? ほんで?」じゃなくて、「そうなんやぁ」って相づちを打ちながらですね。でもこんな偉そうに言うてますけど、ほんまに打率は低いですよ、ピッチャーの生涯通算打率並です。圧倒的にミスが多い。数少ない成功で、自信を養ってきた感じですね。 突如の上京と運命にならずの出会い 松村 あっ! すんません、今、細田からLINE来ました。「忘れてた」って(苦笑)。ほんますんません。今から急いで来たら、30分くらいで着くと思うんで。あいつがどんな顔して入ってくるか、見てやりましょう。 ──事故に遭ったとかじゃなくて、本当によかったです。では、もう少し松村さんの話を聞かせてください。芸人になろうと思ったのはどのタイミングだったんですか。 松村 大学卒業する直前ですね。就活してて、サラリーマンになる予定やったんですけど、高校の同級生が急に「お笑いやらんの?」って言うてきて、それがキッカケですね。就活もなんとなくやってたんで、お笑いやってみてもええなと。イケイケのお姉ちゃんたちを振り向かすには、俺が有名になって「見たよ〜」ってLINEさせるしかないなって。 ──じゃあ最初は大阪で活動してたんですか。 松村 ここでややこしいのが、最初は静岡に行くんですよ。僕、留年してたから、誘ってきた同級生はもう社会人で。そいつが静岡に住んでたんです。親には内緒で「勤務地が東京になりました」って就職したフリして実家を出て、静岡の相方の社宅に住ませてもらいました。 ──松村さんの芸人としての初舞台は、その相方と? 松村 そうですね。大阪であった新人コンクールの予選会、そこに1回出ただけです。それも客前じゃなくてネタ見せなんで、大阪吉本のギラギラした若手ばっかりやから、ひとつもウケない。終わったあとは、そそくさと帰りましたね。車で来てたんで、静岡まで運転して帰るんですけど、空気重かったなぁ。最初は「全然ダメやったなぁ」ってヘラヘラしてたけど、めっちゃ時間あるから、じわじわと「ヤバいな……」って。 ──気まずい時間ですね。 松村 学生のときは、まわりからおもろいとされて調子乗ってたんで落ち込みました。本気でお笑いやってる人らとはまるで違うんやなと。今思うと、あの初舞台で相方は心折れたところが多少あったかもしれないですね。サラリーマンとしてじゅうぶん稼げてるのに、なんでこんな惨めな思いせなあかんねんって思うのも無理ない。もし初舞台でウケてたら、その勢いで「会社辞めるわ」ってなってたかもわからん。 ──ナンパで鍛えられた松村さんは打たれ強いから。 松村 そうっすねぇ。「まぁこっからやな」って踏ん張れました。結局、相方が全然やる気にならなくて2カ月くらいで社宅出ましたけど。「俺、本気でやるわ」ってひとりで東京に来て。 ──誘われて静岡に来たのに、相方に愛想を尽かして、そこからひとりで東京に出るってすごいですよね。大阪に戻る選択肢はなかった? 松村 大阪ってなると吉本一択なんで、NSC行かんとダメじゃないですか。当時僕はもう26歳になる年だったんで、今さら1年間養成所に通うのもしんどい。それに新人コンクールでのひどい経験があったから、とにかく舞台に立たなあかんってことで、フリーライブがたくさんある東京に行くことにしました。最初は上京してた友達の家に居候させてもらいながらバイトしてお金貯めながら、相方探すためにライブを観に行ったりして。 ──相方はすぐ見つかりましたか。 松村 これもたまたまなんですけど、高田馬場の汚い食堂で偶然、高校の同級生と再会したんですよ。しかもそいつも東京にお笑いしに来たって言うてて。 ──ドラマみたいな話。 松村 俺も思いましたよ、「絶対コイツと組んで売れるんや!」って。でもそのコンビも、2年ちょっとやったら「結婚するからもう辞める」って言われて(笑)。そのあともいろんな人と試して、今のコンビの1個前「いい塩梅」ではM-1の準々決勝まで行けたんです。それで芸人とかライブのスタッフさんとかに声かけてもらえるようになったんですけど、そいつとはまったくそりが合わず、2年もたなかったですね。 ──松村さんの20代は、鳴かず飛ばずだった。 松村 養成所にも事務所にも入ってないから、同期もおらんし過酷でしたよ。あ、細田来た。 細田 すみません! いやもう本当に申し訳ありません。家の近くの喫茶店でネタ書いてました。集中するためにスマホもイジれない設定にしてたんで、連絡も気づかず……。 松村 うまいこと言い訳考えてきたなぁ。 細田 タクシーで考えてきました。今日は休みだと思ってました……。ホントすみません。 寂しさとエッチな問題で解散 ──ちょうど松村さんがひつじねいりを組む直前まで話を聞いたんで、いいタイミングでした。埼玉出身の細田さんは、ストレッチーズと同じ浦和高校に通ってたんですよね。 細田 そうです。『U-1グランプリ』っていうのがあって、そこで漫才したのが初舞台ですね。出場者は2組だけで、もう片方はストレッチーズでしたけど。 ──4分の3がプロになり第一線で活躍してるってすごい大会じゃないですか。 細田 いやでも文化祭で教室をひとつ借りてやるだけですよ。観てる人も10人くらいなんで、緊張することもなく。 ──大学は慶應(義塾)ですが、(お笑い道場)O-Keisというお笑いサークルがありますね。もともと大学お笑いをやるつもりだったんですか? 細田 いや、最初はNSCに通おうかなと思ってました。でもお笑いサークルがあるって聞いてのぞいたら、大学生活を楽しめてない人が集まってて、親近感があって入りました。 ──以前、この連載でストレッチーズに取材した際、細田さんとトリオになるかもしれなかったって聞いたんですよ。 細田 そんな話もあった気がしますね。でも別にサークルなんで、一生の相方になろうって感じではなかったと思いますよ。そもそも僕は漫才に憧れてたから、3人でやるイメージが湧かなかったし。 ──ストレッチーズの高木(貫太)さんいわく、最初に3人で結成の話をしようとしたとき、福島(敏貴)さんが遅刻されて「初っ端から遅刻するヤツとは組めない」って細田さんが言ってたらしいんです。 松村 どの口が言うてんねん!! めちゃめちゃ遅刻しとるやないか! 細田 いやもう今日は本当にすみませんでした! ──もう大丈夫ですよ(笑)。学生時代にお笑いサークルで活動しつつ、どのタイミングでプロになろうと思ったんですか。 細田 慶應にいた真空ジェシカの川北(茂澄)さんが人力舎所属になって、そのルートで行けたらいいなと。当時は三四郎さん、ルシファー吉岡さん、モグライダーさんってマセキ(芸能社)所属の方々がライブシーンでめっちゃ盛り上がって熱気があったんで、大学在学中にマセキを受けて、卒業とともに預かりになりました。 ──プロとしての初舞台は、そのコンビで踏んだ? 細田 はい。新宿Fu-でしたね。大学お笑いで慣れてたんで、わりとうまくいって。帰り道は缶ビール片手にテンション上がってたかな。あのころちょうど又吉(直樹)さんの『火花』が流行って芸人はカッコいいみたいな風潮があったんで、自分たちに酔ってましたね。 ──松村さんと同じく、細田さんもいくつかコンビを経験してますよね。 細田 最初のコンビは1年くらいで解散しましたね。まじめにネタの話をするようになったら、普通に険悪になった(笑)。あと、新宿駅からライブ会場までの10分間、一緒に歩いているのにずっとイヤホンされてたのが寂しすぎた。 松村 コンビやったら普通にあるやろ(笑)。 ──次のコンビはバーニーズでした。 細田 今、モシモシっていうトリオをやってるまぐろと組んでました。でも相方がすごいエッチな問題を起こしちゃって……。たぶん業界初のSNS乗っ取りで、自分のアカウントからすべてを暴露されたんですよ。今思えば笑い話にして続けられたと思うんですけど、僕がけっこう無理になっちゃいましたね。 実はNSCに入りかけた ──ここでようやく松村さんと細田さんがひつじねいりを組むわけですが、松村さんはずっとフリーだったんですよね。そもそもどうやって知り合ったんですか? 松村 たぶん、K-PROのライブですね。いい塩梅のときにM-1準々決勝まで行ったおかげでライブが増えたり、SMAに入れてもらえたりしたんですよ。その流れで知ってくれる芸人も増えて、細田とも出会いました。でも僕、細田と組む直前まで、NSCに行こうとしてて。 細田 それ知らなかったわ。 松村 いい塩梅を解散して、今さら誰かとまた組む歳でもないなぁって思ってて。30歳になる年だったんで、NSCに入る最後のタイミングかなと、まぁ吉本への憧れもありましたしね。あのとき入ってたら、たぶんナイチン(ゲールダンス)と同期ですよ。お金振り込めば入学っていうタイミングで細田から声かかって、まぁやるかと。 ──細田さんはなぜ松村さんに声をかけたんですか。 細田 前のコンビがおもしろかったし、ふたりだったら対照的で見栄えがするんじゃないかなぁって思ってました。 松村 新宿の珈琲西武で、「組もか」って話したな。 細田 朝6時に集まりましたね、お互い8時からバイトだったんで。 ──大事なときはちゃんと会って話すんですね。細田さんLINEで承諾されたら「寂しいから」って組むのやめそう(笑)。 細田 そんなことはないですけど(苦笑)。でもさすがにLINEではやらないですね。 松村 でも完全に一個騙されたんですよ。僕が細田と組もうと思ったんは、「ネタ無限に書けます」って言ってたのもあったんです。それまでのコンビでは合同で書いたり、僕が書いたりしてたんで、次はネタ作れる人と組みたかった。でも結局、詐欺でしたね。 細田 まぁそこは誇大広告くらいで(苦笑)。 ──では、ひつじねいりの初舞台は? 細田 K-PROのライブだったと思いますね。 松村 お互い前のコンビで知られてたんで、ライブシーンのお客さんは知ってくれてたから、うっすら期待の熱があったんですよ。そのわりにはまぁ「ウケはしたけど……」っていう感じ。 ──「ヤバいコンビ出てきた!」みたいな感じではなかった? 松村 まったくですね。自分らのスタイルを見つけるまでけっこう時間かかってます。 ──初々しい初舞台ではなかったんですね。 松村 いやもう全然ですよ、僕らは焼き回ってるんでね(笑)。 細田 おじさんになって組んだんで、浮かれてるとかはまったくなかったですね。『火花』憧れももうなかったです。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 ひつじねいり 細田祥平(ほそだ・しょうへい、1991年11月30日、埼玉県出身)と松村祥維(まつむら・よしつな、1988年7月2日、大阪府出身)のコンビ。2019年に結成し、2023年には『ツギクル芸人グランプリ』で準優勝する。『M-1グランプリ2024』では初めてセミファイナリストとなった。大喜利ライブ『大喜る人たち』のMCとして、お笑いファンの信頼も厚い。 【前編アザーカット】 【インタビュー後編】 賞レースでも活躍し、ブレイク間近と話題のコンビ・ひつじねいりが抱く焦燥と野望|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#35
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好きなことを突き詰めてきた異色のコンビ・十九人が、勝ちを意識した瞬間|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#34
「M−1、嫌いだったんですよ」 『M-1グランプリ2024』でセミファイナリストとなり、敗者復活戦でも爪あとを残した十九人(じゅうきゅうにん)。 初舞台について聞くインタビュー連載「First Stage」では今回、十九人のふたりに『M-1』の大舞台に初めて上がった感想を話してもらった。 そこで飛び出したのが、冒頭の言葉だ。M-1に対する十九人の本音、そして勝負への覚悟を決めた彼らの現在に迫る。 【こちらの記事も】 『M-1』や『おもしろ荘』で注目を集めるコンビ・十九人の脳汁とニヤケが止まらなかった初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#34 目次M-1準決勝敗退はひどいなりトップバッターを任されがちM-1が大嫌いだった何も矯正されず、変人のままで M-1準決勝敗退はひどいなり 左から:ゆッちゃんw、松永勝忢(まつなが・まさとし) ──M-1では、昨年初めて準決勝に進出しましたね。 松永 なんか緊張するっていうよりかは、普通に楽しかった。 ゆッちゃんw ね。めちゃめちゃ気持ちよかったです。 松永 楽屋もけっこう和気あいあいとしてたし。 ゆッちゃんw カメラはすっごい多いです、ずっと密着だし。ホントに気づかないうちに撮ってる。僕たちはカメラ向けられたら、いっぱいふざけようって決めてたんですけど、バレないようにめっちゃ撮られまして。でも、密着のスタッフさんとめっちゃ仲よくなりました。僕たちがふざけてたら「いや、使えるかぁ!」とかツッコんでくれた(笑)。 ──準決勝の出番は4番目でした。 松永 よくないなぁとは思ってました。実際、場が温まりきってない感じはしましたし。 ゆッちゃんw でも、後半すぎると逆にお客さんが疲れちゃうから、僕らみたいなのは、みんなが体力のあるうちに見てもらえてめっちゃありがたかったなと思う。元気じゃないと、見てられないときがあるから(笑)。 ──客席から観ていましたが、十九人で会場が温まった記憶があります。 ゆッちゃんw わー、うれしい! たしかにねぇ。気持ちいいくらいウケて、終わった直後はもしかしたら……とは思ったんですけど、僕たちのすぐあとのスタミナパンさんが相当ウケられていたので、ダメかもなぁって。 ──出番が終わって、結果発表まではどう過ごしたんですか? 松永 結果発表まで3時間ぐらいあったんですよ。オズワルドの伊藤(俊介)さんに誘ってもらって、モツ鍋を食べさせてもらいました。スタミナパンの麻婆さんと、豆鉄砲と、例えば炎の田上で行きましたね。 ゆッちゃんw モツ鍋のあとはカラオケに行って、時間がないから、ひとりずつ「魂の一曲」を歌って。僕はYOASOBIの「群青」を歌いました。でも松永くんがすごい曲歌ってた(笑)。 松永 僕、神聖かまってちゃんの「神様それではひどいなり」。 ゆッちゃんw 最後に「殺してやる!」って叫び続ける曲で、みんなで「まだ落ちてないよ! 大丈夫だよ!」って。でも結局、そのモツ鍋メンバー全員落ちてて、ずこーってなりました(笑)。 トップバッターを任されがち ──敗者復活戦では、準決勝とはネタを変えていました。敗者復活戦では『席を譲ろう』、準決勝でやった『耳が痛い』。なぜ変えたんでしょうか。 松永 敗者復活はトップバッターだったんで、トップバッターで「耳が痛い!」って叫びまくるネタはちょっとかかりすぎてるから引っ込めました。テレビだし、初見の人もいっぱい観てくれるから。 ゆッちゃんw 電車のネタは、僕らの中では伝わりやすい温厚なほうだったんです(笑)。『おもしろ荘』では『耳が痛い』をやったんですけど、総合演出の諏訪(一三)さんは「席譲るやつは伝わりやすいけど、十九人を好きな人からすると、物足りないなぁ」って言われました。「まぁ、しょうがないな。テレビだからなぁ。おじいちゃんおばあちゃんが観てるからな」って(笑)。 ──初めての敗者復活戦はいかがでしたか。 ゆッちゃんw 出る直前に煽りVを見てて、「うわぁ、テレビで観てたあれに出るんだ!」と思ったら、一回「ぐぅ!」ってめっちゃ緊張して。でもマネージャーさんに「めっちゃ緊張してきました……」ってベラベラしゃべってたら、「たぶん緊張してないですよ。アドレナリンが出てるだけです」って教えてもらえて、落ち着きました。 松永 でも正直そんなに手応えはなかったなぁ。 ゆッちゃんw だから勝つぞっていうよりも、僕らのネタで番組が盛り上がればいいかって半分思ってた。『M-1敗者復活戦』という番組が、十九人がいたおかげで盛り上がったっていう印象になればいいなって。 松永 僕らは普段のライブでもトップバッターにされることが多い。十九人で無理やり盛り上がらせようみたいな。 ゆッちゃんw 大きい声っていうか、デカい音を出せるから(笑)。 ──最近の若手芸人は「M-1という番組を盛り上げたい」と言う人が増えている印象があります。 ゆッちゃんw たしかに。「絶対に勝つぞ」って気持ちと、番組を盛り上げたい気持ちだったら、どっちがいいのかはわからないけど。 松永 なんやろ。賞レースで結果出して(メディアに)引き上げてもらうっていうよりは、自分たちがおもしろいと思うことをやって、いいものができればいいよねっていう気持ちが強いのかな。だから勝ち負けはそこまで重要じゃないっていうか。もちろん勝ちたいんですけど。 M-1が大嫌いだった ──気が早いですけど、次のM−1への意気込みはどうですか。 ゆッちゃんw M-1に対して意識が変わりました。今までは15年かけて、いいところまで行けたらっていう感じで。普段のバトルライブも、僕らそんなに得意じゃないから、お笑いは戦うもんじゃないしな、みたいに思ってたけど……うん、松永くん、どうだ? 松永 敗者復活に出てみて、見えてるものがちょっと変わったんですよ。もう一回勝てば決勝なんやっていうのが具体的に見えてきて、これからはM-1に向けたネタを作ろうと。今までは自分たちの好きなことやり続けて、いつか決勝行けたらと思ってたけど、決勝に行ってる人たちはM-1で勝つための4分間のネタを作ってるんだって目の当たりにして、ここをちゃんとやらなアカンなっていう気持ちになった。 ゆッちゃんw 勝ちたくなっちゃったね(笑)。みんながあんなに熱いのはこういうわけだったんだなって思っちゃいました。 松永 僕ら、M−1嫌いだったんですよ。かなり嫌い。 ゆッちゃんw こんなこと言っていいのか(笑)? 松永 僕らなんて、1回戦で3回落とされてるし。1回戦って持ち時間が2分じゃないですか。そんな短い時間で伝わるわけないって、ふて腐れてたんです。ライブではめちゃめちゃウケてるまわりの友達もいっぱい落とされるから、M-1自体が嫌いだった。でもだからといって賞レース至上主義からは逃れられんし……。 ゆッちゃんw 悲しいね。なんか悲しい話だね(笑)。 松永 ふふふふ(苦笑)。嫌なんですよね、お笑いの本質って別にバトルじゃないし。なんなら商売ですらない。 ゆッちゃんw 趣味でやってることにたまたまお金が発生して、超ラッキーっていう状態なので。 松永 そんな感じで僕らは賞レース自体が嫌いだったけど、でもそれをM-1の2回戦で負けてるヤツが言ってても仕方ないじゃないですか。 ゆッちゃんw やっぱ決勝に行ってる人たちってめっちゃすごい。でも別に2回戦で落ちた人がおもしろくないわけじゃない。それがみんなに伝わってほしいなって思うから、僕らが勝ったら「たまたま今日評価されたから勝っただけで、ほかの人もみんなおもしろいんだよ」って言えるようになりたい。そのためにがんばりたいなって思えるようになりました。 何も矯正されず、変人のままで ──これからはどんな仕事をしたいですか。 ゆッちゃんw 事務所の先輩たちがすごいので、そういう人たちと一緒にテレビ番組出られたり、営業とか一緒に回れるぐらい有名になれたらいいなとは思ってます。 松永 やりたいことを、やりたい。今は それについてきてくれるお客さんもいるし。去年単独ライブやったんですけど、それが500人ぐらい来てくれて。そのお客さんを大事にしたいなって思う。 ゆッちゃんw ありがてぇ。 松永 僕らに3000円とか払ってくれる人がそんだけいるっていうのがうれしいから。 ゆッちゃんw 高いよね! 松永 だから、僕らをおもしろいと思ってくれる人たちを喜ばせたいし、僕らはやりたいことをやりたいなって気持ちです。 ゆッちゃんw あと、僕らが好き勝手していい場所がテレビにできたらいいなぁ。冠までは行かなくても、僕らの同世代の何組かで番組させてもらえたりしたらいいなぁ。 ──1997年生まれのおふたりも、テレビへの憧れはあるんですね。 松永 テレビは好きですね。僕らはまだギリギリYouTubeじゃなくてテレビに育ててもらったので。それに「テレビは終わり」みたいに言われるけど、まだ終わってないと思うしなぁ。視聴率が数%でも数百万人が同時に観てるってことで、その規模はYouTubeではあり得ない。やっぱりテレビにしかできんことがあると思うし、そこで自分らがやりたいことをできたらめちゃくちゃうれしいですね。 ゆッちゃんw あと、松永くんは英語もすごくできるから。英語クイズなら負けない。ね! 松永 何それ、あんま関係なくない?(苦笑) ──でもEテレの英語番組とかおふたりでやったらハマりそう。 ゆッちゃんw わぁ、やりたい! たしかに「NHK出てください」はファンの人にめっちゃ言われます。最初の単独ライブで人形劇をやったときテレビ局の人から「アテレコ上手〜」って褒められたよね(笑)。 ──たしかにおふたりとも独特のテンションと声質なので、ナレーションも向いてそうです。 ゆッちゃんw やりたい! 『キョコロヒー』で内田紅多(人間横丁)がやってて、めっちゃうらやましいです。大(おお)友達だから。 ──先ほど「同世代の何組かで番組」と言ってましたが、どのあたりの芸人が浮かびますか。 ゆッちゃんw うわぁ、どうする!? 何組かっていったら、まず人力舎のめっちゃ最高ズかなぁ。おばた(最高)は仕切れるし、(めっちゃ)むつみさんは突破力があって、『はねトび(はねるのトびら)』みたいな番組だったら、虻川(美穂子)さんみたいになれそう。あと、何をしても大丈夫っていう安心感が欲しいのでオッパショ石さん。どんな空気でもなんとかしてくれるし、僕らが好きなことやってもまとめてくれる。あと豆鉄砲とか。 松永 いいなぁ。たしかに今売れてる人って何組かでコント番組とかしてきたイメージあるから、そういうのをうちらの世代でできたらいい。 ゆッちゃんw 地下ライブって「これしかできない」みたいな変人がいっぱいいるんです。そういう人たちがテレビに出ようとすると、直さなきゃいけなくなっちゃうけど、それがもったいないなぁって。何も矯正されずに、変人のままテレビに出られるようになったらいいな。僕もそうなんです。松永くんは器用だからなんでもできるけど、僕は松永くんが書いてくれるネタじゃないと無理だから(笑)。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 十九人 ゆッちゃんw(1997年9月9日、北海道出身)と、松永勝忢(まつながまさとし、1997年10月29日、大阪府出身)のコンビ。2018年4月、立命館大学の劇団サークルで出会い、コンビを結成。2020年4月に上京し、フリーとして活動。2022年、ASH&Dに正式所属。『M-1グランプリ2024』準決勝進出。2025年元日未明に放送された『おもしろ荘』では3位に入賞した。 【後編アザーカット】
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『M-1』や『おもしろ荘』で注目を集めるコンビ・十九人の脳汁とニヤケが止まらなかった初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#34
『M-1グランプリ2024』で準決勝に進出し、敗者復活戦ではトップバッターとして大会を盛り上げた十九人(じゅうきゅうにん)。結成は2018年4月。その初舞台で、お笑いの虜となった。 TシャツGパンの装いで、長髪を振り乱し叫ぶメガネの女、ゆッちゃんw。そんな彼女に翻弄される昭和レトロな出で立ちの松永勝忢。 漫才を見る限り、どんな人間かまったくイメージがつかないふたりに、その初舞台から振り返ってもらった。 若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage> 注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。 目次脳汁ドバドバ初舞台号泣のセカンドステージお客さんがようやく僕らに慣れてきた「僕」は、あの俳優の影響 脳汁ドバドバ初舞台 左から:ゆッちゃんw、松永勝忢(まつなが・まさとし) ──十九人の初舞台を覚えてますか。 ゆッちゃんw 超覚えてます。最初のボケでウケすぎて、脳汁がドバドバ出たんです。忘れられない。 松永 当時は大阪にいたんですよ。『C★マン』っていうエントリーライブに出ました。大学3年のときか。30組ぐらい出るんですけど、初めて出て、2位になったんです。 ──すごい。 ゆッちゃんw 鬼のように緊張して、出番前は「吐きそう」って言ってたんですよ。でも僕の最初のボケがドカン!とウケて、そこからは「楽しい!」に変わって。ライブのあと、ふたりでサイゼリヤで打ち上げしたんですけど、ウケすぎたのがうれしくてずっとニヤニヤしてて。メニューを開いたり閉じたりして、全然注文もできないし。コップの水が空になっても、ふたりでずっとニヤニヤしてたね。めっちゃ覚えてるなぁ。 松永 僕らは立命館大学の演劇サークルで出会って、僕が誘ってコンビを組んだんです。最初はずっと続けようなんて思ってなかったもんな。 ゆッちゃんw うん。コメディを主にやるサークルだったんですけど、新入生歓迎公演で松永くんがコントの台本を書いてきて、それがおもしろかったんです。だからこの人の台本で演じられるんなら、なんでもいいやって。僕、お笑いは見てこなかったから、正直、漫才とコントの区別すらついてなかったし。でも初舞台がウケすぎて楽しくて、「もっとやりたい! 早く次やりたい!」ってなっちゃいました。 ──演劇では味わったことのない興奮だった? ゆッちゃんw 演劇のお客さんは笑っても「ふふふ」ってレベルだったけど、お笑いだとみんなが口を開けて笑うんですよ! それがめっちゃくちゃうれしかったです。それからは演劇サークルも行くけど、お笑いの稽古を優先してました。 ──どんなネタをしたんですか。 松永 今とそんなに変わらないですね。この人に思いっきり動いてもらってて。僕はツッコミができないタイプなんで、ほぼしゃべらず。 ゆッちゃんw 松永くんは『ハイスクールマンザイ』にも出てたらしいんですけど、そのときはボケだったんだよね。 ──松永さんはボケ気質なのに、自分がツッコミをするのは大丈夫だった? 松永 そうですね。当時、お笑いをやろうと思って、誰に声かけようかなって手札を見たら、 この人に変なことをさせるのが一番おもしろいと思ったので。もちろん自分がボケたくはあったけど、しょうがないかと。 号泣のセカンドステージ ──初舞台でウケて、そこからは順風満帆でしたか。 松永 2回目のライブは、めちゃくちゃスベったんです。初舞台のネタを改良したつもりだったんだけど……。スベりすぎて、舞台からはけた瞬間に、相方が泣き出したんですよ。 ゆッちゃんw 松永くんはほぼしゃべらないネタだから、「スベったってことは、僕が間違ったんだ!」と思って。「ごめん! 次はがんばるから見捨てないでくれ!」って泣きました。 ──でもそこで方向転換するわけではなく、今の十九人と変わらないスタイルを貫いていた。松永さんには、最初から十九人の理想が見えてたんですか? 松永 半分くらいは見えてたかな。相方がすごく騒いで、僕は静かにする、みたいな方向性だけですけど。ライブによっては作家さんがいて、アドバイスされるんですよ。「もっとツッコミをちゃんとしたほうがいい」「出てきたときにこの人のキャラクターがわかるようなボケを入れて」って。そのほうが正しいよなとは思いつつ、「でもなぁ……」ってそのままやり続けて、ここまで来ました。3年目の途中ぐらいまでは事務所にも入らずフリーで好き勝手やってたので、直す機会もなかった。だからもうガラパゴスです。 ゆッちゃんw 独自の発展を遂げました(笑)。でもだんだん認めてくれる大人ばっかりになってきて。ASH&Dにスカウトしてくださったマネージャーの大竹(涼太)さんも、僕らの漫才を見て腹抱えて笑ってくれて。「そのまま好きにやってください」って。 松永 僕らはほとんどネタ見せも受けてきてない。とにかく自由にやってきました。 ──不安になることはなかった? 松永 自分たちのスタイルで迷ったりしたことはないですけど、コロナ禍はキツかったですね。大学卒業して上京したのが2020年の4月なんですよ。 ゆッちゃんw コロナと一緒に東京に来た。 松永 せっかく上京したのに、半年ぐらいほぼなんもしてなかった。親にも「いったん帰ってきたら?」って言われました。 ゆッちゃんw 今、芸人じゃないなぁ、名乗ってるだけかなぁって。 ──そもそも大学卒業後、芸人になることはすんなり決まったんですか? 松永 大学4年の初めごろにASH&Dにスカウトされたんです。それでいったん預かりになってて。当時のASH&Dは、僕らのすぐ上の先輩がラブレターズさんで若手がまったくいなくて、僕らに若手向けのオーディションを回してくれたんです。あと、大学4年の年末に『おもしろ荘』のオーディションで最終選考まで残ったのもあって、親も説得しやすかった。 ──今年頭の『おもしろ荘』に出演されましたが、そんなに前からいいところまで行ってたんですね。 松永 総合演出の諏訪(一三)さんは、もう5、6年、僕らのことを見てくれてますね。 ──諏訪さんはめちゃめちゃ厳しいと聞きますが。 松永 僕らにはめちゃくちゃ優しかったです。「数百組のネタを見てると、どれも同じに見えるんだけど、君らは違う」って。 ゆッちゃんw 「十九人は覚えてられる、忘れない」って言ってくれました。でも番組にはなかなか出られなくて(笑)。 松永 おもしろ荘のオーディションは「映像審査」「諏訪さんの面接」「客前オーディション」と3段階あって、僕らはお客さんのアンケートで落とされるんです。お客さんはみんなお笑い好きじゃない視聴者の方々だから、僕らの漫才は怖がられて、アンケートでバツばっかつけられる。今年ようやく出られたけど、「×」と「◎」の差が一番激しいって言われましたね。 お客さんがようやく僕らに慣れてきた ──コロナ禍で上京してきた十九人はM-1の予選も東京で受けるようになりますが、2020、21年と2年連続で1回戦敗退でした。 松永 上京2年目までが一番キツかったですね。僕らくらいの若手にとって、M-1で勝つ/負けるって正直かなりデカいんで。 ──しかし2022年は3回戦、2023年が準々決勝、2024年は準決勝と毎年ステップアップしています。何かきっかけがあったんですか。 松永 なんだろうなぁ。2022年にこれまで預かりだったASH&Dに所属したことくらいで、別にそれ以外は変わってないんですよね。 ゆッちゃんw お客さんが僕らを見慣れたんじゃない? 松永 たしかに。ライブもできるようになって、東京での仲間も増えて、M-1もだんだん“僕らの世代”になってきたのかもしれない。 ──僕らの世代。 松永 やっぱり世代ってあるなって思うんです。ここ数年は、令和ロマン、真空ジェシカ世代みたいな感じで、なんとなくあったじゃないですか。1回戦を観に来るような熱心なお客さんが、普段見てるライブによく出てる芸人みたいな。その世代が、2022年あたりにちょっとずつ切り替わる感じはしました。 ──十九人が変わったわけではない。 松永 僕らは大学生のころからほとんど変わってないですね。もちろん、うちらが成長して見やすくなったっていうのはあると思いますけど、それ以上にお客さんが見慣れてくれたのは大きい。一昨年の3回戦でやったネタも、今やると全然ウケるんですよ。うちらのメディア露出も、ここ1年でちょっと増えたし、見慣れてもらうってかなり大きいと思います。 ゆッちゃんw あと、僕の滑舌としゃべり方がよくなった(笑)。昔は相当聞き取りづらかったみたいで、それをがんばって改善して。前は「高すぎて聞き取れない」って言われがちだったけど、今は「高いのに太い」って褒められるようになって。 松永 たしかにそれも大きいね。大阪のそれこそ地下でやってたときは、なんかヤバい女が出てきたと思われてたから。「なんか知ってる」とか「名前は見たことある」だけでも安心して見てもらえる。知ってる人が変なことしてるのと、知らない人が変なことしてるのとだったら、知ってる人のほうがいい。 ──私の勝手な推測ですが、マヂカルラブリーやトム・ブラウン、ランジャタイのように漫才の認識を拡張するコンビがM-1の決勝に出てきたことで、十九人の奔放なスタイルも受け入れられたのかと思っていました。かつては「漫才か漫才じゃないか論争」もあったけど、漫才は自由でいい空気が徐々に広まったのかなと。でも、そういう全体的な雰囲気の変化というよりは、自分たち自身が受け入れられたっていう感覚なんですね。 松永 そうですね。変則的な漫才っていうのは常にある。M-1でいうなら、昔ならスリムクラブさんもいました。だから漫才が拡張された、とかはあんま関係ない気がしてます。結局、個々の知られ方が重要で。大きな流れに乗ったっていうよりは、自分たちの受け入れられ方が変わっただけかな。 ゆッちゃんw でも、マヂラブさんが優勝されたあたりから、変な漫才枠がM-1の決勝にできた気がします。ちょっと変なコンビを2組くらい入れて、その人たちが優勝してもまぁ納得みたいな。そういう雰囲気ができて、僕らは助かるなぁって。 松永 たしかに。あと単純に2020年のマヂカルラブリーさんの優勝とか、その前年のぺこぱさんが準優勝っていうのは勇気づけられましたね。変則的なネタでも、そこまでいけるんだって思えたから。 ゆッちゃんw できないことはないんだって思えたね。 「僕」は、あの俳優の影響 ──十九人のnoteで、松永さんが「男女コンビへの『付き合ってんの?』ではない正解の聞き方」で、男女コンビならではのめんどくささについて書いていました。5年前の記事ですけど、今の十九人を見ていると、男女コンビであることってまったく気にならなくて。 松永 君が女性ってあんまり見られてながち、かもな。衣装のTシャツにGパンも、大学時代ずっとその格好だったからってだけですけど、中性的やし。今も普段はスカートよりはパンツのほうが多いよな。 ゆッちゃんw そうだね。 ──以前、蛙亭を取材したときイワクラさんが、コントで抱き合ったりすると「おっぱい当たってんだろ」と言われたりして、それがうっとうしいと言ってたんですよ。 ゆッちゃんw やっぱしそういうのあるんだ。 松永 俺たちは言われないなぁ。ホンマに今までそこ言われたの、モグライダーのともしげさんくらいかも。 ゆッちゃんw たしかに(笑)。「それはいいのかなぁ……」ってオドオドしながら心配されてた(笑)。 ──違和感がなくて忘れがちですけど、ゆッちゃんwさんの「僕」という一人称もいいのかもしれません。芸人になってから言うようになったんですか? ゆッちゃんw いや、生まれてこの方ずっと「僕」って感じで生きてきました。 ──私の娘も6歳で「僕」って言うんですよ。でもそれはあのちゃんの影響とかもあって。 ゆッちゃんw あぁ、たぶんあのちゃんは僕と同年代です。 ──あのちゃんとゆッちゃんwは「僕」世代。 ゆッちゃんw たしかに(笑)。子供のころ、まわりでは「うち」って言ってる子も多かったけど、僕はしっくりこなくて。でも「私」もなんか長いから違うし。 松永 「うち」「ぼく」より「わたし」は1文字多いから。 ゆッちゃんw そうそう。それで「僕」のまま来ちゃった。あと僕、TEAM NACSが好きなんですけど、ちっちゃいときから北海道のテレビで大泉洋さんを見てて。大泉さんの言う「ぼかぁね〜」が刷り込まれてるのかもしれないです。 ──ルーツは大泉洋。 ゆッちゃんw 保育園のときから言ってたみたいです。親も友達もなんにも咎めないから、そのままやってきちゃって。でも一時期、おじいちゃんYouTuberのマネをして、「わしはね〜」って言ってたら、それは友達に「年寄りの言い方だからやめたほうがいいよ」って言われて、「僕」に戻しましたね(笑)。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 十九人 ゆッちゃんw(1997年9月9日、北海道出身)と、松永勝忢(まつなが・まさとし、1997年10月29日、大阪府出身)のコンビ。2018年4月、立命館大学の劇団サークルで出会い、コンビを結成。2020年4月に上京し、フリーとして活動。2022年、ASH&Dに正式所属。『M-1グランプリ2024』準決勝進出。2025年元日未明に放送された『おもしろ荘』では3位に入賞した。 【前編アザーカット】 【インタビュー後編】 好きなことを突き詰めてきた異色のコンビ・十九人が、勝ちを意識した瞬間|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#34
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芸人たちから愛される70代の“若手芸人”おばあちゃんのネクストステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#33(後編)
2023年6月、よしもとの若手芸人が活躍する、神保町よしもと漫才劇場に激震が走る。なんと76歳の“若手芸人”が、オーディションに勝利し、史上最高齢で劇場入りを果たしたのだ。 「おばあちゃん」という、ひねりがないのに新しい芸名で、笑いをかっさらう彼女。瞬く間に注目されたが、本人は至って平常心だ。 なぜおばあちゃんは、こんなにも飄々と、イキイキしているのか。きっとこのインタビューを読めば、彼女のバイタリティの秘密がわかるはず! 【インタビュー前編】 よしもとの劇場で活躍する70代の“若手芸人”おばあちゃんの初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#33(前編) 目次知らぬ間に芸人になっていた高齢者向けの営業で大活躍『M-1』でも大活躍「ババア!」って言われるのもうれしい 知らぬ間に芸人になっていた ──シルバー演劇をやっていたおばあちゃんが、舞台の基本を学ぼうとしてひょんなことから、よしもとの養成所・NSCに入った。そこまではギリギリわかるのですが、なぜ養成所の卒業後に演劇に戻らなかったんですか。 おばあちゃん NSCでは、お笑いだけじゃなくて、発声や舞台での心得も学べるんです。だから勉強しているうちに、舞台という意味では、演劇もお笑いも同じなのかもしれないと思いました。 ──それでそのまま芸人になった? おばあちゃん いえ、私はこの歳で芸人になれるなんて思いませんでした。事務所の方に「おばあちゃん、なんで所属登録しないの?」と聞かれたときも「私はスマホもできないし、みなさんに迷惑かけるので無理です」と言ってたくらいで。 そしたら「たったそれだけの理由?」「そんなことはこっちでバックアップするから、手続きだけしときなさい」と、おっしゃるんです。 ──その言葉は心強いですね。 おばあちゃん でもね、最初はそう言ってた方がメールを教えてくださったんですけど、私があんまりにも覚えが悪いんで、さじ投げちゃって、ほかの若い事務員さんに指導役が変わりました(笑)。スマホは同期の仲間にも教えてもらいましたし、芸人になれたのは、みなさんのおかげなんです。とはいっても、自分が芸人になったって気づいたのは、卒業してから3年後なんですけど(笑)。 ──3年後に芸人になったことに気づくって、どういうことですか(笑)。よしもとに所属して劇場に出ているのに。 おばあちゃん NSC時代からお世話になっていた作家の山田ナビスコさんの舞台に出させてもらってましたけど、コロナもありましたし、それこそシルバー演劇のように、ときどきネタをやってるだけでしたから、自分がプロの芸人になったなんて思わなかったんです。 でもあるとき、同期の男の子と話してたら年寄りのお節介が始まっちゃって。「あんたさ、芸人になるつもりなの? お母さん心配するから辞めときな」と話してたら、その子に「何言ってんの、おばあちゃん。俺たちもう芸人だぜ」と言われて、「えぇ! 私も芸人!?」ってびっくりしちゃって(笑)。「そうだよ、売れない芸人」という言葉で、やっと自分が芸人だったことに気づいたんです。 ──売れてない芸人ゆえにライブが少なくて、芸人の自覚が芽生えなかった。 おばあちゃん そうですねぇ。神保町の劇場(神保町よしもと漫才劇場)に所属が決まったときも、システムがよくわかってなくてね。夜の舞台が多かったんですけど、私は横浜のほうに住んでるから、早めに劇場を出ないと家に着くのが深夜になるでしょう。だから自分の出番が終わったら、すぐ帰っていたんです。 ──それでバトルライブの結果をずっと知らなかった? おばあちゃん 結局、そういうことだったみたいですね(笑)。スマホもろくに見れないから順位も知らない。ある日「おばあちゃん、おめでと〜」って言われても、何がおめでたいのかさっぱりわからない。「オーディションに受かったんだよ」と聞かされて「ねぇねぇ、これに受かってなんの得があんの?」という具合で、みんなから「いい加減にしてくれよ!」と言われちゃいましたね(笑)。 ──若手芸人たちは、必死で勝ち上がろうとしているバトルライブだから、そう言うのも無理はないですね(笑)。 おばあちゃん もうみんな、そのライブのときはピリピリしてますからね。そこで私はおせんべい配って「みんながんばってねぇ」って。自分もこれから出番なのにね(笑)。 高齢者向けの営業で大活躍 ──おばあちゃんの、小噺のあとに川柳を詠むというネタは、どうやって完成したんですか? おばあちゃん NSCの講師だった山田ナビスコさんが卒業後もネタを見てくださって、「おばあちゃんは漫談をシルバー川柳で締めたほうがいい」とアドバイスしてくださったんです。実際、それがすごくよかった。漫談のオチを忘れそうになっても、川柳に書いてあるから読めばいいんですから(笑)。 ──川柳にはもともとなじみがあったんですか。 おばあちゃん 会社員時代にちょっと詠んだりはしましたけど、本格的にやったことはありません。今でも、ひとつの川柳を作るのに、半年以上かかったりすることもあります。もちろんほかのものも並行しながら作っていますけどね。いったん保留にしておくと、あとでいいものが浮かぶことがあるんです。 ──ネタ作りはどんなタイミングでやるんですか。 おばあちゃん ネタ帳というか、メモ帳を家の至るところに置いてまして、いつでもメモを取れるようにしたんです。たとえば、この時期だと今年の流行語をテレビで見て、メモします。……でも流行のネタって、すぐ使えなくなるんですよ。 ──旬が過ぎると、ウケなくなる。 おばあちゃん そうなんです。最初のころは、流行とか季節のネタをよく作ってましたけど、今は一年中どこでも通用するネタを考えてます。あと、依頼に応じて作ることもありますね。補聴器のPRイベントに呼ばれたときは、耳のネタ。お父さんの耳が聞こえにくいのをネタにしたり、老眼鏡も入れ歯も補聴器も、衰えたことを悲しむんじゃなくて、アクセサリーとして楽しみましょうと。 ──営業の機会は多いですか。 おばあちゃん はい。老人ホームもありますね。ただ、老人ホームでもいろいろあって、国がやってるところは認知症の方が多いでしょう。だからネタなんか聞いてもらえない(笑)。認知症の方には音楽がいいですね。ほとんどしゃべれなくなった人でも、音楽が鳴ると、手を叩いたり、リズムを取ったりします。私の漫談ネタをやるなら有料老人ホームが合ってるんでしょうけど、そういうとこの人は、みんなお金を持ってるから、私のネタを見るくらいなら、自分たちでコンサートとか演劇を観に行ってしまう(笑)。 ──高齢者向けの営業はなかなか大変なんですね。 おばあちゃん でも葬儀屋さんでの営業は楽しかったですねぇ。高齢者をいっぱい集めて終活の説明会をするでしょ。お葬式の準備から、後見人制度、財産分与の説明をして、その付録として私たち芸人がネタを披露させていただくんです。若い落語家さんなんかは、やりにくいでしょうけどね(笑)。そりゃあ控え室からお線香臭くて、祭壇があって、お客さんはお年寄りばかりだからしょうがない。でも私は楽しいですねぇ。 ──葬儀屋の営業ではどんなネタをしますか。 おばあちゃん お父さんに「書いといて」って渡したエンディングノートがメモ帳になってたとか、終活で自宅の整理をしている友人が、私の家にたくさんの不用品を送ってきた話とかしてますね。 『M-1』でも大活躍 ──おばあちゃんは、しゅんP(しゅんしゅんクリニックP)さんと一緒に「医者とおばあちゃん」というコンビで『M-1グランプリ』にも出ていますね。2年連続で3回戦まで進出していて、2024年なんて、10,330組中の408組まで残っていて、すごいです。 おばあちゃん そうなんですかねぇ。私はよくわかんないんですよ。 ──「医者とおばあちゃん」のネタはどうやって作ってるんですか? おばあちゃん しゅんPさんと雑談しながらですね。「最近の若い医者はパソコンばっかり見て、患者の顔を見てないねぇ」とか「患者はボロイスなのに、なんで医者はいい椅子なの?」とかって話すと、ネタにしてくれます。あと、私は友達からネタを仕入れてますね。ばあさんのくせにイケメンの先生のところにしか行かないとか、オシャレしていく場所が病院しかないとか(笑)。 ──そもそも、しゅんPさんとはどういう経緯で組んだんですか。 おばあちゃん これも山田ナビスコさんのおかげです。前々からしゅんPさんに、「お前にぴったりの人が入ったから、組んでみたらおもしろいんじゃないの」と言っていたらしくて。それからコロナがあったり、しゅんPさんのご結婚・出産や、相方との別れを経て、初めてお会いしました。そのとき撮った写真がバズったんですって。お医者さんがババアの脈を測っているポーズで。 吉本に後輩ですが75歳の「おばあちゃん」という芸名のピン芸人がいるのですが、今日劇場でお会いしたので写真を撮ったら完全にただの「医者と患者」になりました。 pic.twitter.com/4n7YvavzsY — しゅんしゅんクリニックP(しゅんP) (@fleming_miya) August 27, 2022 そのあとすぐM-1に応募して、1回戦まで受かりました。そろそろ3回戦より上に行きたいんですけど、欲が出てくると危ないんですよねぇ(苦笑)。 ──M-1は緊張感がすごいですが、おばあちゃんは大丈夫ですか? おばあちゃん 私はね、しゅんPさんがいてくれるから全然気が楽なんです。噛もうが何しようが、かぶせてくれるので、安心感があります。医者っていう安心感もあるんでしょうね。最近は脈を測られても「おばあちゃん正常だな、俺のほうが早えや」なんて言ってますよ(笑)。 「ババア!」って言われるのもうれしい ──よしもとって、先輩・後輩の関係性は絶対というイメージがあるんですが、おばあちゃんもやはり年下の先輩におごってもらうんですか? おばあちゃん そうそう、普段から食事に連れてってくださるんです。「おばあちゃん、なんでもいいから。高くてもいいからね」と言ってくれるんで「ありがとうございます。こんなの食べたことありません」って、特上の天丼を食べさせてもらってね。でも時々、お会計で「お前払えよ」「いや、俺金ねえよ」とやりとりしてる同期の会話が聞こえてきて、「明日食べるごはんあるのかなぁ」と心配になることもあります(苦笑)。でも、私も後輩だから出すわけにはいかないので、そこは「ごちそうさまです」と言いますけど。 ──特に仲のいい芸人さんはどなたですか。 おばあちゃん 喫茶ムーンのレヲンっていう女の子は、NSCのときから、よくごはんに行きます。こないだは八景島の水族館にも行きましたよ。私の自宅が八景島のほうにありまして。 ──八景島から都内まで通われているんですね。 おばあちゃん それで舞台も最後までいられないんです(笑)。でも主人は海が大好きで、あそこから離れられないんですよ。この前、「お父さんが亡くなったら都内に引っ越そうかな」って言ったら、イヤ〜な顔して「お母さんそこまで芸人続かないから考えなくていいよ」って言ってましたよ(笑)。 あとよくしてくださってる芸人は、エルフさん、ヨネダ2000さんですね。あと、ぼる塾さんは4人が同じグループになる前は、劇場の控え室で一緒にお菓子を食べていたんです。それがあっという間に人気者になって、今ではテレビで追っかけしてますね。 ──おばあちゃんが若い芸人たちと仲よくやれている様子は、この高齢社会にあってひとつの希望だなって勝手に思ってしまうんですよ。 おばあちゃん そう言っていただけてうれしいです。最終目標はやっぱり世の中のために役に立ちたい、ですから。この年までね、みなさんのおかげでこうやって生かされたので、お役に立ちたい。最近はね、控え室で私が大福食べてると、ほかの芸人さんが「誰か水持ってきとけよ」とか「掃除機どこにある?」とか言い出すんですよ(笑)。みなさんが私のことを笑いにしてくださるのも、すごくありがたい。 ──変に心配されるよりも、笑い飛ばされるほうが居心地がよかったりしますよね。 おばあちゃん そうそう。今までは「ババア!」って言われると、気にしてたんですよ。でも最近は「おい、ババア!」と言われても「ジジイって言われなくてよかったね!」って言い返して、「お主、やるなぁ」と褒められるようになりました(笑)。芸人の雰囲気ってすごくいいんです。私は本当にまわりの方に恵まれていますね。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 おばあちゃん 1947年2月12日、東京都出身。2018年、NSC東京校に24期生として入学。2019年4月、72歳で芸人デビューを果たす。2023年6月に、神保町よしもと漫才劇場のメンバーとなる。76歳での当劇場メンバー入りは過去最高齢。FANYアプリ『おばあちゃんのシルバーラジオ』や、YouTubeチャンネル『おばあちゃんといっしょ』なども展開している。 【後編アザーカット】
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よしもとの劇場で活躍する70代の“若手芸人”おばあちゃんの初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#33(前編)
2023年6月、脂の乗ったよしもとの若手芸人が活躍する、神保町よしもと漫才劇場に激震が走った。なんと76歳の“若手芸人”が、オーディションに勝利し、史上最高齢で劇場入りを果たしたのだ。 その芸名はずばり「おばあちゃん」。2018年、71歳で吉本興業の養成所・NSCに入学した彼女は、実力で活躍の舞台を勝ち取った。 その朗らかな笑顔を支えるたくましさは、いったいなんなのか。高齢社会を生きる我々に、おばあちゃんは多くの示唆を与えてくれる。シルバー演劇からお笑いへと流れてきたおばあちゃんに、初舞台へと至る道を聞いた。 若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage> 注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。 目次ルーツはラジオで聴いた上方漫才初舞台はカラス役シルバー演劇で子供を泣かせるおばあちゃんは入学金の振り込みもひと苦労アドリブでしのいだ初舞台 ルーツはラジオで聴いた上方漫才 ──おばあちゃんは1947年生まれだそうですね。 おばあちゃん そうです。 ──子供のころ、慣れ親しんでいた娯楽はなんでしたか? おばあちゃん あのころは娯楽もほとんどないんですよ。そんななかで、ラジオでお笑いを聴くのは好きでした。(中田)ダイマル・ラケット(※1)さんのしゃべくり漫才や、エンタツ・アチャコ(※2)さん、浪花千栄子(※3)さんのラジオドラマを、家族みんなで、真空管ラジオで聴いてましたね。しゃべくり漫才は、楽器も何も持たずに、あれだけ人を楽しませて、笑わせるのはすごいなぁと思っていました。大きくなってからも、コント55号さんとか、カトちゃん(加藤茶)のいた……なんだっけ? ──(ザ・)ドリフターズ。 おばあちゃん そうそう。テレビでは、そのあたりを観てました。 ──子供のころはラジオで漫才に触れてきたんですね。 おばあちゃん といっても、ひとつのネタを全部聞くことはできないんですよ。真空管がなんかの拍子でゆるむとで、ぷつっと音が消えるから。でも、親も一緒に笑ってて楽しいなぁと思ってましたね。当時は家も狭いから、みんな茶の間に集まって、勉強したり本読んだり。4人兄弟で私以外は男だったので、『赤胴鈴之助』(※4)のラジオドラマもよくかかってました。 ──男兄弟に、女ひとりだと大変そうですね。 おばあちゃん 大変ってことはないですけど、ちょっと浮いてましたよね。私が小学4年生の春に母が倒れて家のことができなくなりまして、それからは私が全部やっておりました。でもそれも仕方ない。私は上から2番目でしたけど、女ひとりだから、父がものすごくかわいがってくれました。休みの日はいつも父がリヤカーに乗っけてくれて、多摩川に連れてってくれるんです。父はハーモニカを吹いてて、兄弟みんなが好きなことやって遊んでましたね。父はピアノもギターも弾けましたね。 ※1 戦後、活躍した上方しゃべくり漫才の代表格。そのイリュージョン的な奇想天外な漫才は、『R-1グランプリ2024』チャンピオンの漫談家・街裏ぴんくも敬愛する。 ※2 戦前に活躍した“近代漫才の元祖”横山エンタツ・花菱アチャコ。『早慶戦』のネタが大当たりし、人気漫才師に。1934年のコンビ解消後は、ラジオドラマで共演した。 ※3 黒澤明や、小津安二郎、溝口健二の映画でも活躍した昭和の名女優。大阪出身で、エンタツ・アチャコとはラジオ・テレビドラマで幾度も共演した。 ※4 1954年〜1960年にかけて連載された少年マンガ。少年剣士・鈴之助の修行と闘いを描く。ラジオドラマや映画、アニメ、テレビドラマにもなった。 初舞台はカラス役 ──71歳でよしもとの養成所・NSCに入ったそうですが、昔から芸人への憧れがあったんですか? おばあちゃん 芸人になろうなんて思ったこともありませんでした。でも、子供のころから友達を笑わせるのは好きでしたね。だから中学からずっと付き合っているお友達に「芸人の学校に行く」と言ったら、「やっぱりねぇ!」と言われました(笑)。 ──半世紀越しの「やっぱりね」はパンチがありますね。 おばあちゃん といっても、雑談の中でちょっとおかしなことを言うだけでしたけど。自分じゃ何を言ってたのか覚えてないですが、いつもみんなを笑わせて。昔のことですから、学校までみんなで1時間くらい歩くんで、その間、ずっと話してました。あと、中学時代は演劇部にも少し入っていました。 ──それが人生初めての舞台ですか? おばあちゃん 人前で出し物をしたのは初めてですね。たしかね、カラス役かなんかをやりましたね。それで何をしたのかは覚えてないですけど。 あと、先輩の卒業記念の演劇ではお百姓さん役をしました。ちょうど兄が卒業するときで、肥溜めを担いでた私のことを「お前の妹は肥溜め担ぎが似合ってたぞ」と友達から冷やかされたそうです(笑)。 ──人前で演技をするのは楽しかった? おばあちゃん ちょっと興味は湧きましたね。そのとき学校にいらっしゃったプロの劇団の方が「もし演技の道に進む気持ちがあるんなら声をかけて」と、ちらっとおっしゃってて迷いました。でもあの時代ですからね、特殊な世界だから親に反対されるっていうか、話も聞いてもらえませんでした。 ──親が厳しかった。 おばあちゃん 厳しいっていうわけじゃなくて、そういう時代だったんです。女の子は学校に行く必要もない。家のことをして、旦那の補佐をするのが当たり前でしょう、と。だから母からは洋裁なんかの習い事をしなさいと言われていました。それで中学卒業してすぐ就職して、仕事のあともお休みの日もお稽古してっていう日々でしたね。 シルバー演劇で子供を泣かせる ──ご結婚や乳がんの経験、お兄さんの介護などを経験して、そのことは、著書『ひまができ 今日も楽しい 生きがいを - 77歳 後期高齢者 芸歴5年 芸名・おばあちゃん』(ワニブックス)にも書かれていました。その日々も伺いたいところですが、このインタビューでは芸人・おばあちゃんについて詳しく聞かせてください。定年後はシルバー劇団に所属したそうですね。 おばあちゃん そうです。神奈川の八景島のほうに住んでるんですが、あるとき横浜でシルバー劇団のイベントを観たんですね。鯨エマさんっていう方がやっていらっしゃる「かんじゅく座」の公演で。それがすごくよかったので、入ることにしたんです。 ──そこでの初舞台は覚えていますか。 おばあちゃん もちろん。最初はお祭り会場での公演で、私は追い剥ぎの役でした(笑)。当時は、壊死した膝の手術直後でリハビリ中だったんですけど、演技してるときは不思議とハキハキ動けるんです。パッと舞台に出ていって、「持ってるもの置いてけぇ!」と怒鳴りました。 ──手応えはありましたか。 おばあちゃん 私が出ていったら、子供が「うわーん!」って泣き出して、「やったねぃ!」って感じでした(笑)。私は少々図々しいんでしょうね、やり始めると役にはまり込んじゃうんです。 ──その「かんじゅく座」での印象深い思い出は? おばあちゃん 野良猫の役をやったときかな。自分が生んだ3匹の子猫を、もらわれていくんです。そのときの悲しみを「うわぁ〜!」と演技したとき「これが演劇なのかもしれない」と感じました。 主宰のエマさんは「野良猫の役をやるなら、本物の野良猫を観察してこい」と言うんです。毎回、自分が演じる役について理解するために、生まれてから今に至るまでを想像してレポートにして。それはすごく勉強になりましたね。演じるっていうのは、セリフを覚えるだけじゃないんだと。 ──すごい経験ですね。 おばあちゃん お芝居はみんなで作るものだから、流れをつかんで演技しなさいとも言われましたね。「自分のセリフがないからってぼうっと突っ立ってるなら舞台から降りなさい!」と言うような方で、すっごく厳しかったんですけど、私は大好きでした。 おばあちゃんは入学金の振り込みもひと苦労 ──なぜそのシルバー演劇から、NSCに行くことになるんでしょうか。 おばあちゃん 劇団はけっこうお金がかかるんですよね。地方公演をやると、交通費や宿代も全部自分持ちですから、長くは続けられないなぁと思いました。あと、私みたいにまったくのド素人って意外といないので、当たり前に飛び交う専門用語がわからないんです。「板付き」って「かまぼこじゃあるまいし」と思ったし、「ハケて」って言われても「チリもないのにどこを掃くの?」って感じで(苦笑)。 ──右も左もわからないなか、好奇心で飛び込んだんですね。 おばあちゃん そうそう(笑)。それで、みなさんとご一緒するには基本的なところから勉強したほうがいいなということで、演技の養成所にいろいろ連絡してみたんです。でも、ほとんどの養成所が、25歳くらいまでしか受け付けてないんですね。私はもう70歳でしたから全部断られて。唯一、「いいですよ」と言ってくれたのがNSCでした。 ──ちょっと待ってください、どうして演技と関係のないお笑いの養成所に行くことになるんですか? おばあちゃん 大学時代の友達に相談したら、彼女が自分のお子さんに聞いてくれたんです。それで薬の裏紙に書かれた番号だけで寄こしてくれて。どこにつながる番号なのかも書いてないんです(笑)。 ──怪しすぎますね。 おばあちゃん それで電話をかけてみたら、よしもとの作家さんやスタッフさんを育てるところで。 ──YCA、よしもとクリエイティブアカデミーでしょうか。 おばあちゃん そうそう。で、そこの担当の方が「ご自身がやりたいのは、NSCのほうですね」と言ってくださって、改めて電話をして。でもすぐには入らなかったんです。蜷川(幸雄)さんが立ち上げた「さいたまゴールド・シアター」の公演が残っていたので、それを終えて翌年2018年に面接を受けに行きました。 ──面接はいかがでしたか。 おばあちゃん 「学費収められますか?」と「6階まで階段を昇れますか?」の2点を聞かれましたね。 ──膝の手術後に、階段昇り降りは大変ですよね。 おばあちゃん 面接のときはまだリハビリ中で、杖ついてましたからね。でも受かりたいから「大丈夫です」と言いました。 ──特別扱いしないNSCもすごい。 おばあちゃん そこがよしもとのいいところだと思いますね。私としてもいいリハビリになりました。結局、その1年で体重も5キロぐらい痩せましたし。荷物もね、同期の方が「持ってってあげるよ」と言ってくださった。みなさんのおかげですねぇ。 ──最初のネタ見せは覚えてますか。 おばあちゃん NSCの入学金を収めに行ったときの話をしました。「振り込め詐欺かと心配された」って。それがウケたんです(笑)。いつも行く銀行で「学費をね、振り込みたいんですけど」と頼んだら「お孫さんのですか?」「なんの学校ですか?」と聞かれちゃって。「私が通うんです」「たぶん、お笑いの勉強だと思うんですけど」と答えたら、「ちょっとお待ちください」って、係の人が奥に引っ込んじゃって。 ──「たぶん、お笑いの勉強だと思う」で完全に心配されますね(笑)。 おばあちゃん うしろのほうで、支店長とゴソゴソしゃべってるんですよ。それで養成所の合格通知を見せたら、「わかりました」と振り込んでくれました。「こんなババアがお笑いの学校?」ってそりゃ思いますよね(笑)。そのときの話を初めてのネタ見せでやったら、みなさんに笑ってもらえたのでよかったですけど。 アドリブでしのいだ初舞台 ──芸人としての初舞台は覚えていますか? おばあちゃん あれはNSCを卒業してからすぐだったと思います。作家の山田ナビスコさんがやっているライブでした。そのときは今の川柳を読み上げるネタもできてなくて、たぶん、さっき話した銀行のお話をするみたいな漫談っぽいことをしたんでしょうが、あまり覚えてないですねぇ。最初のころは月に3回くらい舞台がありましたが、今以上にお客さんがいない。それで、チケットも芸人が街中に出て自分で売るんですよ。 ──おばあちゃんも手売りやってたんですか!? おばあちゃん 「お客さんいないからチケット売ってこい!」と劇場の人から言われるんです。それで渋谷の街に出たら、事務所の人が飛んできて「熱中症になったらどうするんですか!? おばあちゃんはやめてください!」って言われちゃった(笑)。 ──そんなおばあちゃんも昨年、芸歴5年目にして若手よしもと芸人が活躍する神保町の劇場に所属が決まりました。そのときの初舞台は覚えていますか? おばあちゃん それは覚えてます。神保町になると、持ち時間が5分になるんですね。それまで3分ネタしかやってなかったので、感覚がつかめない。3分まではスラスラいったんですけど、その先が急に思い出せなくなって、そこからはアドリブ。「すみません。年取るとね、3分以上のネタはできないんですよ」みたいなことを言ったら、笑ってもらえてなんとかなりました。 ──ネタを飛ばすとパニックになって、早めに舞台を降りる人もいるなか、初舞台で5分立ち続けたのがすごいですよ。 おばあちゃん 5分やれって言われたら、何がなんでもやらなきゃいけないと思ってただけなんです。作家さんにも「おばあちゃんの場合は、間を空けなさんな」と言われていたので、なんでもいいからしゃべっちゃえ、という気持ちもありましたね。私みたいな後期高齢者が間を空けると、お客さんが心配しちゃうでしょう(笑)。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 おばあちゃん 1947年2月12日、東京都出身。2018年、NSC東京校に24期生として入学。2019年4月、72歳で芸人デビューを果たす。2023年6月に、神保町よしもと漫才劇場のメンバーとなる。76歳での当劇場メンバー入りは過去最高齢。FANYアプリ『おばあちゃんのシルバーラジオ』や、YouTubeチャンネル『おばあちゃんといっしょ』なども展開している。 【前編アザーカット】 【インタビュー後編】 芸人たちから愛される70代の“若手芸人”おばあちゃんのネクストステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#33(後編)
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カリスマが見据える先は、世界と地元…リンダカラー∞のネクストステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#32(後編)
ひとりのカリスマが、ふたりの信者の相談に乗る「カリスマンザイ」で、今ブレイク中のトリオ・リンダカラー∞(インフィニティ)。 もともとは、小学生からの幼なじみのカリスマのDenと、坊主頭のたいこーのコンビだった「リンダカラー」。2022年、そこに“りなぴっぴ”が加入し、「リンダカラー∞」に進化した。 芸人たちの初舞台について聞くインタビュー連載「First Stage」。後編では、もともとDenのファンだったりなぴっぴが加入した衝撃の経緯と、たいこーの戸惑い、そして世界を狙うトリオの“確信”について聞いた。 【インタビュー前編】 自分たちのおもしろさを疑わなかったコンビ時代…カリスマ率いるリンダカラー∞の初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#32(前編) 目次「私も入りたい〜」で即加入の逸材“りなぴっぴ”「漫才はやりたくない」世界進出で、地元を振り向かせたい 「私も入りたい〜」で即加入の逸材“りなぴっぴ” 左から:りなぴっぴ、Den、たいこー ──もともと、Denさんとたいこーさんのコンビだったリンダカラーですが、りなぴっぴさんが加入し、リンダカラー∞に変わります。前編ではコンビ時代に「漫才をぶっ壊したい」と試行錯誤していたと語っていました。りなぴっぴさんが入って、どんな変化がありましたか。 Den りなぴっぴが入って、「漫才をやらなきゃいけない」っていう重い枷(かせ)が外れたんですよね。僕はずっと、「◯◯やりたいんですよね」で入る漫才コントの形式も、「もういいよ/ありがとうございました〜」っていう決まり文句もイヤだった。 ──「漫才といえば、こういうかたち」が、受け入れられなかった。 Den それで漫才を破壊するようなナンセンスなことをやってたんですけど、そういうネタをやっていると、『M-1(グランプリ)』で「漫才じゃない」って言われる時代になったじゃないですか(笑)。まぁ、漫才の賞レースなんでそれは当たり前なんですけど。でも、りなぴっぴが入って、そういう賞レースで結果を残すこととか、気にならなくなった。これがやりたかったことだなと。 ──りなぴっぴさんはもともとリンダカラーのファンだったんですよね。どういう経緯で加入したんですか。 Den りなぴっぴは、僕らを観に来てたファンの子の友達だったんですよ。単独ライブの出待ちで、りなぴっぴに「楽しそうでした。私もあの中に入りたかったですよ〜」と言われて、体に稲妻が走りました。「ファンを入れる」ってこれは新しいんじゃねぇかと。 ──りなぴっぴさんの軽口を真に受けたと。 りなぴっぴ 本気で言ってたんですよ!(笑) それまで、就職したりバイトしたり、いろいろやってたんですけど、全部楽しそうだからやってみてて。たしかにDenさんに話しかけたときは、「絶対入りたい!」っていうわけではなかったけど、「えー楽しそう! やりたい!」とは思ってました。だから実際に誘ってもらったときも「えー! やったー! おもしろそー」ってすぐオッケーしました。 Den とんでもない女ですよ。このノリを目の当たりにして僕も、とんでもないこと起きるんじゃないかって頭の中がスパークしたんです。 ──たいこーさんは、Denさんの突然の提案にどう思われましたか。 たいこー 提案なんかなかったっすよ。ある日、ネタ合わせで喫茶店に行ったら、知らない女の子がいて、Denが「この子、今日から入るから」って言われて……。まぁ決まってるなら、しょうがないかぁって。 ──すぐ受け入れたんですね。 たいこー いや、パニックですね。今もまだテンパってますから。 りなぴっぴ めっちゃ正直にいうと、私もたいこーさん見てびっくりしました。Denさんとお笑いができるから入ったので、たいこーさんは、いることも知らなかった(笑)。 Den はっはっは(笑)。 たいこー 信じられないですよ。だって、りなぴっぴが観に来てたのって、俺たちの新ネタライブだったんですよ? りなぴっぴ でも後輩の人たちも出てましたよね。 Den 企画コーナーで出てたな。 りなぴっぴ 私、お笑いがまったくわからなくて。漫才とコントの違いとか、コンビとかトリオもよくわからなくてメンバーっていう概念も知らなかったから、Denさんとたいこーさんの関係が見えてなかったです。 Den この捉われなさ、すごくないですか。衝撃ですよ。俺らは漫才の型に捉われないっていろいやってましたけど、そんな俺たちより自由なヤツがいた。俺らの「漫才を壊したい」って結局“ありもの”へのアンチテーゼでしかなかった。そういう認識も超えたりなぴっぴが入ったら何かが変わるって確信しました。 ──りなぴっぴさんは、実際に入ってみてどうでしたか? りなぴっぴ えー、楽しかったです。ふふふ(笑)。 「漫才はやりたくない」 ──3人での初舞台はどうでしたか。 Den 最初は単純に、僕とたいこーの漫才を、うちわを持ったファンであるりなぴっぴが応援してて、僕がファン対応を見せるって感じのネタでしたね。ファンを舞台に上げるっていうコンセプトがおもしろいと思ってたので。 たいこー 最初はエントリーライブだった。 りなぴっぴ しかも、入るって言った日にネタ合わせして、そのままライブでしたよね? たいこー そう。俺はDenとふたりでネタをやるつもりだったのに、初対面の新メンバーと漫才やって。だからパニックで、3人の初舞台はあんま記憶にないんですよ。 Den しかも最初は全然ウケてないっすね。お客さんも見方がわからなくて戸惑ってた。事務所ライブでもコンビ時代に観てくれてた人たちは、突然ファンが入ってきて、意味がわからなかったんじゃないかな。 たいこー 俺もお客さんと同じです。意味わかんなかった。 りなぴっぴ 私もウケるとかウケないとかもよくわかんなくて。「楽しい!」ってだけでした。 Den 手応えを感じてたのは、僕だけなんですよ。僕にしかビジョンは見えてない。だから初舞台からしばらくはまったくウケてないですね。 ──でも成功する確信はあった。 Den 絶対大丈夫だなって自信はありましたよ。 ──カリスマンザイはどういう経緯で誕生するんですか。 Den 時代に合ったものを作ろうってところからですよね。僕のカリスマをどう浴びせようか。そのためにどういう装備で行くか。テーマは決まってるんで、あとはガワをどうするかだけ。どうやったら世の中の人が見やすくなるかを考えてたら、今のかたちになりました。コンビ時代は、ふたりでネタという作品を追求してましたけど、今はリンダカラー∞そのものを作品にしようっていう感覚です。 ──コンビ時代のDenさんは黒髪・メガネで、今とはだいぶ雰囲気が違いますよね。どうやって仕上げていったんですか。 たいこー あんま覚えてないんですよね。 りなぴっぴ でも、私が初めて見たときはもう金髪でしたよ。 Den なんかね、芸人になってからしばらくの間、芸人らしくしなくちゃいけないと思いこんでたんです。養成所のころはもっと派手で、ピアスもしてたし、(ルイ・)ヴィトンのボストンバッグで養成所ライブに行ってましたから。あるとき、事務所の先輩・ハナコの岡部(大)さんに「君、芸人……?」って言われて、「俺、芸人っぽくないんだ」と知って、黒染めしてメガネかけたくらいで。実際、岡部さんの言うとおり、イカつい格好してると、お客さんも笑ってくれない。だから最初は自分らしくできなかった。 りなぴっぴ 今のDenさんが好きです。 Den ありがとう。 りなぴっぴ あと、私、踊りたかったんで、カリスマンザイできてうれしいです。ミュージカルとか好きだし。 Den 漫才はやりたくないって言ってたよね。 りなぴっぴ しゃべってるだけだとつまんないって思っちゃう。踊ってるほうが楽しい。音楽も欲しいし。 Den このりなぴっぴの自由な感覚が、リンダカラーには欠けてたんですよ。 ──りなぴっぴさんが加入したことで、リンダカラーは「インフィニティ=無限大」の可能性を手に入れたと。今年の『おもしろ荘』(日本テレビ)では準優勝しました。 Den 本当は去年優勝するつもりだったんですけどね、1年目は落ちちゃって。そこはトリオになって唯一の誤算でした。前編で話した、養成所のランクづけでAクラスに入れなかったときと同じ感覚になりましたね。「この俺たちが? ウソだろ」って。まぁまぁ今年、結果残せてよかったですよ。 ──ちなみに、りなぴっぴさんを真ん中に立てるアイデアはなかったですか。 Den それはないですね。りなぴっぴのおもしろさは、僕らから押し出すと、原石のまま終わってしまう。芸人ってひねくれてるから、こっちから押し出したものはあんまりイジりたくない生きものなんです。りなぴっぴはまわりの人たちに磨かれてこそだと思うんで、そこは気をつけてます。 りなぴっぴ いつも「りなぴっぴはそのままでいいよ」って言ってくれます(笑)。 Den 俺がフロントマンとして立ってるんで、りなぴっぴには変わらず、才能一本でやっていってほしいっすね。 世界進出で、地元を振り向かせたい ──これからますます勢いづきそうですが、リンダカラー∞の目標はなんですか。 Den 今もらえる仕事をがんばるのが前提ですけど、今後はもうちょっと可能性広げたいんで、世界っすね。 ──世界のカリスマになっていく。 Den 『ゴット・タレント』でチョコプラ(チョコレートプラネット)さんとか(とにかく明るい)安村さんが活躍して、全然夢じゃないなと。日本と世界で活躍して、相乗効果を狙ってます。あと、りなぴっぴが海外好きなんで行かなきゃいけない。 りなぴっぴ 行きたくて、アメリカ。来年くらい行きたいですね。 Den りなぴっぴは「世界行きましょう!」って簡単に言うんですよ。でもそう言われて「いや、行けるかぁ!」とも思わない。「おもしれぇから、世界行くか」って感じですね。 ──ちなみに個人としてのそれぞれの目標は? Den 俺だけの目標かぁ……出てきただけでお客さんが失神するレベルのカリスマになりたいっすね。せっかくカリスマやらせてもらってるんで、カリスマの価値をどこまで上げられるか試したい。 ──ザ・カリスマってすごいですよね。かつては「カリスマ美容師」という言葉がありましたけど、Denさんは「カリスマ芸人」ではないし。 Den カリスマ芸人っていったら、(千原)ジュニアさんとかでしょ? 俺が目指してるところは「カリスマ・オブ・カリスマ」なんで。「職業:カリスマ」のヤツなんていないじゃないですか。そこの価値をどこまで上げられんのか、そこはシンプルに追求していきたいっすね。 ──りなぴっぴさんがやりたいことは? りなぴっぴ えー、いっぱいあります! どうしよう。 Den 全部言っていいよ。 りなぴっぴ アメリカのアニメとか好きだから、アニメの声もやってみたいし、洋服とかメイクも好きだから、そういう仕事もしたい。絵描くのも楽しいから、描きたいし。将来はアメリカに住みたい。 Den すごいでしょ? お笑い芸人にはまったくない、まっすぐな価値観ですよ。この逸材を見つけてもらうために、俺もいろいろ仕掛けてやんなきゃって思いますよ。丁寧に育てたい。芸人としてもすごく優秀なんで、バランスを見ながら、スターを目指してほしいですね。 ──たいこーさんはいかがですか。 たいこー 目標かぁ……。今、わかんないっすね。何をしたいのかもわかんないし、リンダカラー∞の、この状況についていくのに必死なんで。トリオの目標も、個人的にやりたいことも、これから探します。 ──それにしてもここ数年のDenさんとたいこーさんの活躍ぶりには、地元の友人たちもびっくりしてるんじゃないですか? たいこー なんも言ってこないっすね。 Den 地元のヤツらは興味ないんっすよ。テレビに出ても何も連絡来ないっす。 たいこー 普通に「飲み行こう」って連絡は来るけど。まぁそのほうが気楽でいいっす。 Den 一緒に飲んでて、ファンから声かけられたときも、アイツらは冷たい目で見るだけですから。普通、地元の友達だったら「本当に有名人じゃん、すごいね」とか言うでしょ? でもさすがに世界行ったら「ギャフン!」って、本当に声上げると思いますよ。 ──地元の友達の心をつかむのが一番難しい。 Den いや、マジでそうっすね。仮にコンビ時代にM-1で優勝してたとしても何も言われなかったでしょう。世界を獲れば、さすがにアイツらも振り向くだろうね。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 リンダカラー∞ Den(1994年2月22日、神奈川県出身)、たいこー(1993年8月5日、神奈川県出身)、りなぴっぴ(1998年2月10日、山形県出身)のトリオ。2017年、小学生から幼なじみだったDenとたいこーで前身となるコンビ「リンダカラー」を結成。2022年5月、Denのファンである りなぴっぴが加入し、「リンダカラー∞(インフィニティ)」に改名する。2024年、若手芸人の登竜門『おもしろ荘』(日本テレビ)で「カリスマンザイ」を披露し、準優勝した。 【後編アザーカット】
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自分たちのおもしろさを疑わなかったコンビ時代…カリスマ率いるリンダカラー∞の初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#32(前編)
ひとりのカリスマが、ふたりの信者の相談に乗る「カリスマンザイ」で、今ブレイク中のトリオ・リンダカラー∞(インフィニティ)。 誰も見たことのない“漫才”で注目を集めるが、実は3人組になったのは2022年と最近だ。紅一点の りなぴっぴ加入前は、カリスマのDenと、坊主頭のたいこーのコンビだった。 芸人たちの初舞台について聞くインタビュー連載「First Stage」。この前編では、小学生からの幼なじみであるDenとたいこーの出会いから初舞台、りなぴっぴの加入までが明かされる。 若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage> 注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。 目次幼なじみの初舞台は、修学旅行俳優でもアーティストでもよかったけど 「俺たちがおもしろくない可能性あんのかよ!」漫才の枠をぶち壊したかった 幼なじみの初舞台は、修学旅行 左から:りなぴっぴ、Den、たいこー ──先に撮影を行いましたが、3人とも最高でした。 Den 僕らは被写体がうまいんでね。 ──Denさんの堂々とした佇まいと、たいこーさんの強い眼差し。ふたりは芸歴8年目なので、まだわかるんです。でも、2年前にまったくの素人からスタートしたりなぴっぴさんの表情が、カメラを向けられた瞬間に一変したことに驚きました。もともと芸能関係の仕事をしてたんですか? りなぴっぴ 全然してないです。ずっとバイトとかしてました。 Den りなぴっぴは、もう完全にプロですね。 ──カリスマであるDenさんの指導の賜物? Den いやいや、完全なるポテンシャルです。僕ら3人の中で、一番スター性があるのが彼女ですよ。 りなぴっぴ ありがとうございます(笑)。 ──そんなりなぴっぴさんのこともすごく気になるんですが、リンダカラー∞の歴史を、順を追って聞きます。Denさんと、たいこーさんは、小学校の同級生なんですよね? Den そうですね。小学校3年生で同じクラスになって以来、ずっと一緒にいる仲間です。学校が終わると、たいこーの家に遊びに行くのがルーティーンでしたね。 たいこー 親が共働きで家に大人がいないんで、みんなが遊びに来てました。 Den 何人かで集まってましたけど、それぞれゲーム、マンガ、パソコンでエッチなもん見るって感じで、みんな自由にやってましたよ。 ──学校生活はどんな感じでしたか。 Den ウチの小学校ってちょっと特殊で、マジメに勉強する文化がなかったんですよね。 たいこー 正直にいえば、荒れてましたね。 Den なんかもうね、みんな、善悪があんまりわかってなかった。僕も校長室登校を1カ月させられてました。あえて悪さをしてやろうなんて気持ちは、これっぽっちもなかったんですけど。 たいこー ただ、ふざけてただけ。それが笑えると勘違いしてたんすよ。 ──中学生では、より荒れた? Den いや、中学で変わるんですよ。普通、中学校って運動ができるとか、ヤンキーでケンカ強いヤツが力を持つじゃないですか。でも僕らの中学校は、おもしろいヤツが一番だし、モテました。 ──ちなみにDenさんはおもしろいヤツでしたか。 Den もちろん。最強でしたよ。 ──おふたりは横須賀の出身ですね。 Den 横須賀にお笑いの文化があるわけじゃないし、中学も上の世代はとんでもなく荒れてたんで、僕らの代だけおもしろいのが正義でした。上の世代の影響で、修学旅行の行き先も岩手でしたもん。定番の修学旅行先に行くと、他校の学生とケンカするから(笑)。僕らの学年は平和主義だったのに。 たいこー 岩手ではホームステイして、川下りとかして楽しかったっすね。 Den そういえば、たいこーとの初舞台は中3のときの修学旅行ですね。僕とたいこーと、友達ふたりで漫才をやりました。 ──4人で漫才って、すでに型に捉われてなくて、すごいですね。 Den 自由ですよ。お笑いをやるのは好きだけど、観る側としてはあんま知らなかったし。だからネタを作るときも「漫才ってこんな感じじゃね?」って、みんなで話し合って考えましたね。まぁ結局は、いつものノリで舞台出れば大丈夫っしょって感じでやりましたけど。 たいこー まぁ中学生の余興なんて、知ってるヤツが出てくるだけで盛り上がるんで。ネタでウケたっていうよりも、みんなずっとテンションが高いって感じでしたね。 ──どんなネタをやったんですか。 Den 漫才コントをやった記憶があるけど、あんまり覚えてないんですよ。まぁ4人でネタ作るのも、披露するのも楽しかった。それだけです。 俳優でもアーティストでもよかったけど ──中学で漫才をやって芸人になることを意識し始めた? たいこー いや、それはないっすね。僕ら、高校は別々で。俺は高校卒業で就職して、Denが大学卒業したころに、俺から誘いました。2017年ですね。 ──たいこーさんは、なんで芸人になりたいと思ったんですか。 たいこー 自分がやってみたらどうなるんだろうって気持ちだけですね。別にめちゃめちゃ熱心にお笑いを観てたわけでもないし、特別好きな芸人がいるわけでもない。『M-1(グランプリ)』の出囃子に乗って出てくる感じがかっこよくて憧れてました。 Den たいこーに誘われて、すぐやることにしました。僕はちょっと就職活動もしましたけど、本気ではなくて。でも正直、自分のカリスマを世界に見せつけられるなら、俳優でもアーティストでもなんでもよかった。ただ、自分の能力値を考えると、お笑いがずば抜けてたんで、芸人になろうと。 ──ふたりは23歳で、芸人の養成所に入りました。なぜ、ワタナベエンターテインメントの「ワタナベコメディスクール」を選んだんですか。 たいこー どんな事務所があるのか、よくわかってなかっただけです。吉本は知ってたけど、上下関係が怖いらしいっていうのは聞くからやめました。 Den 小学生のころ、さんざん怒られてきたんで、もうコリゴリなんですよ(笑)。 たいこー 地元のモスバーガーの2階で、いろんな養成所をネットで調べてワタナベに決めたよな。 Den そうだったわ。検索して最初に出てきた事務所にしようって言ってたら、吉本の次が、ワタナベだった。 ──ワタナベのSEO対策が見事だった。 Den 実際、ワタナベでよかった。「先輩の言うことは絶対!」とか、ないから。 ──「お笑いがずば抜けてる」という自己認識だったDenさんは、養成所でも抜きん出てましたか。 Den もちろん、人間としては「俺はレベルがちげぇな」って思ってましたよ。でも、ネタは作ったことがなかったんで、ロジックもわからなくて、そこは苦労したかな。それこそ、芸人としての初舞台では、心がぽっきり折れた瞬間がありましたね。 「俺たちがおもしろくない可能性あんのかよ!」 ──何があったんですか。 Den 最初のランク分けで、Bランクになったんですよ。最初は「なんで俺らがAじゃねぇんだよ」とも思いましたけど、よく考えたらプロの作家が見て「B」なんだからこれが事実なんだろうと。「あの俺たちがおもしろくない可能性あんのかよ!」ってかなり落ち込みましたね。次のランク分けのライブに出るまでの1カ月間はしんどかった。 ──カリスマ、初めての挫折。 Den まぁそっからすぐAランクに上がって、そこで優勝するんですけどね。でも、あの初舞台は鮮明に覚えてる。今までの自分を否定された感覚に陥りましたから。あの感覚は、あの瞬間、あの場所でしか得られないものだった。 たいこー 俺は大丈夫だと思ってましたよ。まぁすぐに勝てるだろって。 ──たいこーさんも大物感があります。 たいこー いや、当時はお笑いの世界のことがよくわからなかっただけですね。養成所でも、お笑い好きの人たちがトガった感じでマウント取ってくるのが、意味わかんなくて。単純におもしろいこと言えばいいだけなのに、何やってるんだろうって思ってましたよ。 Den たいこーは、こういうとこカッコいいんですよ(笑)。まぁ俺も、速攻で「やっぱりレベル違うじゃん」と、折れて落っこちてた天狗の鼻をつけ直しましたよ。これが俺の標準装備だから。 たいこー でも、もっとヤバい初舞台もありました。養成所に入る前、アマチュアとして1回だけM-1の1回戦に出たんですよ。東京だとちょっと厳しいから、大宮の劇場に行って。トップバッターだったんですけど、舞台に出て10秒くらいでDenがネタを飛ばして。それで俺もテンパってゴチャゴチャした記憶があります。 Den こいつウソついてます。 たいこー はぁ? Den 10秒じゃない。3秒だよ。 りなぴっぴ ははは(笑)。 Den たしかにあれは初めての感覚だったっすね。今思うと極限状態だった。テンパってる自分と、その自分を客観的に見てる俺が共存してた。 たいこー でも、なんかウケたんだよ。 Den そう、これはすごいことですよ。記憶も曖昧で、真っ白の状態で、笑いを起こしたんですから。 たいこー 今思えばあり得ないんですけど、「こんだけウケたら、1回戦通るだろ」って思ってたわ(笑)。 Den それは俺もよ。 たいこー ネタのクオリティを審査員が見てるとかもよくわからなかったから、単純に笑いの量だけだったら、俺らもいけるんじゃないかなって勘違いしてましたね。 漫才の枠をぶち壊したかった ──養成所を卒業してすぐ、若手芸人によるテレビ番組『ウケメン』(フジテレビ)にもレギュラー出演するようになりました。 Den 『はねトび(はねるのトびら)』(フジテレビ)の総合演出・近藤真広さんも入ってたんで、 王道の活躍路線ですよ。僕らは最年少で入れてもらったので気合いも入ってました。結局、力及ばずで2年弱で終わっちゃいましたけど。 ──当時のインタビューを読むと「ボケのデンさんが投げかける突拍子もない設定に、たいこーさんが熱いツッコミで応える」とあって、想像つかないんですが……。 たいこー ははっ(笑)。 Den 僕がアフリカに行ったというネタをやってるころとかですかね。アフリカの辺境の地でオリンピックが開催される。そこで僕が選手宣誓をお願いされそうだと。日本人ってバレたら、槍でひと突きされちゃうから、ちゃんとしなきゃっていうネタで。そこには理由もなければ道理もない、ナンセンスですよね。ほかのネタも「なんかこの景色見たことあんな」から入って「デジャブだわ」って4分間言い続けるとか。めちゃくちゃでした。 ──型にはまった漫才が嫌いだった? Den そうっすね。「お願いします」「いきなりなんだけど」「ありがとうございました」って定型文とか使って、漫才っぽいことをする。そういう漫才の枠に捉われたくなかったんですよね。とにかく新しいものを生み出したかったですね。 ──その思いでふざけ倒すDenさんに、たいこーさんは熱いツッコミを返していたと。 たいこー 熱いツッコミっていうか、単純にすごくでかい声出してただけです(苦笑)。 Den 僕のボケで、たいこーが困ってるのがおもしろいんですよ。それは小学生のころから変わらない。昔はネタとか平場でたいこーを困らせてたけど、りなぴっぴが入った今は、人生まるごと使って困惑させるのが、テーマになってますね。 たいこー リンダカラー∞になってから、もう2年経ちますけど、いまだに戸惑ってます。 Den ふたりで漫才やってるときは、伝統と歴史がある漫才文化をとにかく壊したかったんですよ。でも、リンダカラー∞になってから「壊す」よりも「作る」ほうに関心が向いている。古い漫才をぶっ壊すんじゃなくて、新しい漫才を立ち上げる。この3人なら、やれますね。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 リンダカラー∞ Den(1994年2月22日、神奈川県出身)、たいこー(1993年8月5日、神奈川県出身)、りなぴっぴ(1998年2月10日、山形県出身)のトリオ。小学生から幼なじみだったDenとたいこーで前身となるコンビ「リンダカラー」を結成。2022年5月、Denのファンである りなぴっぴが加入し、「リンダカラー∞(インフィニティ)」に改名する。2024年、若手芸人の登竜門『おもしろ荘』(日本テレビ)で「カリスマンザイ」を披露し、準優勝した。 【前編アザーカット】 【インタビュー後編】 カリスマが見据える先は、世界と地元…リンダカラー∞のネクストステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#32(後編)
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活躍の場と規模を広げていく、兄弟演劇ユニット・THE ROB CARLTONのネクストステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#31(後編)
京都を拠点に活動する劇団・THE ROB CARLTON。浮世離れしたラグジュアリーな人間たちの、不毛な会話劇が魅力だ。 近年、東京での公演にも力を入れるが、コロナ禍は大きな壁として立ちはだかった。その危機を乗り越えた今、追い風が吹いている。 さらに、演劇だけでなくコントにも注力するTHE ROB CARLTONに、これからの拡大戦略を聞いた。 ちなみに、作・演出を務める村角太洋は、役者名をボブ・マーサムという。弟の村角ダイチは、太洋を「ボブ」と呼ぶので、本文はそれに従う。 【インタビュー前編】 不毛な会話劇で魅せる兄弟演劇ユニット・THE ROB CARLTONの初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#31(前編) 目次「HEP→ABC」関西劇団のステップアップコロナに阻まれた東京進出THE ROB CARLTONのコント流儀「存在感を引っ込める」おじさんになって説得力が増す 「HEP→ABC」関西劇団のステップアップ 村角太洋(ボブ・マーサム) ──THE ROB CARLTONは京都を拠点に活動されている劇団です。関西の演劇シーンはいかがでしょうか。 ボブ 僕らみたいなコメディの系譜でいうと、2世代上にMONOさんがいらっしゃって、年齢的に10歳くらい離れたところにヨーロッパ企画さんがいらっしゃる。まずは、このふたつの劇団のような動きができたらいいなと、昔から思っていました。 ──劇場の規模としては、どういうふうにステップアップしていくんですか。 ボブ 僕らのときは梅田のHEP HALLでまずやりたいんですよ。あそこは200席くらいで、わりとぎゅっとした空間だけど、大阪のイケてる小劇場なんです。その次というと、これも梅田のABCホール。ここはそれこそMONOさんとかヨーロッパ企画さんがロングラン公演をされるところです。最大で300席超のキャパですね。僕らはこの10月にABCホールで公演を行います。 村角ダイチ ──東京でいうと、下北沢の本多劇場より少し小さいくらいの規模でしょうか。THE ROB CARLTONが、HEPホールに初めて立ったのはいつですか? ボブ 2015年ですね。 ──旗揚げは2011年ですから、かなり早いんじゃないでしょうか。 ボブ いやね、このときは無理やり行ってしまったんですよ。一度やってしまおうと。当然ロングランなんて無理なので公演数も減らしました。それからまた4年くらいはHEPさんにお世話になってます。 ──当時は無理やりでも一度立つことが必要だった? ボブ そうですね。HEPホールでやることによって、気づいてくれる層は確実にいますから。実際、あのときはやせ我慢してよかったなと思ってます。僕らは劇団を始めたのも30歳近くになってからで遅かったから、急ぐ必要がありました。若くて勢いのある子たちは、20代のうちにHEPに立って、30代早めにABCに行く。そこに合わせるとなると、早く行かなきゃいけなかった。 ダイチ そういうところ、ボブはめちゃめちゃ戦略的に考えられるんですよ。もしボブがぼやっと「俺たちの演劇がわからないヤツらはダメだ」みたいに独りよがりな考え方をするヤツやったら、たぶんケンカしてましたね(笑)。僕が考えるようなことの数手先を見てボブは動いている。だからここまで信じて、ついてこられたところはあります。 ボブ 失敗は多いですけど、意識して動いてきたから、なんとかここまで来られた。その安堵感はあります。でも、大きな後悔がひとつだけあるんですよ。 コロナに阻まれた東京進出 ──大きな後悔とはなんですか? ボブ もう2年早く、東京に出てればよかったなと。東京での初公演は2018年2月、赤坂RED/THEATERで行いました。それからは毎年1回、東京でやろうと決めていた。でも、その2年後にはコロナ禍になってしまったんです。もしも、HEPホールをやった翌年の2016年に、その勢いのまま東京で初公演を打っていれば、コロナ禍までに4回はできた。それが実現していたら状況はかなり違ったんじゃないかと思ってしまうんですよ。 まぁコロナは誰にも予測できない事態だったので、しょうがないですけど……でも早くやっておくことに越したことはなかった。そのことは後悔してもしきれないですね。 ──なぜ2016年に東京公演をできなかったんですか。 ボブ やっぱり金銭的な問題が出てきたんです。東京公演が毎年できるような体制を整えるのに、ちょっと時間がかかったんですよね。でも今思えばほかのやり方があったかもしれない。それこそ、やせ我慢を続けていたらよかったのかもしれません。 ──演劇でも、東京と関西ではお客さんの反応も違いますか? ボブ やっぱり違いますね。東京のお客様のほうが、反応が細かい感じがする。90分の上演中、どのシーンでも誰かしら笑ってくれているといいますか。関西は公演日によって、けっこう反応に差がある気がしますね。 ダイチ 関西では、お客さんのほうも僕らを見慣れているから、反応がまろやかになるのはしょうがない。東京のほうが物珍しく見てくれてはるな、という印象です。 ボブ だから東京でも、もっと公演をやりたいんですよね。これからは年に1〜2回は東京でやるつもりです。そしたら関西でも新鮮に見てもらえるようになるかもしれませんし。 THE ROB CARLTONのコント流儀「存在感を引っ込める」 ──THE ROB CARLTONは今年に入ってひとり離脱し、ボブさんとダイチさんのふたりになりました。今、東京公演の話もありましたが、今後の戦略を伺ってもいいですか。 ボブ そうですね、図らずもふたりになってしまったので、戦略の変更は余儀なくされましたが、大枠は変わらないです。関西が我々のベースにあるので、そこで定期的に公演を続けながら規模を拡大していく。そして先ほど言った東京公演もコンスタントに行うと。 『テアトロコント』(演劇人とコント師が競演するライブ。ダウ90000躍進のキッカケにもなった)にも呼んでいただきましたが、コントだと演劇よりもお金をかけずに、いろんな方々に我々を見てもらえる。こういう機会を増やしていけたらなと思いました。 ──その『テアトロコント』では30分の持ち時間で、コントを5つ披露されました。いかがでしたか。 ダイチ コントを次々とやっていくのは初めてで、忙しなく切り替えていく感じが新鮮で楽しかったです。 ボブ ある種の気軽さが楽しかったですね。普段の演劇公演は根を詰めて準備するから、メンバー同士の関係性も不安定になるものです。そして僕は作家&演出&出演なので、そこで揉めることは少なからずある。これは産みの苦しみなので仕方ない。ところが今回5本のコントを一気にやったときは、ひたすらやるしかないね、という気楽さがありました。瞬発力勝負の心地よさですね。 ──THE ROB CARLTONは、ネタ番組に出ても注目されそうです。 ボブ もちろん出られたらうれしいですよ。まずは存在を知っていただくことが大事ですから。ただ、テレビの数分間に耐えられるものを僕らが作っていけるかといえば、そう簡単なことじゃない。芸人さんたちは四六時中、コントと向き合っているわけですからね。 ──とはいえ近年、コントでも演技力がかなり重視されるようになっていて、抜群の演技力を持つTHE ROB CARLTONにも、時代の追い風が吹いているように思います。 ボブ たしかにコントにも演劇的な要素が求められるのは、僕らが学生のころにはなかった傾向です。そのトレンドにうまくマッチすればおもしろいでしょうね。でもコントを本職にされている方々は、引き出しが多いじゃないですか。キャラクターの幅が広く、ギャグもできて、おまけにお芝居もうまいわけで。 ──今回は芸人のコントと差別化するような、演劇的なアプローチで作られたコントがあって印象的でした。 ダイチ それはすごくうれしい、狙いどおりの感想を言っていただけました(笑)。 ボブ たしかにいくつかのコントは、演劇的なアプローチで作りましたね。通常のコントって、誰が演じているのかがかなり重要ですよね。 ──芸人自身のイメージが、コントのキャラクターにもある程度反映されて笑えるという構造はありますね。 ボブ しかし演劇の場合は、演じる本人の存在感を薄めるといいますか、引っ込めるといいますか。誰が演じているのかを、お客さんに意識させないようにする。そのアプローチをコントにも導入してみました。 ダイチ 特にボブは、極端なほどに自分を出さないですね。 ボブ このキャラクターは実在する、ということを納得させられれば、絶対にそのおもしろさが伝わると思っているんです。だから自我を出さずに演じることを徹底しています。 おじさんになって説得力が増す ──これからもTHE ROB CARLTONのコントをたくさん観たいです。 ボブ ありがとうございます。意外とね、舞台美術という制約がないから、いろいろアイデアが浮かんできて考えやすかったですよ。もっとやりたいです。でも、演じるのはやっぱり難しかったね。 ダイチ お芝居やったらね、物語の流れがしっかりあるから感情の持っていき方も段階を踏んでやりやすいんですけど、5分〜10分となると、急に感情を変えなアカンから、不慣れで難しかった。 ボブ 「本当にそういう気持ちになるかな?」と、ディテールを考え出すと、コントの演技には入り込みにくい。演劇的な脳みそでやると、つまずいてしまうんですよね。あと、前編でも言いましたが、僕らのコメディはボケもツッコミもいないわけです。 登場人物は自分が正しくて、常識人だと思っているけれど、その認識がそもそもズレている。そのズレを観客が楽しむのがコメディなんですよね。それが可能なのは、90分という時間をかけて、丁寧に物語と人物を説明できるから。 ──5分程度のコントで、そこを丁寧に見せるのは至難の業ですね。 ボブ そうなんです。だからこそコントにはボケとツッコミが不可欠なんですよね。 ──ここで笑ってください、というメタ的な指示として、ボケとツッコミは優れていますね。 ボブ 機能として抜群に優れていますよ。そこはまだまだ勉強しなくちゃいけないです。 ──THE ROB CARLTONは、ゴージャスな雰囲気だったり、重厚感のある演技も魅力なので、年齢を重ねれば重ねるほど、キャラクターとおふたりの存在感がハマって、よりおもしろくなるような気がします。 ダイチ それは本当にそうですね。実際、おじさんになっていくにつれて、やりやすくなってきましたから(笑)。 ボブ 昔はどこかしら無理して、おじさんを演じてたからな。今ではいい意味で動きが遅くなって、所作に重みが出てきてます。コップひとつ取るにしても、体が若いと機敏になっちゃうんですよ(笑)。若いうちは体も薄いからスーツも似合わなかったですし。その意味でもTHE ROB CARLTONは完全に遅咲きだと思ってるんで、僕ら自身ここから先が楽しみです。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 THE ROB CARLTON(ザ・ロブ・カールトン) 村角太洋(1984年7月21日、鹿児島県出身)、村角ダイチ(1985年11月24日、鹿児島県出身)による劇団。2004年、出身校である京都府立洛西高等学校ラグビー部のOBで「洛西オールドボーイズ」を結成。これが母体となり、2011年に「THE ROB CARLTON」が誕生する。ROBは「洛西オールドボーイズ」の頭文字であり、CARLTONは憧れのホテル「ザ・リッツ・カールトン」から取っている。10月には新作舞台『THE ROB CARLTON 18F「THE STUBBORNS」』を、東京と大阪で上演する。 新作舞台『THE ROB CARLTON 18F「THE STUBBORNS」』 【東京公演】 MITAKA“Next”Selection 25th 参加公演 2024年10月4日(金)〜14日(月・祝) 会場:三鷹市芸術文化センター 星のホール 【大阪公演】 2024年10月25日(金)・26日(土) 会場:ABCホール http://www.rob-carlton.jp/ 【後編アザーカット】
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不毛な会話劇で魅せる兄弟演劇ユニット・THE ROB CARLTONの初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#31(前編)
京都を拠点に活動する劇団・THE ROB CARLTON。大富豪や政治家など、浮世離れした設定とキャラクターたちが繰り広げる、不毛な会話劇が魅力の劇団だ。 作・演出を務め、俳優としても出演する村角太洋と、村角ダイチは兄弟である。幼いころから仲良しで、40歳を目前にした今もともに歩むふたりに、いくつかの初舞台を聞いた。 ちなみに、太洋は役者名をボブ・マーサムという。ダイチは太洋を「ボブ」と呼ぶので、本文はそれに従っている。 若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage> 注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。 目次「僕らのコメディにはボケもツッコミもいない」弟の文化祭演劇に脚本を書く「知らなすぎや!」劇場スタッフに叱られる意図せず不毛だった初舞台 「僕らのコメディにはボケもツッコミもいない」 左から:村角太洋(ボブ・マーサム)、村角ダイチ ──この連載では普段、芸人の方々のファーストステージ=初舞台について聞いているんですが、今回は劇団ということで異色回です。 ボブ そうですよね。そうそうたるメンバーの中にインタビューが載るのはありがたいですけど、私たちでいいんですか。 ──もちろんです! THE ROB CARLTONの演劇の魅力は、重厚な世界観の中で繰り広げられる不毛な会話劇ですが、その一方でコントにも挑戦されていますから。演劇にせよ、コントにせよ、創作のこだわりはなんでしょうか。 ボブ 知らないことはやらない、ですかね。重厚な世界観と言っていただきましたが、もともとそういう古い映画が好きだから、そのシーンを再現したくて作ってるんです。 ──自分の愛着から創作がスタートする。 ボブ 物語やキャラクター、設定の根底をどれだけ能動的に把握できてるかは、僕にとって重要ですね。THE ROB CARLTONは、僕がもともと好きなもの、興味のあるものを題材にしている。その説得力はあると思います。 ──喜劇を作っているTHE ROB CARLTONの、笑いの肝はなんでしょうか。 ボブ 僕らのコメディにはボケとツッコミが存在しないんです。それは、小さいころ親父に見せられてたアメリカのコメディ映画の影響だと思っていて。コメディ映画の登場人物って、みんな自分が「普通」だと思って行動するんだけど、それを観客側から見ると滑稽なわけです。自分の好き勝手に動いていたら、互いのアクションと思惑が絡み合って、どんどんカオスになっていく。そういう意味では、説明的になりすぎずに、キャラクターを理解してもらうことが重要だと思っています。 ダイチ キャラクターとシチュエーションをしっかり作り込まないと、お客さんはなんのこっちゃわからないので、そこは大変ですよね。 ボブ 逆にいえば、キャラクターとシチュエーションを理解してもらったら、あとは彼らが多少変なこと言おうが何しようが、お客さんたちは納得して見てくれるんですよね。シットコム(シチュエーション・コメディ)を作る感覚にも近いのかもしれません。 ──正統派のコメディなんですよね。 ボブ そう言ってもらえるとうれしいですね。時代遅れともいえるのかもしれないから(笑)。7月にはユーロライブで行われている演劇人とコント芸人が交差するライブ『テアトロコント』に呼んでいただきましたが、そこで観る芸人さんたちは、自分たちにはないロジックで笑いを作ってらっしゃっておもしろいし、演技も設定も巧みで。そこはすごく勉強させてもらってますね。 弟の文化祭演劇に脚本を書く ──ボブさんとダイチさんは、兄弟なんですよね。 ボブ そうです。だから初舞台っていったら、幼稚園生のころだと思います。ホームビデオが残ってるんですよ。家でふたり並んで蝶ネクタイを締めて演説してる。でも、ダイチがすねてるんです。 ダイチ そうそう(笑)。僕がしゃべろうと思ってたのに横取りされたんやろな。親に対してだけど、何かを演じて見せるのはアレが初めてやった。僕は幼稚園のお遊戯会でも、ひとりだけ目立つ役をやらせてもらって、それでちょっとした優越感を覚えた記憶がありますね。 ボブ それ聞いて急に思い出したんですけど、小学1年生のときにものすごい悔しい経験をしたんですよ。クラスで演劇をしたんですが、ある男の子が「先生。僕、チャーリー浜のセリフ言いたいです」って言い出して。実際、本番でその子がめちゃめちゃウケてて、それが悔しくてしょうがなかった。当時から人を笑わせたいっていう欲求があったんでしょうね。 ──実際に演劇をやるようになったのはいつからですか? ボブ 高校から脚本を書くのがおもしろくなってきました。高校の文化祭でクラスで演劇をすることになって、台本を書いたんですが……自分で立候補するのは気恥ずかしいから、うまいこと根回しして自分が書くことになるよう仕向けましたね。 ──なんで書きたいと思ったんですか。 ボブ もともと映画が好きで、映画監督になりたかったんですよ。いろいろ観ていくうちに、脚本を自分で書く監督がいることを知り、じゃあ書いてみようと。ただ、映画は簡単には撮れないじゃないですか。だから脚本だけいろいろ書いてたんです。人前で見せるための脚本は高校2年生の文化祭のときが初めてですね。 ──どんな物語でしたか。 ボブ もうハチャメチャで、いろんなマンガやアニメのキャラクターを全部出すみたいな感じです、今思えば恥ずかしい。でも学校の文化祭って客席は身内しかいないから、ある程度ウケてしまって。それで「自分には才能がある」って勘違いしちゃったんでしょうね(笑)。 ──でも、文化祭の持ち時間は少ないでしょうし、既存のキャラクターを使うと説明が省けるから、効率的でいいなと思いました。 ボブ たしかにそうですね。クラス演劇なので、いろんな人を出せるように、誰もが知ってるキャラクターを寄せ集めたところはあったかもしれない。 ダイチ 僕はボブの1学年下やから、その劇、観たんですよ。それで影響されて、僕も演劇をやりました。3年生のときは卒業してたボブに脚本を書いてもらって。ボブはずっと学校で目立つ人やったんで、僕の学年でもある程度信頼があって。「ダイチの兄ちゃんが書くんやったら大丈夫やろ」って感じで受け入れてもらいましたね。 ボブ ダイチに渡した脚本は『ゴッドファーザー』を下敷きにした話でしたね。自分で書いた脚本を、初めて客席から俯瞰して観られたので、勉強になりました。 「知らなすぎや!」劇場スタッフに叱られる ──ボブさんとダイチさんは子供のころから仲がよかったんですね。 ボブ 僕らは幼稚園も小学校も中学も高校も同じですしね。 ダイチ 僕らが小学校に上がるぐらいのタイミングで、九州から京都に引っ越したんですよ。僕は今でこそ関西弁ですけど、当時は言葉も違ったから、露骨にヘンなヤツ扱いされてしんどかったです。でも家に帰ったらボブがいるし、そっちで遊んでるほうが楽しい。ボブの友達とも一緒に遊んでました。 ボブ ダイチとは兄弟って感じもしないですね。僕ら三兄弟で、4つ下の三男がいるんですけど、彼はちゃんと弟なんですよ。会ったらお小遣いをあげたくなる感じ(笑)。でもダイチはもう友達に近い。 ダイチ 不思議な距離感やね。 ボブ でも僕らにとってはこれが普通だから。 ──高校卒業後、すぐにTHE ROB CARLTONを結成するんですか。 ボブ いや、僕は相変わらず映画が撮りたかったんで、海外に映画の勉強しに行こうと思ってホテルで働いてお金を貯めてました。でも同時に脚本を書いて、それを試したいから、(出身校の)洛西高校のラグビー部の連中を集めて、お芝居の真似事をやったんです。 ダイチ 「洛西オールドボーイズ」っていうそのまんまの名前でな(笑)。文化祭しか経験がなくて公演の打ち方もわからないのに、 一丁前に京都の劇場を借りてやりましたね。それが2004年か。 ボブ 照明も音響もわからない。すべて見よう見まねでやりましたね。 ダイチ 劇場の人たちに「知らなすぎや!」ってめちゃめちゃ怒られましたよ(笑)。 ボブ でも、そのスタッフのお姉さんたちも演劇好きなんで、呆れながら教えてくださいましたね。 ──洛西オールドボーイズが、そのままTHE ROB CARLTONになる? ボブ いや、あれは本当にただのお遊びで、2008年には終了しました。その後も僕は、結局3年ほどホテルで働き続けました。でもあるとき、やっぱり本気でやっていきたいなと思いまして。しかし中途半端に年食っちゃったんで、弟子入りもスクールに入るのも難しい。それならいっそ自分でやってしまえとTHE ROB CARLTONの旗揚げ公演を行ったのが、2011年の2月11日でした。メンバーの(入江)拓郎も、そのときに弟がバイト先から連れてきたんです。 意図せず不毛だった初舞台 ──その初舞台は覚えていますか。 ボブ 鮮明に覚えてますね。 ダイチ 最初の公演なんて恥ずかしくて思い出したくないんだけど、忘れられない(笑)。 ボブ 台本も見てらんないよな。今まさにタイムリーですけど、大統領が演説中に撃たれるというシチュエーションで、そのシークレットサービス側を描いた話でした。 ダイチ 大統領は助かるんだけど、銃弾が1個だけ見つからなくて、シークレットサービスが疑われると。それがしょうもないオチで……。 ボブ あらぬ容疑をかけられたシークレットサービスが、すっごいくせ毛だったんですよ。 ダイチ アフロヘアの中に銃弾が残ってたというね(苦笑)。 ボブ 今思えば、くだらなすぎてむしろおもしろい気がする。 ダイチ でも密室に閉じ込められるっていう場面があって暗転が明けたら、ドアが開きっぱなしやったんですよ(笑)。 ボブ それは終わってるわ、はははは。今思えば最悪だったね。記録映像を見返してもすぐに止めるほどです。 ──今振り返ればさんざんだったとはいえ、当時は達成感もあったのでは? ボブ いや、普通に落ち込みましたよ(笑)。稽古は盛り上がってたんですけどね。稽古中はシーンごとにやっていくんで、ポイントでしか捉えられなかったんですよ。一本の劇として全体で見通せてなかった。当時はおもしろいシーンがいっぱいできたら最高だよね、って感じでしたから。演劇って全体としての流れが重要で、波を作らないといけない。そんなことすらわからず、第3回公演までは試行錯誤してましたね。 ──初回からTHE ROB CARLTONの「芳醇な不毛な会話」という特徴は表れていましたか。 ボブ そうですね。ファーストステージの公演は、その最たるものだった気がします。今は不毛なものを作ろうと意図してますけど、当時は一生懸命やってるのにフタを開けたら不毛だっただけですけど。 ──天然で不毛だった(笑)。 ボブ そうそう(笑)。ちゃんと構築されたコメディがやりたいのに、できない。でも、あるときから、自分たちのよさは「この不毛さなんだ」って気づいて、これを人工的に作り出せれば、おもしろい演劇ができるのではなかろうかと思ったんです。人を笑わせたいのに、天然でやってたらダメなんですよ。 ──先ほど第3回公演までは試行錯誤していたとのことでしたが、4回目で何かつかんだんでしょうか。 ボブ そうですね。そこで初めて客演さんをお呼びしたんですよ。劇団メンバー以外の方が入ったことで、内輪ノリができなくなったのが功を奏しました。客演さんはもちろんのこと、その方を見に来るお客さんにもわかってもらうことを意識したんです。あの回が礎となって、THE ROB CALROTNの型ができましたね。 文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平 THE ROB CARLTON(ザ・ロブ・カールトン) 村角太洋(1984年7月21日、鹿児島県出身)、村角ダイチ(1985年11月24日、鹿児島県出身)による劇団。2004年、出身校である京都府立洛西高等学校ラグビー部のOBで「洛西オールドボーイズ」を結成。これが母体となり、2011年に「THE ROB CARLTON」が誕生する。ROBは「洛西オールドボーイズ」の頭文字であり、CARLTONは憧れのホテル「ザ・リッツ・カールトン」から取っている。10月には新作舞台『THE ROB CARLTON 18F「THE STUBBORNS」』を、東京と大阪で上演する。 新作舞台『THE ROB CARLTON 18F「THE STUBBORNS」』 【東京公演】 MITAKA“Next”Selection 25th 参加公演 2024年10月4日(金)〜14日(月・祝) 会場:三鷹市芸術文化センター 星のホール 【大阪公演】 2024年10月25日(金)・26日(土) 会場:ABCホール http://www.rob-carlton.jp/ 【前編アザーカット】 【インタビュー後編】 活躍の場と規模を広げていく、兄弟演劇ユニット・THE ROB CARLTONのネクストステージ|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#31(後編)
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さかたりさ(Daily logirl #209)
さかたりさ 1999年10月19日生まれ。熊本県出身 Instagram:risa_sakata_official TikTok:sakata_risa ドラマ『誘拐の日』(テレビ朝日)古賀彩佳役で出演中 撮影=青山裕企 ヘアメイク=MAFUYU 編集=中野 潤 【「Daily logirl」とは】 テレビ朝日の動画配信サービス「logirl」による私服グラビア。毎週ひとりをピックアップし、撮り下ろし写真を月曜〜金曜日に1枚ずつ公開します。
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東京女子流──大人へと成長した15年──“戦友”や後輩たちとの絆──集大成となるアルバムに込めた想い
東京女子流(とうきょうじょしりゅう) 2010年に結成された、山邊未夢・新井ひとみ・中江友梨・庄司芽生の4人によるガールズグループ。結成以来、日本武道館での2度の単独公演を成功させ、国内外でのワンマンライブも行うなど精力的に活動。ジャンルに捉われないハイクオリティな楽曲と、ダンス&ボーカルの可能性を追求したライブパフォーマンスで多くのファンを魅了し、ガールズグループ界の注目株として存在感を放ってきた。 2014年にスタートしたレギュラー動画番組『女子流♪(ノート)』(~2016年秋)の配信や、2015年に始まったlogirlでの庄司芽生のレギュラー番組『東京女子流 mei's*ダンササイズスタジオ』の生配信など、テレ朝動画との親交も深い。 2025年7月30日には、7枚目となるフルアルバム『東京女子流』をリリース。2026年3月31日にZeppDiverCityで開催されるラストライブをもって、約16年にわたる活動に幕を下ろすことが決定。その発表があった2025年5月3日のZeppShinjuku(TOKYO)でのライブの完全版『<完全版>東京女子流 15th Anniversary Live ~キセキ☆~』がCSテレ朝チャンネル1にて2025年7月19日(ひる0時~)に放送される。 テレ朝動画、logirlの基礎を築いたガールズグループのひとつともいえる東京女子流。レギュラー番組はもちろん、ソロとしてのゲスト出演なども多く、15周年を迎え、来年3月での解散を発表した今、この15年間の思い出やグループ名を冠した新作アルバム『東京女子流』について、いくつかの楽曲制作や番組プロデュースにも関わったことのある鈴木さちひろ(テレビ朝日)が話を聞いた。 インタビュー部屋に現れ、インタビュアーの顔を見るなり、鈴木の作詞曲「恋愛エチュード」(2014年)のサビを山邊が歌い出し、そこへコーラスを重ねつつ「この曲、女のコ人気高いんですよ!」とおどけながら踊り始める4人。一瞬にして懐かしい空気が満ちた中で、インタビューは始まった。 武道館/定期公演/サ上と中江/サンフランシスコ──駆け抜けてきた軌跡 ──今日はよろしくお願いします。まずは15年間の活動の中で、一番印象に残っている出来事を、おひとりずつ伺えますか? 山邊未夢(やまべ・みゆ) 私は、2012年に行った野音(日比谷公園大音楽堂)でのライブが一番印象に残っています。あのときは、セカンドツアー(『東京女子流 2nd JAPAN TOUR 2012〜Limited addiction〜』)のファイナル(5月20日「CONCERT*03『Rock you!』」)だったんですけど……女子流はそれまでサプライズみたいな演出がまったくないグループだったんです。でも、そのライブで、いきなり日本武道館での公演が発表されて。普段そういうのがなかったからこそ、もう本当にびっくりして……。 ずっと目標にしていたライブ会場だったので、すごくうれしくて、もう腰を抜かしちゃって、しばらく立てなくなったくらい(笑)。それくらい衝撃的だったし、うれしかったし……。15年間でいろんな思い出がありますけど、やっぱりあのときのことは絶対に忘れられないです。ファンの方の表情とか、自分の気持ちとか……本当に、今でも鮮明に覚えています。 ──その発表を経て迎えた、1回目の日本武道館公演(12月22日『TOKYO GIRLS' STYLE『LIVE AT BUDOKAN 2012』』)。当時“女性グループ最年少での武道館公演”とも言われましたが、実際に立ってみてどうでしたか? 山邊 ステージに立ったら「緊張するのかな?」って思っていたんですけど、逆に、まったく緊張しなかったんです。まわりのみんなはすごく緊張していたんですけど、私はまだ中学生だったこともあって、すべてを楽観的に受け止めていて……「やった!武道館だ!」って(笑)。本番前にオープニング映像を観ていたときも「うわ〜!」って、ただただ楽しい気持ちでワクワクしていました。本当になんの緊張もなくて、純粋にステージを楽しむだけでしたね。 でも今は逆に、どんなステージでもすぐ緊張しちゃうので……あのころは年齢的にまだ小さかったからこそ、そういう感覚だったのかもしれません。当時は、大人が敷いてくれたレールの上をただひたすら走っていたというか、がむしゃらに突き進んでいた感じでした。 山邊未夢 ──なるほど。ひーちゃん(新井)はいかがでした? 日本武道館での公演。 新井ひとみ(あらい・ひとみ) たしかに日本武道館でのことは、すごく印象に残っています。最後の最後まで、確認しなきゃいけないことがたくさんあって、もうひたすらそれに追われていました。リハーサルから本番直前の最終確認で変更されたことなんかもいろいろとあったんですね。私はちょっと理解が遅いので(笑)、それがなかなか頭に入らなくて。「あれ?私ってどう動けばよかったんだっけ?」って不安になったり。 でもそのとき「ひとみはそのままでいいよ」って言われて……それがすごく印象に残っています。本番は、もうやるしかないので。ここまでたくさん練習してきたからこそ、自信を持ってパフォーマンスできたっていう思いもあって……。だから、焦りもあったけれど、それも含めていい思い出になっています。 ──中江さんは、武道館公演を振り返ってどうですか? 中江友梨(なかえ・ゆり) 日本武道館をやってみて……そうですね、未夢も言っていたとおり、本番直前のことはすごくよく覚えています。「ああ、もう出るんだな……」っていう緊張感で、心臓のドキドキが止まらなかったです。たぶんほかのメンバーも同じだったと思うんですけど、自分に「できる、できる、やれる!」って何度も暗示をかけていました(笑)。 でも、ステージに出てからの記憶って、意外とないんですよ。始まった瞬間から曲があっという間に進んでいって……。ひとみも言っていたように、何度もリハーサルを重ねてきたので、それを頭の中で思い出しながら動いていたんですけど、「ライブを楽しむ」っていう余裕は正直なかったですね。終わったとき、「え、もう終わっちゃったの?」っていう気持ちのほうが大きくて。さっき始まったばかりだと思ったのに、気づいたら終わってた……って。 今思い返しても、あんなにすごいステージに立っていたんだって、実感があるようなないような、不思議な感覚です。子供って意外と怖いもの知らずで、勢いでワーッと飛び込んで「終わったー!」ってなること、ありますよね? まさにそんな感じだったなって。今はもう大人になったぶん、ステージ前の緊張もすごく大きくなりました。正直、今のほうがドキドキします。 ──めいちゃん(庄司)へは、少し質問を変えて……1回目を経ての、翌年2回目の武道館公演(12月22日『TOKYO GIRLS' STYLE『LIVE AT BUDOKAN 2013』』)はいかがでしたか? 庄司芽生(しょうじ・めい) 一番印象に残ってるのは、2曲目のときだったと思います。たしか「W.M.A.D」(2011年)だったかな。そのイントロの直前に、私が会場全体を煽るようなあいさつをする場面があって「ここから行くぞ、武道館!」みたいな盛り上げを担当していたんですけど……。そのとき、めちゃくちゃ噛んじゃって(笑)。大噛みというか、本当にびっくりするくらい噛んでしまって、みんなで「ズコーっ!」ってなっちゃったのを覚えています(笑)。でも、あの大噛みがあったおかげで、自分の中の緊張がちょっとほぐれた部分もあって。 いい意味で“武道館での大噛み”っていう歴史に残る瞬間になったんじゃないかな、って思っています。ただもう一回やり直せるなら、ちゃんと噛まずに言い直したい気持ちもありますけど……それも含めて、今ではいい思い出です(笑)。 ──ありがとうございます。では、続けますね。15年間の中で、ひーちゃんの一番印象に残っている出来事はなんですか? 新井 「一番」って、すごく難しいなと思うんですよね。いろいろあって、何が一番かなって考えたとき、私はワンマンライブでやってきた定期公演(2010年~)がとても印象に残っています。どの公演も、私たち自身で構成を考えたり、セットリストをどうするか悩んだり、本当に細かいところまで「ここでこういう演出をしてみる?」みたいに試行錯誤しながら取り組んできた記憶があります。 タイトルなんかも自分たちで決めるので、いつも「どうしよう!」ってなりながら(笑)……でも、毎公演まったく違うテイストのタイトルにしたりして、みんなで熱い時間を共有してきたのが、やっぱり定期公演だなって思います。 新井ひとみ ──タイトルを決めるときって、どなたかが主導して考えることが多いんですか? 新井 それぞれ、みんなで考えますね。 中江 うん、みんなでアイデアを持ち寄るよね。 山邊 「これいいよね」って言い合ったり、「ちょっと似てない?」とか、「これとこれ合体させてみる?」とか、そんな感じで(笑)。 ──なるほど。数ある定期公演の中で特に印象に残っている公演はありますか? たくさんあってひとつには絞れないと思いますが……。 山邊 衣装がガラッと変わったときなんかは、それに合わせて構成も変えたり、衣装のモチーフに合わせてパフォーマンスを工夫したりするので、印象に残りやすいですね。ハロウィンだったり、2月のバレンタインや3月のホワイトデーの時期のライブとか。 あと、「ノンストップライブ」はファンのみなさんもすごく好きで、そういうときのセットリストを考えるのは、私たち自身にとってもすごく悩みどころだったりします。 ──ありがとうございます。続いて、中江さんの印象に残っている出来事を。 中江 そうですね……今ちょうどライブの話になってたので、いろいろ考えていたんですけど、やっぱりどれも覚えてるし、武道館のときもすごく衝撃的だったなと思って。ふと思い出したエピソードを話してもいいですか? 女子流のオリジナル曲がまだなかったころ、2010年のデビュー前後くらいに、先輩アーティストの楽曲をカバーさせていただいたり、振りをつけてもらって、その中でパートを割り振って、歌詞も覚えて……という期間があったんですね。その時期は本当に毎日曲を覚えていて、ヘトヘトになって、合宿所……というほどじゃないけど、みんなで寝泊まりできる場所に帰ってきては、また翌日レッスンっていう日々だったんです。 今、そのころのことを急に思い出して、「ああ、あれも印象深いな」って……。自分たちの楽曲がまだなかったから、先輩方の曲を覚えるしかなかったんですけど、私はそれまでずっとダンスだけをやってきたので「歌って踊る」ってこんなに大変なんだって、そのときに初めて実感したんです。想像以上に体力が削られるし、歌とダンスの両立って、どっちかに集中しちゃうとブレちゃう。こんなに難しいんだ、って……。 振り付けをしてもらう段階で、初めてその現実を知って……今でももちろんそこにはずっと向き合っているんですけど、当時は衝撃的でしたね。グループとして活動する中で、それぞれのパートが決まっていて、それを完璧に覚えるというのがもう、みっちりレッスンみたいな感じで。本当に懐かしいです。 最近では、カバー曲もライブのテーマに合わせてたまに披露したりするんですが、当時みたいにがっつり「歌って踊る」を何曲も詰め込むっていうことは少なくなってきたので……あのときのことを思い出すと、今ではちょっとレアな経験だったなって思います。 ──今出てきた合宿所と、昔話でよく出てくる“女子流マンション”(※『女子流♪』#32~#35)って同じですか? 中江 「女子流マンション」と呼んでいたところは、また別な場所です。「女子流マンション」は月島にあったんですけど……さっき話した“合宿所っぽい場所”っていうのは、もっと短期間で、みんなで寝泊まりしていた、本当に初期の場所ですね。 ──なるほど。中江さんは、女子流メンバーの中ではひと足早く、ソロとして別ユニットでの活動(2015年に結成した、サイプレス上野とのヒップホップユニット「サ上と中江」)もされていましたよね。そのときのことはどう感じていましたか? 中江 「サ上と中江」は、私の中で本当に大きなきっかけで、チャレンジでした。ヒップホップというジャンルは、それまでダンスを通じて触れてはいたけれど、音楽としてちゃんと関わるのは初めてで。自分でラップをするというのもそうだし、フロアを盛り上げるという感覚もまったく初めてでした。 ああいうステージって、フリースタイル要素が強いじゃないですか。今までは、与えられた振り付けを何度もリハーサルして覚えて、それをステージで披露するという流れが普通だったんですけど、ラップの場合はリリックを覚えるのは一緒でも、その場の空気を読みながら、お客さんの気分を上げていく必要がある。それって、ものすごく度胸と自信がないとできないことなんですよね。自分が乗れていないと、会場の温度も下がっちゃうというか……。あの空気感って、本当にストレートに伝わるんですよ。 「サ上と中江」をやらせていただいたときは、自分のホームにサイプレス上野さんが来てくれたり、私がサイプレス上野さんのホームであるライブ会場やイベントに出演させてもらったりもして、本当に度胸がつきました。飛び込むっていう意味で、すごく大きな経験でした。 中江友梨 ──ほかのメンバーから見てどうでした? 山邊 すごく楽しそうでしたよ。友梨も本当に生き生きしていたし、客観的に見ても「友梨がサイプレス上野さんから吸収しているな」っていうのが、すごくわかりました。それが女子流のパフォーマンスにも反映されていて、たとえば煽りの部分とか、女子流はあまりラップ曲が多くはないんですけど……たまにあるラップパートでは、ゆりがサイプレス上野さんの近くで見てきたことが活かされている感じがあって。 MCとかも、お客さんの盛り上げ方が前とはガラッと変わった印象がありました。本当にいいエネルギーをサイプレス上野さんから受け取って、それを女子流に返してくれているというか……私たちとしてもすごくありがたかったです。 ──なるほど、ありがとうございます。めいちゃんが15年間の中で一番印象に残っている出来事はなんでしょう? 庄司 そうですね……ちょっと違う角度になるんですけど、海外でライブをやらせていただいたことがすごく印象に残っています。たぶん数えたら、全部で8カ国くらい行かせてもらっているんじゃないかなと思うんですけど。当時の私たちからすると、国を越えた先に自分たちのことを知ってくれている人がいるということ自体が、まずものすごく驚きで。まだSNSもそんなに発達していなかったというか……発達し始めたくらいの時期だったので、「えっ、どうやって知ってくれたんだろう?」って。もう、本当に驚きの連続でした。 実際に現地に着いて、空港で私たちの名前のボードを持って待っていてくれいる方がいたりとか、「東京女子流!」って日本語で出迎えてくれたり、「こんにちは」とか「ありがとう」とか、一生懸命日本語を覚えて話しかけてくれる方がいたりして、本当にうれしかったです。海外のライブって、日本でやるのとはまた違って、一緒に声を出して歌ってくれたり、反応の仕方が新鮮だったりして、すごく刺激的でしたし。 あと、日本のアニメが海外ですごく人気で、そのエンディングテーマになっていた曲が向こうでも好かれていたりして……そういうのも、日本にいるだけじゃ味わえないことだなと思って。たくさんの貴重な経験をさせてもらいました。 ──特に記憶に残っている海外での公演はあります? 庄司 もう本当にたくさんあるので選ぶのが難しいんですけど……サンフランシスコ(2014年)ですね。「ヒマワリと星屑」(2010年)の英語バージョンを準備して行ったんですけど、MCもその土地の言葉で話せるように覚えていったりしました。 「ヒマワリと星屑」の英語バージョンは、現地でミュージックビデオも撮影したんです。ファンの方に協力していただいて、私たちがライブ中に身につけていたひまわりを現地のみなさんにも配って、ライブで一緒に振ってもらって。「ひまわりを咲かせよう」っていうプロジェクトもあったりして。そのときの映像が、今もMVとして公開されています。国を越えてつながれた瞬間だったなってすごく感じましたし、純粋にいろんな場所をみんなで回りながら、カメラを回して記録していったのも、すごく楽しかった思い出です。 ──ほかのメンバーも、海外での印象的な記憶はありますか? 新井 たぶん、女子流が一番多く行かせてもらったのは、台湾だと思います。台湾ではワンマンライブもさせていただいて、実際に台湾に行くために番組を通して中国語を勉強して、覚えたフレーズでMCをするっていう挑戦もさせてもらったんですよ。 台湾のファンの方々もすごく温かくて、出迎えやお見送りもしてくれましたし、すごく親日的な空気もあって、優しい雰囲気の中でライブができました。 庄司 今でも台湾のファンの方が日本でのライブに来てくださったり、SNSでメッセージを送ってくださったりして、すごくうれしいです。 庄司芽生 ももクロ/TEAM SHACHI/Task──“戦友”や後輩との絆 ──15年間の中で、パフォーマンスも含めて一番印象に残っている楽曲はなんですか? 山邊 私は「約束」(2013年)が一番印象に残っています。15年の歴史の中で、私自身、サードツアー(『東京女子流 3rd JAPAN TOUR 2013〜『約束』〜』)の時期が一番しんどい時期だったんです。ステージに立つと、ストレスで過呼吸になってしまって……でも立たなきゃいけなくて。ステージに出ては戻ってというのを繰り返していて、「もうどうしたらいいんだろう」って悩んでいたときに「約束」という曲ができて。 この曲はスタッフさんからメンバーに宛てて作ってくださった曲で、「どんなことがあってもがんばろう」と思わせてくれるもので。その当時は親元を離れていることも多くて、誰にも相談できなくて本当に苦しかったし……そんなときに一番支えてくれたのが「約束」だったんです。自分たちの曲なんですけど、本当に救われた曲で。もちろん全部の曲が大切なんですけど、特に思い入れが強い曲です。 新井 うーん、難しいですね。好きな曲はたくさんあるし、最近の曲もすごく好きで悩むんですけど……やっぱり「おんなじキモチ」(2010年)かな。この曲で私たちのことを知ってくださった方も多いと思いますし、今でも「女子流って『おんなじキモチ』歌ってたよね?」って言っていただくこともあります。フェスとかで初めて聴いてくださる方にもすごく伝わる曲で、歌って踊って一緒に盛り上がれる空間がすごく好きなんですよね。 私たちにとっても特別な楽曲だし、救われた楽曲でもあると思っています。パフォーマンスをしていて、ステージから見るファンのみなさんの表情とか雰囲気が本当に大好きで、これからも活動期間中にたくさん歌って、みんなをこの曲で幸せにしたいです。 中江 そうですね……印象に残っている曲。単に好きとか、自分が選ぶならっていうのとはちょっと違う意味で選んだんですけど……私は「深海」(2016年)が印象に残っています。この曲は自分の中でも、そして女子流としても新しいチャレンジだったんです。 小さなころから背伸びしたような曲にも挑戦してきたし、たくさんのチャレンジを重ねてきた中で「深海」はまた別のかたちでの挑戦だったなと思っています。このときは、もう子供という年齢ではないし、デビューからも時間が経っていて、ライブでもしっかり“決めにいく”曲を持っていこうという中で選んだのが「深海」でした。 ダンスも歌も、すごく気合いが必要な曲で、ライブでやるには勇気のいるナンバーでもあるんですけど、それだけにやりがいもあって。この曲は、4人になってからの新しいチャレンジの象徴みたいな曲だと思っています。だから、すごく印象に残っていますね。 庄司 私は「Viva La 恋心」(2022年)ですね。今振り返ってみると、私たちって「どう自分たちを見せるか」とか、「どう表現するか」っていうところを常に模索しながら進んできたグループだと思っていて。そんななかで、この「Viva La 恋心」をリリースしたタイミングが、自分たちの感覚と曲がぴったりマッチしていたように感じたんです。 デビュー当時は、実年齢よりもずっと大人っぽい歌詞の世界観だったり、難しい曲調の楽曲が多くて、理解するのにすごく時間がかかったんですよ。自分の中だけじゃ理解しきれなくて、人に話を聞いてようやくわかってきて、それをまた自分なりに噛み砕いて……そういう作業が常にありました。 それに、活動をしていく途中で楽曲の方向性も大きく変わって、いろんなジャンルに挑戦するようになってから、ようやく「これだ!」って思えるような、ひとつの到達点にたどり着いたような感覚がありました。そういう意味で「Viva La 恋心」は、自分たちの等身大の表現としてすごくしっくりきた、手応えのある楽曲でした。 ──ありがとうございます。活動をしてきた中で、ほかのアイドルさんとの思い出はありますか? 最近だと、たとえばTEAM SHACHIさんとか。どうでした? 庄司 TEAM SHACHIさんとの共演(2025年7月5日『東京女子流×TEAM SHACHI「東京SHACHI流〜透明な想い〜」』)は、本当に“念願が叶った”っていう感じです。お互いにずっと意識し合っていたのに、これまで接点がなかったのが逆に不思議なくらいで……。 スターダストさんのほかのグループのみなさんとはけっこう関わらせていただいてきた気がするんですが、SHACHIさんとはなぜかタイミングが合わなくて。だから、やっと実現した!という感じでした。当日はお互いに100%以上の力でパフォーマンスをして、双方のファンのみなさんにもすごく楽しんでもらえたし、それぞれのカラーを出し合いながらカバー曲を披露できたのもよかったです。「伝説」って言うとちょっと大げさかもしれないけど、それぐらい革命的な一日になったなって思っています。本当に楽しかったです。 山邊 私は、ももいろクローバーZのあーりん(佐々木彩夏)と同い年で、デビュー初期から仲よくさせてもらっていたんですよ。当時は、同い年のアイドルがすごくたくさんいて、ほんとに“同級生アイドル”ばっかりだったんですけど、みんな辞めていって、1年くらい前に「あれ、もう同い年ってうちらだけじゃない?」みたいな会話をしたんです。 だから、実はファンのみなさんよりもちょっと先に、あーりんには解散のことを伝えていたんです。そしたら「そうなんだ……」って受け止めてくれて、「お互い、20代最後だしがんばろう!」って励まし合いました。 その後、あーりんが『川上アキラのひとりふんどし』(※logirlの生配信番組)で、女子流のことを話してくれたみたいで……そのとき、解散のことにも触れてくれて、「一緒にやりたい」って言ってくれたらしく、すごくうれしかったですね。「あーりん、同い年が抜けちゃうけどがんばってね!」って言ったら「寂しいよ〜」って言ってくれたことも……。 ──その配信回、現場で観ていました。今は、憧れられる側になっていたりもしますよね? ひーちゃんも、Task have Funさんの番組(※logirlの『Task have Fun Diary』)に出ていたり……。 新井 はい、Taskちゃんたちは、解散の発表を聞いたとき3人で一緒にいたみたいで、「えっ、もう無理なんだけど!」ってなったらしくて(笑)。「無理、泣いちゃう!」って3人で泣きそうになっていたっていう話を聞きました。LINEでも「えっ、これ本当ですか?」って連絡が来て「うん、実はね……」って返したり。 Taskちゃんたちは、ずっと前から「辞めないでください」って言ってくれていて、その思いがずっと続いていたのかなと感じます。女子流の楽曲をカバーしてくれてもいたり、きょうちゃん(白岡今日花)も「ひとみさん大好きです!」と言ってくれたり、本当に妹みたいな感じで。だからこそ、最後の最後までかっこよくいなきゃって、強く思いました。 中江 そうですね。後輩の子たちからは、LINEですごく連絡をもらいました。Taskのなっちゃん(里仲菜月)からも連絡が来て……たまに会ってご飯に行ったりもしているんですよ、実は。つい最近も「大好きなんです」って話してくれて、すごくうれしかったですね。昔からカバーもしてくれていたみたいで、自分たちのワンマンライブでも女子流の曲をやってくれていたみたいなんです。「4人それぞれ、声が全然違うじゃないですか!」って言ってくれて……「イントロドンもできます!」とか。「そんなに聴いてくれていたの!?」って……本当に愛情を感じましたね。 それから、とき宣(超ときめき♡宣伝部)のおはる(小泉遥香)からも「どうしても会いたいです」って連絡をもらって、会う日程を調整したり。私のまわりって、すごくしっかりしている子が多いんです。後輩とはいえ「この日どうですか?」って、ちゃんと予定を合わせてくれる子が多くて。「大好きです」っていう言葉や、女子流の歴史を語ってくれる後輩たちの存在は、本当にかけがえないと思っています。 ほかにも、元ベビレ(ベイビーレイズJAPAN)や元PASSPO☆のメンバーさんからもメッセージをいただきました。こんなふうに、すでに解散された先輩方からもSNSでコメントをいただいたりして。ほかにも、エビ中(私立恵比寿中学)さんからなんかも。そうやって“戦友”として私たちのことを見てくださっていたこと、この時代を一緒に走っていたって思っていただけていることが、すごく光栄です。 もちろん、後輩たちから「ずっと好きでした」とか「本当に憧れです」って言ってもらえることも、本当にありがたくて。こっちがそれでウルッとしちゃうと、ちょっとかっこ悪いので、あまり出さないですけど(笑)、本当に誇りに思っています。改めて、愛情を感じました。 『女子流♪』/『mei's*ダンササイズスタジオ』──番組での思い出 ──本当にいろんなアイドルさんと過ごしてきたという感じがしますね。で、このインタビューなので、テレ朝動画でやっていた番組についてもお聞きしたいのですが、覚えていらっしゃいますか? 新井 めちゃめちゃ覚えてます! 中江 思い出深すぎる!(笑) 山邊 一番印象に残ってるのは、自分たちのことじゃないんですけど(笑)……香港へ行ったときに、スタッフさんが迷子になったことです(笑)。「あの人がいない!」ってなって、みんなで「あの人を探せ!」状態に。しばらく探しても見つからなくて……最終的に「スタッフさんも大人だし、もういいか!」みたいな(笑)。たぶん置いて行かれる寸前でした。 新井 でも本当に奇跡的に見つかったんだよね。あんなに人がいっぱいいたのに! ──でんぱ組.incさんとかと一緒に行かれていたんでしたっけ? 山邊 そうです、『@JAM』の企画(『女子流♪』#13ほか)でした。その流れでテレ朝動画も同行して、一緒に撮影もして、すごく楽しかったです。赤い2階建てバスに乗ったり、エッグタルトを食べたりもして。普段は海外へ行っても、なかなか観光する時間ってないんですけど、そのときはご飯以外にも少し楽しめて「お仕事だけど、ちょっと旅行気分」という空気で、本当に楽しかったです。ありがとうございました!(笑) ──たしかに、こっちでも話題になりました。迷子になっているらしい……って。ほかに何か思い出はありますか? 新井 私は(『女子流♪』#16での)島田秀平さんに怖い話をするという企画で、自分が何を話してるのか途中でわからなくなっちゃって、戸惑って泣いちゃったんです(笑)。本当に自分でも怖くて……。でもたぶん今でも、同じ状況になったらまた泣いちゃうかもしれません(笑)。 ──でも、なんとなく当時よりは強くなっている印象も(笑)。 新井 本当ですか? 中江 「ひとみワールド」みたいなものが広がってきているから、逆にひとみは強くなってるっていう印象がありますよね。わからなくなって泣いちゃうより、自分の世界観を全開で出しているほうが、生き生きしてるなって。 新井 それを受け入れてもらえないと、ちょっと心細くなっちゃうんですけどね(笑)。 ──動画番組ではないんですが、関ジャニ∞さんの番組(テレビ朝日『関ジャニの仕分け∞』)で、「柔軟女王No.1決定戦」企画(2014年)の事前練習にひーちゃんに来ていただいたことがあって、そのときに練習がうまくできなくて、悔し泣きをしちゃっていた記憶が……。 新井 あー、ありました! でも泣くことって、当時よりも増えた気がします。毎月のように泣いてるかも……。「この月、泣かなかったときあったっけ?」くらいの勢いで(笑)。たぶん、メンバーみんなも私が泣いてる姿、何回も見てきたと思います。 山邊 一番最近だと、マスタリングでアルバムをみんなで聴いたときかな。全曲頭から順に聴いてたんですけど、3曲目ぐらいでもうボロボロ泣いてて、「早っ!」って思いました(笑)。 中江 リハのときも悔し涙を流すことがあるし、普通にご飯を食べてて、いい話になって「あれがこうで楽しかったよね」って話してる最中に、ふと涙が、つー……って流れてたりするから「どうした!?どうした!?」って(笑)。 新井 思い出しただけで、もううるうるしちゃうんですよ。 中江 「楽しくて」っていう感情だけじゃなくて、人の喜びとか悲しみ、悔しさ、怒り……そういう感情が全部涙につながっている気がして。今は、感情が爆発するようになったというか……そうやって涙として出るようになったことが、自分では「よかったな」と思ってます。ていうか、ヤバいよね?今。 新井ひとみ わかります。(瞳を潤ませながら……)今もう、すでにヤバいです(笑)。 中江 私は、『女子流♪』をきっかけに、いろんなバラエティ的なことに挑戦するようになったんですけど、それがたぶん、初めてぐらいだったんですよね。企画モノもそうだし、怖い話や、手相を見てもらうっていうのもそうだし……。あ、あと覚えてる? 2人羽織企画! 新井&山邊 あった! あの日いろんなことやったよね〜! 庄司 すっごい楽しかった! 中江 ああやって、みんなで一日を通して番組で過ごせる時間が、本当に楽しくて。自然体でいられる瞬間がいっぱいあったんですよ。 ──島田秀平さんもそうですけど、古坂大魔王さんとかアルコ&ピースさんとか、いろんな芸人さんとも共演されましたよね。印象に残っていることはあります? 中江 そうですね。古坂さんとは同じ事務所ではあるんですけど、もちろん大先輩ですし。古坂さんの人柄だと思うんですけど、すごく気さくにツッコんでくださって……4人それぞれのキャラに合わせたイジリが本当に愛にあふれていて。「ただスルーする」とかじゃなくて、ちゃんと拾ってくれるし、私たちがそういうリアクションに慣れていないこともわかった上で、すごく観察して接してくださっていたなと思います。 当時、芸人さんと絡むということ自体、私たちはほとんどなかったんですよね。いざ絡んでみても「どう反応すればいいんだろう?」ってガチガチになっちゃっていたんですけど、古坂さんのおかげで、すごく鍛えられました。今でも本当にありがたい存在だと思ってます。またお会いできたらうれしいですし、ずっとお世話になってるなと感じてます。 庄司 私は……「ダンサエクササイズ」(logirl『東京女子流 mei's*ダンササイズスタジオ』)の企画ですよね。 ──ですよね(笑)。 庄司 いまだにファンの方の中でも浸透しているみたいで、すごく印象的な番組だったみたいです(笑)。私は当時、リーダーではあったんですけど、人前で話すのがあまり得意ではなかったし、番組の進行役とか「自分がどう感じたか」を言語化するのもあまりできるタイプじゃなかったんです。だからその番組で、すごく鍛えられたなという印象があります。 あと、自分を“解放する”っていうことの大切さを知ったというか……。ゲッタマン(ヒューマンアーティスト:GETTAMAN)の存在がすごく大きくて(笑)、「恥を捨てて、全力で挑む」という姿勢を教えてもらいました。今でも「明けましておめでとう!めいちゃんアロハ!」って連絡をくださったり、屋久島の杉の写真を送ってくださったりして、ご縁をずっと大切にしてくれているんですよ。女子流のライブにも来てくださって、中野サンプラザ(2019年)のときだったかな……大きな花束を持って駆けつけてくださったりもして。 山邊 あったあった! 「みんな素晴らしかった!」って褒めてくださいましたよね! 中江 アメリカンな感じ(笑)。 山邊 冬なのにすごく日焼けしていて「どこ行ってたんですか?」って思うぐらい焼けてましたよね(笑)。 庄司 いつ会ってもパワー全開で、こっちが元気もらっちゃうくらいなんですよね。番組だけじゃなくて、リアルなイベントでも、ももクロさんのイベント(『女子流♪』#121)にも一緒に出演させてもらったりして、本当に思い出に残っています。 山邊 久しぶりに会いたいね。 新井 全然会えてないんです。 ──ほかにも、ライブの幕間で流す映像での演技に挑戦されたこともありましたよね。あの“ハードボイルド”な世界観の……。(2014年『HARDBOILED NIGHT』@赤坂BLITZ) 中江 あった。あれは今見ると、ちょっと気恥ずかしい部分もありますけどね(笑)。セリフが“男役”っぽかったり、世界観も独特で、曲とリンクするような演出でしたよね。赤坂BLITZでやった公演の。 新井 あの企画(『女子流♪』#13、#15、ほか)ファンのみなさん、すごく好きですよね。今でも「あれ、また観たい!」って言われたりします。 中江 “ハードボイルド”の楽曲(TGS41~TGS45)自体も、人気がありますしね。 新井 私はそのライブのときには出演していなかったんですけど……3人での全曲ライブのときに、その作品をモチーフにして演出をバーンと取り入れてたりもしてましたよね。 中江 そうそう。演出にも(庭月野議啓 監督)ちゃんと活かされていて。撮影も何日もかけてやっていただいて。あと、血のり塗りましたよね(笑)、私。手榴弾でバーン!って倒れる演技もやりました。 山邊 私は、血を吐く演技をやったんですよ。「プロレスラーみたいにピューッてやってください」って言われたんですけど、私、声量なのか呼吸の問題なのかわからないけど、全然うまく吹き出せなくて(笑)。何回やっても「ピュッ」ってしか出なくて、最終的には「もう垂れ流しでいいよ」ってなって……。申し訳なかったけど、ただ血がダラダラ垂れる演出に変更されました(笑)。 中江 あれはファンのみなさんもすごく楽しんでくれてたと思います。「女子流が演技するの!?」ってびっくりされてたし。しかも普通の演技じゃない(笑)。 ──ちょっと変わった内容でしたもんね(笑)。 中江 たしか、芽生以外全員死んじゃったんだっけ? 結局、芽生だけ生き残ってた(笑)“ナローズエンジェル”だったよね! ──あっ、思い出した! “ナローズエンジェル”! 庄司 めっちゃ覚えてます。“ナローズエンジェル”ですよ! あと、ひとみが、アンジェラ? エンジェル? 中江 何回か、ひとみに「私のこと殺して」っていう演技があったもんね。「この手で私を……」みたいな(笑)。 山邊 よく覚えてるね〜! 中江 キャラ的にすごく濃かったから(笑)。私は寡黙なボクサーみたいな、用心棒的な役で。 ──(笑)。演技といえば、初期のころに出演した、山戸結希監督の映画(『5つ数えれば君の夢』2014年)もありましたね。今でも記憶に残っていますか? 新井 はい、すごく印象に残ってます。映画の撮影前に監督とお会いして、「どんな人たちなのか」っていう打ち合わせをしたんですよ。その後、それぞれに役がつけられて、「この子はこういうキャラクターです」という説明があって。 私の役は、モダンダンスを踊るシーンがあって、それを本格的にやらないといけなくて……当時、振り付けの先生がつけてくださったんですけど、私は「これ、本当に私でよかったのかな……」ってすごく思っていました。ダンスっていったら、やっぱりめいてぃん(庄司)なんじゃないかなって。「私じゃないのかも」って、自信が持てなかったんですよね。 でも今になって思うのは、演技ってそういうものなんですよね。監督から「これをやってください」って言われたら、それをやりきるのが演技だし、必要であれば自分をそこに近づける努力をするのが前提で。「痩せてるシーンをお願いします」と言われたら、ちゃんと痩せるっていう……そういうことなんだなって、今になってよくわかります。だから、あのときあの役をいただけたことにも、ちゃんと意味があったんだって、今はすごく感じています。 集大成となる最新アルバム『東京女子流』に込めた想い ──次に、今月末にリリースされるアルバム(『東京女子流』)のお話を伺えればと思います。本当にすごくいいアルバムで、めちゃくちゃ聴き込んでるんですけど……。ここに収録されている曲、全曲いいんですよ。その中で「一番印象に残っている曲」となると、きっとみなさん難しいと思うのですが、そこをあえて……で、おひとりずつ教えてもらえますか? 庄司 私は「キセキ」です。このアルバムのラストを締めくくる曲でもあるんですが、私自身、この曲を聴くと「次のステップに進もう」という勇気をもらえるというか、すごく背中を押してもらえる曲なんです。聴いているだけで元気が湧いてくるし、「この先の未来も怖くないな」って、少し安心させてくれるようなところもあって。とても好きな一曲です。 しかも、レコーディングの中でもこの曲が一番最後に録った曲だったので、15年間を振り返りながら歌ったというのもあります。この曲がアルバムの締めくくりになっていることも、自分の中でとても意味のあることだと感じていますし、聴いてくださるみなさんにも、その想いが届いたらいいなと思っています。 庄司芽生 中江 本当は私も「キセキ」って言いたいところなんですけど……うーん、でもやっぱり「キセキ」ですね(笑)。今回のアルバムには8曲の新曲が収録されているんですけど、どれも大切で、どれも魅力的な曲なんですよ。 その中で「フォーリンラブな時」は、今年の15周年ライブの1曲目に披露した曲だったんです。ライブ当日はもちろん「解散を発表する」という気持ちを持って臨んでいましたけど、それ以上に「15周年を迎えられた今日に感謝する」という気持ちでステージに立っていたんですね。だからこそ、その1曲目に歌った「フォーリンラブな時」はすごく印象に残っています。 この曲は、14周年ライブのラストで初披露した新曲でもあったんですけど、歌詞がすごく切なくて尊くて……。今の私たちみたいな、大人の女性になったからこそ歌える曲だなと、レコーディングした当時から思っていました。だから実をいうと、15周年ライブのときにこの曲を歌うと、発表のことだったり、ファンのみなさんの気持ちだったり、いろいろなものが込み上げてきて……。でも、そういう感情も含めて「尊い」って感じられるようになったのは、この曲が教えてくれたことでもあるんです。そんな「フォーリンラブな時」がアルバムの1曲目になっているのが、本当にうれしくて。これからもずっと大切に歌っていきたいなと思っています。トップバッターがこの曲で、ラストが「キセキ」っていう構成もまた、すごく意味のある流れだなと感じています。 中江友梨 新井 私も「キセキ」って言いたいんですけど(笑)……今回のアルバムの最後を飾るという意味でも、本当に素敵な曲なんですけど。でも、私は「交換日記」を挙げたいと思います。 この曲は、私たちが作詞に挑戦した楽曲のひとつでもあって、きなみうみさんと一緒に「どんな曲にしていこうか」って話しながら作っていったんです。そのとき「昔、みんなで交換日記やってたよね?」って話になって。当時は平日は学校で、土日に東京で活動するという生活をしていたので、1週間何があったのかお互いにわからないことも多くて、それを共有する手段として交換日記をしていたんですよ。そういう実体験から「交換日記」というタイトルがついて、そこから歌詞のアイデアもふくらんでいって。 作詞のときも、まさに“交換”するように、Aメロを誰かが書いたら、次の人にバトンタッチしてBメロを書いて……っていうリレー形式で進めたんです。楽曲の中には、サビにそれぞれのメンバーの名前の頭文字が入っていたりと、細かい部分にも愛が込められていて。この曲を聴くと、自然と昔のことも思い出すし、同時に未来に向かって進んでいる今の私たちの気持ちも感じられるような──そんな思いの詰まった楽曲になっています。 ──実際に作詞をしてみて、どうでしたか? 新井 すごく難しかったです。以前、宮城県の松島で『松島のちからプロジェクト』(2013年)に参加させていただいたことがあるんですが、あのとき(「ワンダフル スマイル」作詞:新井ひとみと松島湾子)ともまったく違うテイストで。 今回は、15年の歴史を振り返りながら「どのエピソードを切り取るか」とか、「自分にとって印象的だったのはどこだろう」と考えるなかで、「東京駅かな」って思い出したりして。でも、それをどう歌詞に落とし込むかとか……考えることがすごく多かったですね。作詞ってこんなに大変なんだって、改めて気づかされました。でき上がったときには「あ、いい感じに仕上がったかも!」って自分でも驚くような感覚があって。すごくいい経験になりました。 新井ひとみ 山邊 私も「交換日記」って言いたかったんですけど、ひとみが先に言ってくれたので……「とけないまほう」を挙げます。 今回のアルバムって本当にバリエーション豊かな楽曲がそろっているんですけど、中でも「とけないまほう」は私にとってすごく難しい曲でした。テンポやリズムに明確な基準があるわけじゃなくて、ニュアンス重視というか……。「遅れてる! でもどこで取り戻せばいいんだろう?」みたいに、歌い方もすごく悩んで、苦戦しました。でも、完成した音源で4人の声が重なったのを聴いたとき「いつもよりみんなの声がすごく優しく聴こえるな」って思ったんですよね。 それに、歌詞を読んでいると、来年の3月以降、ファンのみなさんの中には「女子流の記憶が心に残りすぎて、新しい人生に踏み出せない……」って感じる方もいるかもしれない。でも、この「とけないまほう」を聴いて「忘れなくてもいい。けど、少しだけ前に進もう」って、そんな力を受け取ってもらえたらうれしいなって思って、この曲を選びました。 山邊未夢 ──どれも本当にいい曲ですよね。たぶんみなさんにとっては全曲が特別だと思うんですが……ボク個人的には「ロンリーレイン」もすごく印象に残っていて。さっき「デビュー当時はちょっと背伸びした内容の曲が多かった」という話がありましたけど、今こういう恋愛の歌詞を歌ってもしっくりくるようになったなって。 山邊 うん、もう違和感がないですよね。 新井 逆に苦しいです……。感情移入しすぎちゃって、つらくなっちゃうんですよ。 中江 ひとみって、特に恋愛系の歌詞になると、すごく入り込みすぎちゃうんですよね。 新井 ハッピーな楽曲だったら、「みんなハッピーだよね〜!」って気持ちになれるんですけど、恋愛の奥深い感情になると、歌詞がリアルすぎて……。「5分でも会いに来たらいいじゃん!」って思っちゃうんですよ。だって、会いたいって思ってるんだから、来てほしいでしょ?って。主人公は「来てほしい」って気持ちを言わないけど、それでも相手に察して動いてほしいんです! 「もう行きなよ! 彼女、悲しんでるんだから!」って、歌いながら心の中でずっと思っちゃって。初めてこの曲をパフォーマンスしたとき、本当にしんどかったです。 ──たしかに(笑)。最後に、3月までの期間をともに走るファンのみなさんへメッセージをお願いします。 山邊 7月30日にリリースされるアルバムは、本当に私たちの“集大成”がぎゅっと詰まった一枚になっています。ぜひこのアルバムを聴きながら、女子流との思い出を思い返してもらって、一緒に3月まで駆け抜けていけたらうれしいです。個人的には、logirlで『女子流♪』復活とかもやりたいです!(笑) ──伝えておきますね(笑)。 山邊 約束ですよ! 新井 エモい企画になりそうですね。 中江 聖地巡礼とかもしたいですよね。『女子流♪』の聖地巡礼、やりたいですよね。 ──そうすると、福岡(『女子流♪』#9)にも行かないとですね。 山邊 戸越銀座にもね!(『女子流♪』#124)行かなきゃですよ! 新井 今回のアルバムのリリースにあたって、7月からもリリースイベントやライブイベントがたくさん決まっていて、ありがたいことにいろんな場所に行かせていただきます。このアルバムを通じて、15年間の感謝の気持ちをたくさんの方に届けていきたいです。 中江 やっぱり私たちも、できるだけ多くの方に会いに行きたいし、会いに来てほしいって思っていて。もちろんメンバーそれぞれの中で「カウントダウン」は始まっていると思うんですけど、そんなタイミングでこんな素敵なアルバムを作っていただけたことにも、本当に感謝しています。 女子流の音楽やパフォーマンスは、3月以降も“なくなる”ものではないし、「寂しい」「悲しい」っていう気持ちが残ることも、グループとして音楽を届けてきた私たちにとっては誇りであり、宝物だと思うんです。そういう気持ちをすべて受け止めながら、3月までできるだけたくさんの方に会いに行きたい。そんな気持ちで、このアルバムを丁寧に届けていきたいなって思っています。 庄司 今回のアルバム制作では、マスタリング作業にもメンバー全員で立ち会わせていただいて、曲と曲の間をどうつなぐかなども、みんなで相談しながら作らせていただきました。 初めて全曲を通して聴いたときに、メンバー全員が共感したのが「まるで一本の映画を観たような、すごくストーリー性のあるアルバムだね」っていう感想だったんです。だからこそ、まずはぜひ1曲目から最後の12曲目まで、この曲順で聴いてほしいです。今の私たちが伝えたいこと、チーム女子流として残したいものが、このアルバムにはまっすぐ詰まっているので、きっとそれが伝わるはずです。 私たち自身も、残された時間を全力で駆け抜けていって、一日一日、アスタライト*(東京女子流のファン)のみんなと大切な時間を過ごしたいと思っています。3月31日、「やりきったね!」ってみんなで言い合えるように、最後までがんばりますので、どうぞよろしくお願いします! <番組情報> ・CSテレ朝チャンネル1 7/19(土)ひる0:00〜午後3:00 『<完全版>東京女子流 15th Anniversary Live ~キセキ☆~』 https://www.tv-asahi.co.jp/ch/contents/variety/0793/ ・テレ朝動画『女子流♪』 https://douga.tv-asahi.co.jp/program/17005-17004 ・logirl『東京女子流 mei's*ダンササイズスタジオ』 https://douga.tv-asahi.co.jp/program/21528-21527/ 取材・文=鈴木さちひろ 撮影=時永大吾 編集=中野 潤
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14年間のアイドル人生で手に入れたふたつの宝物、髙木悠未が描く“なりたい自分”とは?
髙木悠未(たかき・ゆうみ) 1997年5月7日生まれ、福岡県出身。身長147cm。福岡を拠点に活動するアイドルグループ「LinQ」の現役メンバー唯一の1期生。アイドル活動と並行して、モデル、タレント、インフルエンサーとしても活躍している。2025年7月に自身初となる写真集『タカラモノ』(光文社)を発売。そして同年8月、福岡での卒業ライブをもってLinQを卒業することを発表した。 福岡を拠点に活動するアイドルグループ「LinQ」の1期生として活躍中の髙木悠未。中学1年生からアイドルの活動をスタートさせた彼女が、2025年夏に14年間のアイドル人生に幕を下ろすことを決意した。そこで今回、配信番組『LinQ・LinK』や『LinQのしゃべらんと知らんよ』などでLinQと親交が深いlogirlで、彼女の活動を追いかけ続けてきたテレビ朝日プロデューサー・鈴木さちひろが髙木悠未に独占インタビューを敢行。デビュー時から卒業を決意した現在の思い、そして初芝居を経験した舞台『灯籠』の秘話など、彼女が青春時代のすべてを捧げた“LinQ・髙木悠未”としての人生と、これから描いていく“髙木悠未”の新しい未来について語ってもらった。 ──お久しぶりです! シュッとしましたよね? 髙木 痩せましたね。あと、お姉さんになってません? 自分で言うのはあれやけど(笑)。ちょっと色気出てませんか? ──あ、いや……(笑)。 髙木 失礼〜(笑)! ちょっとでも色気ありません? 出てないかな〜♪って。 ──タレントさんの……?顔になりましたね。 髙木 きれい系になった? 垢抜けた? (周囲にいる当時関わったスタッフを見ながら)みんなも痩せすぎ……! ──そりゃ、LinQダイエットをしましたから。「カロリーなんて」(2011年)を毎日聴いて(笑)。 髙木 ちゃんと覚えてくださっているんですね! ──もちろんですよ! 髙木 あれ? でも、ライブ……あんまり……観たことないですよね(笑)? ──あ、気づかれちゃった。でもさ、ちょうどコロナだったじゃない? 髙木 コロナ前からもですけど!(笑) ──コロナ前だとアキバかなー。AKIBAカルチャーズ劇場でのライブに行ってる。 髙木 それめっちゃ前じゃないですか(笑)……8年前とか? ──コロナ前のライブなので(笑)、もちろん、絶えず観てますよ! 髙木 ありがとうございます! でもメンバーでもう知っている人いないですよね、誰も。 ──たしかに、番組をやっていたころのメンバーは、みなさん卒業しちゃったから。そして今回、髙木さんも卒業ということで。では、集大成のインタビューを始めますね。 髙木 (鈴木さんに)初めて、真正面からお話を聞いていただきますね(笑)。 ──そうだっけ? じゃあ……デビューのきっかけから聞いてみようかな(笑)。 髙木 ははは! っぽい、っぽい、取材っぽい(笑)。デビューのきっかけは中学1年生のころ、何気なく毎日授業を受けて、帰りの会をして……そのルーティンに「人生って毎日終わりに近づいているのに、このままでいいんだろうか?」という急な悟りを(笑)。そこから「自分の人生を派手にしたい」となって……イコール“芸能界”だったんです。 当時、兄がモーニング娘。さんを好きだったんですけど、私が「9期生オーディション」というのを受けたら、いい感じのところまでは行けて。それが悔しくて……じゃあ東京で認められないのなら、福岡でやってやる!となって。時代的には、「アイドル戦国時代」でもあったので。それで「福岡 オーディション」って調べてみたら、LinQが出てきたんです。しかも初期メンバー募集だったので、やってみようと思って。 ──グループに入って……最初のライブは天神ベストホールですか? 髙木 最初のライブはキャナルシティ博多です。からの、イムズホール(※)という。 (※福岡市中央区天神IMSビル9Fにあったキャパ約400人のイベントホール) ──あ、イムズホールのほうが先なんだ。 髙木 イムズホールがデビューの場所です。ベストホールでのライブは、その3〜4カ月あとですね。 ──ステージに初めて立ったときはどうでした? 髙木 当時アメーバブログというのがあったんですけど、それをデビュー前にやっていたんです。でも、アイドルをするという感覚はわからなくて。初めてステージに立ったときファンの方に「ゆうみ〜ん」って叫んでもらって……それで「すごい世界だ」と思って。自分はアイドルを見たこともないしライブへも行ったことはなかったんですけど、見ず知らずの人が「ゆうみ〜ん」って言ってくれる感覚に、なんだこれは!と思いました。 ──推されるみたいな? 髙木 うんうん。こういうのも、この活動を通しての出会いだなって。本来はお互いに出会うことはなかったわけで。ファンの方も中1の私と出会うことはなかったし、(私も)20〜40代くらいの方に出会うこともなかったし。これもご縁だな、と。活動をしながら、ご縁というのをすごく感じていました。 ──その後メンバーがいろいろと変わっていったけど、初期メンバーの中で印象に残っているメンバーとか、このお姉さんにいろいろ教えてもらったとかありますか? 髙木 そもそも年齢幅がひと回り違うグループだったんですよね。それがグループの色だったと思うし、LinQの強み。いろんな層のメンバーを好きになってもらうのは、すごくよかったなと思う。私も中学校では習わない、人生の経験をたくさんしている先輩と仕事をするという。もう仲間じゃないですか? ──なるほどね。 髙木 上下関係も学ぶし。いろんな人のいろんないいところを盗むと、最強の大人になれるんじゃないかなって、中1ながらに思っていました。 ──いい意味で厳しかった? 髙木 厳しいです! 上原あさみさんという初代のリーダーが、バリバリ体育会系で。そもそも「ハニーズ」という福岡ソフトバンクホークスのダンサーだったんですよ。もう、立ち姿から教えてもらっていました。お辞儀は90度!みたいな。だから、1期生はこうしてますね(笑)。今でも名残があります。 (と話して、90度のきれいなお辞儀を見せる髙木) ──もう、あの大人数でライブをやっているすごさに圧倒されるというか。 髙木 最初はレッスンも大変でしたね。集まることができるのが夜とかしかなくて。学校もあるし、バイトをしているメンバーもいたので。しかもほぼダンスも歌もやったことのない素人集団が、1カ月後に12曲のオリジナル曲を披露するという過酷な期間だったんですよ。毎日毎日レッスン場で。レッスン場も、コンクリート打ちっぱなしみたいな雑居ビルのようなところでやっていて。 でもそれも、今となってはいい思い出ですね。私たちは素人なんですけど、あさみさんはハニーズでの経験があるから、練習するときもイメージトレーニングが大事だとずっと言っていて。練習の質を上げるためのイメージトレーニングをしていたこと、今でも記憶しています。あさみさんには、ただ練習するんじゃなくて、イメージをする大切さも教えてもらいました。 ──悠未さんは当時中1だから学校もあったじゃないですか。学校とアイドル活動の両立は大変でした? 髙木 いーや、私は本当に両立できていない! 学校にも行きたくなくて。学校行くふりをして八十八ヶ所巡りをしてました(笑)。私の地元が、仏さん、お地蔵さんの街なんですよ。 ──これ使えるのかな(笑)。 髙木 これはよく話しているので大丈夫です(笑)。 ──ははは。さっきアイドル戦国時代と言っていましたけど、印象に残っているグループはありますか? ちょうどローカルアイドルブームでもありましたよね。 髙木 ひめキュンフルーツ缶さんとか、Dorothy Little Happyさんとか、あとは、東京女子流さんも。東京だけど世代の方のイメージだし。ひめキュンさんがけっこう、ご当地アイドル1位になっているイメージがあって。 ──ご当地アイドルだと、あとNegiccoとか……。 髙木 まなみのりささんも! あと、T-Palette Records(※)に所属していたからバニラビーンズさんも。あとlyrical schoolさんにアプガ(アップアップガールズ(仮))さん。その時代は、みんながむしゃらにやっていましたね。 (※タワーレコード内に設立されたアイドル専門のレコードレーベル) ──T-Paletteといえば、デビューするときはどうでした? 髙木 初めて東京に来たときの記憶は残っていて。ご当地ブームというのもあったし、福岡ブランドだし、「福岡=かわいい」みたいなイメージが先行していて。お客さんも初めてなのにけっこう来てくれたし。あと、私はロリ系だったから……(笑)。 ──はははは! 髙木 ちっちゃいから、めちゃくちゃロリ系で(笑)。東京の人にめちゃくちゃ刺さって。人気メンバーだったのを覚えています(笑)。 ──たしかに、売りにしていましたもんね。よくMCで「幼い私を……」とか。 髙木 そうそう! しかも姉さんたちからも「これ言ってみたら?」って頭に叩き込まれながら(笑)。大人の好きな言葉を言っていこう!みたいなしつけはありましたね(笑)。 ──(笑)。デビューを経て、ライブもどんどん大きくなっていきますよね。本当に大きなライブをやったという意味だとZepp Fukuoka(『LinQ 1st Anniversary Live@Zepp Fukuoka 2012.4.17<豚骨革命!濃すぎたらごめんたい!>』/2012年)かな。このときはどうでした? 髙木 Zeppでやったとき……本当にがむしゃらだったな。初めての大きな会場で、どんな気持ちやったんやろ。集客っていうよりも「いいものを作るぞ」の時間をいっぱい過ごしていた気がするけど。今になると集客とかどうなったのかなって。満員だったのかな……。 演出でフライングハートという、上からハートを降らせるみたいな。そういう演出をまだやったことがなくて、そういう演出にもお金をかけられるので、演出にこだわっていたイメージがあります。 ──そして次に、さらに大きな福岡市民会館。 髙木 『~楽詣~(たのしもうで)あけましておめでとうございマ・シ・テ』(2013年)ね! あさみさんの最後のライブ! ──『楽詣』はどうでした? なかなかの大きな会場で。 髙木 LinQの全盛期だったかも、と今でも思うぐらい一番集客もできたし、キティちゃんを呼んだりして派手にできていた。みんなで太鼓もやったりして。メンバーが多いぶん、いろんな役割ができるから……太鼓メンバーとかダンスメンバーとか。幅広いLinQを見せられたライブでした。 ──太鼓、ありましたね! 髙木 しかもお正月なのに、お客さんがたくさん来てくれて感動しました! ──そこからいろいろ経て、『TIF(TOKYO IDOL FESTIVAL)』でも東京に来たりするじゃないですか。東京のライブで印象に残っているものはあります? 髙木 2周年のときに、福岡と東京を画面でつなぐ、みたいなライブがあったんですけど。そういうのって大所帯じゃないとなかなかできなくて。「私たちLinQです!」というのを、全国3カ所ぐらいでできるのがLinQの強みだったんですよね。それを福岡と東京とで画面でつないでコラボできたのが思い出というか、話題性もあってよかったのかなって。新しい取り組みでしたし。 ──なるほど。現在も東京と福岡を行き来していると思うんですけど、東京の思い出ってありますか? 髙木 東京の最初の思い出は、こんな満員電車に乗ったことない!かな。駅員さんが人を人と思わないぐらい押しつぶしているし、福岡と東京の違いを満員電車で、初めて経験して。東京の最初の印象は、人の多さですね。あと、東京のアイドルさんは福岡と違って戦いに来ている感があって。 福岡はいい意味でも、悪い意味でも、平和っていうか……うーん、自分のスタイルで、ファミリー感でやっていこうというのがスタイルで。でも東京は上京してきた人たちもいるし、ここでやるしかないという覚悟が全然違う。でも、LinQは福岡で自分のスタイルでの戦いをやっているからこそ、大らかで純粋な雰囲気があって、それが東京の刺さる人には刺さっていたのかなって。純粋な何にも染まっていない感じが。 ──それはTIFに行くと感じていたりしてました? 髙木 はい、感じます! TIFは、1年の活動の集大成と思っていて、あそこに入るのも限られた人数だし……100組ぐらい。ゆうたら甲子園みたいな。あそこに行くのを目指しているアイドルさんもいっぱいいるし。TIFで、こういうアイドルさんが流行っているんだなというのを、自分でも知るきっかけになるし。 あと10年前と今のTIFで明らかに違うのは、昔は目立ってなんぼ、個性強めでとにかく破天荒なグループがいっぱいいました。今は令和キュルキュル、衣装もみんなカラフルでリボンがバリでかいとか。流行りものには、一貫性がある気はするんですけど。 ──なるほど。福岡のアイドルグループでよく交流するグループはいますか? 髙木 福岡は入れ替わりがいっぱいあるから。私の関わったグループだと、今はもう誰もいないかもですね。HKT48さんも入れ替わっているし、HRには友達がいたぐらいだったんですけど。QunQunさん(現QunQun☆RiniU)さんも変わったし。あと、流星群少女さんも、今はないですね。 ──活動をしていくなかで、LinQは大胆に構成が変わりましたよね。そのときはどうでした? 髙木 あれは6年の壁……。3年、6年、9年って壁があると思うんですけど、その壁がやってきて。そのころ、グループ自体も少しマンネリ化していたのもあって、解散じゃなくて“解体”というものをLinQはしているんです。今となっては、すごくよかったと思います。事務所が「IQプロジェクト」というかたちを作って……それまでLinQというグループしかなかったところへ、LinQから派生してできたユニットだったりとか、OGメンバーの舞台だったりとか、いろいろと活動の場を広げたんです。 九州の大きなエンタメプロジェクトが“解体”以降、すごく盛り上がってきたような気がしているし、今では小学生低学年からのLinQ KIDSというものもできています。育成を担当しているのが、1期生の上原あさみさんで、同期メンバーでも、裏方に回って違うかたちで、違う目標でやっている元メンバーも多くて。 私がここまでLinQを続けてきた理由には、こういうふうに仲間がまだ近くにいて、違うかたちで一緒にやっていることもあります。私も責任を感じていたから、LinQで少しでも上へ行けるように、もうちょっとがんばってみます、みたいな。今はそれぞれの役割で、同じ事務所の仲間として盛り上げているイメージですね。 ──それこそ最初は最年少で始まって、気づいたら最年長になっていたという。 髙木 そうです! でも、最年少も最年長もどっちも経験できるっていうのは、けっこう貴重な経験だと思っていて……どっちの気持ちもわかるんで(笑)。でも最年長になってみて、中学生のころ「自分は天才」と思っていたけど違っていたんだなって、お姉さんたちに自分を活かしてもらっていたことに気づいて。「とりあえずあとはうちらでやっとくけん」、「悠未は自由におること」って。でも私はそのときは勘違いをしてたから……。自分がLinQを盛り上げてるんじゃなかった、活かしてもらってたんだなって、今になってめっちゃ思います。 だから、お姉さんたちにやってもらっていたことを今度は自分がやりたいと思っていて。ただ自分もまだプレイヤーだから、後押しだけじゃなくて、うまく自分が出るところと、チームでの役割というものを意識してやっている感じです。 ──その意識を持っているなかで、今回卒業を決めたきっかけはなんですか? 髙木 きっかけは、中高生メンバーが9割を占めたグループになっていたこと。私の中で毎年LinQをこういうグループにしたいという目標もありながら、後輩も増えて、毎年教えなきゃいけない1年にもなっていて。良い意味でも悪い意味でも、なかなか前に進めないみたいな。新しいメンバーが入ってきてくれたからがんばるぞ!という気持ちでやってはいるんですけど、触れていると、本当に世代が変わったんだなと、心から思って。 自分が今できることは、自分が経験してきたことを今のメンバーに教えて、LinQを長く続けてもらってLinQの歴史を塗り替えてくれるようにすること。だからそのために、私も今のメンバーにいろいろと伝授する役割に、いつの間にかシフトチェンジしていた。2年ぐらい前から……そのあたりも、理由ですね。同期もどんどんいなくなって。まだ同期がいっぱいいたら、もうちょっと続けられたかもしれないけど。やっぱり世代交代のタイミングかもしれないなって思えたし、自分の20代残りの時間を、アイドルというひとつの武器を下ろしてみて、違う魅力をつける期間にしたいなとも思いました。 ──後輩メンバーに、こんなことを期待したいというのはありますか? 髙木 LinQの歴史が長いぶん、先輩方の想いというのを持ってくれているのはうれしいんですけど、それだとLinQのカバーグループになってしまうから、自分らのLinQにしてほしくて。私の想いとかじゃなくて、自分らで作っていってほしいと、言っていますね。どうしても、昔のLinQを知っているファンは「なんか違うんだよな」って、やっぱり見えちゃうと思うし。今のメンバーは、いつまでもそう思われちゃうのはかわいそうだなって。ポテンシャルはあるんだから、自分らのLinQを作っていってほしいと思っています。 ──なるほどね。ちょっと脱線しますが、悠未さんはテレビ朝日の番組にも出てくださったじゃないですか。『関ジャニの仕分け∞』はどうでした? 髙木 今でも、あのときの自分はすごかったなって思って(笑)。あり得ない奇跡が起きて。あのプレッシャーのなか、しかもドラマーのシシド・カフカさんに『太鼓の達人』で、パーフェクトで……。練習では一度も……知ってますよね? 私が練習でできていなかったのを見てましたよね? ──見てましたよ(笑)。 髙木 なのに、あれは不思議で仕方ない。今でも不思議。本番にただただ強かったという。だって、まわりの大人たちが「え?」ってなってましたよね? ──なってた(笑)。 髙木 記憶がないですもん、ざわざわしてた。 ──ライブアイドルって本番に強いんだなって思いました。この前出演した『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ)もそうですけど、出た反響はどうでした? 髙木 やっぱり全国放送の影響力ってすごいなと思いました。普段テレビで見ている人たちと実際に一緒の空間で収録すると刺。激がすごい。入る隙もないぐらいトークが飛び交ってるから、すげえって(笑) ──でも、ちゃんと爪あとを残してましたよね? 髙木 あれ(実際は)6回振ってもらって、結果3カットだけ。前半は緊張しちゃって。でも緊張していたら二度とチャンスがないから、その緊張も途中からは意外と楽しめていて「なんか楽しいかも!」って。 ──やっぱり本番に強い(笑)。あとlogirlでは、番組『LinQ・LinK』とか、生配信の番組もあったり。何か覚えている企画とかありますか? 覚えていないかもだけど(笑)。 髙木 覚えてますよ〜! logirlは──今日も取材に来るまでの道のりで「なつかしい〜」と思いながら大江戸線に乗ってきて、思い出してました。ひとりでテレ朝に来るという環境も(そういう動きは)福岡ではできなくて、自分の中ではいい経験の時間だったんです。 あと、トーク力も。わからないながらに「これを言ったら大人が笑った」とか「これは笑わないんだ」とか、大人の顔色をめっちゃ見ながら正解とか不正解を探していたlogirlでした(笑)。しかも芸人さんとかとも絡ませてもらう時間も多かったから、本当に修行させてもらった感じです。 ──あとプライベート案件になるけど。このときの記憶はありますか? (と、写真を見せる:ももいろクローバーZのメンバーと一緒に撮った写真) 髙木 わあ、なつかしい〜! 初めて人を見て鳥肌が立ちました。ももクロさんのZeppツアーだと思うんですけど、初めて鳥肌が立ったし、このライブを観て、よりがんばりたいと思ったので記憶にあります。 ──百田夏菜子さん推しでしたよね? 髙木 はい、今でも。ライブ映像を観ています。ももクロさんはずっと『@JAM EXPO』に出られていて、この間もフィナーレのステージを観たんですが、ずっと変わらず愛され続ける人たちはすごいなって。 ──そうですよね。あと舞台『灯籠』(2015年)に出演してもらったじゃないですか。あれはどうでした? ※【カタオモイ.net】プロデュース公演『灯籠』 髙木 『灯籠』! この間も見返したんですよ! 井之脇海さん……めっちゃ……すごいですよね! この間も、当時来てくれていたファンの方と物販で盛り上がりました(笑)。「井之脇海さんすごいよね」「俺も思っとったけど、誰も共有する人いない」って。 ──見返してるの!? 髙木 見返してますよ、何回も! もう一回やり直したい……。あの経験が今の私の、第一の殻破りをしてくれた。表現ってこんなに幅があるんだって。普段まわりにはメンバーしかいなくて、LinQっていう小さな視野でしかなかったので。違う方々と関わることで、すごく視野が広がりましたね。 ──初のお芝居? 髙木 めちゃくちゃ初のお芝居だし、今見たら本当に恥ずかしいぐらいで。ごめんなさいという感じ(笑)。 ──本番公演をやっていくなかで、回を重ねるごとに悠未さんの演技が上達していったんですよ。客を前にすると一気に変わる。僕らも観ていて「ライブアイドルってそういうことなんだね」って。 髙木 本当に!? それはアイドルの経験が活きていたってこと? ──うん、客が入ると全然違う。 髙木 それタイムリーで褒めてほしかった……(笑)。ずっと自信がないままで。今もゲネプロの映像を観て、もっとできたなって。ばり早口だったし、今見える自分へのアドバイスがある。今までやってきたものの経験が何かに活きるってことですね。 ──めちゃくちゃ活きてますよ! 髙木 2191回でした、センターでステージに立っていたのは。いい経験。 ──「いろんなチャレンジをしたい」と言ってましたけど、卒業後はどんなことをやっていきたいですか? 髙木 拠点はどうするの?って、よく聞かれるんです。もうちょっと若かったら東京でチャレンジしたいと思ったんですけど。私が福岡を拠点にしたいと思った理由は、年齢もあるんですけど、逆にせっかく14年間、福岡でいろいろと築いてきたし、その経験は何にも変えられないものだと思ったから。地方に東京のタレントさんが来ることもすごく多いので、そこで絡んで「福岡におもしろい子がいた」って。こっち(東京)に来て埋もれるよりも、たぶん印象が強くなると思ったんですよね。「九州におもしろい子がいる」というフレーズでタレント活動をやりたいなと思っています。 ──目指す方向はタレントさん? 髙木 そうですね、マルチな。SNS系が好きなファン層もつけたいけど、メディアのほうでもファン層が広がったら最強になるんじゃないかなって。SNSもここ数年力を入れてやってきたので。観ている人には、テレビの画面もスマホの画面も同じレベルに見えているらしく。だからどっちも最強になれたらいいなって思っています。 ──こんな人になりたいっていうロールモデルはありますか? 髙木 大泉洋さん! やっぱり、絶対的な地元があって、東京は出稼ぎみたいだと言える人。地元でも愛されると思うし、結局は地元に持って帰るから。それが自分のスタイルになればいいなと思っています。 ──なるほど。ソロ(のアーティスト)活動は? 髙木 ソロ活動は、今は特に考えていないです。したいと思ったら、もっとストイックにならないと……だし、今なっていないってことは、やりたいことじゃないんだろうなって思っています。 ──ここが私の魅力なんだというところはありますか? 髙木 私はアイドルということでごまかしてきたものがめっちゃあると思うんですよ(笑)。ごまかすというか……アイドルだから許されてきたというか。それがなくなるので、新しい武器を身につけなければと思うけど。地方タレントだと、人間力というか「この生き方かっこいい」というのが長くファンでいてくれるファン層になるのかなと思うので。人間力を磨きたいと思っています。この人の生き方がかっこいいと思ったら、女性の方々にも応援してもらえるだろうし。息を長くしたいという感じです。 ──そのひとつが、趣味のバイクだったりします? 髙木 そうですね。バイクも最初は興味がなかったんですけど、『東京卍リベンジャーズ』を観て、マイキーのバブかっこいいなと思って(笑)。これからどういうことをしていくかという戦略会議で、釣り女子とかゴルフ女子とかたくさんある中で、バイクってあんまおらんと思うって。しかも自分の小柄というのも、ギャップになって生きるかもしれんって。バイク好きな人とアイドル好きな人って近い人が多いかもしれないと思って……それでバイク女子。 実際に自分もすごく興味があったので。車の免許は持っていないけど、バイクの免許は取りました。前にバイクのイベントへ出たときも「バイクに乗っている女の子だ」って言ってもらえたし。あと、バイク女子でフォロワーがめっちゃ多い人もあんまりいないから「いいかもしれん!」って、いい意味でビジネス脳も働かせながら(笑)。 ──なるほど。好きなことが仕事になるのはいいですよね。卒業ライブのことについても伺います。こんなライブになったら……というのはありますか? 髙木 私は創立メンバーなので“創立メンバーの卒業”でしかできない、OGメンバーを34人呼ぶということを7月5日に実現できるようになったんです。これまでの卒業メンバーが60人ぐらいいるんですけど、そんなに来てくれることもびっくりだし、みんなそれぞれ人生のシフトを変えているなかで、あのときの青春を一夜思い出そうと。 たぶんLinQにも感謝しているから、来てくれるのかなって。私もみなさんがいたから今まで続けようと思ってこられた感謝の会、同窓会みたいな。LinQのファンの方も、今のファンと昔のファンが共通している「LinQで好きだったもの」が融合する日になればいいなって。7月5日は、けっこう力を入れてますね。 メンバーにも10年ぶりに踊る人もいるし。衣装も引っ張り出してきて「入らんよー」というLINEをしながら(笑)。あと、若いころぶつかってきたメンバーもいるんですけど、今はもう時効だよねって感じで。和解できている時間もすごくよくて。お互いに反省していた部分も、大人になってわかるから、めっちゃ泣くと思います。 ──楽しみですね。最後に応援してきてくれたファン、今応援してくれているファンに向けて、ひと言もらえますか? 髙木 この活動をしていなかったら出会えていなかった人たち、ファンの方もだし関係者の方もいっぱいいると考えると、私の宝物だなと思えたのが「出会い」だったんですよね。あと「経験」。これが私の14年の宝物だなと思えた部分だったんです。せっかく出会えたご縁だから、今後も悠未ちゃんを応援したい、活力をもらえるという存在、Win-Winな関係でいたいと思うから、これからもどうぞよろしくお願いいたします! 取材・文=鈴木さちひろ 撮影=まくらあさみ 編集=宇田川佳奈枝
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なぜガンダムは長く愛されるのか?サブスク時代のアニメ新常識とムーブメント──DJ・KO KIMURA×アニメ評論家・藤津亮太
KO KIMURA 木村コウ(きむら・こう) 国内ダンスミュージック・シーンのトップDJ。クラブ創成期から現在までシーンをリードし、ナイトクラブでの活動のみならず、さまざまなアーティストのプロデュース、リミックス、J-WAVE『TOKYO M.A.A.D SPIN』(毎月第1金曜日27:00〜29:00)にてラジオDJとしてなど、国内外で活躍中。2025年、DJキャリア40周年を迎えた 藤津亮太(ふじつ・りょうた) アニメ評論家。地方紙記者、週刊誌編集を経てフリーのライターとなる。主な著書として『「アニメ評論家」宣言』(2003年/扶桑社、2022年/ちくま文庫)、『アニメと戦争』(2021年/日本評論社)、『アニメの輪郭』(2021年/青土社)などを出版。最新刊は2025年3月刊行の『富野由悠季論』(筑摩書房)。 目次2025年春アニメの注目作品は?サブスク時代に感じるアニメの当たり前作品が増えるにつれて、観ない理由を探す時代に愛され続けるガンダムの魅力とは?社会現象を巻き起こす名ゼリフ 2025年春アニメの注目作品は? ──前回から1年ぶりの対談になります。また春アニメの時期がやってきましたが、今年も豊富なラインナップです。さっそくおふたりの注目作を伺えますでしょうか? 木村 最近は、おじさんが活躍するアニメを好きになってしまいますね(笑)。 藤津 『片田舎のおっさん、剣聖になる』は評判いいんですよ。 木村 勢いでどんどん話が進んでいくから観やすいですよね。再放送の作品もありますが、次シリーズを予定しているから予習っぽい感じなんですかね? 藤津 『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』も7月に新シリーズ『青春ブタ野郎はサンタクロースの夢を見ない』を放送するし、『その着せ替え人形は恋をする』も、この次があるので新作に向けての“つなぎ”ですね。 ──藤津さんはどうですか? 藤津 オリジナルを中心に上げると『アポカリプスホテル』と『LAZARUS ラザロ』は、タイプは違う作品ですけどツカミはじゅうぶん強く、オリジナルアニメのおもしろさ──デザインやアイデアのユニークさを含めた目新しさ──を実感しています。『アポカリプスホテル』は人類が地球からいなくなっちゃってロボットだけがホテルを守っていて、そこに宇宙人がやってくるという設定。コメディではあるんだけれどもロボットが来るか来ないかわからないお客さんをずっと待っているという、ちょっと物悲しい要素が軸にあることで、すごく独特な味になっていますよね。 『LAZARUS ラザロ』は渡辺信一郎監督のアクションモノ。しかも『ジョン・ウィック』のアクション監督が協力していて、普通のアニメよりも、手の動きや足さばきとかが複雑で細かく、本当のアクションスターがやっているような仕上がりです。しかも主人公は驚異的身体能力があるのでパルクールみたいな動きができるという設定で、アクションだけでも話が持つというか、番組のウリとして成立しているんですよね。 木村 音楽とかもちゃんとしていて、海外で売るために作ったのかなあと観ながら考えていました。 藤津 もともと勧進元がカートゥーン ネットワークなので、そういう意味では海外の企画なんです。プロデューサーはJoseph Chou氏で、最近だと神山健治監督の『ロード・オブ・ザ・リング/ローハンの戦い』(2024年)をプロデュースしています。もともとはアメリカで働いていて、OVA『アニマトリックス』のプロデュースとかをしていたんです。その方が日本で会社を作り、プロデュースと実制作を手がけています。渡辺さんにアクションモノをやりませんか?とだいぶ前に声をかけたのもChouさんだと聞きました。そういう流れの中の企画なので、海外へのアプローチも最初から頭に入っていると思います。 木村 『サムライチャンプルー』(2004年)や『カウボーイビバップ』(1998年)とかも海外でのウケがいいですよね。 藤津 そうそう、海外で愛されています。映画『ブレードランナー 2049』(2017年)に合わせて短編『ブレードランナー ブラックアウト2022』(2017年)を監督したり、クランチロールなどでリリースされた『ブレードランナー』のシリーズ作品にクリエイティブプロデューサーでも参加していて、海外との関係性がけっこう深いんですよね。 木村 日本は“クールジャパン”と言ってアニメでアプローチしてはいるけど、10年前ぐらいはなかなか反応がないなと思っていたけど、今になってちゃんと反応がありますね。アニメだけでなく音楽も。YOASOBIやAdoはどっちかというとアニメの主題歌で向こうでウケた感じがありますもんね。 藤津 アニメとセットで認識が広がった感じですね。 木村 逆に、『LAZARUS ラザロ』は海外の音楽がそのまま鳴っているみたいなのもおもしろいですし。 藤津 『怪獣8号』はOP/EDに洋楽アーティストに書き下ろしでお願いをしていて。それには関係者のいろんなご苦労があったみたいですけど(笑)、そういうこともやれるような環境になってきたということですよね。向こうでもメリットがあるし、日本の視聴者も新鮮な気持ちになりますし。 木村 自分がDJだから気になるのかもしれないけど、音楽が違うとまた雰囲気がガラリと変わるから。あと、国でいうと中国と一緒になってきている作品も多いなと思っていて。それは中国が売る市場として大きいからもあるんでしょうけど。ただ『薬屋のひとりごと』はあっちからすると中国じゃないって言われているんですよね? 藤津 あれは中華「風」ファンタジーなんですよ! そんなに多くはないんですけど、日本の中で少女小説を中心に中華風ファンタジーのジャンルが成立していて、アニメ化された作品でいうと『十二国記』(2002年)とか『彩雲国物語』(2006年)とか。どちらも放送がNHKですね。あと少女マンガ原作だと『ふしぎ遊戯』(1995年)とか。 聞くところによると『薬屋のひとりごと』は、韓流ドラマファンも観ている人が多いらしいです。壬氏さまがわりと早い段階で猫猫にデレているんですけど、僕はもう少し緊張関係というかお互い嫌味なやりとりを延々とやっていてほしいなと思っていたのに……。それを女性ファンに言ったら、韓流ドラマの文脈で楽しんでいる人もいるから、お互い好きだということがハッキリわかっていたほうが盛り上がるんだという解説を受けて。そうか、そういうものなのかと(笑)。 木村 はははは、おもしろい! 藤津 そういう文脈で観ている人がけっこういると思うので、想像以上に視聴者の年齢層が広いみたいですよ。 木村 ストーリーもおもしろいし。そういえば15年くらい前にアニメ系の友人と話をしていたときに、その当時アニメを“難し系“と”空気系“で区別し出していて、世の中の大多数のアニメファンが“空気系“のほうに流れていってるので残念と話をしていて、当時、僕は“空気系“より圧倒的に“難し系“のほうが好きだったのでそれ推しだったのですが、今になって“難し系“を観なくなってきた気がして、いろいろ考えさせられます。 サブスク時代に感じるアニメの当たり前 ──今年の春アニメは、難し系と言われる作品がわりとあるような。 木村 たとえば『鬼人幻燈抄』は難し系に入るのかも。鬼が出てくる作品は昔からあるのに、『鬼滅の刃』の影響で定型が決まってしまって。もし『鬼滅』の前に放送されていたら、また反応が違っていたんでしょうけど。 藤津 鬼って、普通に怖く演出しようとするとストライクゾーンが狭くなっちゃうんでしょうね。しかも、ひとつ強い作品があると見る側も意識が引っ張られちゃいますよね。難し系でいうと『ムーンライズ』(Netflix)は原案が冲方丁(うぶかた・とう)さんで、がっつりSF。過去と未来が行ったり来たりしながら進んでいく語り口も特徴的で、難しいのは難しい。でもアクションシーンも多いし、WIT STUDIO制作なので絵のパワーがあって、牽引力は強いです。 木村 最近は軽いストーリーが多くて、女子高生の日常とか。 藤津 軽いっていう意味でいうと、今回ど真ん中なのが『ざつ旅-That's Journey-』と『mono』かな。『ざつ旅-That's Journey-』は思いつきで旅をするというだけの内容なんですが、観光案内的なおもしろさがありますよね。ほかの地方の人間からすると「こんなものあるんだ」と、ちょっと驚けるような、地方にしかないちょっとおもしろいものも出てくる。 木村 町おこしの一環としてやっている感じもありますよね。そういえば僕の地元の岐阜県の陶芸アニメもちょい前にあったような……。 藤津 多治見でやっていた『やくならマグカップも』(2021年)ですね。15分アニメなんだけど、後半は役者さんが現地で陶芸体験をしたりする、実写映像がついていて。 木村 そうそう! あとは前回もお話しした『聲の形』(2016年)とかね。舞台は僕の地元なんだけど、商店街に行くと、そのキャラクターを使ったチラシがあって。「このキャラクターを使うのに100万円かかった」と店主が言うんですよ(笑)。 藤津 『聲の形』はプロジェクトが大きいので、大変だったと思いますよ。 木村 あと新海誠監督の『君の名は。』は飛騨高山の町おこしになっていましたし。 藤津 岐阜でいうと、今回は『ウマ娘 シンデレラグレイ』のカサマツトレセン学園になっているのが、笠松町の笠松競馬場で。 木村 そうなんですね。実は『ウマ娘』は1クールで観るのをやめてしまって。僕はおじさんだから、かわいいところについていけなくて(笑)。 藤津 ああ、でも『ウマ娘』って、シリーズが続くにつれて、かわいい要素が減ってスポ根度合いが上がっていくんですよ。もともとはレースが終わったらライブをやるという設定があったんですけど、今はそのシーンがなくはないけど、アニメ的にはメインではない状況です(笑)。『ウマ娘』がおもしろいのは、史実をもとにレースシーンが構築されているので、運命のいたずらを導入しやすいんですよ。普通のフィクションでそれをやると「そこでこの展開ってあざとくない?」となるけど、思いどおりにいかないことが実際にあった、ということがベースになっているので、リアリティが保証された上で、ストーリーにドラマチックさが出るんです。 木村 リアリティ要素が増しているんですね。 ──今の話を聞いたら、『ウマ娘』を最初から観直したくなりました。ちなみに、今回『恋するワンピース』が深夜枠に移動となり、一部で話題になっていましたね。 木村 配信で観られるから、子供向けアニメも深夜にやってもいいだろうとなったのかな。これは深夜にやるやつ?夕方にやったほうがいいんじゃないの?と思ったり。 藤津 昔は時間帯で視聴者のセグメントを分けていたんです。たとえば深夜に起きているのは若者で、朝早く起きているのはお母さんと子供とか。今やタイムシフトで見るのが当たり前になっちゃったので、そのセグメントが無効化してきているんですよね。昔は小学校高学年ぐらいの子が夕方のアニメを見てアニメファンになっていくという回路が多かった。今はタイトルを検索して配信で観られちゃうので、たまに「子供のお前が見るには大人向けすぎるんじゃないかな?」という作品も混ざってくる可能性も(笑)。別回路ができちゃっているんですよね。 昔は小学生のころは大人向けで観られなかったけど、中学生になったら深夜アニメを録画して観るようになったという、階段を登るみたいにちょっとずつ大人っぽいものを観ていくような感じだった。けど、今はもっと自由に観られる時代になっているんですよね。それはそれで今の時代のアニメの楽しみ方ではあるけれど、同時に、ミスマッチが起きる可能性があり得るよなって。 ──TVerやサブスクと、いつでもアニメを観られる環境が増えましたもんね。 木村 そうですね。配信だと最近は30秒スキップやOP/EDをスキップする効果があったりして。作品によってはスキップされないようにわざわざ絵を変えていたり、主題歌と主題歌の間でストーリーを入れていたりと工夫していて。 藤津 エンディングはスタッフのクレジットが載るので、自動的に飛ばされるとつらい。誰が担当してたんだっけ?と確認できなくて。設定で変えられるけど、デフォルトだとそうなっちゃう。映画もエンドロールを飛ばそうとするじゃないですか。 木村 そこ飛ばすのは寂しいですよね。この人が作っている作品だからこうなのかとかがあるから。そして話は飛びますが最近は音楽の制作をしているところがだいたい決まってきているので、タイアップでつけたみたいな感じが見えてしまうことも……。商業っぽさを感じて、逆に入っていけないものがあって。 藤津 大人の都合が見えちゃうとノリきれないんですね(笑)。テレビの話に戻ると、僕は東京工芸大学という学校で少しだけ教えているんですけど、毎年生徒にどういう試聴環境なのかの簡単なアンケートを取っています。それでいうとここ何年か傾向がはっきりして、基本的にひとり暮らしの人はテレビを持っていないから、タブレットかパソコンで観ている。実家で暮らしている子は、居間にテレビがあって録画機や再生機がある。じゃあ果たして、今この若い世代が大人になって家族を持ったとき、その居間にテレビを置くのかどうかという問題が見えるんですよ。 木村 買わないんじゃないですか? それかモニターとしてテレビを買う人はいるかもです。 藤津 そうなんですよね。あと、留学生の子が「うちの家は居間にテレビがありますが、誰もテレビを見ません」と。要は子供が成長すると自分用のテレビを部屋に置くか、PCやタブレットなりで各自が自分の機器で観ている。居間のテレビはよほどのことがない限りつけなくなるみたいで。ここから20年ぐらいテレビを持たない家がすごく増える可能性があるなあと。 木村 チャンネルの取り合いがないんですね……。よりいっそうネットの配信が重要になってきますよね。そうなるとその配信形態に合ったフォーマットが必要になってくるというか。音楽の場合だと、10年以上前にアメリカのスタンフォード大学で、レコードとデジタルデータのMP3の音はどっちがいいかというアンケートを取ったみたいで。そのころからもうほとんどの人が音楽をiTunesとかで聴いているからMP3のような圧縮音源に慣れちゃっていて。だから、若い子はレコードよりもデジタル圧縮音源のほうがいいと答えたみたい。なじみがあるから、そっちのほうがいい音だって。だからアニメもそのうち同じような感じになるのかも。最近は1.5倍速とかで観ている人も多いと思うので、それで本当のアニメの作家性というものが全部見られるかはわからないですけど。 藤津 ただ、内容をチェックするぶんにはいいのかもしれないですが。 作品が増えるにつれて、観ない理由を探す時代に ──タイパを重視する時代でもあり、視聴の簡略化が目立ってきていますからね。最近だと事前情報だけで観る観ないを判断する“ゼロ話切り”という言葉も聞きます。実際、どう思いますか? 木村 僕は、1話だけでも観てほしいかな。 藤津 最近は作品数が多いので、観ることにもなるべく努力しないといけなくて。2000年代初頭の時点であるアニメ誌の編集さんが言ってたんですけど、今や“観ない理由”を探す時代になったんだと。昔は観る理由を探していたけど、観ない理由を探すと。それが“ゼロ話切り”という言葉に置き換わったのかなって。 ──なるほど。時代によって視聴者の意識も変わってきますよね。作品のジャンルでいうと、一時期は異世界転生モノが増えていましたが、その時代の日本社会とも関係があったのでしょうか? 貧困などの問題でほかの人生を歩みたいという願望を異世界転生モノに重ねている人もいるという記事を読みまして。 木村 もちろん、人生うまくいかないこともあると思うんですけど──ここ数十年で世の中が変わっていてよりいろいろと抑圧されていることもあるし、それで自分が本当にやりたいことをやりたいという気持ちが異世界転生モノに惹かれるということになるかもしれないですね。 藤津 もともと異世界転生モノは、なろう系(※)なんていわれたとおり、小説投稿サイトを中心に広がっていって、当初の読者は氷河期世代が中心だったはず。その世代の「思いどおりにいかなくてつらいなあ」っていう気持ちを受け止めるフィクションだったと思うんです。そうしてその結果、あのジャンルが大量に生まれて、いろんなメディアに出ていったことで、今度は小学生とかも読むようになって。浸透と拡散とでもいえばいいんでしょうかね。スタートは世代の置かれている環境が反映されていたんだろうと思うんですけど、それがジャンルになってしまうと間口が広くなって、いろんな作品が出てきて、当初のターゲットとも異なる子供も読むようになっちゃう。『転生したらスライムだった件』なんかは今や小学生のファンがすごくいるんですよね。国作りの話だから、彼らはあの作品を『三国志』みたいな感覚で読んでいるんですよ。 (※小説投稿サイト『小説家になろう』発の原作の作品) 木村 短いエピソード内で事件とかいろんなことが起こりまくって、刺激が強いんですよね。子供たちも「次は何をやるだろう?」ってのめり込む。『片田舎のおっさん、剣聖になる』も同じで、どんどんいろんなことがあって、次の展開を楽しみだと思わせてくれる。ただ、あまりにもアニメの作品数が多すぎて……いい意味ですけど。これは数を作らなきゃいけなくて業界にプレッシャーがかかっているんですか? 藤津 難しいんですよ。制作会社は基本的には制作を請け負う側なので。『鬼滅』以降、原作側がアニメ化に対してのモチベーションが上がっているんですよね。一方で企画は、10倍の予算で1本作るよりは、10分の1の予算で作ったほうが絶対にリスクヘッジができるので「数は力」みたいなところがあって。だからお金を回している側からすると、数を減らす理由がないんですよね。しかも、原作元も意欲があるから。ただ作る側が過剰に大変だということに…… 木村 そうなんですね。あと、前は少女マンガが原作のアニメがけっこうあった気がしましたけど。 藤津 前期だと『ハニーレモンソーダ』がそうですね。今回だと『謎解きはディナーのあとで』が「ノイタミナ」でアニメ化されています。これは小説原作ですが、キャラクターデザインや雰囲気は、コメディ寄りの少女マンガといったテイストで。気取った警察の警部の声優は宮野真守さんで。しかも、おもしろいほうの宮野さんでやっている。だから少女マンガそのものではなくても、「少女マンガっぽいもの」へのニーズはあると思うんですよね。 木村 やっぱり女性のアニメ視聴層は、パーセンテージ的に多いんですか? 藤津 多いと思います! あくまで傾向で例外もあると思うんですが、女性ファンって好きになると友達を誘いがちなんです。なので、熱気が盛り上がるときはS字曲線なんですよ。ちなみに下がるときは逆のプロセスになるので、そちらも早くて(小声)。 あの子が離れたなら私も離れようかなって。あくまで一般論的で例外もあるでしょうけど、マクロで見ると女性はそういう行動を取りがちのようです。男性は友人に布教しても、そこまでではないんですよね。わりとバラバラというか、“分子間力”が弱い感じ。女性は“分子間力”が強くて、「一緒に楽しもうよ!」となって塊が生まれる。だから女性ファンがつくとグッと温度が上がる。そういうことで女性ファンが目立って見えるというのがあるかもしれません。 木村 だいたい女の子のほうが先にハマって、そのまわりの男の子が釣られてハマっていく時期には女の子はもう飽きているという(笑)。男性のほうがハマっていったらわりと長く続ける人が多いのかなって。おもしろいものを見つけようという意識は女性のほうがすごい感じがしますね。 愛され続けるガンダムの魅力とは? ──おもしろい傾向ですよね。話は変わるのですが、前回の春アニメ対談の際に、春アニメといえば『ガンダム』とふたりともおっしゃっていました。今春は新作『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』がスタートしています。さらに先日、藤津さんが『富野由悠季論』も刊行されましたので、ガンダム作品についてもたっぷり聞いていけたらと思っています。 藤津 ようやく映画『機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning』(2025年)と違う展開に。1クールだけという噂がありますが、これからどうなっていくのか楽しみですね。 木村 ガンダムなのに1クールって珍しいですよね。 藤津 その前の『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(2022年)も結局2クールだったので、短かったんですよね。それまでは基本は1年ベースで作ってきたので。 木村 『機動戦士ガンダム00』(2007年)も途中で一回終わって、またやっていましたね。 藤津 あれはもともと1年の企画なんだけど、だんだん求められるものが高度になってきたので連続で制作するとすごく大変になっちゃう。なので、半年ブレイクを入れましょうとなったみたいです。 木村 そのころから、長い作品は途中で休むようになりましたよね。1クールとか2クール休んで。 藤津 分割4クールとか分割2クールといったパターンですね。やっぱり1年間は大変みたいで……マラソンなのでね。庵野秀明監督は「テレビシリーズというのは穴の開いた船みたいなもので。出航した瞬間から水が溜まり始めるから、沈むまでに目的地にたどり着けるかどうかが勝負。なのでダメージコントロールをしていかないと」みたいな話をされていて。なので、1年作り続けるってそれぐらい大変なんですよね。 木村 ただ、今回は12話で収めちゃうのはなかなか厳しいですよね。世界観も広がっているので。ファーストガンダム(『機動戦士ガンダム』/1979年)と同じだけど、違う話。頭から設定が変わっているから。あとは若き日のシャア少佐(シャア・アズナブル)の声が変わった時点で、だいぶ印象が違いますよね。 藤津 シャアっぽいお芝居ができる若手の方を選んだって感じですよね。 木村 サンライズにはないスタジオカラーっぽさが入っていて、新しい感じなのがおもしろいです。あとオリジナルストーリーだから、先がわからないところも。 藤津 オリジナルってそこがおもしろいところでね。あと、今回スタジオカラーが制作の中心なのがインパクトがある。サンライズといえばガンダムの会社で、ある時期までは社内である程度キャリアを積んできた人がガンダムの監督をやるということが普通だったわけで。たとえば、『機動戦士ガンダムSEED』(2002年)の福田己津央さんはサンライズの中で設定制作という仕事をやって、そのあと、演出家になり監督作『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』(1991年)をヒットさせた上での『ガンダム』でした。ある意味満を持しての登板ですよね。それで実際に実績を出したという。 そのあとから風を変えに行って、サンライズでは演出家にはなっていなかった水島精二さんとか長井龍雪さんとか、サンライズに縁はあっても、生え抜きという感じではない人を監督にするようになった。さらにはゲーム会社レベルファイブの日野晃博さんをシリーズ構成に起用したこともあった。あの時期は、次に進んだなという印象でした。『水星の魔女』もその延長線上の印象です。さらに今回の座組は『ガンダム』をどうやって長く生きたタイトルにしていくかというときに、サンライズはある意味ガンダムのプロデュースをすればいい。業界全体で見て、そのとき一番おもしろい人に作ってもらうということを考えているのかなと。 木村 だいぶ変わってきましたもんね。特に『新機動戦記ガンダムW』(1995年)あたりからは、もう全体が変わってしまって。僕は好きなんですが。 ──映画『機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning』は情報がないままでしたけど、観たときの印象はどうでした? 藤津 僕は前半のインパクトがすごすぎて、後半のマチュ(アマテ・ユズリハ)が出てきてからの記憶が飛んでしまいました(笑)。あと劇伴と効果音が元のシリーズと同じなのもインパクトが強かった。 木村 効果音、気になりましたよね! ちゃんとうまく使っていましたし。 ──キャラクターデザインはどうでした? 木村 後期の『新世紀エヴァンゲリオン』を彷彿させましたね。 藤津 竹さんというイラストレーターにお願いされてるんですけど、思いきったなと。記号化されたタイプの方だからリアリティが求められる世界観になじむか不安だったけど、動き出して声がつくとその世界にいるような感じになりました。アニメ化にあたって、斜めのアングルとか、影のつけ方を工夫して実在感が感じられるようにする調節をしているのもうまくいっているのかなと。木村さん、メカはどうでした? 木村 違和感はなかったですけど、細身で鋭角な感じが大河原邦男さんのデザインではなくて、全体がスタジオカラーのセンスだなと思って観ていました。 そうだ、ガンダムシリーズでずっと気になっていたんですけど、『GQuuuuuuX』って英語が不思議ですよね。たとえば、エグザベ・オリベというキャラクターがいますけど、スペイン語だと“シャビエル”で、英語だと“ザビエル”とかで。けど“エグザベ”はどこの言葉?みたいな……。 藤津 今となってはわりと忘れられちゃっているんですけど、最初『ガンダム』の設定では国家がなくなって「地球連邦」になったことで、人種もある程度混合されているんですね。だから言語もいろいろ変わっているであろうことが想定されていたっぽい。もちろん1970年代の作品なのでそこまで徹底はされていないですが。それがシリーズを制作していく過程で、だんだん現実味を増していくにあたって、用語も全部英語だったり、ドイツ語が入ってきたりした。でも富野監督自身は、いろんな固有名詞のモジリを使ったりして世界観を作ってる。「レコンキスタ」じゃなくて「レコンギスタ」にする、とか。だから「出雲(いずも)」じゃなくて「イズマ」にしたりするのは、ちょっと富野さんらしさに通じるものを感じる言葉遣いでもありますね。 木村 そうだったんですね。これは何語だろうな?といろいろと考えたりしていて(笑)。 社会現象を巻き起こす名ゼリフ ──そんな背景があったんですね……勉強になります。著書『富野由悠季論』では印象的な「富野ゼリフ」にも触れていらっしゃいます。記憶に残るセリフはありますか? 木村 やっぱりファーストガンダムの「坊やだからさ」かな。 藤津 『GQuuuuuuX』で、シャアがホワイトベースのブリッジを破壊するとき「運がなかったのだ」みたいなことを言うんです。最初の『機動戦士ガンダム』では、シャアは「私もよくよく運のない男だ」と言ってるんです。そのセリフの本歌取りとして『GQuuuuuuX』のセリフがあるのかなと。ちなみに、もともとの「運がよかった」のセリフは、脚本にはないので、富野さんが絵コンテで書いているセリフだと思うんです。そもそも敵・連邦軍の「V作戦」の秘密兵器であるホワイトベースを見つけちゃったんだから、本当はシャアは運がいいはず。なのにそれをわざわざ「よくよく運のない男だ」と。その持って回った感じが、少なくとも最初の『ガンダム』のシャアなんですよね。そこからすると、もういっぺんひねった結果、『GQuuuuuuX』で、ひねりのないストレートな発言になっているのがおもしろいですね(笑)。 ……なので印象に残るセリフというと、第1話最後の「認めたくないものだな」もそうなんですが、この持って回ったシャアのセリフはまず頭に浮かびますね。富野ゼリフは耳に引っかかる言葉遣いが多いですよね。 木村 今の時代でも、なんかの拍子で使われることもありますからね。 藤津 一定世代までは、歌舞伎とか大衆演劇、その流れにある時代劇が基礎教養だったと思うんですよ。『国定忠治』の「赤城の山も今宵限り」とか『忠臣蔵』の「殿中でござる」とか。 ──白浪五人男の「知らざあ言って聞かせやしょう」とか。 藤津 ある時期まではドリフ(ザ・ドリフターズ)とかがコントでパロディで使っていたりもしたので、歌舞伎を見たことがなくても「そういうものがあるんだなあ」と漠然とではあるけれど、教養として受け止めていたんですよね。それがどこかで『ガンダム』に置き換わったような印象です。 ──アムロ・レイが殴られたときのセリフとかも、コントで使われちゃう時代ですからね。 木村 自分たちはファーストガンダムの影響を受けて育ってきていますけど、今の人たち、若い子たちはそうじゃないから。昔だと『スター・ウォーズ』とか『ターミネーター』とかの映画を元にした社会現象みたいなのがあったんですが、今は世の中すべてがそれになっちゃうことってあまりないですよね。今の子たちは『鬼滅』とかなのかな? 藤津 『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(2020年)は興行収入400億円ぐらいなので、当時10歳ぐらいだった子にはでかいムーブメントに見えていたと思います。あと、今10代後半〜20代前半ぐらいだと『ハリー・ポッター』の存在感がすごかったはず。ただ、今のほうがコンテンツの数自体が多いので、昔のように大人が巻き込まれるほどではないのかも。 木村 大人にはでかく見えないけど、子供たちにとっては大きかったんでしょうね。自分たちも子供のころに見ていたものは、すごいものに見えましたもんね。 藤津 ですが、昔よりも国民的大ヒットは生まれにくくなってきていると思います。そこは昔と今との違いかもです。 木村 名ゼリフみたいなものも、大人たちは気づいていなくて。だけど若い子たちの間では名ゼリフになっていくのかなって。 藤津 『鬼滅』で、冨岡義勇(とみおか・ぎゆう)が言っていた「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」とかは、おそらくその世代の子供たちだと何も言わずに通じているはずなんですよね。今の20歳ぐらいの子になるかな。彼らが40歳ぐらいになるころは、そのあたりがもっと広がっていてもおかしくないかなって。だから時間の問題じゃないですかね。 僕自身の肌感覚でも最初の『機動戦士ガンダム』がこんなに一般的にネタにされるようになってきたのは『∀ガンダム』(1999年)が終わったあとぐらいの印象なんです。21世紀になってから一般性を帯びてきて、風景になってきたというか。それまではマニアックなお遊びみたいだった。 ──この対談を読んで『GQuuuuuuX』だけでなく、これまでのガンダムシリーズも観ようと思う読者がいると思います。これからチャレンジしてみようかなと思っている人に、最低限ここを観ておいたらいいというシリーズがあれば伺いたいなと。 木村 『GQuuuuuuX』を観るんだったら、ファーストガンダム(『機動戦士ガンダム』)は観ないと。どこが変わったのかがわからないと思いますね。 藤津 『機動戦士ガンダム』は全43話あるから、その中でも絞るなら第39話「ニュータイプ、シャリア・ブル」、第41話「光る宇宙」かな。そこを観ておくと、元ネタがわかる。 ──ファーストガンダム以外は? 木村 バトルという点では『機動武闘伝Gガンダム』(1994年)かな。ただ、ガンダムバトルでも少し違うし参考にはならないかもです(笑)。 藤津 ガンダムではないんですが、監督である鶴巻和哉さんの作風を知りたかったら、『フリクリ』(2000年)と『トップをねらえ2!』(2006年)かな。両方とも6話ずつなので観やすい。特に『トップをねらえ2!』は、前に『トップをねらえ!』(1988年)という作品があった上で鶴巻さんがどう捻ったかがポイントなので、これはけっこう『ガンダム』と『GQuuuuuuX』の関係と似ているところがある。あ、似ているという意味では『ガンダム』の第1話も必要かな。完コピ具合の驚きも含めて。そうなると、第1話、第39話、第41話かな。 木村 始めを知っていると楽しめますよね。ミノフスキー粒子のこととか、ファーストガンダムを踏襲していますし。あとは、『機動戦士Ζガンダム』(1985年)と『機動戦士ガンダムΖΖ』(1986年)ではニュータイプの苦悩なども出てきますから。ニュータイプを知っておかないと、話がわからなくなってくるので、勉強してもらいたいですね。 藤津 だから今回、ニュータイプをテーマにしてやるんだって驚きました。大変なところに手を突っ込んできたなと(笑)。 撮影=Jumpei Yamada 取材・文・編集=宇田川佳奈枝
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休日にはあえてグルテンを摂取!──女優・鳴海唯の「チートデイ」
#21 鳴海 唯(後編) 旬まっ盛りな女優やタレントにアプローチする連載「focus on!ネクストガール」。 鳴海唯(なるみ・ゆい)。2019年、NHK連続テレビ小説『なつぞら』で、テレビドラマ初出演を果たす。2021年『偽りのないhappy end』で映画初主演。その後、大河ドラマ『どうする家康』(2023年・NHK)、ドラマ『Eye Love You』(2024年・TBS)、映画『赤羽骨子のボディーガード』(2024年)、ドラマ『七夕の国』(2024年・ディズニープラス)などへの出演を重ね、今夏、NHK連続テレビ小説『あんぱん』に、今田美桜演じる「若松のぶ」の同僚「琴子」役として出演。 インタビュー【前編】 目次余命宣告を受けた女性、感情を吐き出すシーン──難しい役に直面する日々休日にはあえてグルテンを摂取! ひとり旅にも行きたい刑事や弁護士、特殊な職業を演じてみたい 余命宣告を受けた女性、感情を吐き出すシーン──難しい役に直面する日々 ──これまでいろいろな作品に出演されてきたと思いますが、その中で特に印象に残っているものはなんですか? 鳴海 最近だと、やっぱり『あんぱん』が一番ホットですね。でも、印象に残っているという意味では、『わかっていても The Shapes of Love』(2024年/ABEMA)という、横浜流星さん主演のドラマですね。その作品で私は、余命宣告を受けた女性の役を演じさせていただいたんです。 その役は、必然的に命と向き合わなければならないキャラクターだったので、演じる上で本当にたくさんのことを考えましたし、それを経験したことが自分の中ではすごく大きな糧になっていて……。 もちろん私自身は実際に余命宣告を受けたことはないので、どこまでいっても埋められない差はあるんですけど、だからこそ、その中で「どう向き合っていくか」という難しさに直面しました。この経験を通じて、私自身、役への向き合い方が大きく変わったと思います。だから『わかっていても』は、すごく印象深い作品ですね。 ──そういう壁にぶつかったときは、どう乗り越えていくんですか? 鳴海 自分の人生と全然違う役柄に出会うと、やっぱりすごく難しいなって思いますし、「どうすればいいんだろう」って悩みます。でも、その壁を乗り越えたときに、またひとつ自分が成長できたような気がするんですよね。 だから、自分が取り組みやすい、演じやすい役ばかりじゃなくて、苦手意識のあるキャラクターにも、どんどん挑戦していきたいなと思っています。 ──なるほど。その意味では、先日、NHKで放送された村上春樹さん原作のドラマ『地震のあとで』(第2話「アイロンのある風景」)に出演されましたよね。あれは難しい作品だったと思いますが、どうでした? 鳴海 役がすごく難しくて、ずっと悩んでいました。撮影が終わっても、「これでよかったのかな」と、思い続けていました。 もちろん、正解がない作品だと思うので、正解を求めること自体が違うのかもしれないんですけど……どうしても正解を求めてしまう自分がいて。放送を終えて、視聴者の方から感想をいただいたときに初めて、「わからないままでいいのかもしれない」と思えたんです。 正解が出ないなかで悩み続けることって、その作品とひたすら向き合っている証拠だと思うので、正解が出るかどうかじゃなく、向き合っていた“時間”のほうが大事なんだなと……そういうことを視聴者の方々の感想から教えてもらいました。 ──堤真一さんと共演されていましたが、現場でお話はされましたか? 鳴海 はい。私が演じたキャラクターは、けっこう感情を吐き出すようなシーンがあって、そのときは堤さんが本当に静かに寄り添ってくださいました。監督ともアプローチについて話しながら撮影に臨んでいたんですけど……堤さんは細かくお芝居について話すというよりは、すごく自然に気持ちを引き出してもらえるような関わり方をしてくださって。 実は私、小学生のころから「好きな俳優さんは誰ですか?」と聞かれたら「堤真一さんです」と言っていたくらい、ずっと憧れていたんです。しかも堤さんは私と同じ兵庫県西宮市の出身で地元のスターでもあるので、いつか共演できたら……と思っていた夢が今回実現しました。 撮影中は悩む時間もありましたけど、堤さんとは地元トークで盛り上がったりして……「あそこの公園わかる!」みたいなお話もできたんです。東京にいるのに、地元にいるような感覚でお話しできて、とても楽しかったです。お芝居の面でも、本当にたくさん引っ張っていただきました。 休日にはあえてグルテンを摂取! ひとり旅にも行きたい ──地元トークができるのっていいですよね。ところで、少し仕事からは離れますが、最近ハマっていることや気になっていることってありますか? 鳴海 最近ハマっているのは、休みの日に「あえてグルテンを摂取しに行く」ことなんです(笑)。今、普段はグルテンフリーをゆるくやっているんですけど、完全に摂らないでい続けるというのは無理なので、次の日に撮影がないときは「今日は小麦を摂るぞ!」って決めて、気になるパン屋さんを調べて行くんです。 今はそれがすごく楽しみで……パン屋さんまで散歩して、近くのカフェでカフェラテを買って、公園で座ってのんびりするというのが最近のリフレッシュ方法ですね。ひとりでパンを食べたり、トンカツを食べたり……そういうのが今のささやかな楽しみです。(小麦を)ごほうび感覚にすると、適度に距離感が出ることで、より好きになって。 ──いわゆるグルテンフリー版「チートデイ」的な感じですね! 鳴海 そうです(笑)。おっしゃるとおり、チートデイですね。 ──グルテンフリーを始めて、何か変化はありましたか? 鳴海 そうですね。わかりやすく体重が減りましたし、朝の目覚めもすごくよくなりました。よく「本当に効果あるの?」って言われるんですけど、実際にやってみたら本当でした。おもしろいくらい、如実に効果が出ます。 ただ、普段パンを食べていない状態で久しぶりに小麦を食べると、そのあとすごく眠くなるんですよね。だから仕事に集中したいときは、お米を食べるようにしています。 ──なるほど。今後やってみたいことって何かありますか? 鳴海 私、ひとり旅が好きなんですよ。今年は(忙しくて)ちょっと行けそうにないんですけど……去年や一昨年は海外に行っていて。国内旅行は飛ばして、海外にばかり行っていたんです。でも最近は、時間があまりないなかで「どこか行きたいな」と思ったときに「国内旅行もいいな」と思うようになってきて。やりたいことっていうほどではないかもしれないですけど、今は国内旅行をしたい気持ちが強いです。 ──行ってみたい場所はありますか? 鳴海 今は三重県の伊勢神宮に行きたいです……というか、伊勢神宮の手前にある参道で、赤福のぜんざいを食べたいという(笑)。 東京から三重って絶妙に行きづらくて、なかなか友達とも計画が立てられないんですよね。大阪に帰ってくると、つい実家で過ごしてしまうので、やっぱりなかなか予定に組み込めなくて。なので「ちゃんと見に行くぞ!」って決めないと、きっと実現できないなと思っています。 刑事や弁護士、特殊な職業を演じてみたい ──三重、近いうちに実現するといいですね……あと、今後演じてみたい役柄はあります? 鳴海 今までは、自分に近い等身大の役が多かったんですけど、最近は特殊な職業の女性を演じてみたいなと思っていて。実はこの前、とあるそういう感じの役をやらせていただいたんです。その役づくりをしていく中でのプロセスが、すごくおもしろくて。 『あんぱん』だと土佐弁がそうだと思うんですけど、そういう役づくりで必要になる要素があると、自然と役と向き合う時間が増えるんですよね。いつも以上に役と向き合わないといけない。準備をしっかりしないといけないから、役やセリフが自分の中にどんどん染み込んでくる、血肉になっていく感じがあって、それが好きなんです。 これからも、そういう特殊な職業の役に挑戦してみたいです。刑事とか弁護士とか、以前からやってみたいと思っていた役にも……実は今後挑戦させていただく予定があるので、夢がひとつ叶ってうれしいですね。絶対、大変じゃないですか(笑)。もちろん大変だとは思っているんですが、限られた時間の中でどこまで取捨選択して準備できるか、挑戦していきたいと思っていますし、大人の女性の役柄を演じていけたらいいなとも思っています。 ──ありがとうございます。最後に、鳴海さんが出演する『あんぱん』の見どころを教えてください。 鳴海 私は『高知新報』という新聞社のパートに出演しているんですけど、そこは戦後最初のパートになるんですね。なので、すごく自由と活気にあふれていて、熱量の高い場面が続きます。ドラマの制作の方からも「開放感のある、明るいシーンにしたい」と最初に言われていたので、そういうエネルギーを意識しながら演じていました。 それと、(若松)のぶと(柳井)崇の恋が大きく進展するパートでもあるし、私が演じる琴子は、そのふたりの恋のキューピッド的な存在でもあるので、琴子の“愛あるおせっかい”によって、ふたりの恋がどう動いていくのか……ぜひ楽しみにしていただけたらと思います。 ──視聴者が思っているもどかしさを、全部代弁してくれるようなキャラクターですよね。 鳴海 そうなんです(笑)。『高知新報』のシーンは、ちょうど作品としては折り返し地点に入っているところなので、最初から観てくださっていて(のぶと崇の関係性が)「もどかしい!」と思っている方には、「ようやく動く!」と思っていただけるんじゃないかなと思います。 取材・文=鈴木さちひろ 撮影=時永大吾 ヘアメイク=丸林彩花 編集=中野 潤 ************ 鳴海 唯(なるみ・ゆい) 1998年5月16日生まれ。兵庫県出身。2019年、NHK連続テレビ小説『なつぞら』で、テレビドラマ初出演を果たす。2021年『偽りのないhappy end』で映画初主演。その後、テレビCMや大河ドラマ『どうする家康』(2023年/NHK)、ドラマ『Eye Love You』(2024年/TBS)、映画『赤羽骨子のボディーガード』(2024年)、ドラマ『七夕の国』(2024年/ディズニープラス)などへの出演を重ねる。2023年には写真集『Sugarless』を発売。今夏、NHK連続テレビ小説『あんぱん』に、今田美桜演じる若松のぶの同僚「琴子」役として出演。
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気鋭の女優・鳴海唯──『なつぞら』でデビューし『あんぱん』に出演。朝ドラへかける想い
#21 鳴海 唯(前編) 旬まっ盛りな女優やタレントにアプローチする連載「focus on!ネクストガール」。 鳴海唯(なるみ・ゆい)。2019年、NHK連続テレビ小説『なつぞら』で、テレビドラマ初出演を果たす。2021年『偽りのないhappy end』で映画初主演。その後、大河ドラマ『どうする家康』(2023年/NHK)、ドラマ『Eye Love You』(2024年/TBS)、映画『赤羽骨子のボディーガード』(2024年)、ドラマ『七夕の国』(2024年/ディズニープラス)などへの出演を重ね、今夏、NHK連続テレビ小説『あんぱん』に、今田美桜演じる若松のぶの同僚「琴子」役として出演。 目次#21 鳴海 唯(前編)憧れが生まれたのは11歳──行動に移したのは19歳『なつぞら』出演で、街中でも声をかけられるように共演者とのチームワークで臨んだ『あんぱん』 憧れが生まれたのは11歳──行動に移したのは19歳 ──まずは、デビューのきっかけからお伺いできればと……。 鳴海 小学校のときにドラマ『のだめカンタービレ』(2007年/フジテレビ)を観て女優という職業を知って、私もこういうお仕事をしてみたいと思ったんです。ただ、そこから10年くらいは行動に移さずにいて、気がついたら大人になっていました。 11歳くらいのときに憧れが生まれて、実際に行動に移したのは19歳のとき。映画『ちはやふる―結び―』(2018年/東宝)のエキストラに参加させていただいたのがきっかけですね。そこで「やっぱりこのままでは後悔する」と思って、大学を辞めて養成所に入ろう!と決めて、東京に出てきました。 ──なるほど。大学を辞めるという決断は、かなり大きなハードルだったのではないですか? 鳴海 本当に親不孝なことをしてしまったなと思ってはいます。入ってすぐに辞めてしまったので……。 でも、この思いは今に始まったことではなくて、11歳のころからずっと心の中で沸々と、くすぶっていたんです。それが『ちはやふる』への参加をきっかけに、もう抑えきれないほどあふれてしまって……居ても立ってもいられなくなって、行動に移すしかありませんでした。 ──なるほど。最初のお仕事はなんでしたか? 鳴海 たしか最初は、ミュージックビデオだったと思います。セリフはなかったんですけど、初めてカメラの前に立たせてもらったとき、「どこを見ればいいのかわからない」と思いました。カメラが目の前にあるのに、「カメラを見ないでください」と言われて……「どういうことだろう?」と、そんなことを考えながら撮影に臨んでいました。 カメラを向けられる緊張感や、メイクをしてもらうことへの違和感など、すべてが新鮮で、そうしたフレッシュな感覚をそのまま受け止めながら撮影に臨んでいた記憶があります。 ──セリフのあるお仕事の最初の印象はどうでしたか? 鳴海 その当時は、役づくりがどういうものかということすらわかっていなくて……いただいた台本をただ覚えて、それを一生懸命カメラの前で演じるということで精いっぱいだったような気がします。それでも「お芝居って楽しいな」と思えたことは、今でも覚えています。 結果的に作品として最初にメディアに出たのは『なつぞら』(2019年/NHK)なんですけど、実はその前に撮影した初めての作品があったんです。その作品で出会った仲間たちとは今でも会いますし、自分にとっては本当に大切な出会いでした。 一番最初に行った現場で出会った友達が今でもがんばっている姿を見ると勇気づけられるし、自分も「がんばろう」と思わせてもらえるんです。今もよくご飯に行って、思い出話をしたりしています。 ──それはどなたですか? 鳴海 配信ドラマ『妖怪人間ベラ〜Episode0〜』(2020年)という作品でご一緒した、北原帆夏ちゃんと横田愛佳ちゃんです。1年に1回は集まって、近況報告をしています。 それと別の現場でも、大友花恋ちゃんや森田想ちゃんと再会する機会があって、彼女たちとも『ベラ』で一緒だったんですよ。そうやって初めての作品で出会った人たちと、現場でまた会えるのはすごくうれしいです。最近も(森田)想ちゃんと現場でお会いしたので、そのことを伝えたりしました。 『なつぞら』出演で、街中でも声をかけられるように ──映像として世に出たのは『なつぞら』が先になったとのことですが、ご自身で試写などで初めて観た出演映像作品も『なつぞら』だったんですか? 鳴海 そうですね。自分自身が出演した作品を最初に観たのは『なつぞら』でした。 ──『なつぞら』の出演は、オーディションだったんですか? 鳴海 はい。オーディションです。 ──そのオーディションの印象はいかがでしたか? 鳴海 まず、「受けさせてもらえるチャンスがあるんだ」と驚いたのを覚えています。当時は、本当に受かるなんて思っていませんでした。 友達に家に泊まりに来てもらって、夜遅くまで相手役を手伝ってもらったりして……今までで一番時間をかけて取り組んだオーディションでした。本当に一生懸命だったと思います。 ──実際に受けてみてどうでしたか? 鳴海 自分自身の手応えは特に感じなかったんですけど……当時、ドラマや映画で観ていた女優さんたちが目の前にいらっしゃって、そんな体験も初めてで。オーディションとはいえ、そういった方々とお芝居ができたことがすごくうれしかったです。「楽しかったなー」と思いながら(オーディション会場の)NHK放送センターから帰った記憶がありますね。 ──『ちはやふる』ではエキストラというかたちで共演した広瀬すずさんと、今度は別のかたちでお会いしたわけですが、どんな気持ちでしたか? 鳴海 そうですね。高校生のころの自分に教えてあげたいくらい……本当に夢みたいな瞬間でした。 『なつぞら』を経て感じた、スクリーンやテレビの外から観ていた憧れの方々と共演させていただく喜びみたいなものを、それこそ『なつぞら』以降、たくさん経験させていただくことになるんですけど、たぶんその最初の体験ですね。 ──よく朝ドラに出演すると、街中で声をかけられるようになるって聞くんですけど……実際どうでしたか? 鳴海 『なつぞら』での出演は本当にちょっとだけだったので、そこまで声をかけられることはなかったです。でも、地方で仕事をしていると、「明美(役名)ちゃんだよね?」と声をかけていただくこともあって、朝ドラの影響力って本当にすごいなって、改めて感じました。あのドラマをどれだけの人が楽しみにしているのかが、実感できた瞬間でしたね。 ──映像作品に出演するようになってからの、身近な人や友人からの反応はどんな感じでしたか? 鳴海 父はもう、私が映ってさえいればなんでもうれしいっていう感じで(笑)。どんな作品に出ても喜んでくれるんですけど、特にNHKの作品だとすごく楽しんで観てくれている印象があります。だからNHKの作品に出ると、親孝行がまたひとつできた!っていう気持ちになるんですよね。 そういう意味では今回、『あんぱん』に出演できたことも、おばあちゃんや親にちょっとでも孝行できたかな、という気持ちになりました。 共演者とのチームワークで臨んだ『あんぱん』 ──その『あんぱん』ですが、撮影現場で何か印象に残ったことはありました? 鳴海 そうですね、『あんぱん』の1週間は、まず月曜日にリハーサルをして、火曜日から金曜日は、だいたい朝8時くらいから撮影が始まるんです。毎日NHKに通って撮影をするという流れが、ほかのドラマとは全然違っていて。 普段は時間も毎日バラバラだし、行く場所も変わるんですけど、朝ドラの撮影はルーティンがしっかり決まっていて、それがすごく身体に染みついた感じでした。その感じがすごく不思議で……ああ、これが朝ドラに出演しているっていうことなんだなと思いながら、撮影をしていました。 普段は作品が終わってもそこまで寂しくなるタイプじゃないんですけど、『あんぱん』は参加期間が3週間と短かったものの、毎日同じ現場に通っていたので、終わったときにはすごく寂しくて……。あのルーティンがなくなるのが寂しいな、と。 ──『あんぱん』での役づくりで、特に意識したことはありますか? 鳴海 私が演じる琴子のキャラクターは、一見すごく明るいんですけど、脚本を読んだときにすごく魅力的だなと思ったのと同時に、彼女がどうして明るく振る舞っているのか……その背景が気になったんです。だから、ただ明るいだけじゃなくて、なぜそう振る舞っているのかを丁寧に掘り下げていくことで、もっと人間らしい深みのあるキャラクターにできるんじゃないかと思って……一番そこを意識して向き合いました。ただ明るいキャラクターというだけで終わらせないようにする点には、すごく気をつけましたね。 あとは、やっぱり土佐弁が難しかったんですよね。普段セリフを覚えるときは、単に言葉を覚えるだけなんですけど、今回は「言葉」も「音」も覚えなきゃいけなくて、いつも以上に……覚えるまで2倍くらいの時間がかかりました。すごくハードルは高かったんですけど、この作品に出ている方はみんな同じ経験をしていると思うので、「大変なのは自分だけじゃない!」と思えて、それを励みにがんばれた気がします。 ──共演者の今田美桜さんや津田健次郎さんらとは、現場でどんな感じの……。 鳴海 私が参加した『高知新報』でのパートは、北村匠海さん、今田さん、津田さん、倉悠貴さん、そして私の5人で、基本的に物語が進んでいくんです。現場では今田さんと北村さんがよく前室にいらっしゃって、自然とコミュニケーションも生まれて、いろんな話をしました。 芝居の話ももちろんしましたけど、全然関係ない話もたくさんしましたね。特にご飯の話題が多くて、「今日は何を食べようかな」とか、メニューを見ながら「このデリバリーがおすすめだよ」とか(笑)。 そういう日常的なやりとりを通じて、自然と仲よくなっていった感じですね。だから撮影が進むにつれて、チーム感みたいなものが、どんどん強くなっていきました。もちろん、それぞれの撮影日は違っていたりして完全に一緒に動いていたわけじゃないんですけど、前室の空気みたいなものは、きっと画面にも映っている瞬間があると思います。 取材・文=鈴木さちひろ 撮影=時永大吾 ヘアメイク=丸林彩花 編集=中野 潤 ************ 鳴海 唯(なるみ・ゆい) 1998年5月16日生まれ。兵庫県出身。2019年、NHK連続テレビ小説『なつぞら』で、テレビドラマ初出演を果たす。2021年『偽りのないhappy end』で映画初主演。その後、テレビCMや大河ドラマ『どうする家康』(2023年/NHK)、ドラマ『Eye Love You』(2024年/TBS)、映画『赤羽骨子のボディーガード』(2024年)、ドラマ『七夕の国』(2024年/ディズニープラス)などへの出演を重ねる。2023年には写真集『Sugarless』を発売。今夏、NHK連続テレビ小説『あんぱん』に、今田美桜演じる若松のぶの同僚「琴子」役として出演。 ▼『logirl』でマンガ連載(『テレビドラマのつくり方』)をしている、『妖怪人間ベラ〜Episode0〜』で監督を務めた筧昌也さんへのコメントを求めると「筧さん、私が新しい作品に出るたびに連絡をくださるんですよ。またご一緒したいです!と言っているものの、なかなかタイミングが合わなくて……がんばっていれば、きっとまたすぐに作品でお会いできると思うので、これからもよろしくお願いします!」 【インタビュー後編】
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趣味は編み物と映画鑑賞──『おいしくて泣くとき』ヒロイン・當真あみのプライベート
#20 當真あみ(後編) 旬まっ盛りな俳優にアプローチする連載「focus on!ネクストガール」。 當真あみ(とうま・あみ)。2020年に沖縄でスカウトされ、『妻、小学生になる』(2022年/TBS)でテレビドラマ初出演を果たす。その後、「カルピスウォーター」の14代目イメージキャラクターに就任、また、『パパとなっちゃんのお弁当』(2023年/日本テレビ『ZIP!』朝ドラマ)や『どうする家康』(2023年/NHK)、『最高の教師 1年後、私は生徒に■された』(2023年/日本テレビ)など、ドラマへの出演を重ねる。2025年4月4日公開の映画『おいしくて泣くとき』では、複雑な家庭環境下にあるヒロイン・夕花を演じている。後編では、プライベートに関することを聞いてみた。 インタビュー【前編】 目次手芸屋で毛糸を物色、俳優仲間と映画館へ上京後も送ってもらっていた“実家の味” 手芸屋で毛糸を物色、俳優仲間と映画館へ ──プライベートなことも伺いたいのですが、最近ハマっていることはありますか? 當真 映画鑑賞はずっとしています。あと、去年ハマり出したのは、カメラと編み物ですね。編み物は、空いている時間に少しずつ編んで、いろいろと作ったりしています。 ──素材も自分で買いに行ったり? 當真 はい。手芸屋さんへ行って、毛糸を物色したりとか。 ──今まで編んだ中で、一番うまくできたものはなんですか? 當真 ニット帽ですね。けっこううまくいって。夏場は、麦わら帽子になるような素材で、帽子を作ったりもしていました。 ──映画は今、どれくらいのペースで観ていますか? 當真 今年も1月中に3本は観ました。まだまだ観たい作品があって、もうすぐ上映が終わるのかなとか、早く行かなきゃと思っている作品も、今、3つぐらいあります。少なくとも月に1本以上は確実に観たいなと思っています。 ──映画館に行って観るんですか? 當真 そうですね、映画館がすごく好きで。家で観ていると、ちょっと飽きちゃったり、気が散ることもあるのですが、映画館だと大きなスクリーンにすごい音響だったり、本当にその空間がすごく好きなんです。 ──今まで観てきた映画の中で、すごく好きな作品、もしくはこの作品に出ているこの俳優の演技に憧れる、というのはありますか? 當真 お芝居でいうと、杉咲花さんです。昨年観た『52ヘルツのクジラたち』(2024年)と、おととし観た『市子』(2023年)での杉咲さんのお芝居が本当にすごくて……誰かの人生を追いかけて見ているような、そういうリアルなお芝居というか。リアルだし、言葉の一つひとつに、しっかりと伝わってくる強さがあって、そういう相手に届ける力がすごく強い女優さんだなと思いました。 ──お仕事をするなかで、仲よくなった俳優さんはいますか? 當真 『最高の教師 1年後、私は生徒に■された』というドラマで仲よくなった友達とは、ずっと一緒にいます。みんな映画を観るのが好きなので、最近は一緒に。それこそ『室町無頼』も一緒に観に行きました。共通の好きなものを持っている人がいるのって、すごくいいなと思いながら過ごしています ──今後、やってみたい役柄はありますか? 當真 今、高校卒業間近で、これまでは学生役をいただくことが多くて、今後はさらに先にある大人としての仕事とか、今の学生のさらに先のところで一生懸命にがんばっているような役に挑戦できたらなと思っています。 ──社会人の役などですかね? 當真 そうですね。学生の役では、自分が経験したものだったり、知っている感情をつなぎ合わせて演じていたんですけど、その先となると私もまだ経験したことがないから、たぶんすごく難しいだろうなと思うんです。でもそこを探しながらやるのがすごく楽しいだろうなと思っていて、挑戦してみたいですね。 ──高校を卒業して、成人して、何かが変わる実感はあったりしますか? 當真 成人してですか……まったくないです(笑)。18歳になったからって遅くまで出歩くわけでもないですし、結局あまり変わらないかなというのが大きくて。ただ、学生でも子供でもないというところを意識して、しっかり気持ちを切り替えてかないといけないなとは思っています。 上京後も送ってもらっていた“実家の味” ──俳優以外で、今後やってみたいお仕事はありますか? 當真 ドラマや映画の宣伝で出演するバラエティ番組などで、全然違うジャンルなのに、おもしろくできる俳優さんがいるじゃないですか。すごく明るいキャラクターが出ている感じの……。私は(バラエティでは)うまくしゃべれないぐらいに緊張するので、それをなくせたらなと思っています。 ──書く仕事などは、興味があったりしますか? 當真 あまり考えたことはなかったですね。それよりは、最近カメラを持ち始めてずっと撮っているんですけど、写真を撮るのがすごく楽しくて。その流れで何か挑戦できるものがあったらいいなと思います。 ──写真を撮るときには、ご自分が撮られるときの経験が活きていたりしますか? 當真 いや、まったくないですね(笑)。撮っている対象も友達ばかりですし。画面を通して見ると、また違う人に見えてくるのがおもしろくて、そこはどこかお仕事で活かせたら楽しいだろうなと思います。 ──最後に、改めて映画『おいしくて泣くとき』の見どころを伺えれば。 當真 そうですね。心也くんと夕花の初恋、ラブストーリーではあるんですけど、それだけじゃなくて、ふたりを囲む世界にいる人たちの愛がたくさん感じられる作品だと思います。たとえば30年も相手を思い続ける心也くんの想いや、子供に対する心也くんのお父さんの想いなど、深い気持ちをすごく感じられる作品ですし、人の気持ちの強さ、尊さを感じていただけたらなと思います。 ──タイトルにもつながる、當真さんご自身の「食の思い出」はあったりしますか? 當真 あまり外に出て食べるということをしないのですが、お母さんやおばあちゃんの料理はすごく好きですし、東京に来てからも作った料理を実家から送ってもらっていたことがあって。ハンバーグとか、自分が本当に好きな食べ物を送ってもらっていて、仕事が終わったあとに食べるとすごく体に染み渡りました。ずっと食べてきたものを食べるとすごく安心して、おいしくて。泣くまではいかないんですが、ほっとする料理が身近にあるのは、本当にうれしいことだなと思いました。 取材・文=鈴木さちひろ 撮影=時永大吾 編集=中野 潤 ************ 當真あみ(とうま・あみ) 2006年11月2日生まれ。沖縄県出身。『妻、小学生になる』(2021年/TBS)でテレビドラマ初出演。その後も『パパとなっちゃんのお弁当』(2023年/日本テレビ『ZIP!』朝ドラマ)や『どうする家康』(2023年/NHK)、『最高の教師 1年後、私は生徒に■された』(2023年/日本テレビ)、『さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~』(2024年/TBS)など、ドラマへの出演を重ねる。Netflix映画『Demon City 鬼ゴロシ』が配信中。2025年4月4日公開の映画『おいしくて泣くとき』では、複雑な家庭環境下にあるヒロイン・夕花を演じている。
サボリスト〜あの人のサボり方〜
クリエイターの「サボり」に焦点を当て、あの人はサボっているのか/いないのか、サボりは息抜きか/逃避か、などと掘り下げていくインタビュー連載
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「メイドでいても、家庭にいても、変わらない自分で楽しむ」志賀瞳のサボり方
クリエイターの活動とともに「サボり」にも焦点を当て、あの人はサボっているのか/いないのか、サボりは息抜きか/逃避か、などと掘り下げていくインタビュー連載「サボリスト~あの人のサボり方~」。 メイドカフェ「あっとほぉーむカフェ」のカリスマメイド「hitomi」として活躍し、運営会社のCBOも務める志賀瞳さん。結婚・出産を経た現在も現役のメイドとして活動を続け、メイド文化の発展に尽力する志賀さんの仕事への向き合い方と、ひと息つく瞬間について聞いた。 志賀 瞳 しが・ひとみ 2004年、「あっとほぉーむカフェ」にてメイドとして働き始める。2005年にはメイドルユニット「完全メイド宣言」としてデビューし、「萌え〜」で新語・流行語大賞トップテンを受賞。2018年よりあっとほぉーむカフェの運営会社であるインフィニア株式会社のCBO(チーフブランディングオフィサー)を務める。また、2017年より秋葉原観光親善大使を務め、2019年にはNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演するなど、現役でメイドを続けながら、広くメイド文化の発信に努めている。 テーマパークのキャラクターのようにメイドに徹する ──メイドカフェにおけるメイドさんのお仕事について、ぼんやりとしたイメージはあるのですが、実際どんなことをされているのでしょうか。 志賀 「あっとほぉーむカフェ」では、お客様のことを「ご主人様/お嬢様」とお呼びしていて、「お屋敷」と呼んでいる店内で、ご主人様・お嬢様にお給仕(接客)するのがメイドのお仕事です。 「お帰りなさいませ、ご主人様」とお出迎えするだけでなく、メニュー名やその説明でもメイドらしいかわいらしさや「萌え」を大切にしていて、お客様に世界観を楽しんでいただけるようにしています。もうひとつポイントとして、お食事を提供する際に「萌え萌えキュン」と愛を込める「愛込め」がありますが、これはあっとほぉーむカフェ発祥なんです。 ──お店には女性もたくさん来ていて驚きました。 志賀 そうなんですよ。最近は男女比も半々くらいで、年齢層も幅広くて。よく「男の人が楽しむお店」みたいな偏見を持たれがちなんですけど、メイドのお給仕は基本的にカウンター越しなのでご主人様の隣に座ることもないですし、指名制とかでもなくて、あっとほぉーむカフェはあくまでメイドとのトークや世界観を楽しんでいただく場所なんです。お話しする内容も「メイドカフェだからこの話をしなきゃいけない」とかはなくて、お嬢様には恋バナを聞かせてもらったり、恋愛相談を受けることもありますね。 ──志賀さんがメイドとして大切にされていることはなんですか? 志賀 私が自分で作った言葉なんですけど、「ハートにもメイド服」を心がけています。見た目だけでなく心の中でもメイド服を着た感覚を持って、芯の部分からメイドになる必要があると思っているんです。そうすることで、お給仕中の発言や所作、立ち居振る舞いなどにメイドらしさが出てくるんじゃないかなって。そこはすごく大切にしています。 ──そういったメイドとしてのプロ意識を持つ上で、参考にした人などはいるのでしょうか。 志賀 私はディズニーがすごく好きで、家が近かったのでディズニーランドに行く機会も多かったんですけど、ミッキー(マウス)に感じてきた憧れは、メイドにとっても大切なものだと思っています。いつ会ってもミッキーはミッキーで、誰にでも平等でみんなに手を振ってくれる。「ハートにもメイド服」にも通じますが、メイド服を着ているときは常にミッキーの心を忘れないというか、「メイド」というキャラクターであり続けるという意識は、ディズニーから学ばせてもらったのかなと思います。 メイドという職業は、人生を懸ける価値がある ──学生時代から20年以上メイドを続けられていますが、そのモチベーションにつながっている経験などはありますか。 志賀 大きなターニングポイントとして、これは書籍などでもお話ししているのですが、2008年に秋葉原で起きた無差別殺傷事件があります。あの事件をきっかけに秋葉原が暗いムードに変わってしまい、事件を目撃したことで秋葉原に来られなくなったご主人様もいました。私もメイドへの偏見を覆したい一心で働いてきた心がちょっとくじけそうになってしまったんですけど、明るい秋葉原が戻ってくるまでこの場所を守り続けることが大事だと思い、お給仕を続けていました。 そうしたら事件から2年経ったころに、ずっと見かけなかったご主人様がご帰宅してくれたんです。やっぱり事件のことがトラウマになっていたそうなんですが、SNSで私の活動を見て、「hitomiちゃんがこんなにがんばってるんだったら、また行ってみようと思ったんだ」と言ってくださって。たとえ目の前でお話しできなくても、自分がメイドとして活動を続けることで誰かの人生を後押ししたり、癒やしになったりすることもあるんですよね。そのことに気がついて、「やっぱりメイドってすごいな。これから先も人生を懸けてこの仕事をやる価値がある」と思えた経験は大きかったです。 ──それは大きな経験ですね。ちなみに、もっとささやかなレベルで力をもらえるような言葉や経験としてはどんなものがありますか。 志賀 ささやかレベルでいうと、こちらの言動に対して、ご主人様・お嬢様の反応がすぐに返ってくるところがモチベーションになっています。いい反応も悪い反応も、一瞬でわかるんですよ。だからこそ、反応が悪くてもすぐにリベンジするチャンスがもらえると思っていて、目の前で反応を見ながらやりとりできることにやりがいを感じるんです。 ──相手の反応を見ながらその場で対応を考えていくって、引き出しやアドリブ力なんかがないとできませんよね。プロのスキルだと思います。 志賀 たしかに、引き出しは大事ですね。後輩のメイドからよく「ご主人様と何を話していいかわからない」といった相談を受けるんですけど、できるだけ自分の中に引き出しを作っておいた上で、会話のラリーを意識してもらうようにしています。そうじゃないと、誰に対しても同じような質問のQ&Aになってしまって、楽しくならないんですよ。 あとは、お話そのものを目的にするんじゃなくて、ご主人様・お嬢様に興味を持つことが大切です。相手に興味を持っていることが伝われば、お互いに高い熱量でお話しできるんです。そうやって話を掘り進めていれば、共通点や盛り上がる話題もきっと見つかると思います。これを私は勝手に「ホリホリの技術」って呼んでるんですけど(笑)。 ──そういった経験の積み重ねで、観察力なども鍛えられているんでしょうね。 志賀 視覚から入る情報には注目していますね。お顔の様子はもちろん、服装や持っているバッグの大きさ、キーホルダーやスマホケースまで、いろんなところを観察して、会話のネタにしています。観察するクセがついているので、ご主人様がご帰宅されたとき、一瞬で「あ、もしかしてこういうものを求めてるのかな」と想像できてしまうときもあって。なんか怖いですね(笑)。 メイドの先生のコツは、自分で答えに気づいてもらうこと ──運営会社のCBO(チーフブランディングオフィサー)としては、どんなお仕事をされているのでしょうか。 志賀 あっとほぉーむカフェの新サービスや新メニューについて意見をしたりもしますが、メイドについて世間に発信したり、メイド向けに「メイドとは」というお話をしたり、メイドの世界観に携わるケースが多いですね。そして、もっとメイドという文化の認知を広げ、偏見をなくしていくために、あっとほぉーむカフェが安全安心で健全なお店だということのアピールにも力を入れています。 ──メイドとして働くこととは、また違ったやりがいがありそうです。 志賀 そうですね。メイドは自分が一プレイヤーとしてご主人様・お嬢様と対峙する存在なんですけど、CBOの場合は、1対1というより、世の中に訴えかけたり、メイド全員に向けて活動したりする。そういった意味で、やりがいの規模感も大きいなと思います。同時に、しっかりと向き合い、本気で臨まないと、ちょっとした言動でメイドそのもののイメージを壊してしまう恐れもあるので、責任感みたいなものも増しましたね。 ──メイドさんとも向き合っているそうですが、いわゆる上司と部下みたいな、お客さんとはまた違ったコミュニケーションが生じますよね。志賀さんはメイドさんたちとどう接しているのでしょうか。 志賀 面談や相談に来るメイドたちは、みんな話したいことがあるわけじゃないですか。問題を解決するよりも、まずは「私の意見をわかってほしい」「共感してほしい」という子が多いんですよ。だから、メイドが相談に来たときは話を途中で止めないようにしています。途中で「ん?」と思うことがあっても口を挟まず、最後まで話を聞いて、思う存分吐き出してもらうんです。 そして、「それはイヤだったね」「大変だったね」と共感して、すべて受け入れます。落ち着いてきたら、「私はそういうときこうしたよ」とか「こういうご主人様もいたよ」と、自分の経験を話します。私のほうから答えを出したり、決めつけたりしないように意識していますね。自分で答えに気づけたほうが納得できるし、行動できると思うんです。 ──すごい、先生みたいですね。問題の答えじゃなくて解き方・考え方を教えるみたいな。 志賀 たしかに、メイドの先生かもしれないです(笑)。 ──ずっとあっとほぉーむカフェで働くメイドさんたちを見てきたなかで、変化を感じることはありますか? 志賀 変わりましたね。私はもともとギャルだったんですけど、入ったころはメイドもオタクな子ばっかりで、スーパー異端児でした。でも今はギャルっぽかった子や陽気な子、元アイドル、大学院生など、本当にいろんな子がいます。 それに、あっとほぉーむカフェのメイドになりたくて地方から出てくる子もとっても多いんですよ。それこそ海外から来る子もいますし、メイドが憧れの職業になってきているのかもしれないな、って思えるようになりました。 ──メイドが憧れの職業になるなんて、メイド文化の発展に貢献してきた志賀さんにはうれしいことですよね。 志賀 そうですね。以前は「秋葉原でメイドなんて大丈夫?」と親が心配して、メイドになることを許してもらえなかった子も多かったと思うので、イメージも変わってきていると思います。そういった理解がもっと広まっていくといいですね。 どこにいても、ムリなく自分らしく ──志賀さんは結婚してお子さんがいることも公表されていますが、メイドをしながら会社の運営に携わり、さらに家庭もあるとなると、サボるヒマなんかないですよね。 志賀 自分の中ではサボってるというか、息抜きはしっかりしていると思ってます。プライベートの志賀瞳として子育てをしているときは、もちろん大変なこともあるんですけど、同時に息抜きにもなってるんです。最近は子供がASMRにハマっているので、一緒にTikTokを見たり、トレンドの食べ物を買ってASMRごっこをしたりするんですけど、そういう時間がサボりの時間、癒やしになっています。 ──ただお子さんの相手をしているのではなくて、自分もちゃんと楽しんでいるから、リフレッシュになる。 志賀 そうなんです。趣味や好きなものも似ています。それと、私がメイドであることもすごく喜んでくれていて。子供は男の子ふたりなんですけど、4歳の次男は「将来ママ(メイド)になりたい」と言っています。家でもメイドごっこをするのが好きで、一緒にオムライスにケチャップで絵を描いたりして楽しんでいます。 ──それはうれしいですね。お子さんとの時間以外に楽しんでいることはありますか? 志賀 スマホのゲームとかもやりますよ。メイド同士で一緒にやったりもします。みんなでずっとやってるのは、『トゥーンブラスト』っていうパズルゲームです。よく広告で出てくるやつなんですけど。 ──実際にあるのかどうかわからないようなゲームですよね? 本当にあったんだ。 志賀 はい、3年くらいずっとハマってますね。チームで得点が出たりするので、仲のいいメイドたちとグループを組んでいて、「最近、ミッションやってないじゃん。ちゃんとやろうよ」ってLINEしたり(笑)。 あと、YouTubeなんかもよく見るんですけど、家だとずっと流しっぱなしにしているような感じで。生活音というか、いろんな音が聞こえてる状況が好きなんです。だから、ぼーっとするにしても、家にいるよりは人が集まるファミレスとかのほうがいい。仕事で何か作業をしなきゃいけないときも、無音よりはYouTubeを流したり、外でやったりしたほうが集中できますね。 ──そういったぼーっとしている時間が意外とお仕事のインスピレーションにつながった、みたいな経験はありますか? 志賀 やっぱりファミレスとかにいると、自然と女子高生の会話が耳に入ってきたりするので、今の若い子がどんなことをしているのか聞きながら「こういうグッズがあったらいいかも」って考えることはありますね。 あと、子供といる時間も同じで。あっとほぉーむカフェにはお子さんもたくさんご帰宅してくれるんですけど、場違いだと感じてほしくないし、楽しんでほしい。そういうときに、子供たちのトレンドとか、マクドナルドのハッピーセットの最新情報とか、普段子供としゃべっている内容を話すと、すごく喜んでくれるんです。だから、意外と自分がダラけたり、ただ楽しんだりしている時間も、お仕事に役立っているのかもしれないですね。 ──結局、すべての時間を上手に楽しまれているような気がします。 志賀 会社の人にもよく言われますね。メイドでいるときも、会社にいるときも、家にいるときも、そんなに差がないんですよ。どっちかで自分を作っていたり、意識してがんばったりしているわけじゃなくて。 ──どこにいても自分らしくいられるのが一番いいですよね。 志賀 そう思います。本当にムリしてないんで。家でも職場と同じテンションで話してると、子供もすごく楽しんでくれるんですよね。 撮影=石垣星児 編集・文=後藤亮平
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「楽しむ気持ちがあるから、将棋にも研究にも夢中になれる」谷合廣紀のサボり方
クリエイターの活動とともに「サボり」にも焦点を当て、あの人はサボっているのか/いないのか、サボりは息抜きか/逃避か、などと掘り下げていくインタビュー連載「サボリスト~あの人のサボり方~」。 棋士でありながら、東大出身の情報工学者という顔も持つ谷合廣紀さん。将棋の対局だけでなく将棋AIの開発に勤しみ、さらには『M-1グランプリ』にも挑戦するなど、好奇心と行動力がずば抜けている谷合さんに、その原動力やサボり方を聞いた。 谷合廣紀 たにあい・ひろき 1994年、東京都生まれ。2006年に新進棋士奨励会に6級で入会し、2020年に四段昇段・棋士となる。第47期(2021年度)の棋王戦予選・決勝では、本戦トーナメント進出。また、東京大学に進学し電子情報学を専攻、自動車の自動運転技術や将棋の棋譜の自動記録プログラムなどの開発に携わる。現在は情報工学者として将棋AIの開発に力を入れており、2022年の第32回世界コンピュータ将棋選手権では独創賞を受賞した。 AIが将棋で人に勝つ時代がやってきて、自分の生き方を模索 ──まずは棋士としての活動について伺いますが、やはり奨励会(棋士志望者の育成機関)に入会したことで自然と棋士の道を意識されたのでしょうか。 谷合 そうですね。将棋道場といわれる場所に通うようになり、切磋琢磨していた同年代の人たちが奨励会に入って棋士を目指していくのを見て、私も同じ道を選んだので、けっこうまわりに流されやすいところがあるのかもしれません。高校生くらいまでは純粋に将棋が楽しくて続けていたので、将棋の本質や将来について考えたりするようなことも少なかったと思います。 ──意識が変わったきっかけなどはあるんですか? 谷合 ひとつには、高校生くらいでコンピューターが将棋で人間に勝ち始めていたタイミングだったことがあります。当時はまだ人間とAIが拮抗していましたが、いずれは成長したコンピューターに負かされていくわけで、将棋界や棋士という職業に不安を感じるようになったんです。そこで将棋や将来についてまじめに考えるようになり、将棋を続けつつちゃんと大学にも行っておこうと東大を目指すことにしました。 ──東大生と棋士の卵って、両立できるものなのでしょうか。 谷合 大学に入学したころには、棋士のひとつ手前である奨励会三段まで昇段していたので、辞めるのはもったいないと思っていましたし、両立もできると思っていました。とはいえ、そこから8年くらい三段に留まっていたので、将棋だけに打ち込まなかった弊害はあったのかもしれませんね。 ただ、棋士になれたのは年齢制限ギリギリの26歳でしたが、将棋一本でやっていると、最後の期に追い込まれて将棋のクオリティが下がってしまったりすることもあるんです。私の場合はリスクを分散したことで気持ちに多少の余裕があったので、最後の期でもちゃんと自分の将棋が指せたんじゃないかと思います。 ──棋士になったことで、見えてくる景色もまた変わってきますよね。 谷合 そうですね。棋士になれるかどうかのギリギリで追い詰められていたころに比べると、伸び伸びと自分のやりたい将棋が指せるようになったのは大きい気がします。棋士はもちろん勝つことも大事ですけど、いかに自分らしい将棋を指して将棋ファンの方々を魅せていくか、という意識も加わるので、将棋の内容も変わってくるんです。 将棋を軸に、自分にしかできないことを追求したい ──棋士としての谷合さんが思う「自分の将棋」とはどんなものなのでしょうか。 谷合 戦法の話になりますが、私はよく「四間飛車」という戦法で指していて、棋士はあまり指さないものの、アマチュアの方々には人気の戦法なんです。なので、アマチュアの方の見本になるような、教科書的な将棋を指すことを心がけています。あと、四間飛車は「振り飛車」という戦法に分類されるのですが、近年のAIではあまり評価されない終わった戦法だといわれることもあるんです。でも、そんなことはないと思っていて、棋士でも振り飛車で戦える可能性を見せたいという思いもあります。 ──逆にほかの棋士の将棋を見ていて、「強いな」と感じるのはどんなときですか? 谷合 いろんな要素があるのでひと口にはいえませんが、知識や戦略性が問われる序盤、読みの深さや早さが求められる中盤、詰むか詰まないかの判断力に左右される終盤とある中で、強い人には終盤力があると思いますね。「詰む/詰まない」の判断が正確で、優勢のときはそのまま勝ちきり、劣勢でも逆転に持っていく勝負力がある。まあ、藤井聡太さんみたいな方はそのすべてにおいて卓越していますが。 ──なるほど。では、ご自身の対局の中で印象深いものがあれば教えてください。 谷合 一度棋王戦というタイトル戦でベスト8まで勝ち上がったことがあるんですけど、そのベスト16のときに広瀬章人九段に勝てたことは印象に残っていますね。大きな舞台で、しかも広瀬九段という強い相手に自分らしい将棋で勝てたので。 ──谷合さんとしては、今後伸ばしていきたい点や棋士としての理想像はありますか? 谷合 あまり理想像みたいなものはないんです。ただ、普及活動にも力を入れたいとか、将棋AIを使った勉強ツールを作って実力向上に活かしたいとか、強い将棋AIを作りたいとか、将棋についてやりたいことは多角的にあります。将棋を軸に、自分にしかできないことをやりたい、伸ばしていきたいですね。 ──文化人として吉本興業に所属し、将棋好きな芸人さんたちのYouTubeチャンネルに登場されたりしているのも、そういった普及の一環なんですね。 谷合 そうですね。お笑い好きな方たちやAIに携わる情報系の方たちなど、将棋界の外にも声を届けたいと思っています。 ──『M-1』に挑戦(※)されたのは、芸人さんたちに触発されてのことなのでしょうか。 谷合 お笑い芸人さんと仕事をしていると、当然そのすごさを感じるわけですけど、やってみないとわからない部分もあるなと思ったんです。そんなときに、山本さんが『M-1』に出てみたいと言うので「じゃあやってみよう!」と。エントリー費を払えば誰でも参加できますし、アマチュアの参加も珍しくないので、一度は経験してみようという感じでしたね。 (※)2024年、山本博志五段と「銀沙飛燕(ぎんさひえん)」を結成して『M-1グランプリ』に挑戦。結果は1回戦敗退に終わった。 ──舞台に立ってみて、どうでしたか? 谷合 やっぱり緊張はしましたね。それに、人におもしろいと思ってもらえるネタを考えるのは難しいなと実感しました。一応将棋普及の目的もあるので将棋のネタにしたのですが、思った以上に伝わらなくてしっかりスベったというか……(笑)。初めて会ったお客さんも笑わせられる芸人さんはすごいなと、改めて感じました。 強いだけでなく学べる将棋AIの可能性を模索中 ──東大で情報工学を学ぶ道を選ばれたのは、やはり将棋があってのことなのでしょうか。 谷合 そうですね。ちょうど将棋AIが人間に勝とうとしていた時期だったとお話ししましたが、それでAIに興味を持って。勉強するなら、自分の将棋のスキルにつながるものがいいなと思ったんです。 ──実際に勉強してみて、どんなところに価値や魅力を感じましたか? 谷合 AIというよりプログラム全般の話になりますが、自分でプログラムを書けると、エクセルの作業といったタスクが自動化できるわけですよ。最近ではChatGPTみたいな大規模言語モデルが普及して、よりAIに任せられることも増えているので、どんどん便利になってきた気がします。それに、自分が書いたプログラムがかたちになり、アプリケーションとして世に出て使ってもらえる可能性があるところも、魅力のひとつですね。 ──まさにChatGPTによって日本でもAIの活用が一般化しつつありますが、ここまで普及すると思っていましたか? 谷合 日本語で指示できるAIがここまで早く浸透するとは思っていませんでしたね。とはいえ、今はまだその可能性を探っている状態なので、どういうふうに活用されるのか注視しているところです。私が研究している将棋AIの分野では、局面を入れたら最善手を示すことはできますが、なぜその結果になったのか、初心者にわかるように説明することはできませんでした。でも、ChatGPTのようなツールをつなげれば、日本語で解説するといったこともできるかもしれない。 ──膨大な計算を経て結果を導いているのだと思いますが、たしかにその過程がわかったほうが勉強になりますね。 谷合 今の将棋AIって、1秒間に数千万局面を計算できてしまうのですが、その過程はブラックボックスなんですよね。そこをわかりやすく解説するようなプログラムを実装していくか、そのあたりが研究の課題になっています。 ──そんなAIができれば、棋士としての谷合さんにもフィードバックがありそうな気がします。 谷合 そうですね。もちろん自分の将棋の勉強にも活かせると思いますが、勉強用ツールは別のかたちでも充実させたいと思っているんです。たとえば、将棋の定跡(決まった指し方、戦略)って膨大にあるので、一度暗記したものでもしばらくすると忘れてしまったりするんですよ。だから、自分が問題として取り組んでいた局面、定跡を、忘れたころに再び問題として出してくれるようなツールがあるといいなと思っています。 ──おもしろい。広く学習用のツールに活かせそうなアイデアだと思います。研究者としての展望も、AIを通じて将棋を豊かにしていく方向に広がっているんですね。 谷合 はい。自動車の自動運転技術に携わっていたこともあるのですが、自分が将棋を軸に置いている以上、研究も将棋に関するものに絞っていこうと思うようになりましたね。 趣味は将棋観戦。毎日観ていたい ──二足の草鞋を履いているような状態で非常にお忙しいと思いますが、谷合さんはサボることってありますか? 谷合 ずっとひとつのことに集中していても煮詰まったり、疲れたりしてしまいますから、何かを継続して長く続けるなら、サボりの時間も必要だと思いますね。私自身、やる気がないときは何をしてもダメな気がするので、「やる気がないときはやらない」というスタンスなんです。 ──そういうときは何をされているんですか? 谷合 基本、パソコンで作業しているのですが、やる気がないときはYouTubeを観ながら作業してみたり。それも集中の度合いによって違っていて、まだ集中力が残っているときは目で見なくてもいい音楽系、やる気がないときは芸人さんの動画、もっとひどいときはNetflixで映画を観てしまうときもあります。 ──Netflixは完全に息抜きモードですね(笑)。 谷合 そうですね。お皿洗いとか、家事をしているときもずっとNetflixを観ています。 ──お皿洗いとNetflixって両立できますか? 谷合 できませんか?(笑) ひとつのお皿を洗うのに1分以上かかったりと、効率的ではないと思いますが、Netflixを観ながらでもできているとは思います。 ──ほかに谷合さんにとっての息抜きって、どんなことがあるのでしょうか。 谷合 スマホのアプリで将棋の中継を観ているときはリラックスできるんですよ。逆に観ないと落ち着かないというか、土日は対局がないので、けっこうストレスに感じてしまいますね。 ──それは将棋ファンとして観ているということですか? お仕事でもあるので、いろいろ思うところがあったり、シンプルに観られないような気もします。 谷合 自分が対局するときはストレスというか緊張感がありますが、人の対局はあまり変な感情を抱かずに、エンタメとして楽しんで観ることができるんです。やっぱり将棋が好きなんですよね。クオリティの高い将棋を見せられると、「すごいな、自分もこれくらい指せなきゃな」って思いますし。 ──谷合さんにはプロ棋士の顔と研究者の顔があるということでお話を伺ってきましたが、なによりひとりの将棋ファンでもあるということなんですね。 谷合 そうですね。たしかに根底に将棋を楽しむ気持ちがないと、どれもできない気がするので、そこは本当に大切にしなきゃいけないなと思いますね。 撮影=石垣星児 編集・文=後藤亮平
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「息苦しい世の中になっても、人をゆるさに引きずり込む仕事がしたい」スズキナオのサボり方
クリエイターの活動とともに「サボり」にも焦点を当て、あの人はサボっているのか/いないのか、サボりは息抜きか/逃避か、などと掘り下げていくインタビュー連載「サボリスト~あの人のサボり方~」。 フリーライターのスズキナオさんの著作には、あてもなくふらりと旅に出てみたり、家から5分の旅館に宿泊してみたりと、日常を軽やかに楽しむ術が詰まっている。当然、サボりの心得もあるに違いないと、その極意について聞いてみた。 スズキナオ 1979年、東京都生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』、『家から5分の旅館に泊まる』(以上スタンド・ブックス)、『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)、『大阪環状線 降りて歩いて飲んでみる』(LLCインセクツ)などがある。 ライターになる前から、のんびりと街を散策していた ──今ではライターとして多数の著書を出されていますが、もともとは会社員をされていたんですね。 スズキ 30代半ばまで東京で会社員をしていました。でも、10年くらい会社員を続けてきたところで、それこそサボってきたツケが回ってきたというか、行き詰まりを感じるようになって。できればずっとダメな平社員でいたかったのに、部下ができたりして立場が変わってきちゃったんですよね。 ──いわゆる管理職を任されるようになると、ダメ社員ではいられない。 スズキ そうなんです。それで将来について考えていた矢先に、奥さんが大阪の実家の家業を継ぐという話が持ち上がったんです。だったら一家で大阪に移住して、自分のやりたいことをやってみるのもいいんじゃないかと、大阪でフリーライターとして活動するようになりました。それが2014年ですね。 ──それこそゼロからのスタートですよね。 スズキ はい。最初は会社員のときから記事を書かせてもらっていたWEBサイトの仕事くらいしかありませんでした。ネットで書いていた記事がだんだん人の目に触れるようになり、じわじわと「うちでも書いてみませんか?」みたいに声をかけてもらえるようになった感じです。 ──そのころから街歩きのような記事を書いていたんですか? スズキ ダラダラと街を散歩しながら、おもしろいものを見つけたらそのことについて書いて、取材ができたら取材もするような感じだったので、今とあまり変わらないですね。それ以外に書きたいこともなかったので、無理しなかったというか、できなかったと思います。 会社員時代からウロウロとお酒を飲み歩いたり、はしご酒したりするのが好きだったんですけど、おいしいお酒や料理を求めているわけではなくて、街や路地のたたずまいや、お店の雰囲気なんかを味わうのが好きでした。そこも今と変わらない。 ──たしかに、スズキさんの記事はグルメというよりは体験に軸があるイメージです。 スズキ そうなんですよ。だから、ライターとしての研鑽みたいなものが積まれていかないというか……(笑)。酒場の記事をよく書くのにお酒の銘柄にも詳しくないので、「え、これも知らないんですか?」ってよく驚かれます。 ──では、書くもの自体は変わらないなかで、状況が変わってきたのはどんなタイミングだったのでしょうか。 スズキ スタンド・ブックスから最初の本『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を出してもらったことですね。ウェブのあちこちで書いてきたものをまとめて本にするお話をいただいて、最初はいったん無料で公開された記事を本にする意味がよくわからなかったんですけど、この本が名刺代わりとなって、自分のスタイルやキャラクターを知ってもらえるようになって。何度か増刷されるような反響もあって、おかげで自分にとってやりやすい仕事がいただけるようになりました。 ──今ではすごいペースで著書が刊行されてますよね。 スズキ 僕をスタンド・ブックスに紹介してくれた、酒場ライターのパリッコさんと一緒に記事や本を書くことも多いので、それで数が増えていったんじゃないかと思います。本を出せるなんて思っていなかった時期も長かったので、こうして振り返ってみるとありがたく感じますね。 ──パリッコさんとのユニット「酒の穴」といえば、「チェアリング」(※)が大きな話題になりました。 スズキ あれはもう我々の手を離れて、ひとつのアクティビティになった感がありますね。我が物顔で「あれは俺たちが考えたものだ」みたいなことは言わないようにしようと、パリッコさんとも話しています。コロナ禍によってお店で飲めない時期だったこともあって時代にフィットしたのかもしれませんが、我々は「チェアリング」と名づけただけで、やっている人は前からいたと思いますし。 (※)持ち運びできるアウトドア用のチェアを屋外の好きな場所で広げ、ぼーっとしたりお酒を飲んだりすること。スズキナオとパリッコによる飲酒ユニット「酒の穴」が「チェアリング」と名づけて提唱したところ、テレビなどのメディアに取り上げられるほどの反響を呼んだ。 名所を見終わったあとの旅も楽しい ──記事を書くために旅に出てみたものの、これといった出会いもなく「このままだとただ遠くに来ただけで終わってしまいそうだ」みたいなこともあるのでしょうか。 スズキ あります、あります。期待したようなことが起きなくても締め切りはあるので、ダラダラとその土地まで行く過程を書くとか、別のところでおもしろ味を作っていくしかなくて。でも、その感じも好きなんです。お店も何もない住宅街を歩いていても、コンビニで買ったお酒が飲めるちょっとした川べりにたどり着ければ、それはそれで気分がよかったりする。街歩きって、そもそもそういうものかもしれないですね。 ──たしかに、散歩ってそういうものですよね。でも、一応現地でもがいてみたりはするんですか? スズキ 本にもなった大阪の環状線の駅周辺をひと駅ずつ即興で旅するような連載では(『大阪環状線 降りて歩いて飲んでみる』)、ただの住宅街を2時間ぐらい歩いて「さすがに何も書けないかも……」と焦ったことはありました。でも、なんとかクリンチしていたら、住人の方にお話を聞くことができて。そうするとただの住宅街に見えた街でも、「自転車であの繁華街まですぐ行けるし、意外と便がいいんだな」とか、いろいろ見えてくる。そういう出会いでなんとかなってきた気がします。 ──住宅街にぽつんとある居酒屋とか、地元の人すらスルーしてしまうような場所を掘り下げるスズキさんのスタイルは、そういった粘りから生まれたところもあるんですね。 スズキ 何かしらお店があればしめたものですね。そういうところのほうが、かえって密な話が聞けたりするので。名店を調べて行くのも好きですなんですけど、それでは絶対に行けない場所もあるんですよ。 家から5分の旅館に泊まったのも、旅行をテーマにした連載の締め切りが迫ってきて、行ける場所が近所しかなかったという状況がきっかけでした。けっこう行き当たりばったりというか、せっぱ詰まって動き出すことが多いんです。でも、動いてみたら状況が好転するだろうと信じてやっている。 ──街歩きの際にチェックするポイントなどはあるのでしょうか。 スズキ 大衆酒場や銭湯が好きなので、そういった地元の方々が集まっていそうな場所を探します。そこでズケズケと話を聞くでもなく、なんとなく聞こえてくるその土地の情報をヒントにして歩いていく。ゲームしている感覚に近いかもしれないですね。 僕もミーハーなんで、大阪に旅行に行ったのなら、まず大阪城やグリコの看板は見たいんですよ。ただ、全部行き終わった4日目以降の旅もけっこうよくて。ヒマだしちょっと疲れてもいるからホテルの近くをウロウロしていたら、食べログでは評価されてないようなちょっといい店が見つかるとか、飽きてからの旅っておもしろい気がするんです。 ──3日目のカレーみたいな旅ですね。 スズキ まさにそうですね。3日目のカレーに初日からかぶりついてしまうこともよくあります(笑)。子供のころ、両親の故郷の山形に帰省するのがすごく好きだったんです。東京で新しいゲームソフトを買って遊ぶような楽しさとは違う、じわじわくるよさがあって。たまに行く田舎だったからかもしれませんが、優しい親戚に囲まれて、何もすることなくぼーっと過ごしているのが、幸せな退屈として記憶に残っています。それが原体験としてあるから、サボりグセがついたというか、ぼんやりした時間が好きなのかもしれないです。 ──それが仕事になっているからおもしろいですよね。「締め切りが近いから行かなきゃ!」って追われるように家を出て、お酒を飲んだりぼーっと街を歩いたりしているわけで。 スズキ そうなんですよ、その状況が発生しないと書きたくない。「これでいいのか?」という不安とも戦ってはいますが、ぼーっとできる仕事は気楽で楽しいですね。 ──記事を作るにあたって、ほかに大事にしていることはありますか? スズキ できれば自然に縁ができた土地を取材したくて。よそ者が「エキゾチックだ!」なんて外からのぞいている感じになるのがイヤなので、できるだけ自然な流れで入っていきたいんですよね。そうじゃないと自分らしい書き方にはならないような気がします。 最近では、日本の離島のイベントに行って琵琶湖にある「沖島」という有人島をおすすめされたという記事を書いたときに、沖島に縁のある方から「今度行きませんか?」って誘ってもらえたんです。1日巡っただけですが、自然な縁で行けたのがうれしかったし、島自体もおもしろかったですね。 ──そういった中で印象的な出会いを挙げるとしたら、どんなものがあるのでしょうか。 スズキ 『デイリーポータルZ』で記事を書いた、大阪市此花区にある千鳥温泉っていう銭湯ですね。洗い場の鏡にくっついている「鏡広告」の広告主を募集していたんですよ。銭湯の方がアイデアマンで、新たに街のカフェやレストランから広告を募ったら、意外と広告主になってくれる人がいるんじゃないかと思ったそうで、その広告ができるまでの過程を追いました。 ──実際に『デイリーポータルZ』の広告を作ったんですよね。 スズキ そうです。もう亡くなられてしまったんですけど、当時90歳になる松井さんという字書き職人さんがいて、手書きで文字を入れてくれました。独学による手書きとパソコンを組み合わせたレタリングの手法や戦争体験とか、松井さんにいろいろお話を聞くことができて。作業の工程なども見せていただき、すごく貴重な体験でしたね。 サボりの灯を絶やしてはいけない ──幼少期にサボりグセが刷り込まれたとおっしゃっていましたが、やはりそのクセは抜けていないのでしょうか。 スズキ はい、僕はもう本当にサボり人間です。締め切り当日になってもなかなか向き合わず、自分でもイヤになるくらいサボってしまいます。なんでだろう(笑)、追い込まれれば追い込まれるほどサボりが楽しくなっちゃって。一応やる気になる瞬間を待っている状態ではあって、うっすら記事の構成を考えたりしてるんです。それが固まるまで机に座って向き合っているよりは、散歩してるほうがいいような気がするんですよね。 ──いわゆる“寝かせる”タイプで、頭の中で記事の内容をなんとなくイメージしているから、書き出せさえすれば書ける、みたいな。 スズキ その時間も大事な気がして。「こういう話から始めようかな」と出発点を頭の中で何回も試して、どれがいいか考えながらサボってるつもりではあります。先ほどお話ししたように、僕は「なんでそこに行くことになったのか」から書きたいほうなので、きっかけとなった出会いから出発に至るまでのルートをたどっていくんですね。読む人にしてみたら、「なかなか行かねーな」って感じかもしれませんが(笑)。 ──罪悪感を抱くようなサボりではなく、積極的に息抜きをするためのサボりはありますか? スズキ ありますね。原稿を書き上げたあと、一回サボりを入れてから推敲したほうがいいと思うんですよ。書ききれなかった部分や配慮の足りなかった部分などが見えてくるなど、別の視点が生まれるので。だから視野が狭くならないように、一回飲みに行ったり公園を散歩したりしています。外の空気を吸って、全然自分と関係ない世界を見ておくことが大事なんでしょうね。 ──ちなみに平社員を満喫していた会社員時代は、どんな感じだったんですか? スズキ 僕と同じくらいやる気がない同僚と、いつも仕事帰りに飲みに行っていました。会社があった渋谷の街を歩きながら、缶チューハイを飲むスタイルで。そのせいか、会社ではいつも軽い二日酔いか寝不足の状態で、「こういうときは寝たほうが効率がいいんだよ」って自分に言い聞かせては、トイレや外のベンチなんかで寝てましたね。 その後、田町にオフィスがある会社に出向したんですけど、そっちは渋谷のときのようなゆるさがなくて。節電のために定時でオフィスの電気が消されるのに、それでも仕事してる人がいるような感じでした。でも、僕は夕日がきれいだったら、仕事の手を止めてみんなで窓の外を見たりしたほうがいいと思うんです。 ──なんだか『釣りバカ日誌』みたいな話ですね(笑)。 スズキ 本当にそういうつもりでしたね。みんなの息抜きキャラとしてサボり方を教えたい、「このくらいサボっていいんだ」とみんなに知らせる存在として自分はここにいるんだ、みたいな。でも、気がついたら怒りの対象になっていて……。 もっと科学的にサボりの大切さが研究されないとダメなのかな。海外の権威に言ってほしいですね、「ストレスは作業効率を低下させるから、会社には仮眠スペースを設けなさい。夕日がきれいだったらみんなで眺めなさい」って。 ──みんながスズキさんの本を読めば、少しは風向きも変わるような気がします。 スズキ そうなったらうれしいですね。大げさに言えば、世の中がせわしなく息苦しくなっていくなかで、逆サイドのゆるみ側に人を引きずるような仕事をしている気持ちもなくはないんです。本当に微力ではありますが、パリッコさんみたいな仲間と一緒にせめてもの抵抗をしている気がします。 ──「酒の穴」は政治団体だったのかもしれない(笑)。 スズキ タバコもそうですけど、お酒だっていつ自由に飲めなくなるかわかりませんからね。サボりだって禁止になるかもしれない。 ──本当に、今後もサボりを啓蒙していただきたいです。微力ながらこの連載でもお手伝いしていきますので。 スズキ そうですね。サボりの価値を訴えながら、上手にサボる。そういう洗練されたサボり方も提案してきたいと思います。 撮影=石垣星児 編集・文=後藤亮平
エッセイアンソロジー「Night Piece」
気持ちが高ぶった夢のような夜や、涙で顔がぐしゃぐしゃになった夜。そんな「忘れられない一夜」のエピソードを、オムニバス形式で届けるエッセイ連載
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真っ暗な布団の中、小さな光でSFを読み漁った夜(西田 藍)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」 「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。ここを編集 西田 藍(にしだ・あい) 1991年生まれ、熊本市出身福岡市育ち。文筆家・書評家・エッセイスト。16歳で高校を中退後、引きこもり生活を経て「ミスiD2013」でアイドルデビュー。以後、グラビアアイドルとしても活動しながら、各種メディアへの寄稿を続ける。現在は大阪在住。SFやサブカルチャーに軸足を置きつつ、自身の経験をもとに、家族・教育・社会の語られにくい部分を静かにすくい上げている。『SFマガジン』(早川書房)にて「にゅうもん! 西田藍の海外SF再入門」を連載中。 20年前。 ……20年前!? 私が中学生のころ。 「ケータイ小説」が流行していた。 ケータイ小説とは、2000年代前半に日本で流行した、携帯電話向けに書かれた小説群の総称。多くはいわゆるガラケーを通じて読むことを前提に作られ、短いセンテンスと頻繁な改行が特徴だった。ガラケーで書かれた、ガラケーで読める、ケータイの世界の文学。 恋愛、病気、家庭問題など、センセーショナルな題材が中心で、文体や内容に対しては「稚拙」「非文学的」とする批判もあった。人気小説は出版もされて映画化もされたけれど、大人たちはその流行を、バカにしていたように思う。 中学生の私は、バカにこそしなかったけれど、ケータイ小説の読者ではなかった。 今でこそ、あの時代の10代に必要な物語であったとわかるし、文化的意義もあったと思う。当時の若年層の感情や現実をリアルに反映していたんだと思う。 でも、当時の私にはさっぱり魅力がわからなかった。私の人生がわりとセンセーショナルだったし、落ちるかもしれない闇を恐れて、距離を取りたかった。 不良は、ダサいと思っていたから。 (それに、どんな時代のどんな文体のどんなジャンルでも、恋愛がメインの小説は嫌いだった、ということもある) だが、私はまた違ったかたちで、ガラケーで小説を読み漁っていた。 ポチポチとケータイをいじってばかりの、みんなと同じイマドキの中学生。読んでいたのは、夢野久作(ゆめの・きゅうさく)や海野十三(うんの・じゅうざ)など、著作権の切れた、幻想、怪奇、SF小説。 すべて合法で無料で読める! 青空文庫という著作権が消滅した文学作品や著者が公開を許諾した作品が、インターネット上で無料公開している電子図書館サイトの、ケータイ版のそれに入り浸っていたのだ。 眠くても寝たくない、明日が来てほしくない夜。 別にただの中学生の日常が過ぎていくだけなのに、どうしようもなくつらくて、でも、逃げ出す場所もなくて。 ケータイは人より早く持っていたから、それが世界とのつながりで、でも結局つながったのは、古臭くて、いい意味で黴(かび)臭くて、それが新しくて、小さな小さな掌編たちだった。 ちょうどこの前の5月に、世田谷文学館で行われた『海野十三と日本SF』の展示を見た。2025年9月28日まで開催中である。 海野十三は日本で最初に「SF作家」と名指しされることになった人物で、昭和初期、科学と空想の狭間で、まだ“SF”という言葉すら一般的ではなかった時代に、空想科学的な物語を次々と発表した。 中学生当時は、ただおもしろい作品を書く遠い昔の人としか知らなかった彼の人生と日本SFの知識を、大人になって「展示」として見るのは感慨深かった。 私にとってはケータイで読む、言ってみればケータイの世界のアングラ作家だったのだから。 私にとって日本SFは「夜」だ。 真っ昼間のピクニックで読むものではなくて、夜、真っ暗な部屋の布団の中で、小さな小さな光る画面に映る小さな小さな文字を追うものだ。 印刷された紙よりも、物語は手のひらに届く光の中で息をしていた。ストーリーの進行は画面のスクロールとともにあり、データ通信料を気にしながら、そしてパケホ(※パケット通信定額制サービス)の登場に喜んで。 あの時代にとって近未来の世界に住む私が、違う世界線の未来を読む。 あのころの夜の読書体験は、誰かに話すようなことではなかったし、話したところできっと伝わらなかったと思う。携帯の光がほのかに顔を照らす、その孤独な光の中でしか成立しない読書だった。 そしてその“未来”は、どこか奇妙で、どこか懐かしかった。過去の人が夢見た未来を、ケータイという当時の最先端の小道具で読む、その矛盾がたまらなく心地よかった。 あの日の気分になりたくて、この原稿もスマホでポチポチ書いてみたけれど、さすがにガラケー入力まではできなかった。あれ、今でもできる人いるのかな。 そしてこれは秘密だけど、私もケータイ小説を書いていた。ガラケー入力で、ポチポチずっと。 恋愛小説が嫌いと言いながら、中世風ファンタジー世界(そう、今まさに流行っている“小説家になろう系”世界のような!)の恋愛小説を、ケータイのメモ帳に。 発表してみればよかったかも、と大人の私は思ってしまうけど、きっととてつもなく稚拙だろうな。それも、愛おしいけれど。 文・写真=西田 藍 編集=宇田川佳奈枝
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定期的に見る夢がある、「何も変わらない」と罪悪感を抱えた夜(二瓶有加)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」 「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。 二瓶有加(にへい・ゆうか) 1995年10月20日生まれ、東京都三鷹市出身。2016年にダンス&ボーカルグループ「PINK CRES.」のメンバーとしてデビューし、2021年まで活動。2022年にYouTubeチャンネル『佐久間宣行のNOBROCK TV』の出演をきっかけにブレイク、現在は女優・タレントとして活躍中。2025年7月10日(木)〜7月16日(水)は、草月ホールにてミュージカル版『武士の献立』に出演。2025年8⽉より東京建物 Brillia HALLを⽪切りに、⼤阪、京都、愛知、熊本など全国5カ所にて上演される、舞台『ぼくらの七⽇間戦争2025』に出演。 Instagram:@niheiyuka.official X:@niheiyuka1020 YouTubeチャンネル『二瓶有加ch』:@niheiyuka1020 定期的に見る夢がある。 自分の心のしこりとなっていることの夢。 夢の終わりはいつも同じで、その問題がおとぎ話のようにハッピーエンドを迎え、そこで目が覚める。 あぁ……現実はまだ何も変わってないんだ。 この日は、夕方には仕事が終わり、帰宅後すぐに昼寝をしてしまっていた。 少し寝るつもりだったのが、気がつけば24時前。 最近はダラダラと続く雨が降っていて、室内に干した洗濯物の影響で、部屋全体がじめっとしている。こんな時間まで寝てしまった……やることを何もやれていない、という軽い罪悪感を抱える。 まぁまぁ嫌な目覚めだった。 あのときと今とでは、自分を取り巻く環境がだいぶ変わった。 自分の部屋を借りて、自分の好きなものに囲まれて、広くはないけど、狭すぎない。ひとりで住むにはじゅうぶんな快適さがある1Kの部屋で、ひとり暮らしをしている。 あのとき、私は自分が手にしたい夢を追うことに精いっぱいで、いつかその夢を叶えて、好きな部屋をひとりで借りて、好きなものに囲まれて生活をすることが目標だった。 今現在、やっとひとり暮らしが始められたというのに、ひとりベッドの上でぼーっとしている自分を客観的に見つめると、なんだか妙に切なくて、寂しさに押しつぶされそうになる。 あのとき、私は25歳だった。 20歳から25歳までアイドルとして駆け抜けた。 私はいわゆる、「人気メンバー」ではなかったけど、好きな歌とダンスを踊って、ステージに立つと目の前でファンの方が応援してくれる。そんな充実感で、なんだかんだとても幸せだった。 しかし、24歳の誕生日を迎えた瞬間、急な不安が自分を襲った。 「来年、私25歳なんだ……。20代半ばに突入する。 25歳を迎えたとき、きっと過ぎる時間の速さをもっと実感して、きっと、もっと焦ってしまうだろう。 若さって永遠じゃないんだ……」 20代、若さを武器に仕事をしていた私は、 若さがなくなることへの不安感を初めて覚えた。 そんななか、世間はコロナ禍に突入。 仕事はもちろん全部ストップ。ライブも、ファンの方との握手会も、全部なくなった。 ステージで歌って踊っていた自分の日常が、急に奪われた。そんな気持ち。 毎日実家のベッドで死んだように寝て、起きるだけ。 もうすぐ25歳だというのに、ひとり暮らしをする経済力もなければ、いつまでもこの家の末っ子として、出されたご飯を食べて、家の手伝いもせずに寝る。 家事もろくにできない。 なんなら母の手料理にケチもつける。 最低な甘ったれ。 誰かが用意してくれたステージがなければ、 自分は何もできない、ただの情けない大人だということに気がついた。 悔しかった。情けなかった。 そして、このままじゃいけないという焦燥感に襲われた。 だめだ、動かなきゃ。やらなきゃ。 思い描いてた理想の大人になりたい! そんな想いが自分を突き動かした。 そこから流れるように解散が決まり、 無観客で解散ライブ。 アイドルである夢の時間が終わったのか、終わってないのか、 曖昧な気持ちを抱えたまま、 ソロとしての活動が始まった。 そのあとは転がっていくように、 日々求められることに応えるのに必死で、 とにかく毎日もがいていたら、29歳になっていた。 気がついたら、ひとり暮らしをしていて、 気がついたら、あと数カ月で30歳になろうとしている。 あのとき思い描いてた 【理想の大人】に私はなれているのだろうか……。 初めて焦りを覚えた24歳の夜を一緒にお祝いしてくれたのは、10代からずっと一緒だった親友ふたり。気がつけばふたりは結婚をして、今は子育て真っ最中。 3人で誕生日会を開くことも、もうここ数年していない。 みんな前に進んでる。 私、側から見れば進んでるのかもしれないけど、 今日も自分の心のしこりとなっていることの夢を見て起きて、同じことで落ち込んでる。 自分だけ取り残された、そんな気持ちがただただズンと心を重くする。 そんななか、なんとなく、自分のグループ時代の映像が観たくなってYouTubeを開いた。 自分が思ってたより、幼い自分がそこには映っていた。 今の私から、当時の自分やグループを客観的に見たとき、当時は思わなかった感情があふれてきた。 ここからは自画自賛になるが、 「このとき、ここの歌がうまく歌えないって思ってたけど、全然上手に歌えてたじゃん!」 「人気ないしなぁ……なんて自信なかったけど、こんなにお客さん笑顔でいてくれてたじゃん」 「太ってるから恥ずかしい……なんて思ってたけどお肌ピチピチで、若さあふれててかわいかったじゃん!」 「てか、曲もダンスも最高! このグループ最高だったじゃん!」 ふと、思った。 当時の自分が、今の自分のように、 自分で自分を認めてあげられてたらよかった。 それと同時に、今の自分に足りないのは、 【自分で自分を認めてあげられない力】 だと思った。 「振り返れば、自分はちゃんとやってきた。 あのときの自分より、ちゃんと今の自分は成長してる。私、大丈夫。よくがんばってる」 自分にそう言い聞かせるだけで、 強くなれた気がした。 さっきまで、罪悪感を抱えたこの夜の時間が、 捉え方次第で、自分自身を癒やす、いい夜に変わった。 いつか、今の私も過去になる。 過去になってから、 「あのときはがんばってたなぁ」と過去の自分を認めるのではなく、 今の私を今、認めてあげよう。 そんなふうに思った。 文・写真=二瓶有加 編集=宇田川佳奈枝
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踏み込めないまま大人になったふたり、“あーちゃん”と距離が近づいた夜(金井 球)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」 「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。 金井 球(かない・きゅう) 2001年9月の新宿に生まれる。寿司屋のバイトを「賄いに寿司が出ない」という理由で辞めたこともあったが、最近は執筆やZINE制作、Podcast番組『ラジオ知らねえ単語』の制作・出演、演技など、精力的に活動の幅を広げている。 X:@tiyk_tbr Instagram:@tiyk_tbr note:@tiyk_tbr 正直、踊ることがおもしろいみたいなフェーズはとっくに終わっていて、それでもあーちゃんとわたしは踊りをやめたくないから踊っていた。 わたしたちにできる踊りのレパートリーは、とっくに尽きていた。左右に揺れる/お尻を振る/腕を広げる/肩をくねらす。義務感とかではなかった。いつでもやめられる踊りを、踊りをやめたくないという明確な意思を持ってやめなかったふたり。左右に揺れる/お尻を振る/腕を広げる/肩をくねらす。はじめて、わたしたちはいまどうしようもなく姉妹だなと思った。 意外だと言われることが多いのだけど、わたしには妹がいる。あーちゃんという、髪がピンクの4歳下の妹だ。意外だと言われることが多い、というのは、自認がどうとかではない。本当に、いままで100人と兄弟構成を当て合って、100人がわたしに妹がいること、わたしが長女であることを見抜けなかった(わたしにはそれを褒め言葉だと思っている節がある)。 わたしのあざとかわいさがそう思わせるのか、面倒見のよくなさが一瞬でにじんでしまうのかはわからないけど、とにかくわたしは世界中の初対面のだれからもお姉ちゃんだと思われたことがない。正直、自分でも自分の中に姉らしさみたいなものをひとつも見出せない。 一度、あーちゃんの18歳の誕生日のプレゼントを買うために、自分でもなかなか入れないデパコス売り場に行った。「妹のプレゼントを買いたいんですけど……」と、はじめて話したBAさん(ビューティーアドバイザー)に伝えたとき「自分がかなり自覚的に姉をやりにいっている」ということにすぐ気がついてしまったくらい、わたしは日頃まったく姉じゃない。 あーちゃんとわたしは父親が違う。 そんなに意識せず生活してこられたけれど、そういうこともあってか、わたしたちの間には少し不思議な距離感があると思う。趣味はまったく被っていない。洋服もシェアしない。子どものころはよくケンカをしていた気がするけど、ある程度大きくなってからは一定の距離を保って暮らしていた。 そういえば、あーちゃんの友だちと話したことがない。真夜中のキッチンで恋バナをしたこともない。父からはよく「仲がいいんだか悪いんだか、わかんないね!」と言われるが、仲はよくも悪くもないと思う。干渉しない。そんなルールがあるみたいに、わたしたちはお互いに踏み込まないまま、同じ部屋で大きくなった。 離れて暮らすようになってからは、頻繁に連絡を取り合うこともない。姉らしくきょうだいを溺愛するまわりの姉たちに憧れては少しまねをしてみるが、やはりそこまでの熱はない。照れくさいのかもしれない。きっと、あーちゃんだってわたしに溺愛されることなんて望んでいないのではないか、と思うけど本当の気持ちはわたしにはわからない。友だちじゃないし赤の他人じゃない、家族と言い合うのは恥ずかしい。ママの血と家だけがわたしたちをつないでいると思う。わたしたちはそれでいい。一緒にご飯を食べても、銭湯に行っても、この距離感が縮まることはないのだろうと思う。 2月のことだ。餃子パーティーをしたいというママの提案によって、あーちゃんとわたしはママの家に遊びに行った。18時、先にあーちゃんと合流してスーパーで食材を買っているとき、そういえばあーちゃんのことをわたしは「あーちゃん」としか呼んだことがないと気がついた。それに、ママの家をあーちゃんと訪ねたのははじめてだった。 みんなで作ったママの餃子を食べながら、19歳になったあーちゃんの成人式が、もう来年に迫っていることを話した。 「あーちゃん。振袖は、わたしも着たおばあちゃんのお下がりを着るのが絶対いいよ!」姉らしいことを言ってみて、「あらまあ姉ですね〜」と思った。わたしが姉らしさをものにすることはきっと一生できないんだろう。 食事が終わって、しばらく布団に横になったあと、おもむろに立ち上がったわたしはリビングへ向かった。半分くらい残していた缶ビールを飲み干すとすごく気分がよくて、好きな曲を流してみる。人の家で好きな曲を流すのはビールを飲み干すことより気分がいい。電影と少年CQに合わせてでたらめに踊っていると、あーちゃんがそれに続いて、次にママが続いて踊り始めた。3人は、わたしのiPhoneからシャッフル再生で流れてくるどんな曲調にも合わせて踊った。肩が触れそうになるたび爆笑しながら踊った。 30分くらい経ったあたりでママはお風呂に入るからと踊りをやめて、リビングにはあーちゃんとわたしふたりだけになった。左右に揺れる/お尻を振る/腕を広げる/肩をくねらす。おもしろくないのにやめたくない。 わたしたち、おもしろくないのに、やめたくない。 いまこの瞬間、この世界で心がつながっている唯一の人間だと思った。どっちが上とか下とかはなく、なんか人間同士として姉妹だった。 ママがお風呂から上がって布団に横になりはじめても、わたしたちはふたりきりで、いつでもやめられる踊りを踊った。左右に揺れる/お尻を振る/腕を広げる/肩をくねらす。そんななか。革命が起きる。あーちゃんが手を拳銃の形にしてこちらに向けてきたのだ。頭のうしろのほうで爆発音がした。 左右に揺れる/お尻を振る/腕を広げる/肩をくねらすしかなかったわたしたちの世界に、とつぜん具体的なイメージが持ち込まれて、あろうことかその銃口は、ずっと一緒にたのしく踊っていたわたしに向けられている。すごくおかしかった。笑いすぎて涙が出る。笑いながら泣きながら、向けられた銃口によって、また少しずつ、一度近づいたはずのわたしたちが、いままで保たれてきた距離感に戻っていく感覚があった。 拳銃を突きつけたまま、突きつけられたまま、わたしたちは踊り続けた。 しばらくしてあーちゃんが踊りながら寝室に帰っていって、それで、わたしたちの夜は終わった。 文・写真=金井 球 編集=宇田川佳奈枝
文野紋のドキュメンタリー日記 ~現実(リアル)を求めて~
人生を変えた一本、退屈な日々に刺激をくれる一本、さまざまな愛に気づく一本など──漫画家・文野紋によるリアルな視点、世界観で紹介するドキュメンタリー映画日記
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誰を信じたらいいのか、全聾の作曲家“ゴーストライター”の真実──森達也『FAKE』
文野紋のドキュメンタリー日記 ~現実(リアル)を求めて~ 人生を変えた一本、退屈な日々に刺激をくれる一本、さまざまな愛に気づく一本など── 漫画家・文野紋によるリアルな視点、世界観で紹介するドキュメンタリー映画日記 「全聾(ぜんろう)の作曲家佐村河内守はペテン師だった!」 今から約10年前の2014年2月、世間を騒がせる“ゴーストライター騒動”の発端となる記事が「週刊文春」(文藝春秋)に掲載された。作曲家である新垣隆(にいがき・たかし)氏が18年間にわたり佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏のゴーストライターを務めていたことなどを告発した一連の騒動である。 (※以下、敬称略) 佐村河内は当時、聴覚障害を持ちながらゲーム音楽や交響曲などを発表し“現代のベートーベン”と評されていた。新垣はこの18年間で20曲以上もの楽曲を提供したことに加え、佐村河内に対し「耳が聞こえないと感じたことはない」「彼のピアノの技術は非常に初歩的で、譜面は書けない」と、佐村河内の聴覚障害の真偽についてや作曲能力についても告発した。佐村河内は、制作が自分ひとりによるものではないことは認めた上で、新垣に対し名誉毀損で訴える可能性もあると公言した。 本作は、映画監督・森達也による佐村河内を追ったドキュメンタリーである。 まず最初に、この映画を評価するのは非常に難しい。そもそも真偽不明な事件を扱っている上に、映像によって登場人物たちへの印象や好感度がコントロールされているように感じる。佐村河内も18年にわたり誇張した自己プロデュースを成功させ世間から評価されていただけあって、(それが意図的な演技なのか、彼の人柄から滲み出る天然ものなのかはわからないが)同情心を煽るのがうまい。大好きな豆乳をコップに並々注いで飲む姿がなんともかわいらしい。佐村河内を献身的に支え、森を含めた来客に毎回違うケーキを振る舞うような気遣いの人である妻・香の存在もそれを助長させる。ついでに猫もかわいい。 でも冷静に考えるとおかしな箇所はたしかに存在していて、作曲に関しても聴覚に関しても、佐村河内は1の真実を100と誇張していたことが問題なのに、メディアが0だと決めつけている(1を取り上げてもらえない)ことについて掘り下げられていく。もちろんそれも問題だしマスメディアの悪いところなのだが、本来は1であるのになぜ100だと誇張したのか、その部分の丸裸の本音が語られることはない。作中で佐村河内は杖をついていないし(足が悪く杖をつかないと歩けないとされていた)、激しい耳鳴りに悩まされ向精神薬(※)を服用しているとされていたが、そのようなシーンもない。もちろんカメラが回っているときにたまたま症状がなかっただけかもしれないので断言はできないが、いち視聴者として「あれって設定だったの?」と思ってしまう部分はある。 (※精神症状の治療に使われる薬物の総称) 大前提として、そもそも佐村河内の肩書は作曲家であるし、実際に足が悪かったかどうかはどうでもよい。別に「キャラ設定のために杖をついていました」と言ってくれたっていい。だが、そういったシーンはないし、きっと佐村河内はそれを認めないだろう。認めない以上、本当に足が悪く、よほど調子のいい日以外は杖がないと歩けない(撮影した日はたまたま調子のいい日だった)という可能性もある。そういうアンバランスさがどうにも気持ち悪い作品だ。 だが私は、この作品をおもしろいと感じた。まがりなりにも、同じものづくりをしている人間として感じるものがあった。この連載では基本的に、テーマ作品の案を私が数点提案し、それを編集部のみなさんに選んでもらうかたちを取っているのだが、私は『FAKE』を今回含め計3回提案し、ようやく記事を書くに至ったくらいだ。 物語は佐村河内の家を訪ねる監督・森のシーンから始まる。そこには森の言葉を手話で通訳し、森にケーキを振る舞う妻・香と夫婦の愛猫が映っている。 「事件から9カ月くらい経つと思うんですけど、日に日にマスコミで報道されている共作問題以外の──特に耳ですね──の嘘。それへの悲しみとか日本中がメディアの言うことを鵜呑みにして、誤解されたままになって日本一低い人間のように扱われて、その悲しみというか……」 佐村河内は自身の聴覚に関する再検査の結果を森に見せる。佐村河内の平均聴力が約50デシベルの感音性難聴であるという事実がマスコミによって取り上げられることはほとんどなかったという。この結果は、脳波を検査して発覚したもので不正などはできない。 ある日、佐村河内の自宅にフジテレビのプロデューサーらが現れる。机には妻・香が用意したであろうケーキが並べられている。プロデューサーらは年末の特番に佐村河内に出演してほしいと、打診のため自宅を訪ねたという。おもしろおかしくイジるのではなく、彼の今後をテーマとして未来に向かった音楽活動を取り上げたい、という。 佐村河内はこんなに目を見て話してくれる人たちを疑いたくないが、もし自分が出演を断ったら復讐のためボロクソにイジられるのではないかと思ってしまう、と申し訳なさそうに伝えた。プロデューサーらはそのような扱いは絶対にしないと説明する。 佐村河内は結局、そのバラエティ番組の出演を断った。そしてその番組には佐村河内の代わりに新垣が出演することになった。番組では新垣が佐村河内に関しての質問を受け「楽器は弾けるというレベルではない」と答える場面が放送されていた。テロップでは「自分の演奏を一度も見せなかった」とも。覚えている人も多いかと思うが、このころ新垣は一躍時の人となっており、バラエティ番組にファッション誌にと引っ張りだこだった。ゴーストライター騒動を話題に、笑いを取っていた。「違ってましたね」と落胆する佐村河内に対し、森は言う。 「出演していたらだいぶ趣旨は変わっていたと思います。つまりどういうことかというと、テレビを作っている彼らには信念とか思いとかが全然ないんです」 このセリフがなんともいえない。その場をおもしろくすることばかり考えている、というのなら佐村河内もそうだったのではないか。音楽を愛しているのなら、そこに信念があるのなら、そもそも全聾であるという嘘は信念を汚すもののような気がする。 ……と書いていくと新垣が真っ黒の悪人のように感じるが、おそらくそうでもないと思う。ゴーストライター問題について長年黙っていたのも、きっと気弱で佐村河内やプロデューサーに流されていただけなのだろう。新垣は大学で教鞭をとっているのだが、学生たちからの評判も非常にいいという。作中でも自著のサイン会に訪れた森に対し、「ぜひお話ししたいと思っていた」と穏やかに対応した。結局、取材の依頼は新垣の事務所から断られてしまうのだが。 物語中盤、アメリカの著名なオピニオン誌の記者から取材を受けるシーンがある。今まで佐村河内への同情心を煽るような撮り方をしていたが、ここで風向きが変わる。 「誰もが気になることだが、そもそもどうして作り話を?」 「18年の間に、なぜ楽譜の読み書きを覚えようとしませんでした? 覚えれば役に立ちません?」 極めつきは、 「なんでピアノがないのですか? 捨てる必要はないんじゃないですか?」 この質問に佐村河内は、 「んーなんですかね。部屋が狭いから」 と答える。腱鞘炎で弾けなくなったのではないのか。 「指示書は見てる。文書は見てる。でも、多くの読者がそれが作曲の半分までと思えない可能性が高い。ぜひ何か佐村河内の作曲である音源なりなんなりを見せてほしいんです」 現実世界でドラマチックなフィクションを演じた人間を追ったドキュメンタリーという企画自体、ある種メタ的なように感じるが、撮り方も観客の感情を振り回すよう巧みに構成されている。佐村河内に肩入れさせられたかと思えば、マジレスする海外の記者を登場させ、でもやっぱり佐村河内の言ってることっておかしくない? 全部嘘なんじゃ?と思わされたり……。 私が本作を初めて観たのは、公開から何年も経ってからだった。 この映画のポスターには大きな文字で「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分」という宣伝文が書いてある。この映画を観て最初に思ったことは、「このラストって“衝撃”なんだ……」ということだった。直接的なネタバレは避けるが、映画を観るにあたり佐村河内のWikipediaを読むと、元バンドマンであることや、新垣と出会う前から作曲の仕事をしていることなどが書かれていたので、本作のラストは私にとって騒動に関する真相がどうであれ、真っ先に想像されるドラマチックな結末であったからだ。いやむしろ、騒動に関して佐村河内が黒に近ければ近いほどラストの展開が見たいと思うはずだ。 本作が公開されたのが騒動から約2年後、まだ騒動について世間が強く記憶していたころということを考えると、当時の観客にとっては「誰にも言えない衝撃のラスト」だったのだろうか。それは佐村河内をなめすぎではないだろうか。というよりも、佐村河内が本作のラストとは違う結末を選ぶような人間だったなら、こんな2時間にも及ぶ映画の主役にはならなかったのではないだろうか。 新垣は佐村河内との制作作業について、 「彼の情熱と私の情熱が、共感し合えたときはあったと思っています」 と会見で語っている。 ラストの展開は少なくとも音楽の専門知識のない私にとっては、騒動に関する真偽を証明できるものではない。曲を聴いて作曲家が同じかどうか判別できるだけの知識などない。だがものづくりを生業とするいち表現者として、感じるものがないわけではない。佐村河内が音楽を愛していた……というよりも音楽というものに期待していた、夢を見ていたことは事実だと思う。事実であってほしい。惜しむらくは作曲に取りかかるシーンがほとんどカメラに収められておらず、撮影を再開したときにはすでにメロディができてしまっていたことだ。 佐村河内は作中で新垣に対し「非常に優秀な技術屋さん」と評した。私事だが、私は以前、ネーム(マンガのコマ割りをしたラフのようなもの)原作のマンガの作画担当をしてほしい、という旨でいただいたお仕事が、いつの間にか「口頭で物語を説明するからあなた(作画家)が内容を詰めて描き起こしてね」というものにすり替わっていたことがある。もちろんそれでは作画担当としての仕事の域を逸脱している、ということでお断りさせていただいたが、きっと佐村河内と新垣の関係性もそういった積み重ねで歪になっていたのではないかと思う。 私だってマンガのアシスタントさんに対して、いつだって細かく指示を出せるわけではなく「ここの背景、いい感じに木を描いておいてください」というような、アシスタントさんの能力にお任せするような指示をすることもある。編集者にアイデアがないかと相談し、それを採用したこともある。私に口頭で説明すると言った原作者もきっと「こいつを使って楽して稼いでやろう。うっしっし」なんて思っていたわけではないと思う。共作自体は悪いことではないし、発表方法を変えてしまえば問題ないのだが、佐村河内の場合、それをプライドが許さなかったことが問題なのだろう。曲作りにおいてプロデューサーのような立場で新垣に指示をしていたのは事実なのだから初めからそう言えばよかった。でも佐村河内はそれができなかった。虚勢を張ってしまった。どんどん誇張して、メディア受けする嘘の自分を演出してしまった。それが彼の業だろう。 物語の最後でもまた、妻・香が森にケーキを振る舞うシーンが映される。チョコレートの装飾のきれいなそのケーキを見て佐村河内は言う。 「うわーすごい」 「こんなことで、楽器が手元に戻ってくるまで、自分こんなことに感情が動くことなかったもん。きれいだとか」 森は『FAKE』の公式サイトに次のようなコメントを寄せている。 「僕の視点と解釈は存在するけれど、結局は観たあなたのものです。でもひとつだけ思ってほしい。様々な解釈と視点があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴らしいのだと。」 (映画『FAKE』公式サイトより引用) この連載でどこまで自分の仕事や作品に絡めて文章を書くか毎回悩むのだが、自著である『ミューズの真髄』(KADOKAWA)にも似たシーンがある。美大を志す主人公の美優は、自分の至らなさを受け入れられず、憧れの先生(月岡)の模倣に走ってしまう……というどうにも業の深い女性キャラクターなのだが、彼女が物語の最後にどうして絵を描くのか自問自答し、出した答えが「自分を責め立てる大嫌いな世界でも、絵のモチーフだと思えば美しくおもしろく見えてくるから」というもので、最終的には模倣をやめて自分の絵を描く、という概要だ。ちょっとだけ『FAKE』に近いものがある気がする。 このコラムを書きながら、この作品の何が自分にとってよかったのかがうまく説明できず何日も悩んでいた。結局真相はどうであれ、創作の持つ力を信じさせてくれる演者と作り手だからという、それだけなのかもしれない。佐村河内は、まだ全然我々に丸裸は見せてくれてはいない。きっと彼の虚勢を張る癖、誇張して自己を演出するような部分は、そう簡単なものではないのだろう。 だが、彼が発した「作曲できたおかげ」という言葉は本当のように見えるので、やっぱりいい映画だったなと思う。 文野 紋(ふみの・あや) 漫画家。2020年『月刊!スピリッツ』(小学館)にて商業誌デビュー。2021年1月に初単行本『呪いと性春 文野紋短編集』(小学館)を刊行。同年9月から『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)で連載していた『ミューズの真髄』は2023年に単行本全3巻で完結。2024年7月、WEBコミック配信サイト『サイコミ』連載の『感受点』(原作:いつまちゃん)の単行本を発売。2025年1月から、『週刊SPA!』(扶桑社)にて『トムライガール冥衣』(原作:角由紀子)の新連載がスタートしている。 X:@bnbnfumiya (C)2016「Fake」製作委員会
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4年ごとに人類が抱く夢、映像美を追求したスポーツの記録──市川崑『東京オリンピック』
文野紋のドキュメンタリー日記 ~現実(リアル)を求めて~ 人生を変えた一本、退屈な日々に刺激をくれる一本、さまざまな愛に気づく一本など── 漫画家・文野紋によるリアルな視点、世界観で紹介するドキュメンタリー映画日記 1964年8月21日、ギリシャ・オリンポスの丘で点火されたオリンピックの火は日本へ向かった。 『東京オリンピック』は、1965年3月に公開された1964年の東京オリンピックの公式記録映画である。監督は『ビルマの竪琴』(1956年)や『炎上』(1958年)などで知られる鬼才・市川崑。 東京オリンピックの公式記録映画でありながら市川の「単なる記録映画にはしたくない」という理念のもと作られた本作は、「芸術か? 記録か?」と政治問題にまで発展する議論を巻き起こし、国内動員2000万人超えの大ヒットを記録し、数々の映画賞を受賞した。 本作の特徴はなんといってもその映像美、芸術性にあると思う。スポーツの祭典であるオリンピックの記録映画でありながら、冒頭の真っ赤な太陽の画など、抽象的なショットがたびたび映し出される。 「とにかく、単なる記録映画にはしたくなかったですね。自分の意思とかイメージというものを重く見て、つまり創造力を発揮して、真実なるものを捉えたい、と。」 (「公益財団法人日本オリンピック委員会」インタビューより引用) 市川は本作の制作にあたり、記録映画であるにもかかわらず緻密なシナリオを制作し、スタッフには絵コンテを描いて説明するなど、演出に強くこだわったという。100台以上のカメラ、200本以上のレンズ。世界で初めての2000ミリの望遠レンズまでも使用された。それらを用いて撮影された映像は、選手の肉体美のみならず、内面までも映し出す。 (C)フォート・キシモト 選手の強張った表情が、額を流れる汗が、彼らがオリンピックというものに向ける大きな感情を如実に表現する。 そして市川らのカメラが捉える対象は、選手だけに留まらない。 ケガをした選手を運ぶ救護班。 グラウンドの整備をするスタッフ。 思わず競技に見入ってしまう審判。 休憩中、競技が始まって、思わず仲間たちと顔を見合わせニヤリと笑う警備員たち。 アメリカ人選手とドイツ人選手による一騎打ちとなった棒高跳びのシーンでは、各国の応援をする観客たちのリアルな表情が対比するように映される。 太ったおじさんの二重あごのアップ……ではなく、息を呑む観客の喉元が、こだわり抜かれた映像技術で映し出される。 彼らもまた、東京オリンピックの参加者のひとりである。 また、本作では、ハードル走のシーンで選手が先行しているかわかりづらいであろう真正面からの画角を採用するなど、スポーツ観戦としての正確性より芸術性を重視した挑戦的なカメラワークを採用している。そのため、映像作品としても非常に完成度が高い。 監督である市川は、もともとスポーツというものにはそれほどの関心がなく、本作の総監督の打診もそのことを理由に一度保留にしていたほどだ。そして、自身がスポーツに疎いからこそ「スポーツファンだけの映画にしない」とスタッフ全員に徹底して伝えたという。 市川はスポーツに対し、たとえばその勝敗などよりも、そこに関わっている人間たちのドラマや心の機微に関心があったのだろう。 そのため本作は記録映画としては不十分ではないかという批評を受けることがある。冒頭でも述べたように、当時は「芸術か? 記録か?」と政治問題にまで発展する議論が巻き起こった。試写会で本作を鑑みたオリンピック担当大臣(当時)の河野一郎は、「記録性を無視したひどい映画」と本作を激しく批判し、文部大臣(当時)の愛知揆一もまたこれに同調した。 しかし翌年1965年、『東京オリンピック』が劇場公開されると当時の興行記録を塗り替える大ヒットとなった。 「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである」 冒頭の字幕だ。 本作は、オリンピックのために解体される東京の街を映したシーンから始まる。聖火リレーのシーンで映されるのは沖縄の「ひめゆりの塔」、広島の「原爆ドーム」。市川はのちに「どうしても広島の原爆ドームからスタートさせたかったんです」と語る。 1945年8月6日、市川の母を含む家族8人全員が広島に住んでおり、被爆している。当時東京で暮らしていた市川も原爆投下から数日後に広島へ向かい、その凄惨さを目の当たりにしていた。 オリンピックの理念のひとつに世界平和がある。のちのインタビューで市川はこの世界平和という部分に着目してシナリオを制作したと語っている。 東京オリンピックには、実は1940年にも一度開催が予定されていたが日中戦争の勃発などにより幻となったという経緯がある。戦後復興と高度経済成長を世界にアピールしたい日本にとって、1964年の東京オリンピックは絶好の機会であった。 本作は 「人類は4年ごとに夢をみる この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか」 という言葉で締めくくられる。 森達也をはじめ、さまざまなドキュメンタリー監督がドキュメンタリーにおいて作り手の視点は重要である、という趣旨の発言をしている。ドキュメンタリーとは事実の記録に基づいた作品のことであり、一般的に「意図を含まぬ事実の描写」であると認識されることが多いが、それを撮影、編集し作品として仕上げている以上、制作者の意図や思想、視点が入り込むことになる。 私はドキュメンタリーのおもしろさはこの制作者の視点にあると思っている。制作陣がどういう感情を持ってその対象を観測していたかの記録であり、そしてその視点を我々視聴者が追体験できるという意味で、ドキュメンタリーは非常に価値のあるものだと感じている。 自分がいつかスポーツマンガを描くのなら、私はこういった制作者の視点が、制作者が何に魅力を感じているのかが如実に伝わるような作品が作りたい。 本作はそう強く思える、市川の視点が十二分に込められた素晴らしいスポーツドキュメンタリーだ。 文野 紋(ふみの・あや) 漫画家。2020年『月刊!スピリッツ』(小学館)にて商業誌デビュー。2021年1月に初単行本『呪いと性春 文野紋短編集』(小学館)を刊行。同年9月から『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)で連載していた『ミューズの真髄』は2023年に単行本全3巻で完結。2024年7月、WEBコミック配信サイト『サイコミ』連載の『感受点』(原作:いつまちゃん)の単行本を発売。2025年1月から、『週刊SPA!』(扶桑社)にて『トムライガール冥衣』(原作:角由紀子)の新連載がスタートしている。 『東京オリンピック』 Blu-ray&DVD発売中 発売・販売元:東宝 (C)公益財団法人 日本オリンピック委員会
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俳優・東出昌大が導く「生きている意味」
文野紋のドキュメンタリー日記 ~現実(リアル)を求めて~ 人生を変えた一本、退屈な日々に刺激をくれる一本、さまざまな愛に気づく一本など── 漫画家・文野紋によるリアルな視点、世界観で紹介するドキュメンタリー映画日記 「あいつ、鉄砲の免許持ってて狩猟してるんだよ」 サバイバル登山家・服部文祥の言葉からすべては始まった。 『WILL』は映像作家・エリザベス宮地によるドキュメンタリー映画で、俳優・東出昌大の狩猟生活を追った作品だ。 東出昌大は映画『桐島、部活やめるってよ』(2012年)での俳優デビューから数々の映画やドラマに出演するなど人気の俳優だ。個人的な話になるが、私は東出が将棋棋士・羽生善治を演じた映画『聖の青春』(2016年)をきっかけに、最近では『Winny』(2023年)や『福田村事件』(2023年)などの東出の出演作を観ては彼の魅力に感嘆するいち映画ファン、東出ファンである。彼は世間的に見ると常軌を逸したような、独特な人間を演じるのがうまい。 しかし一般的にはやはり東出といえば、2020年の離婚騒動をはじめとしたスキャンダルのイメージが強いだろう。その後、「山ごもり」が報道され賛否両論となっていたころ、東出は2023年11月放送のABEMAのバラエティ番組『チャンスの時間』に出演した。映画に出演している姿以外ほとんど彼について知らなかった私は、そのあきらめきったような厭世的な様子に少しだけ衝撃を受けた。騒動の印象と端正な顔立ちから、いわゆるチャラい、器用なタイプかと想像していたが、なんとも生きづらそうな人だ、と思った。 俳優・東出昌大はなぜ狩りをするのか。 「カメラ回してもらっても、たぶん僕500時間ぐらい一緒にいないとわからないから」 「カメラ前で主張したいこととかもないし……」 実は本企画は、一度頓挫している。事務所の許可が降りなかったのだ。しかしその半年後、宮地のもとに東出から連絡が届く。2021年10月、再びのスキャンダルにより事務所を離れることになったという。事務所NGがなくなったことで本企画は再び動き出し、宮地は狩りをする東出にカメラを向けることになる。 (C)2024 SPACE SHOWER FILMS 東出は狩猟について「悪」であると語る。 「混沌とすることが、常にまとわりついていて、でも、近くに命があるから……考え続けるし……」 なぜ自身が「悪」と定義する狩猟を、つらい思いを抱えながらも続けるのかと尋ねられた東出はたどたどしく答え、頭を抱える。東出は何に葛藤し、何に悩んでいるのか。きっと自分でもわかっていないのだろう。わからないから狩猟をしているのだろう。東出にとって狩猟は、自身(人間)の根源的な罪を心に刻む、ゆるやかな自傷行為なのかもしれない。 「忙しい中でよくわかんないコンビニ飯食って感謝もしないよか、呪われてるっていう実感持ちながら、そこに張り合い持ってアレの分も……って思ってもらったほうが……とかなんのかな。わからん」 東出から紡ぎ出される言葉はいつも正直で真摯だ。 私は大阪府貝塚市の精肉店を迫ったドキュメンタリー映画『ある精肉店のはなし』(2013年)を見たことをきっかけに、狩猟や屠殺(とさつ)について興味を持ち、関連のドキュメンタリー映画や書籍を読み漁っていたことがある。そうしていわゆる「食育」について学んでいると、「命をいただいている自覚を持って感謝して生きる」といった結論にたどり着くことが多い。それはもちろん間違いではないし、人間として生きていく以上そうして合理化するしかない。だが、屠殺の職に就いているわけでもない「忙しい中でよくわかんないコンビニ飯を食っている」自分にとってその結論は本当に実感を持った正しいものなのだろうかと思う。 もっとわかりやすくいうと、ものすごく耳障りがいい「命への感謝」という概念に違和感があった(これは私が普段食に対して命を実感する生活をしていないことに起因しているため、その結論を出している人たちを批判するものではない)。 東出は自身の銃で鹿を仕留めたとき、ひと言「うぃ〜」と言った。ドキュメンタリーのカメラが回っているにもかかわらず、俳優という世間からわざわざボロを探して叩かれるような人生を送っているにもかかわらず、だ。東出はこのことを振り返って、なんて軽薄なんだと思ったけど、すごくうれしかったから、と語る。こういう素直さは東出の魅力のひとつだ。 作中全編を通して感じることだが、改めて、東出は人間離れした男前である。189cmの長身に、考えられないくらい小さな頭。目鼻立ちもハッキリしており、端正。誰がどう見ても男前なのだ……一般人として生きていけないくらいに。猟友会の中にいる東出は正直、イケメンすぎて浮いている。作中でも狩猟仲間から親戚を紹介され「芸能人」として求められることに苦悩するシーンが映されている。 (C)2024 SPACE SHOWER FILMS スキャンダルや本作中での言動を考えると、東出は本来「芸能人」に向いている性質ではないのだろうと思う。実際、最初はバイト感覚でモデルの仕事をしていたという。だが東出の生まれ持った圧倒的なオーラは、彼が一般人になることを許さない。そして、そのことに葛藤し、もがき苦しんだ東出はよりいっそう俳優として唯一無二な魅力的な存在になっていく。俳優という職業は人生経験が糧になる。彼にしか演じられない役柄が存在する限り、東出は映画界から求められ続けるだろう。 東出は『世界の果てに、ひろゆき置いてきた』(2023年/ABEMA)の仕掛け人である高橋弘樹プロデューサーとの対談で、俳優の仕事について次のように語る。 「僕の場合は(高橋さんと違って)人が用意した台本でやる。たしかにそれはあるんですけど、“僕の35年の人生があって台本をどう読むか”だから。そこに僕のオリジナリティがまた生まれるんです」 「でも役者の仕事はめちゃくちゃ疲弊するんです。磨耗する、削られる。ちょっと休むとまた欲が出るんです。(中略)また身を粉にするように削られるようにやりながら挑戦したいという欲が生まれる」 2022年、東出が出演する映画作品『福田村事件』の撮影が始まる。監督は、『A』(1998年)、『A2』(2001年)、『FAKE』(2016年)など数々のドキュメンタリー作品でも有名な、森達也だ。東出はオファーを受ける前から森の作品のファンだったという。正義や悪や人間は簡単なものじゃない、虐待事件を起こした側にも家族があり愛がある──そういった森の作品に共感し出演を決めたという。私自身も森の作品には感銘を受け、トークショーにも足を運ぶようなドキュメンタリーファンのひとりだ。東出のこの感覚には非常に共感する。 私は普段はマンガの仕事をしているが、時々、自分には作品を発表する素質がないような気がして何も書けなくなってしまうことがある。なにも自分や自分の作り出したキャラクターの価値観が絶対的に正しいだなんて思っていない。何が正しいことなのかを悩みながら、悩んでいるからこそ生きているし、物を作っている。しかし世間が見るのは「完成品」であり「商品」である。当たり前に自分が作ったものが倫理的に正しくないと指摘されることがある。私の作品を見ることで不快になった(=不幸になった)と言われることがある。これ自体は物を作って発表している以上、仕方のないことだ。折り合いをつけていくしかない。 ただ、私はそういう正しくなさも含めて人間(キャラクター)であり、愛らしさであり、それが滲み出ているものが、それを丸ごと抱きしめてあげたくなるようなものが愛しい作品であると思っている。自分はそういった「抱きしめてあげたいような気持ち」に出会うために生きているような気がする。 調子がいいときはそう思えているのだが、物作りをしているとどうしようもない不安に駆られる瞬間がある。自分の考える「愛らしさ」は世間にとって害であり、自分が物を作り自分の価値観を訴えることは多くの人を不快にする行為なのではないか。そうやって価値観を開示したときに人を幸せにできるか否かこそが物作りをすることに必要な素質の有無なのではないか。正直に自分を開示することは世間から愛されるコツだが、開示して出てくるものが世間とズレていたらもうどうしようもないのではないか。 東出は私にとって非常に「愛らしい」存在だ。 東出はきっと、本当に「こういう人」で、それを我々にある程度素直に開示してくれている。何度世間を賑わせて、叩かれて、殺害予告が届いても。 彼の過去のスキャンダルが倫理的に正しかったかというと、うなずくことはもちろんできない。内容はまったく違うが、個人的には本作を観たときの感覚は圡方宏史監督の『ホームレス理事長』(2014年)を観たときに近い。罪は罪だし行為に対して正しいとも思わないけれど、人間が真摯に生きる姿は惹かれるものがある。そして、「自分はやっぱり人間という生き物が好きだな」と思う。 東出は語る。 「──仕事だったり狩猟だったり、人との出会いだったりっていうのを本気でやってると、何か生きててよかったって僕自身思う瞬間もあれば、生きててよかったって(あなたの)おかげで思いましたって言ってくれる人の言葉があったり、生きててよかったとか、どうしようもなく愛おしいっていう気持ちなんだ、とか。それは物に対しても人に対しても作品に対しても。そういうときに、なんか、生きている意味ってあるんだろうな」 さまざまなスキャンダルやバッシングを受け続けた東出の口から、たどたどしい言葉で紡がれる「生きている意味」は必見だ。 文野 紋(ふみの・あや) 漫画家。2020年『月刊!スピリッツ』(小学館)にて商業誌デビュー。2021年1月に初単行本『呪いと性春 文野紋短編集』(小学館)を刊行。同年9月から『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)で連載していた『ミューズの真髄』は2023年に単行本全3巻で完結。2024年7月、WEBコミック配信サイト『サイコミ』連載の『感受点』(原作:いつまちゃん)の単行本を発売。 (C)2024 SPACE SHOWER FILMS 出演:東出昌大 音楽・出演:MOROHA 監督・撮影・編集:エリザベス宮地 プロデューサー:高根順次 製作・配給・宣伝:SPACE SHOWER FILMS
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愛され力と誠実さに涙…。ロウン入隊前最後のファンミ『ROWOON 2025 SPECIAL FANMEETING IN NIPPON BUDOKAN -Time to Say Goodbye-』レポート|「林美桜のK-POP沼ガール」特別編
「林 美桜のK-POP沼ガール」 K-POPガチオタク・林美桜テレビ朝日アナウンサーの沼落ちコラム 7月26日にCSテレ朝チャンネル1で放送される、韓国俳優・ロウン(*1)さんのファンミーティング『ROWOON 2025 SPECIAL FANMEETING IN NIPPON BUDOKAN -Time to Say Goodbye-』をひと足先に観させてもらいました! 今回は、本イベントの見どころレポートをお届けします。 青い光、しっとりした生演奏の中 すっと登場したロウンさん。 入隊前最後となった今回のファンミーティング。 会えてうれしいけど、寂しい……。 そんなファンの気持ちを受け止め、感極まる姿に ロウンさんも同じ気持ちだったのだと、ほっとしたファンの方もいらっしゃるかもしれません。 「プロだから泣かないようにがんばる」と言いつつも… まずは、ロウンさんの歌唱ライブからスタート。 1曲目は秦基博の「鱗(うろこ)」。 温かく会場を包み込むような歌声。 ぎゅっと拳を握り、歌詞を噛みしめながら歌う様子に緊張を感じました。 「プロだから泣かないようにがんばる」と言って、秒で泣きそうになるロウンさん。 続く、レミオロメンの「3月9日」、Lee Juckの「running on the sky」。 もうウルウルするしかない(涙)。 しかしお次は、涙をぐっとこらえることが多かったパートから一転。 かわいすぎてびっくり、King&Princeの「シンデレラガール」。 たくさんのハートをバックに……どうにもこうにもキュートすぎる。 愛嬌たっぷり、元気いっぱい最強のロウン節、復活!! 一曲一曲に気持ちを乗せて伝えてくださったライブ。 正直な想いが届いて、吸い込まれるように魅了された歌唱でした。 20代を振り返るトークコーナー。古家さんとのイチャイチャも!? 続いては、お待ちかねのトークコーナー。 ロウンさんといえば、古家(正亨)さん。 さっそく、当たり前のように古家さんにハイタッチするロウンさん。 (よく考えてみると、なかなかない光景!笑) なによりも強い信頼関係を感じる古家さんと一緒に座りたい流れ……など 見ているこちらは自然に目尻が下がっちゃうようなイチャイチャを、今回も無事確認することができました(笑)。 まずは、活動報告。 SF9、青年時代、俳優の3つのテーマで20代を紐解いていきます。 当時の心境を深く、苦労もさらけ出して率直に話す姿には ファンのみなさんを心の奥から信用して、委ねているんだなと感じました。 素敵な関係性ですよね。 ヒーローみたいに誠実で、明るくて優しい。 冗談を言うときには目がさらにきらめいて、真剣な話をするときはゆっくり時間をかけて言葉を考える。 どこまでもまっすぐな人柄を感じるトークでした。 愛されるべくして愛される、人類最強の存在! 「Message from friend」のコーナーも必見。 ロウンさんのお友達などが続々出演されるんですが、 身近な人にこれだけ愛されるってすごすぎます。 だってみなさん、まるで家族の一員のようにロウンさんのことを大切に大切に話されるんです。 愛されるべくして愛される……人類最強の存在。 そして最後には、ロウンさんの帰りを待っている間の寂しい時間も 意味のあるものになるような、素敵な言葉を残してくださいました。 ロウンさんをよく知る古家さんと、ロウンさんをよく知るファンのみなさんが 一秒一秒、ロウンさんとの時間を惜しみながら、誰よりも大切に思う 温かいファンミーティングでした。 舞台裏からメイキング映像まで…CSテレ朝チャンネルでチェック! そして、リハーサルの様子や当日の舞台裏など メイキング映像も、とても見ごたえがありました。 まわりの方々を常に気遣う謙虚な姿や、緊張している姿など ロウンさんの素を存分に知ることができる内容でした。 さらに、名ケミ(*2)である古家さんのインタビューも! 仲よしすぎて、インタビューというより、対談です。 古家さんをはじめ、たくさんの方にかわいがられて愛されているロウンさんに 安心感を得られる、充実したメイキングでした。 次に会うまで少し時間は空いてしまいますが、 さらに素敵になって帰ってくるに決まってるロウンさんに お会いできるのが、今から楽しみですね! 入隊前最後のファンミーティング『ROWOON 2025 SPECIAL FANMEETING IN NIPPON BUDOKAN -Time to Say Goodbye-』は、CSテレ朝チャンネル1で放送されます! 7/26(土)ひる0:00〜午後3:00 CSテレ朝チャンネル1にて https://www.tv-asahi.co.jp/ch/contents/variety/0797/ ぜひご覧ください! 林美桜のチョアチョア♡メモ *1/ロウン 現在は俳優として活躍。代表作は『偶然見つけたハル』『恋慕』『先輩、その口紅塗らないで』『明日』『この恋は不可抗力』など。高身長と繊細な演技が人気です*2/名ケミ 「名ケミストリー」の略。メンバーやタレント同士の相性がいい様子や、特別な魅力が生まれるような関係性を指します 文=林 美桜 編集=高橋千里
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推し活歴15年…恩人との再会で感じた“続けること”の大変さと幸せ|「林美桜のK-POP沼ガール」第20回
「林 美桜のK-POP沼ガール」 K-POPガチオタク・林美桜テレビ朝日アナウンサーの沼落ちコラム 久しぶりすぎるコラムの更新になってしまいました。 最近はというと……最近というかずっとですが、仕事内容もあまり変わらず、もともとプライベートでは推し活以外は家にこもっているので、大きな変化はなく。 「最近どう?」って聞かれると、 「ちょっといいウイスキーにコーラを注いでコークハイにすると、ド○ターペ○パーみたいな味になるっていう発見がありました! 割合は1対1です」 っていう会話しかできないくらいになってます。要は、何もないってこと。 停滞気味の私を救ってくれた「韓国ドラマ全話鑑賞」 毎年ですが、真夏に入るまではなんだかいろいろ停滞気味。 特に誕生日付近。歳を取ることの重みがどんどん増している。 急に先を思い悩んで、人生このままじゃまずいんじゃないか?と考え込み、でも行動に移す元気もなく、体調も上向かず、人との会話でもパッとしたことが言えないし、思いつかない。全部がぎこちない!! ふぅ〜〜〜。 でもこんなときこそ、韓国ドラマに救われます。 韓国ドラマを「全話観きる」ことが、私に達成感を与えてくれる。 仕事も勉強も人間関係も日常生活も、完璧にこなすことがいつも以上に難しくなっているときに、よくやるメンタル向上術です。 韓国ドラマを一気観することだけは完璧にできる。 この“完璧”を積み重ねると、私の場合「やり遂げた」という自信につながって、少しずついろいろよくなっていくような気がしてます。 そんな最近、一気観したドラマは 『悪縁』 『弱いヒーロー Class2』 『運の悪い日』 ちょっと蒸し暑くなってくるころは、スリリングでドロッとしたドラマが最高。 特に『運の悪い日』はおもしろかったです。韓国のウェブトゥーン(*1)が原作のようなんですが、それも読もうかなと思うくらい。 結局一番怖いのは人間だな……と痛いくらい再確認するような内容です。ヒヤッとするシーンの描き方がリアルで引き込まれました。 皆様もぜひご覧ください。 あ、もしよろしければ、この記事の冒頭に出てきたド○ターペ○パー風コークハイとともに(笑)。 『ドリームハイ』の現場で15年ぶりに再会した恩人 ……ここからが本題なんです。 読んでくださる皆様の受け取り方まで考えを及ばさず、一方的にしゃべるように書いちゃってます。申し訳ございません。 本当にあんまり人としゃべってなくて……しゃべりたかったみたいです。 2025年を振り返るときにこれは絶対思い出すだろうなという、印象深い出来事がありました。 4月に開催されたショーミュージカル『ドリームハイ』(*2)の劇場で、15年ぶりくらいにお会いした方がいらっしゃったんです。 母の知り合いなのですが、私が高校時代に「一生のお願いだから、どうしても韓国で開催されるサイン会に参加してみたい」とダダをこねたとき、母が頼ったSE7ENさん(*3)のファンの方です。 当時は今のように、何をどうしたら韓国でアーティストを観ることができるのかの情報がSNS上にあふれているわけではなく、韓国のアーティストを応援するのなら、その道を切り拓くくらいの意志と決意がないと難しいものだったと思います。 情報を得るには詳しい人を伝って知るしかない、根気のいる作業が必要でした。 その時代に熱心に韓国まで行ってアーティストを応援していた方は、本当にすごいと思います。失敗や悔しい思いをした方もたくさんいたはず。 母が頼ったその方は、嫌な顔ひとつせず、新参者の私たち親子にいろいろなことを教えてくださいました。 韓国のおすすめ滞在場所、CDの買い方、サイン会への参加の仕方……。 きっと苦労して得た情報だったはず。 その方のおかげで、無事に韓国のサイン会に参加することができました。 月日が流れてなかなかお会いできずにいましたが、『ドリームハイ』の現場で偶然お会いできたんです。 お顔を見た瞬間、高校時代の記憶がブワッと。 なんていうんでしょう……15年ほど続けている“推し活”という人生が一周した感覚、ひとつ区切りができた感覚っていうのかな。 そして、感動したんです。 変わらずSE7ENさんを応援されていることに。 誰かを応援し続けることって、そんなに簡単なことじゃないんですよね。 この話はアーティストにはまったく関係なく、応援する側に限った話ですが。 幸せな瞬間は本当にたくさんあるんですが、お金の面で悔しい思いをすることもありますし、応援が難しくなってしまうような大きな出来事があったり、まわりの現実主義者から厳しいことを言われて傷ついたり……。 “長く続ける”って難しい。 私も、昔たくさんいたはずの推し活仲間は、ずいぶん減りました。 私の場合は、母がとても協力的でいてくれたこと(ありがとう)。 そして「継続は力なり」。何かを継続することだけが私にできる唯一の特技なので、今まで推し活が続けられているのかなぁとも思います。 きっとその方も、お会いできていなかった15年でいろいろな出来事があったと思いますが、それを乗り越えて今も変わらずいらっしゃって、本当に幸せな表情をされていたことに、なんだか勇気をもらいました。 このままで大丈夫だと、自分の生き方が肯定されたような感じ。 やっぱり推し活で得られるものってあまりにも大きくて、 どれだけ落ち込んでいてもアーティストのパフォーマンスを見たら心が照らされるし、笑顔に救われるし、何事も自分のことよりずっとうれしいし、がんばっている姿に励まされて生きる活力をもらえる。 自分自身や身近な人にはどうしたって満たせない、心の一部を熱く輝かせてくれる。 今、人生を振り返っても思い出すのは、推し活で幸せだったシーンばかり。幸せのすべて。 ファンのために活躍し続けてくれて、推し活を続けさせてくれてありがとう(泣)。 『ドリームハイ』の帰り道、母にこんな支離滅裂感情をぶちまけるくらいにはハイになった出来事でした。 ミュージカルのクオリティも圧巻! そしてショーミュージカル『ドリームハイ』、素晴らしかったです。 日韓のレジェンドたちが息を合わせて作り上げていくプロフェッショナルな演技、パフォーマンスは圧巻。 その様子を1秒も逃さずリアルで見られるわけですから、ミュージカルってやはりいいですね。 ミュージカルは、昔、明治座で『光化門恋歌』を観て以来だったのですが(またいつかこの話もしたい)、改めてミュージカルの素晴らしさに触れた素敵な機会になりました。ハマりそう……。 林美桜のチョアチョア♡メモ* 1/ウェブトゥーン 韓国発のデジタルマンガ。スマホなどで読みやすいように、縦スクロール形式で公開されています。 *2/ショーミュージカル『ドリームハイ』 2011年に韓国・KBSで放映された、若者たちが芸能学校で夢を追う姿を描いた音楽ドラマを舞台化。2023年に韓国で初演、2025年4月に日本でも上演されました。ショーとミュージカルが融合した新感覚舞台。 *3/SE7EN(セブン) 2003年にデビューした、韓国出身の男性ソロシンガー。歌とダンスに定評があり、日本やアジア各国でも活躍しています。 文=林 美桜 編集=高橋千里
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『2025 パク・ヒョンシクFANMEETING [UNIVERSIKTY]』レポート|「林美桜のK-POP沼ガール」特別編
「林 美桜のK-POP沼ガール」 K-POPガチオタク・林美桜テレビ朝日アナウンサーの沼落ちコラム 『2025 パク・ヒョンシクFANMEETING [UNIVERSIKTY]』に行ってきました!! パク・ヒョンシクさんは韓国の俳優・歌手。アイドルグループ「ZE:A」でデビュー後、時代劇『花郎<ファラン>』、ラブコメディドラマ『力の強い女 ト・ボンスン』や『SUIT/スーツ~運命の選択~』などに出演し、演技力にも定評があります。 今回は特別編として、本イベントのレポートをお届けします。 神々しいオーラで登場!素敵な歌唱パフォーマンスも 真っ暗な会場で、すべての光を集めながら登場した 真っ赤なスーツに身を包む、金髪のパク・ヒョンシクさん。 (C)PARKHYUNGSIK JAPAN OFFICIAL なんだこの比率は……顔が小さすぎる。 赤だ。え? 金だ? 天使……いや、神が降臨したのか? パク・ヒョンシクさんという神々しい存在に、まったく脳の処理が追いつかない。 会場にいらっしゃったSIKcretのみなさんも「は!? え?」と驚いているように感じました。 (C)PARKHYUNGSIK JAPAN OFFICIAL まずは一つひとつの言葉を大事に、すらっと長い手で曲調を表現しながら、日本のカバー曲を披露くださいました。 温もりある、伸びのいい歌声。 曲間には、立っているだけの時間をすべて意味のあるものにする表情も。 俳優さんとしての魅力もひしひしと感じるパフォーマンスに魅了されました。 (C)PARKHYUNGSIK JAPAN OFFICIAL パク・ヒョンシクさんと大学生活を楽しもう! 素晴らしい歌声で幕を開けたファンミーティングは [UNIVERSIKTY]の名のとおり、 パク・ヒョンシクさんと一緒に大学生活を楽しむ、というコンセプト。 学科別に、ヒョンシクさんのいろいろな姿を見ることができました。 (C)PARKHYUNGSIK JAPAN OFFICIAL ここで語り尽くしたいほどすべてが楽しい内容だったのですが、 中でも、演劇科。 ヒョンシクさんがカメラの前でひとり芝居。 かなり接近するシーンもあり、最高以上でした。 レポート執筆のため、CSで流れる映像をお先に確認させていただきましたが、 会場で見たあの瞬間をもっと超高画質で、もちろんカメラマンさん目線の映像で観ることができます。 大変貴重です。とても近かったです。観る方は心してご覧くださいませ!! 会場のみなさんと団結して“厳しい監督”を演じたのも、大切な思い出になりました。 ヒョンシクさん主演の最新ドラマ『埋もれた心』(ディズニープラス)とはまた違った姿を堪能できましたよ。 調理科では、 最高のMC・古家(正亨)さんとのかけ合いでたくさん笑って、トークで引き出されるさまざまな表情にこちらまでニッコリ。 古家さんが映りのバランスを考えて、スマホを上下逆に構えて撮影している優しさにもご注目ください!! ファンミーティングでしか見られない生バンドを携えての歌唱は、やはり圧巻でした。 お忙しいなかにも関わらず、本当にいつ練習したんでしょう……。 飛びそうなくらい軽やかに高くスキップしながら歌われているお姿、妖精のようでした。 ファンミだけじゃ物足りない!スペシャルコンテンツも ぎゅっとした内容のレポートになってしまいましたが ここでお知らせがございます。 6月21日(土)午後3:00~午後5:00 CSテレ朝チャンネル1 <独占放送>2025 パク・ヒョンシクFANMEETING [UNIVERSIKTY] https://www.tv-asahi.co.jp/ch/contents/variety/0794/ ファンミーティングの様子が放送されます!! 独占インタビュー含め、なんと2時間。たっぷりお楽しみいただけます♪ (C)PARKHYUNGSIK JAPAN OFFICIAL そしてもうひとつお知らせです。 6/20(金) 『大下容子ワイド!スクランブル』(テレビ朝日)のフラッシュニュース枠で パク・ヒョンシクさんのインタビューが放送されます。 時間は11時25分ごろを予定しております。 (ニュース番組ですので、緊急で何か発生した場合などは放送されない場合もございます) さらに、テレビ朝日公式YouTube『ANNnewsCH』では ロングバージョンのインタビューも公開されますので、ぜひご覧いただけるとうれしいです。 https://youtube.com/@annnewsch ヒョンシクさんはファンミーティング後、お疲れなのにもかかわらず、疲れた顔をひとつも見せず、丁寧に質問に応じてくださいました。 日本語も瞬時に理解して反応くださいました。 (C)PARKHYUNGSIK JAPAN OFFICIAL お話しされるお言葉にあふれる、ヒョンシクさんらしい愛嬌とユーモアのセンス。 短い時間の中でも、観てくださるファンのみなさんを一番に想って、いつでも楽しませたいという情熱的で優しいお人柄が感じられました。 ぜひたくさんの方に観ていただけるとうれしいです。 文=林 美桜 編集=高橋千里
奥森皐月の喫茶礼賛
喫茶店巡りが趣味の奥森皐月。今気になるお店を訪れ、その魅力と味わいをレポート
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カボチャのムースがピカイチ!喫茶店の未来を考える「カフェ トロワバグ」|「奥森皐月の喫茶礼賛」第10杯
先月、友達と名画座に行ってきた。期間限定で上映している作品がおもしろそうだと誘われ、私も興味があったので観ることに。同じ監督の作品が2本立てで楽しめて、大満足で映画館をあとにした。 2本分の感想が温まっている状態で、その街でずっと営業している喫茶店に行った。けっして広くないお店のカウンターであれこれ楽しく映画のことを話していると、店の奥にいた男女のお客さんの声が聞こえてきた。どうやらそのふたりも私たちと同じ映画を観ていたそうだ。 その街での思い出を、その街の喫茶店で話している客が同時にいて、これこそ喫茶店のいいところだよなと感じた出来事だった。 「3つの輪」を意味する店名とロゴマーク 今回は神保町駅から徒歩1分というアクセス抜群の場所にある「カフェ トロワバグ」を訪れた。 大きな看板と赤いテントが目印の建物の、地下へ続く階段を降りていく。トロワバグとはフランス語で「3つの輪」という意味だそう。輪が3つ連なっているロゴマークが特徴的だ。 店内に入るとまず目に入るのは、かわいらしいランプやお花で飾られたカウンター。お店全体はダークブラウンを基調としていて、照明も落ち着いている。大人の雰囲気をまとっていながらも、穏やかな時間が流れている空間だ。 昼過ぎではあったが、若い女性のグループからビジネスマンまで幅広い客層のお客さんがコーヒーを飲んでいた。独特なフォントの「トロワバグ」が刻まれたお冷やのグラスでテンションが上がる。カッコいいなあ。 横型の写真アルバムのような形のメニューが素敵。一つひとつ写真が載っていてわかりやすく、メニューも豊富だ。 コーヒーのバリエーションが多く、サンドウィッチ系の食事メニューや甘いものなど全部おいしそうで、どれにしようか悩む。喫茶店ではあまり見かけないような手の込んだスイーツも豊富で、すべてオリジナルで手作りしているそうだ。 いつかホールで食べ尽くしたい「カボチャのムース」 今回は創業から一番人気でロングセラーの「グラタントースト」と「カボチャのムース」と「トロワブレンド」をいただくことにした。結局、人気と書かれているものを頼みたくなってしまう。 グラタントーストにはサラダもついている。ありがたい。 ハムやゴーダチーズなどの具材が挟まれたトーストに、自家製のホワイトソースがたっぷり。ボリューミーだけれど、まろやかで優しい味わいなのでもりもり食べられる。 クロックムッシュを置いている喫茶店はたまにあるが、「グラタントースト」というメニューは案外見かけない。わかりやすい名前と誰もが虜になるおいしさで、50年近く愛されているのだという。 カボチャのムースがこれまたおいしい。おいしすぎる。カボチャそのものの甘さが活かされていて、シンプルながら完璧な味。なめらかな舌触りで、少し振りかけられているシナモンとの相性も抜群。添えられているクリームはかなり甘さ控えめで、ムースと食べると食感が少し変わる。 カボチャのムースがある喫茶店は多くないだろうが、トロワバグのものはピカイチだと思う。いつかお金持ちになったらホールで食べ尽くしたい。食べ終わるのが名残惜しかった。 ブレンドは苦味と酸味のバランスが絶妙で、食事にもケーキにも合う。 まろやかで甘みも感じられるので、コーヒーの強い苦みや酸味が苦手という人にも飲みやすいのではないかと思う。 喫茶店が50年も残り続けているのは「奇跡的」 カフェ トロワバグについて、店主の三輪さんにお話を伺った。 オープンしたのは1976年。お母様が初代のオーナーで、娘である三輪さんが2代目として今もお店を継いでいるそうだ。学生時代からお店で過ごし、お母様とともにお店に立たれている時代もあったとのこと。 地下のお店なのでどうしても閉塞感があり、当時はタバコも吸えたので男性のお客さんが多かったそうだ。しかし、禁煙になってからは女性客も増え、最近は昨今の喫茶店ブームで若いお客さんも多いという。 女性店主ということもあり、なるべく華やかでかわいらしさのあるお店作りを心がけているそう。たしかに、テーブルのお花や壁に飾られている絵は店内を明るくしている。 客層の変化に合わせて、メニューも少しずつ変わったとのことだ。パンメニューの中にある「小倉バタートースト」は女性に人気らしい。 若い女性のグループが食事とスイーツをいくつか注文し、シェアしながら食べていることもあるそうだ。これだけ豊富なメニューだと誰かと行ってあれこれ食べてみたくなるので、気持ちがよくわかった。 落ち着きのある魅力的な店内の内装は、松樹新平さんという建築家さんが手がけたもの。特徴的な柱やカウンター、板張りの床などは創業以来変わらず残り続けている。 喫茶店というものは都市開発やビルのオーナーの都合などで移転や閉店をしてしまうことが多い。そのため、50年近く残り続けているのは奇跡的だ。 松樹さんは今でもたまにトロワバグを訪れることがあるそうで、自分のデザインのお店が残り続けていることを喜ばしく思っているそうだ。店内のあちこちに目を凝らしてみると、歴史が感じられる。 店主とお客さん、お互いの「様子の違い」にも気づく これまでにも都内の喫茶店を取材して耳にしていたのだが、三輪さんいわく喫茶店の店主は“横のつながり”があるそうだ。お互いのお店を訪れたり、プライベートでも交流したり。 先日閉店してしまった神田の喫茶店「エース」さんとも親交があったそうで、エースの壁に吊されていたコーヒーメニューの札をもらったそう。トロワバグの店内にこっそりと置かれていた。温かみがあって素敵だ。 神保町にはかなり多くの喫茶店が密集している。ライバル同士でお客さんの取り合いになっているのではないかと思ってしまうが、実際は違うようだ。 たとえばすぐ近くにある「神田伯剌西爾(カンダブラジル)」は現在も喫煙可能なため、タバコを吸うお客さんが集まっている。また「さぼうる」はボリューミーな食事メニューがあるため、男性のお客さんも多い。 そしてトロワバグさんは女性客が多め。このように、時代の流れによってそれぞれの特色が出て、結果的に棲み分けができるようになったとのことだ。 街に根づいている喫茶店には、もちろん常連さんがいる。常連さんとのコミュニケーションについて、印象的なお話を聞いた。 たとえば三輪さんの疲れが溜まっていたり、あまり元気がなかったりするときに、常連さんは気づくのだという。それは雰囲気だけでなく、コーヒーの味などからも違いを感じるのだそう。きっと私にはわからない違いなのだろうが、長年通っているとそういった関係が構築されていくようだ。 反対に、お客さんの様子がいつもと違うときには三輪さんも気づく。「コーヒーを1杯飲むだけ」ではあるが、それが大切なルーティンでありコミュニケーションであるというのは喫茶店ならではだ。喫茶店文化そのもののよさを、そのお話から改めて感じられた。 2号店「トロワバグヴェール」を開いた理由 実は、トロワバグさんは今年の6月に2号店となる「トロワバグヴェール」をオープンしている。同じ神保町で、そちらはコーヒーとクレープのお店。 週末のトロワバグはお客さんがたくさん来店し、外の階段まで並ぶこともあるという。そこで、せっかく来てくれた人にゆっくりしてもらいたいという思いがあり、2号店をオープンしたそうだ。 また、現在のトロワバグのビルもだんだんと老朽化してきていて、この先ずっと同じ場所で営業するというのはなかなか難しいのが現実だ。 その時が来たらきっぱりとお店をたたむという考えもよぎったそうだが、喫茶店業界では70代以上のマスターが現役バリバリで活躍している。それを見て三輪さんも「身体が元気なうちはお店を続けよう」と決心したそうだ。 結果として、喫茶店の新しいかたちを取ることになった。元のお店を続けながら2号店を開く。 古きよき喫茶店は減っていく一方のなか、トロワバグがこの新しい道を提案したことによって守られる未来があるように思える。 三輪さんは喫茶店業界の先を見据えた営業をされていて、店主仲間ともそのようなお話をされているそうだ。私はただ喫茶店が好きで足を運んでいるひとりにすぎないが、心強く思えてなんだかとてもうれしい気持ちになった。 最終回を迎えても、喫茶店に通う日々は続く 時代の変化に伴いながら、街に根づいた喫茶店。神保町という街全体が、多くの人を受け入れてきたということがよくわかった。 喫茶店のこれからを考える三輪さんは、これからのリーダー的存在であろう。大切に守られてきたトロワバグからつながる「輪」を感じられた。神保町でゆっくりとしたい日には、一度は訪れていただきたい名店だ。 昨年12月に始まったこの連載だが、今月が最終回。私も寂しい気持ちでいっぱいなのだが、これからも喫茶店が好きなことには変わりない。 今までどおり喫茶店に日々通って、写真を撮って記録していく。いつかまたどこかで、みなさんに素晴らしいお店を紹介したい。そのときにはまた読んでね。ごちそうさまでした。 カフェ トロワバグ 平日:10時〜20時、土祝日:12時〜19時、日曜:定休 東京都千代田区神田神保町1-12-1 富田ビルB1F 神保町駅A5出口から徒歩1分 文・写真=奥森皐月 編集=高橋千里
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贅沢な自家製みつまめを味わう。成田に佇む“理想の喫茶店”「チルチル」|「奥森皐月の喫茶礼賛」第9杯
これまでに行った喫茶店とこれから行きたい喫茶店の場所に、マップアプリでピンを立てている。ピンに絵文字を割り振ることができるので、行った場所にはコーヒーカップ、行きたい場所にはホットケーキ。 都内で生活をしているため、東京の地図にはコーヒーカップの絵文字がびっしりと並んでいる。少しずつ縮小していくにつれ、全国に散り散りになったホットケーキのマークが見える。 いつか日本地図を全部コーヒーカップの絵文字で埋め尽くしたいなぁと、地図を眺めながらよく思う。 そのためには旅行をたくさんしてその先で喫茶店に行くか、喫茶店のために旅行するか、どちらかをしなければならない。どちらにせよ遠くまで行ったら喫茶店に立ち寄らないのはもったいないと思っている。 旅行気分で、成田の喫茶店「チルチル」へ 今回はこの連載が始まって以来一番都心から離れた場所に行ってきた。JR成田駅から徒歩で12分、成田山新勝寺総門のすぐそばのお店「チルチル」さんだ。 ずっと前から SNSや本で写真を見ていて、いつか行ってみたいと思っていた喫茶店。取材させていただけることになり、成田という土地自体初めて訪れた。 駅から成田山までの参道にはお土産屋さんや古い木造建築の商店などが建ち並んでおり、成田の名物である鰻(うなぎ)のお店も軒を連ねていた。 賑やかな道なので、体感としては思ったよりもすぐチルチルさんまで行けた。よく晴れた日で、きれいな街並みと青空が最高だった。旅行気分。 レンガでできた門に洋風のランプ、緑色のテントがとてもかわいらしい外観。 この日は店の外に猫ちゃんが4匹いた。地域猫に餌をあげてチルチルさんがお世話をしているそうで、人慣れしたかわいらしい猫たちがお出迎えしてくれた。 製造期間20日以上!とっても贅沢な手作りのみつまめ 店内に入り、思わず息を飲んだ。ゴージャスかつ落ち着きのある「理想の喫茶店」といってもいいような空間。 木目調の壁、レトロなシャンデリア、高級感のある椅子やソファ。天井が高いのも開放的でよい。装飾の施されたカーテンや壁のライトは、お城のような華やかさがある。 メニューは喫茶店らしさにこだわっているようで、コーヒー・紅茶・ソフトドリンク・ケーキ・トーストとシンプルなラインナップ。 レモンジュースやレモンスカッシュは、レモンをそのまま絞ったものを提供しているそう。写真映えするのでクリームソーダも若い人に人気なようだ。 ただ、チルチルのイチオシ看板メニューは、手作りのみつまめだという。強い日差しを浴びて汗をかいてしまっていたので、アイスコーヒーとみつまめを注文した。 店内の椅子やソファに使われている素敵な布は「金華山織」という高級な代物だそう。しかし布の部分は消耗してしまうため、定期的にすべて張り替えているとのこと。お値段を想像すると恐怖を覚えるが、ふかふかで素敵な椅子に座ると、家で過ごすのとは違う特別感を味わえる。 アイスコーヒーはすっきりしていておいしい。ごくごくと飲んでしまえる。ちなみにシロップはお店でグラニュー糖から作っているものだそう。甘いコーヒーが好きな人にはぜひたっぷり使ってみてもらいたい。 そして、お店イチオシのみつまめ。「手作り」とのことだが、なんと寒天は房州の天草を使った自家製。さらに「小豆」「金時」「白花豆」「紫豆」の4種類の豆は、水で戻すところから炊き上げまですべてをしているそうだ。完全無添加で、素材の味が存分に活かされたとにかく贅沢なみつまめ。 粉寒天や棒寒天で作るのとは違って、天草から作る寒天は磯の香りがほのかにする。また食感もよい。まず寒天そのものがおいしいのだ。 また、お豆は何度も何度も炊いてあり、とても柔らかい。甘さもほどよく、豆だけでもお茶碗一杯食べたくなるようなおいしさ。花豆はそれぞれ最後の仕上げの味つけが違うそうで、紫花豆は黒砂糖、白花豆は塩味。すべて食べきったあとに白花豆を食べると異なる味わいが楽しめるので、おすすめだそう。 このみつまめすべてを作るのには20日以上かかるとのことだ。完全無添加でこれほど時間と手間がかかっているみつまめは、ほかではないだろう。一度は食べていただきたい。 1972年に創業。店名は童話『青い鳥』から お店について、店主のお母様にお話を伺った。 「チルチル」は1972年11月に成田でオープン。当初は違う場所で、ボウリング場などが入っているビルの中で営業していた。 夜遅くもお客さんが来ることから夜中の0時までお店を開けていたため、毎日忙しく、寝る暇もなかったらしい。当時は20歳で、若いうちから相当がんばっていらしたそう。 2年後の1974年12月25日から現在の成田山の目の前の場所で営業がスタート。もとは酒屋さんが使っていた建物だそうで、1階はトラックが停まり、シャッターが閉まるような造りだったらしい。そこに内装を施して喫茶店にしたため、天井が高いようだ。 店名の「チルチル」は童話の『青い鳥』から。繰り返しの言葉は覚えやすいため、店名に選んだらしい。かわいらしいしキャッチーだし、とてもいい名前だと思う。 「チルチル」の文字はデザイナーさんに頼んだそうだが、お店の顔ともいえる男女のイラストは童話をモチーフにお母様が描いたもの。画用紙に描いてみた絵をそのまま50年間使い続けているとのことだ。今もメニューやマッチに使われている。 記憶にも残る素晴らしいデザインではないだろうか。おいしいみつまめも、トレードマークの看板イラストも作れる素敵な方だ。 「お不動さまに罰当たりなことはできない」 成田山のすぐそばで喫茶店を営業するからには、お不動さまに罰当たりなことはできない、というのがチルチルのポリシーらしい。 お参りをしに来た人がゆったりとくつろげて、「来てよかったな」と思ってもらえるようにやってきたそう。お参りをしてからチルチルに立ち寄る、というルーティンになっているお客さんも多いらしい。 店内は何度か改装をしているが、全体の造りや家具は50年間ほとんど変わりがないとのこと。椅子やテーブルはお店に合わせて職人さんに作ってもらったもので、細やかなこだわりを感じられる。 お店の奥のカウンターとキッチンの棚もとても素敵だ。これも職人さんがお店に合わせて作ったもの。喫茶店の特注の家具は、たまらない魅力がある。 随所にこだわりが光る「チルチル」は、50年間大切に守られてきた成田の名所のひとつであろう。 素通りするわけにはいかないので、成田山のお参りももちろんしてきた。広い境内は静かで、パワーをもらえるような力強さもあった。 空港に行く用事があっても「成田」まで行こうと思うことがなかったため、今回はとてもいい機会であった。成田山に行き、帰りに「チルチル」に寄るコースで小旅行をしてみてはいかがだろうか。 次回もまたどこかの喫茶店で。ごちそうさまでした。 チルチル 9時30分〜16時30分 不定休 千葉県成田市本町333 JR成田駅から徒歩12分、京成成田駅から徒歩13分 文・写真=奥森皐月 編集=高橋千里
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40年前から“映え”ていたクリームソーダにときめく。夏の阿佐ヶ谷は「喫茶 gion」で|「奥森皐月の喫茶礼賛」第8杯
「奥森皐月の喫茶礼賛」 喫茶店巡りが趣味の奥森皐月。今気になるお店を訪れ、その魅力と味わいをレポート 暑さが一段と厳しくなってきたので、大好きな散歩も日中はほどほどにしている。 昼間に家を出ると、アスファルトの照り返しのせいかフライパンで焼かれているようだ。寒さより暑さのほうが苦手な私は、夏の大半は溶けながらだらりと過ごしてしまう。 しかしながら、夏の喫茶店は大好き。汗をかきながらやっとお店に着いて、冷房の効いた席に座るときの幸福感は何にも変えられない。冷たいドリンクを飲んで少しずつ汗が引いていくあの感覚は、夏で一番好きな瞬間だ。 阿佐ヶ谷のメルヘンチックな喫茶店 今回訪れたのはJR阿佐ケ谷駅から徒歩1分、お店が建ち並ぶ駅前でひときわ目立つ緑に囲まれたレトロな外装の喫茶店。阿佐ヶ谷の街で40年近く愛されている「喫茶 gion(ぎおん)」さん。 実はこのお店は、私のお気に入りトップ5に入る大好きな喫茶店。中学生のころに初めて行ってから今日まで定期的に訪れている。取材させていただけてとてもうれしい。 店内はかわいいランプやお花や絵で装飾されていて、青と緑の光が特徴的。いわゆる「喫茶店」でここまでメルヘンチックな雰囲気のお店はかなり珍しいと思う。 どこの席も素敵だが、やはり一番特徴的なのはブランコの席。こちらに座らせていただき、人気メニューのナポリタンとソーダ水のフロートトッピングを注文した。 ブランコ席は窓に面していて、この部分だけ壁がピンク色。店内中央の青色を基調とした空気感とはまた違う、かわいらしさと落ち着きのある空間だ。 店先の木が窓から見える。今の季節は緑がとてもきれいだ。 焦げ目がおいしい!一風変わったナポリタン ここのナポリタンは、一般的な喫茶店のナポリタンとは異なる。大きなお皿にナポリタン、キャベツサラダ、そしてたまごサラダが乗っている。店主さんいわく、このたまごサラダはサンドイッチに挟むためのものだそう。それを一緒に提供しているのだ。 まずはナポリタンをいただく。ハムが1枚そのまま乗っている見た目がいい。このナポリタンは色が濃いのだが、これは少し焦げるくらいまでしっかりと炒めているから。麺にソースがしっかりとついていて、香ばしさがたまらなくおいしい。 次にキャベツと一緒に食べてみると、トマトのソースが絡んで、シャキシャキとした食感が加わり、これもまたいい。 最後にたまごサラダと食べると、まろやかさとナポリタンの風味が最高に合う。黒胡椒も効いていて、無限に食べられる味だ。ボリュームたっぷりだがあっという間に完食した。 トーストもグラタンもお餅も少し焦げ目があるくらいが一番おいしいので、スパゲッティもよく炒めてみたところおいしくできたから今のスタイルになったそうだ。 ただ、通常のナポリタンなら温める程度でいいところを、しっかり焼くとなると手間と時間がかかる。炒めてくれる店員さんに感謝だ。ごく稀に、焦げていると苦情を入れる人がいるそう。そこがおいしいのになあ。 トロピカルグラスで飲む、おもちゃみたいなクリームソーダ これまた名物のクリームソーダ。 正確にいうと、gionで注文する場合は「ソーダ水」を緑と青の2種類から選び、フロートトッピングにする。すると、丸く大きなグラスにたっぷりのクリームソーダを飲むことができる。このグラスは「トロピカルグラス」というそうだ。 gionさんのまねをしてこのグラスを使い始めたお店はあるが、このかわいいフォルムはオープン当初から変わらないとのこと。「インスタ映え」という言葉が生まれる遙か前からこの「映え」な見た目のクリームソーダがあったのは、なんだか趣深い。 深く透き通る青と炭酸のしゅわしゅわ、贅沢にふたつも乗った丸いバニラアイス。どこを切り取ってもときめくかわいさだ。 見た目だけでなく、味もおいしい。シロップの風味と炭酸に、バニラ感強めのアイスが合う。「映え」ではなくなってくる、アイスが溶けたときのクリームソーダも好きだ。白と青が混じった色は、ファンシーでおもちゃみたい。 内装から制服までこだわった“かわいい”世界観 お店について、店主の関口さんにお話を伺った。 学生時代に本が好きだった関口さんは、本をゆっくりと読めるような落ち着いた場所を作りたかったそうで、20代はとにかく必死で働いてお店を開く資金を貯めていたとのこと。 1日に16時間ほど働き、寝るためだけの狭い部屋で暮らし、食べ物以外には何もお金を使わず生活していたとのことだ。 そしてお金が貯まったころから1年かけて東京都内の喫茶店を300店舗ほど回り、どんなお店にしようかと参考にしながら計画を練ったそう。 お店を開くにあたって、設計から何からすべてを関口さんが考えたそうで、1cm単位で理想の喫茶店になるように作って、できたのがこの喫茶 gion。 大理石の床、板張りの床、絨毯の床、どれも捨てがたいと思い、最終的には場所ごとに変えて3種類の床になったらしい。贅沢な全部乗せだ。ブランコはかつて吉祥寺にあったジャズ喫茶から得たエッセンス。 オープン時には資金面でそろえきれなかった雑貨やインテリアも少しずつ集めて、今のお店の独特でうっとりするような空間になっていったようだ。 白いブラウスに黒のリボン、黒のロングスカートというgionの制服も関口さんプロデュース。手書きのメニューもキュートで魅力的だ。 ご自身の好みがはっきりとあり、それを実現できているからこそ、調和した世界観になっているのだとわかった。お店のマークも、関口さんの思い描く素敵な女性のイラストだという。ナプキンまでかわいい。 「帰りにgionに寄れる」という楽しみ 喫茶gionのもうひとつの魅力は、午前9時から24時(金・土は25時)まで営業しているところ。モーニングが楽しめるのはもちろん、夜も遅くまで開いている。阿佐ヶ谷には喫茶店が多くあるが、たいていは夕方〜19時くらいには閉店してしまう。 私は阿佐ヶ谷でお笑いや音楽のライブに行ったり、演劇を観に行ったりする機会が多い。終わるのは21時〜22時が多く、ちょうどお腹が空いている。ほかの街なら適当なチェーン店に入るのだが、阿佐ヶ谷に限っては「帰りにgionに寄れる」という楽しみがある。 ナポリタン以外にもピザやワッフルなど、小腹を満たせるメニューがあってありがたい。夜のgionは店先のネオンが光り、店内の青い灯りもより幻想的になる。遅くまで営業するのはとても大変だと思うが、これからも阿佐ヶ谷に行ったときは必ず寄りたい。 夏の阿佐ヶ谷の思い出に、gion 関口さんの理想を詰め込んだメルヘンチックな喫茶店は、若い人から地元民まで幅広く愛される名店となった。 阿佐ヶ谷の街では8月には七夕まつりも開催される。駅前のアーケードにさまざまな七夕飾りが出される、とても楽しいお祭りだ。夏の阿佐ヶ谷を楽しみながら、喫茶gionでひと休みしてみてはいかがだろうか。 次回もまたどこかの喫茶店で。ごちそうさまでした。 喫茶 gion 月火水木日:9時〜24時、金土:9時〜25時 東京都杉並区阿佐谷北1-3-3 川染ビル1F 阿佐ケ谷駅から徒歩1分、南阿佐ケ谷駅から徒歩8分 文・写真=奥森皐月 編集=高橋千里
奥森皐月の公私混同<収録後記>
「logirl」で毎週配信中の『奥森皐月の公私混同』。そのスピンオフのテキスト版として、MCの奥森皐月が自ら執筆する連載コラム
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涙の最終回!? 2年半の思い出を振り返る|『奥森皐月の公私混同<収録後記>』第30回
転んでも泣きません、大人です。奥森皐月です。 この記事では私がMCを務める番組『奥森皐月の公私混同』の収録後記として、番組収録のウラ話や収録を通して感じたことを毎月書いています。今回の記事で最終回。 『奥森皐月の公私混同〜ソレ、私に教えてください!〜』の9月に配信された第41回から最終回までの振り返りです。 月額990円ですが、logirlに加入すれば最新回までのエピソードがすべて視聴できます。過去回でおもしろいものは数えきれぬほどあるので、興味がある方はぜひ観ていただきたいです。 「見せたい景色がある」展望タワーの存在意義 (写真:奥森皐月の公私混同 第41回「タワー、私に教えてください!」) 第41回のテーマは「タワー、教えてください!」。ゲストに展望タワー・展望台マニアのかねだひろさんにお越しいただきました。 タワーと聞いてやはり思い浮かべるのは、東京タワーやスカイツリー。建築のすごさや造形美を楽しんでいるのだろうかとなんとなく考えていました。ところが、お話を聞いてみるとタワーという概念自体が覆されました。 かねださんご自身のタワーとの出会いのお話が本当におもしろかったです。20代で国内を旅行するようになり、新潟県で偶然バス停として見つけた「日本海タワー」に興味を持って行ってみたとのこと。 実際の画像を私も見ましたが、思っているタワーとはまったく違う建物。細長くて高い、あのタワーではありません。ただ、ここで見た景色をきっかけにまた別のタワーに行き、タワーの魅力にハマっていったそうです。 その土地を見渡したときに初めてその土地をわかったような気がした、というお話がとても素敵だと感じました。 たとえば京都旅行に行ったとして、金閣寺や清水寺など名所を回ることはあります。ただ、それはあくまでも京都の中の観光地に行っただけであって「京都府」を楽しんだとはいえないと、前から少し思っていました。 そこでタワーのよさが刺さった。たしかに、その地域や都市を広く見渡すことができれば気づきがたくさんあると思います。 もちろん造形的な楽しみ方もされているようでしたが、展望タワーからの景色というものはほかでは味わえない魅力があります。 かねださんが「そこに展望タワーがあるということは、見せたい景色がある」というようなことをお話しされていたのにも感銘を受けました。 いわゆる“高さのあるタワー”ではないところの展望台などは少し盛り上がりに欠けるのではないか、なんて思ってしまっていたけれど、その施設がある時点でその景色を見せたいという意思がありますね。 有効期限がたった1年の、全国の19タワーを巡るスタンプラリーを毎年されているという話も興味深かったです。最初の印象としては、一度訪れたところに何度も行くことの楽しみがよくわからなかったです。 でも、天気や季節、建物が壊されたり新しく建築されたりと常に変化していて「一度として同じ景色はない」というお話を聞いて納得しました。タワーはずっと同じ場所にあるのだから、まさに定点観測ですよね。 今後旅行に行くときはその近くのタワーに行ってみようと思いましたし、足を運んだことのある東京タワーやスカイツリーにもまた行こうと思いました。 収録後、速攻でかねださんの著書『日本展望タワー大全』を購入しました。最近も、小規模ではありますが2度、展望台に行きました。展望タワーの世界に着々と引き込まれています。 究極のパフェは、もはや芸術作品!? (写真:奥森皐月の公私混同 第42回「パフェ、私に教えてください!」) 第42回は、ゲストにパフェ愛好家の東雲郁さんにお越しいただき「パフェ、教えてください!」のテーマでお送りしました。 ここ数年パフェがブームになっている印象でしたが、流行りのパフェについてはあまり知識がありませんでした。 このような記事を書くときはたいていファミレスに行くので、そこでパフェを食べることがしばしばあります。あとは、純喫茶でどうしても気になったときだけは頼みます。ただ、重たいので本当にたまにしか食べないものという存在です。 東雲さんはもともとアイス好きとのことで、なんとアイスのメーカーに勤めていた経験もあるとのこと。〇〇好きの範疇を超えています。 そのころにパフェ用のアイスの開発などに携わり、そこからパフェのほうに関心が向いたそうです。お仕事がキッカケという意外な入口でした。それと同時に、パフェ専用のアイスというものがあるのも、意識したことがなかったので少し驚かされました。 最近のこだわり抜かれたパフェは“構成表”なるものがついてくるそう。パフェの写真やイラストに線が引かれていて、一つひとつのパーツがなんなのか説明が書かれているのです。 昔ながらの、チョコソース、バニラソフトクリーム、コーンフレークのように、見てわかるもので作られていない。野菜のソルベやスパイスのソースなど、本当に複雑なパーツが何十種も組み合わさってひとつのパフェになっている。 実際の構成表を見せていただきましたが、もはや読んでもなんなのかわからなかったです。「桃のアイス」とかならわかるのですが、「〇〇の〇〇」で上の句も下の句もわからないやつがありました。 ビスキュイとかクランブルとか、それは食べられるやつですか?と思ってしまいます。難しい世界だ。難しいのにおいしいのでしょうね。 ランキングのコーナーでは「パフェの概念が変わる東京パフェベスト3」をご紹介いただきました。どのお店も本当においしそうでしたが、写真で見ても圧倒される美しさ。もはや芸術作品の域で、ほかのスイーツにはない見た目の豪華さも魅力だよなと感じさせられました。 予約が取れないどころか普段は営業していないお店まであるそうで、究極のパフェのすごさを感じるランキングでした。何かを成し遂げたらごほうびとして行きたいです。 マニアだからとはいえ、東雲さんは1日に何軒もハシゴすることもあるとのこと。破産しない程度に、私も贅沢なパフェを食べられたらと思います。 1年間を振り返ったベスト3を作成! (写真:奥森皐月の公私混同 第43回「1年間を振り返り 〇〇ベスト3」) 第43回のテーマは「1年間を振り返り 〇〇ベスト3」ということで、久しぶりのラジオ回。昨年の10月からゲストをお招きして、あるテーマについて教えてもらうスタイルになったので、まるまる1年分あれこれ話しながら振り返りました。 リスナーからも「ソレ、私に教えてください!」というテーマで1年の感想や思い出などを送ってもらいましたが、印象的な回がわりと被っていて、みんな同じような気持ちだったのだなとうれしい気持ちになりました。 スタートして4回のうち2回が可児正さんと高木払いさんだったという“都トムコンプリート早すぎ事件”にもきちんと指摘のメールが来ました。 また、過去回の中で複雑だったお話からクイズが出るという、習熟度テストのようなメールもいただいて楽しかったです。みなさんは答えがわかるでしょうか。 この回では、私もこの1年での出来事をランキング形式で紹介しました。いつもはゲストさんにベスト3を作ってもらってきましたが、今度はそれを振り返りベスト3にするという、ベスト3のウロボロス。マトリョーシカ。果たしてこのたとえは正しいのでしょうか。 印象がガラリと変わったり、まったく興味のなかったところから興味が湧いたりしたものを紹介する「1時間で大きく心が動いた回ベスト3」、情報番組や教育番組として成立してしまうとすら思った「シンプルに!情報として役立つ回ベスト3」、本当に独特だと思った方をまとめた「アクの強かったゲストベスト3」、意表を突かれた「ソコ!?と思ったランキングタイトルベスト3」の4テーマを用意しました。 各ランキングを見た上で、ぜひ過去回を観直していただきたいです。我ながらいいランキングを作れたと思っています。 ハプニングと感動に包まれた『公私混同』最終回 (写真:奥森皐月の公私混同最終回!奥森皐月一問一答!) 9月最後は生配信で最終回をお届けしました。 2年半続いた『奥森皐月の公私混同』ですが、通常回の生配信は2回目。視聴者のみなさんと同じ時間を共有することができて本当に楽しかったです。 最終回だというのに、冒頭から「マイクの電源が入っていない」「配信のURLを告知できていなくて誰も観られていない」という恐ろしいハプニングが続いてすごかったです。こういうのを「持っている」というのでしょうか。 リアルタイムでX(旧Twitter)のリアクションを確認し、届いたメールをチェックしながら読み、進行をし、フリートークをして、ムチャ振りにも応える。 ハイパーマルチタスクパーソナリティとしての本領を発揮いたしました。かなりすごいことをしている。こういうことを自分で言っていきます。 最近メールが送られてきていなかった方から久々に届いたのもうれしかった。きちんと覚えてくれていてありがとうという気持ちでした。 事前にいただいたメールも、どれもうれしくて幸せを噛みしめました。みなさんそれぞれにこの番組の思い出や記憶があることを誇らしく思います。 配信内でも話しましたが、この番組をきっかけにお友達がたくさん増えました。番組開始時点では友達がいなすぎてひとりで行動している話をよくしていたのですが、今では友達が多い部類に入ってもいいくらいには人に恵まれている。 『公私混同』でお会いしたのをきっかけに仲よくなった方も、ひとりふたりではなく何人もいて、それだけでもこの番組があってよかったと思えるくらいです。 番組後半でのビデオレターもうれしかったです。豪華なみなさんにお越しいただいていたことを再確認できました。帰ってからもう一度ゆっくり見直しました。ありがたい限り。 この2年半は本当に楽しい日々でした。会いたい人にたくさん会えて、挑戦したいことにはすべて挑戦して、普通じゃあり得ない体験を何度もして、幅広いジャンルを学んで。 単独ライブも大喜利も地上波の冠ラジオもテレ朝のイベントも『公私混同』をきっかけにできました。それ以外にも挙げたらキリがないくらいには特別な経験ができました。 スタートしたときは16歳だったのがなんだか笑える。お世辞でも比喩でもなくきちんと成長したと思えています。テレビ朝日さん、logirlさん、スタッフのみなさんに本当に感謝です。 そしてなにより、リスナーの皆様には毎週助けていただきました。ラジオ形式での配信のころはもちろんのこと、ゲスト形式になってからも毎週大喜利コーナーでたくさん投稿をいただき、みなさんとのつながりを感じられていました。 メールを読んで涙が出るくらい笑ったことも何度もあります。毎回新鮮にうれしかったし、みなさんのことが大好きになりました。 #奥森皐月の公私混同 最終回でした。2021年3月から約2年半の間、応援してくださった皆様本当にありがとうございます。メールや投稿もたくさん嬉しかったです。また必ずどこかの場所で会いましょうね、大喜利の準備だけ頼みます。冠ラジオは絶対にやりますし、馬鹿デカくなるので見ていてください。 pic.twitter.com/8Z5F60tuMK — 奥森皐月 (@okumoris) September 28, 2023 『奥森皐月の公私混同』が終了してしまうことは本当に残念です。もっと続けたかったですし、もっともっと楽しいことができたような気もしています。でも、そんなことを言っても仕方がないので、素直にありがとうございましたと言います。 奥森皐月自体は今後も加速し続けながら進んで行く予定です。いや進みます。必ず約束します。毎日「今日売れるぞ」と思って生活しています。 それから、死ぬまで今の好きな仕事をしようと思っています。人生初の冠番組は幕を下ろしましたが、また必ずどこかで楽しい番組をするので、そのときはまた一緒に遊んでください。 私は全員のことを忘れないので覚悟していてください。脅迫めいた終わり方であと味が悪いですね。最終回も泣いたフリをするという絶妙に気味の悪い終わり方だったので、それも私らしいのかなと思います。 この連載もかれこれ2年半がんばりました。1カ月ごとに振り返ることで記憶が定着して、まるで学習内容を復習しているようで楽しかったです。 思い出すことと書くことが大好きなので、この場所がなくなってしまうのもとても寂しい。今後はそのへんの紙の切れ端に、思い出したことを殴り書きしていこうと思います。違う連載ができるのが一番理想ですけれども。 貴重な時間を割いてここまで読んでくださったあなた、ありがとうございます。また会えることをお約束しますね。また。
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W杯で話題のラグビーを学ぼう!破壊力抜群なベスト3|『奥森皐月の公私混同<収録後記>』第29回
季節の和菓子が食べたくなります、大人です。奥森皐月です。 私がMCを務める番組『奥森皐月の公私混同』が毎週木曜日18時にlogirlで公開されています。 このブログでは収録後記として、番組収録のウラ話や収録を通して感じたことを奥森の目線で書いています。 今回は『奥森皐月の公私混同〜ソレ、私に教えてください!〜』の8月に配信された第36回から第40回までの振り返りです。 月額990円ですが、logirlに加入すれば最新回までのエピソードがたくさん視聴できます。『奥森皐月の公私混同』以外のさまざまな番組も、もちろん観られます。 「おすすめの海外旅行先」に意外な国が登場! (写真:奥森皐月の公私混同 第36回「旅行、私に教えてください!」) 第36回のテーマは「旅行、教えてください!」。ゲストに、元JTB芸人・こじま観光さんにお越しいただきました。 仕事で地方へ行くことはたまにありますが、それ以外で旅行に行くことはめったにありません。興味がないわけではないけれど、旅行ってすぐにできないし、習慣というか行き慣れていないとなかなか気軽にできないですよね。 それに加え、私は海外にも行ったことがないので、海外旅行は自分にとってかなり遠い出来事。そのため、どういったお話が聞けるのか楽しみでした。 こじま観光さんはもともとJTBの社員として働かれていたという、「旅行好き」では済まないほど旅行・観光に詳しいお方。パッケージツアーの中身を考えるお仕事などをされていたそうです。 食事、宿泊、観光名所、などすべてがそろって初めて旅行か、と当たり前のことに気づかされました。 旅行が好きになったきっかけのお話が印象的でした。小学生のころ、お父様に「飛行機に乗ったことないよな」と言われて、ふたりでハワイに行ったとのこと。 そこから始まって、海外への興味などが湧いたとのことで、子供のころの経験が今につながっているのは素敵だと感じました。 ベスト3のコーナーでは「奥森さんに今行ってほしい国ベスト3」をご紹介いただきました。海外旅行と聞いて思いつく国はいくつかありましたが、第3位でいきなりアイルランドが出てきて驚きました。 国名としては知っているけれど、どんな国なのかは想像できないような、あまり知らない国が登場するランキングで、各地を巡られているからこそのベスト3だとよく伝わりました。 1位の国もかなり意外な場所でした。「奥森さんに」というタイトルですが、皆さんも参考になると思うので、ぜひチェックしていただきたいです。 11種類もの「釣り方」をレクチャー! (写真:奥森皐月の公私混同 第37回「釣り、私に教えてください!」) 第37回は、ゲストに釣り大好き芸人・ハッピーマックスみしまさんにお越しいただき「釣り、教えてください!」のテーマでお送りしました。 以前「魚、教えてください!」のテーマで一度配信があり、その際に少し釣りについてのパートもありましたが、今回は1時間まるまる釣りについて。 魚回のとき釣りに少し興味が湧いたのですが、やはり始め方や初心者は何からすればいいかがわからないので、そういった点も詳しく聞きたく思い、お招きしました。 大まかに海釣りや川釣りなどに分かれることはさすがにわかるのですが、釣り方には細かくさまざまな種類があることをまず教えていただきました。11種類くらいあるとのことで、知らないものもたくさんありました。釣りって幅広いですね。 みしまさんは特にルアー釣りが好きということで、スタジオに実際にルアーをお持ちいただきました。見たことないくらい大きなものもあるし、カラフルでかわいらしいものもあるし、それぞれのルアーにエピソードがあってよかったです。 また、みしまさんがご自身で○と×のボタンを持ってきてくださって、定期的にクイズを出してくれたのもおもしろかった。全体的な空気感が明るかったです。 「思い出の釣り」のベスト3は、それぞれずっしりとしたエピソードがあり、いいランキングでした。それぞれ写真も見ながら当時の状況を教えてくださったので、釣りを知らない私でも楽しむことができました。 まずは初心者におすすめだという「管理釣り場」から挑戦したいです。 鉄道好きが知る「秘境駅」は唯一無二の景色! (写真:奥森皐月の公私混同 第38回「鉄道、私に教えてください!」) 第38回のテーマは「鉄道、教えてください!」。ゲストに鉄道芸人・レッスン祐輝さんをお招きしました。 鉄道自体に興味がないわけではなく、詳しくはありませんが、好きです。移動手段で電車を使っているのはもちろん、普段乗らない電車に乗って知らない土地に行くのも楽しいと思います。 ただ、鉄道好きが多く規模が大きいことで、楽しみ方が無限にありそう。そのため、あまりのめり込んで鉄道ファンになる機会はありませんでした。 この回のゲストのレッスン祐輝さん、いい意味でめちゃくちゃに「鉄道オタク」でした。あふれ出る情報量と熱量が凄まじかった。 全国各地の鉄道を巡っているとのことで、1日に1本しか走っていない列車や、秘境を走る鉄道にも足を運んでいるそうです。 「秘境駅」というものに魅了されたとのことでしたが、たしかに写真を見ると唯一無二の景色で美しかったです。山奥で、車ですら行けない場所などもあるようで、死ぬまでに一度は行ってみたいなと思いました。 ベスト3では「癖が強すぎる終電」について紹介していただきました。レッスン祐輝さんは鉄道好きの中でも珍しい「終電鉄」らしく、これまでに見た変わった終電のお話が続々と。 終電に乗るせいで家に帰れないこともあるとおっしゃっていて、終電なんて帰るためのものだと思っていたので、なんだかおもしろかったです。 あのインドカレーは「混ぜて食べてもOK」!? (写真:奥森皐月の公私混同 第39回「カレー、私に教えてください!」) 第39回は、ゲストにカレー芸人・桑原和也さんにお越しいただき「カレー、教えてください!」をお送りしました。 私もカレーは大好き。インドカレーのお店によく行きます、ナンが食べたい日がかなりある。 「カレー」とひと言でいえど、さまざまな種類がありますよね。日本風のカレーライスから、ナンで食べるカレー、タイカレーなど。 近年流行っている「スパイスカレー」も名前としては知っていましたが、それがなんなのか聞くことができてよかったです。関西が発祥というのは初めて知りました。 カレー屋さんは東京が栄えているのだと思っていたのですが、関西のほうが名店がたくさんあるとのことで、次に関西に行ったら必ずカレーを食べようと心に決めました。 インドカレーにも種類があるらしく、たまにカレー屋さんで見かける、銀のプレートに小さい銀のボウルで複数種類のカレーが乗っていてお米が真ん中にあるようなスタイルは、南インドの「ミールス」と呼ばれるものだそうです。 今まで、ミールスは食べる順番や配分が難しい印象だったのですが、桑原さんから「混ぜて食べてもいい」というお話を聞き、衝撃を受けました。銀のプレートにひっくり返して、ひとつにしてしまっていいらしいです。 違うカレーの味が混ざることで新たな味わいが生まれ、辛さがマイルドになったり、別のおいしさが感じられるようになったりするとのこと。次にミールスに出会ったら絶対に混ぜます。 ランキングは「オススメのレトルトカレー」という実用的な情報でした。 レトルトカレーで冒険できないのは私だけでしょうか。最近はレトルトでも本当においしくていろいろな種類が発売されているようで、3つとも初めてお目にかかるものでした。 自宅で簡単に食べられるおいしいカレー、皆さんもぜひ参考にしてみてください。 9月のW杯に向けて「ラグビー」を学ぼう! (写真:奥森皐月の公私混同 第40回「ラグビー、私に教えてください!」) 8月最後の配信のテーマは「ラグビー、教えてください!」で、ゲストにラグビー二郎さんにお越しいただきました。 9月にラグビーワールドカップがあるので、それに向けて学ぼうという回。 私はもともとスポーツにまったく興味がなく、現地観戦はおろかテレビでもほとんどのスポーツを観たことがありませんでした。それが、この『公私混同』をきっかけにサッカーW杯を観て、WBCを観て、相撲を観て、と大成長を遂げました。 この調子でラグビーもわかるようになりたい。ラグビー二郎さんはラグビー経験者ということで、プレイヤー視点でのお話もあっておもしろかったです。 ルールが難しい印象ですが、あまり理解しないで観始めても大丈夫とのこと。まずはその迫力を感じるだけでも楽しめるそうです。直感的に楽しむのって大事ですよね。 前回、前々回のラグビーW杯もかなり盛り上がっていたので、要素としての情報は少しだけ知っていました。 その中で「ハカ」は、言葉としてはわかるけれど具体的になんなのかよくわからなかったので、詳しく教えていただけてうれしかったです。実演もしていただいてありがたい。 ここからのランキングが非常によかった。「ハカをやってるときの対戦相手の対応」というマニアックなベスト3でした。 ハカの最中に対戦相手が挑発的な対応をすることもあるらしく、過去に本当にあった名場面的な対応を3つご紹介いただきました。 どれも破壊力抜群のおもしろさで、ランキングタイトルを聞いたときのわくわく感をさらに上回る数々。本編でご確認いただきたい。 今年のワールドカップを観るのはもちろん、ハカのときの対戦相手の対応という細かいところまできちんと見届けたいと強く感じました。 『奥森皐月の公私混同』は毎週木曜18時に最新回が公開 奥森皐月の公私混同ではメールを募集しています。 募集内容はX(Twitter)に定期的に掲載しているので、テーマや大喜利のお題などそちらからご確認ください。 宛先は s-okumori@tv-asahi.co.jp です、たくさんのメールをお待ちしております。 logirl公式サイト内「ラジオ」のページでは毎週アフタートークが公開されています。 最近のことを話したり、あれこれ考えたりしています。無料でお聴きいただけるのでぜひ。 (写真:『奥森皐月の公私混同 アフタートーク』) 『奥森皐月の公私混同』番組公式X(Twitter)アカウントがあります。 最新情報やメール募集についてすべてお知らせしていますので、チェックしていただけるとうれしいです。 また、番組やこの収録後記の感想などは「#奥森皐月の公私混同」をつけて投稿してください。 メール募集! 今週は!1年間の振り返り放送です!!! コーナーリスナー的ベスト3 奥森さんへの質問、感想メール募集します! ▼奥森!コレ知ってんのか!ニュース▼リアクションメール▼感想メール
宛先は s-okumori@tv-asahi.co.jp メールの〆切は9/19(火)10時です! pic.twitter.com/nazDBoFSDk — 奥森皐月の公私混同は傍若無人 (@s_okumori) September 18, 2023 奥森皐月個人のX(Twitter)アカウントもあります。 番組アカウントとともにぜひフォローしてください。たまにおもしろいことも投稿しています。 キングオブコントのインタビュー動画 男性ブランコのサムネイルも漢字二文字だ、もはや漢字二文字待ちみたいになってきている、各芸人さんの漢字二文字考えたいな、そんなこと一緒にしてくれる人いないから1人で考えます、1人で色々な二文字を考えようと思います https://t.co/dfCQQVlhrg pic.twitter.com/LMpwxWhgUF — 奥森皐月 (@okumoris) September 19, 2023 『奥森皐月の公私混同』はlogirlにて毎週木曜18時に最新回が公開。 次回は、なんと収録後記の最終回です。 番組開始当初から毎月欠かさず書いてきましたが、9月末で番組が終了ということで、こちらもおしまい。とても寂しいですが、最後まで読んでいただけるとうれしいです。
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宮下草薙・宮下と再会!ボードゲームの驚くべき進化|『奥森皐月の公私混同<収録後記>』第28回
ドライブがしたいなと思ったら車を借りてドライブをします、大人です。奥森皐月です。 私がMCを務める番組『奥森皐月の公私混同』が毎週木曜日18時にlogirlで公開されています。 このブログでは収録後記として、番組収録のウラ話や収録を通して感じたことを奥森の目線で書いています。 今回は『奥森皐月の公私混同〜ソレ、私に教えてください!〜』の7月に配信された第32回から第35回までの振り返りです。 月額990円ですが、logirlに加入すれば最新回までのエピソードがたくさん視聴できます。『奥森皐月の公私混同』以外のさまざまな番組ももちろん観られます。 かれこれ2年半もこの番組を続けています。もっとがんばってるねとか言ってほしいです。 宮下草薙・宮下が「ボードゲームの驚くべき進化」をプレゼン (写真:奥森皐月の公私混同 第32回「ボードゲーム、私に教えてください!」) 第32回のテーマは「ボードゲーム、教えてください!」。ゲストに、宮下草薙の宮下さんにお越しいただきました。 昨年のテレビ朝日の夏イベント『サマステ』ではこの番組のステージがあり、ゲストに宮下草薙さんをお招きしました。それ以来、約1年ぶりにお会いできてうれしかったです。 宮下さんといえばおもちゃ好きとして知られていますが、今回はその中でも特に宮下さんが詳しい「ボードゲーム」に特化してお話を伺いました。 巷では「ボードゲームカフェ」なるものが流行っているようですが、私はほとんどプレイしたことがありません。『人生ゲーム』すら、ちゃんとやったことがあるか記憶が曖昧。ひとりっ子だったからかしら。 そんななか、ボードゲームは驚くべき進化を遂げていることを、宮下さんが魅力たっぷりに教えてくださいました。 大人数でプレイするものが多いと勝手に思っていましたが、ひとりでできるゲームもたくさんあるそう。ひとりでボードゲームをするのは果たして楽しいのだろうかと思ってしまいましたが、実際にあるゲームの話を聞くとおもしろそうでした。購入してみたくなってしまいます。 ボードゲームのよさのひとつが、パーツや付属品などがかわいいということ。デジタルのゲームでは感じられない、手元にあるというよさは大きな魅力だと思います。見た目のかわいさから選んで始めるのも楽しそうです。 ランキングでは「もはや自分のマルチバース」ベスト3をご紹介いただきました。宮下さんが実際にプレイした中でも没入感が強くのめり込んだゲームたちは、どれも最高におもしろそうでした。 「重量級」と呼ばれる、プレイ時間が長くルールが複雑で難しいものも、現物をお持ちいただきましたが、あまりにもパーツが多すぎて驚きました。 それらをすべて理解しながら進めるのは大変だと感じますが、ゲームマスターがいればどうにかできるようです。かっこいい響き。ゲームマスター。 まずはボードゲームカフェで誰かに教わりながら始めたいと思います。本当に興味深いです、ボードゲームの世界は広い。 お城を歩くときは、自分が死ぬ回数を数える (写真:奥森皐月の公私混同 第33回「城、私に教えてください!」) 第33回は、ゲストに城マニア・観光ライターのいなもとかおりさんお越しいただき、「城、教えてください!」のテーマでお送りしました。 建物は好きなのですが歴史にあまり詳しくないため、お城についてはよくわかりません。お城好きの人は多い印象だったのですが、知識が必要そうで自分には難しいのではないかというイメージを抱いていました。 ただ、いなもとさんのお城のお話は、本当におもしろくてわかりやすかった。随所に愛があふれているけれど、初心者の私でも理解できるように丁寧に教えてくださる。熱量と冷静さのバランスが絶妙で、あっという間の1時間でした。 「城」と聞くと、名古屋城や姫路城などのいわゆる「天守」の部分を想像してしまいます。ただ、城という言葉自体の意味では、天守のまわりの壁や堀などもすべて含まれるとのこと。 土が盛られているだけでも城とされる場所もあって、そういった城跡などもすべて含めると、日本に城は4万から5万箇所あるそうです。想像していた数の100倍くらいで本当に驚きました。 いなもとさん流のお城の楽しみ方「攻め込むつもりで歩いたときに何回自分がやられてしまうか数える」というお話がとても印象的です。いかに敵に対抗できているお城かというのを実感するために、天守まで歩きながら死んでしまう回数を数えるそう。おもしろいです。 歴史の知識がなくてもこれならすぐに試せる。次にお城に行くことがあれば、私も絶対に攻める気持ち、そして敵に攻撃されるイメージをしながら歩こうと思います。 コーナーでは「昔の人が残した愛おしいらくがきベスト3」を紹介していただきました。 お城の中でも石垣が好きだといういなもとさん。石垣自体に印がつけられているというのは今回初めて知りました。 それ以外にも、お城には昔の人が残したらくがきがいくつもあって、どれもかわいらしくおもしろかったです。それぞれのお城で、そのらくがきが実際に展示されているとのことで、実物も見てみたいと思いました。 プラスチックを分解できる!? きのこの無限の可能性 (写真:奥森皐月の公私混同 第34回「きのこ、私に教えてください!」) 第34回のテーマは「きのこ、教えてください!」。ゲストに、きのこ大好き芸人・坂井きのこさんをお招きしました。 きのこって身近なのに意外と知らない。安いからスーパーでよく買うし、そこそこ食べているはずなのに、実態についてはまったく理解できていませんでした。「きのこってなんだろう」と考える機会がなかった。 坂井さんは筋金入りのきのこ好きで、幼少期から今までずっときのこに魅了されていることがお話を聞いてわかりました。 山や森などできのこを見つけると、少しうれしい気持ちになりますよね。きのこ狩りをずっとしていると珍しいきのこにもたくさん出会えるようで、単純に宝探しみたいで楽しそうだなぁと思いました。 菌類で、毒があるものもあって、鑑賞してもおもしろくて、食べることもできる。ほかに似たものがない不思議な存在だなぁと改めて思いました。 野菜だったら「葉の部分を食べている」とか「実を食べている」とかわかりやすいですけれど、きのこってじゃあなんだといわれると説明ができない。 基本の基本からきのこについてお聞きできてよかったです。菌類には分解する力があって、きのこがいるから生態系は保たれている。命が尽きたら森に葬られてきのこに分解されたい……とおっしゃっていたときはさすがに変な声が出てしまいました。これも愛のかたちですね。 ランキングコーナーの後半では、きのこのすごさが次々とわかってテンションが上がりました。 特に「プラスチックを分解できるきのこがある」という話は衝撃的。研究がまだまだ進められていないだけで、きのこには無限の可能性が秘められているのだとわかってワクワクしちゃった。 この収録を境に、きのこを少し気にしながら生きるようになった。皆さんもこの配信を観ればきのこに対する心持ちが少し変わると思います。教育番組らしさもあるいい回でした。 「神オブ神」な花火を見てみたい! (写真:奥森皐月の公私混同 第35回「花火、私に教えてください!」) 7月最後の配信のテーマは「花火、教えてください!」で、ゲストに花火マニアの安斎幸裕さんにお越しいただきました。 コロナ禍も落ち着き、今年は本格的にあちこちで花火大会が開催されていますね。8月前半の土日は全国的にも花火大会がたくさん開催される時期とのことで、その少し前の最高のタイミングでお越しいただきました。 花火大会にはそれぞれ開催される背景があり、それらを知ってから花火を見るとより楽しめるというお話が素敵でした。かの有名な長岡の花火大会も、古くからの歴史と想いがあるとのことで、見え方が変わるなぁと感じます。 それから、花火玉ひとつ作るのに相当な時間と労力がかけられていることを知って驚きました。中には数カ月かかって作られるものもあるとのことで、それが一瞬で何十発も打ち上げられるのは本当に儚いと思いました。 このお話を聞いて今年花火大会に行きましたが、一発一発にその手間を感じて、これまでと比べ物にならないくらいに感動しました。派手でない小さめの花火も愛おしく思えた。 安斎さんの花火職人さんに対するリスペクトの気持ちがひしひしと伝わってきて、とてもよかったです。 最初は、本当に尊敬しているのだなぁという印象だったのですが、だんだんその思いがあふれすぎて、推しを語る女子高校生のような口調になられていたのがおもしろかったです。見た目のイメージとのギャップもあって素敵でした。 最終的に、あまりにすごい花火のことを「神オブ神」と言ったり、花火を「神が作った子」と言ったりしていて、笑ってしまいました。 この週の「大喜利公私混同カップ2」のお題が「進化しすぎた最新花火の特徴を教えてください」だったのですが、大喜利の回答に近い花火がいくつも存在していることを教えてくださっておもしろかったです。 大喜利が大喜利にならないくらいに、花火が進化していることがわかりました。このコーナーの大喜利と現実が交錯する瞬間がすごく好き。 真夏以外にも花火大会はあり、さまざまな花火アーティストによってまったく違う花火が作られていることをこの収録で知りました。きちんと事前にいい席を取って、全力で花火を楽しんでみたいです。 成田の花火大会がどうやらかなりすごいので行ってみようと思います。「神オブ神」って私も言いたい。 『奥森皐月の公私混同』は毎週木曜18時に最新回が公開 『奥森皐月の公私混同』ではメールを募集しています。 募集内容はTwitterに定期的に掲載しているので、テーマや大喜利のお題などそちらからご確認ください。 宛先は s-okumori@tv-asahi.co.jp です、たくさんのメールをお待ちしております。 logirl公式サイト内「ラジオ」のページでは、毎週アフタートークが公開されています。 ゆったり作家のみなさんとおしゃべりしています。無料でお聴きいただけるのでぜひ。 (写真:『奥森皐月の公私混同 アフタートーク』) 『奥森皐月の公私混同』番組公式Twitterアカウントがあります。 最新情報やメール募集についてすべてお知らせしていますので、チェックしていただけるとうれしいです。 また、番組やこの収録後記の感想などは「#奥森皐月の公私混同」をつけて投稿してください。 メール募集! テーマは【カレー
】【ラグビー
】です! ▼奥森!コレ知ってんのか!ニュース▼ゲストへの質問▼大喜利公私混同カップ2▼リアクションメール▼感想メール
宛先は s-okumori@tv-asahi.co.jp メールの〆切は8/22(火)10時です! pic.twitter.com/xJrDL41Wc9 — 奥森皐月の公私混同は傍若無人 (@s_okumori) August 20, 2023 奥森皐月個人のTwitterアカウントもあります。 番組アカウントとともにぜひフォローしてください。たまにおもしろいことも投稿しています。 大喜る人たち生配信を真剣に見ている奥森皐月。お前は中途半端だからサッカー選手にはなれないと残酷な言葉で説く父親、聞く耳を持たない小2くらいの息子、黙っている妹と母親の4人家族。啜り泣くギャル。この3組がお客さんのカレー屋さんがさっきまであった。出てしまったので今はもうない。 — 奥森皐月 (@okumoris) August 20, 2023 『奥森皐月の公私混同』はlogirlにて毎週木曜18時に最新回が公開。 次回は「未体験のジャンルからやってくる強者たち」を中心にお送りします。お楽しみに。
AKB48 Team 8 私服グラビア
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生きづらさを乗り越える「大人のためのマンガ入門」
仕事、恋愛、家族、結婚……大人のありきたりでありがちな悩みや生きづらさと向き合い、乗り越えていくためのヒントを探るマンガレビュー連載(文=山本大樹)
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「才能」という呪縛を解く ミューズの真髄
【連載】生きづらさを乗り越える「大人のためのマンガ入門」 仕事、恋愛、家族、結婚……大人のありきたりでありがちな悩みや生きづらさと向き合い、乗り越えていくためのヒントを探るマンガレビュー連載。月1回程度更新。 『ブルー・ピリオド』をはじめ美大受験モノマンガがブームを呼んでいる昨今。特に芸術というモチーフは、その核となる「才能とは何か?」を掘り下げることで、主人公の自意識をめぐるドラマになりやすい。 文野紋『ミューズの真髄』も、一度は美大受験に失敗した会社員の主人公・瀬野美優が、一念発起して再び美大受験を志し、自分を肯定するための道筋を探るというストーリーだ。しかし、よくある美大受験マンガかと思ってページをめくっていくと、「才能」の扱い方に本作の特筆すべき点を見出すことができる。 「美大に落ちたあの日。“特別な私”は、死んでしまったから。仕方がないのです。“凡人”に成り下がった私は、母の決めた職場で、母の決めた服を着て、母が自慢できるような人と母が言う“幸せ”を探すんです。でも、だって、仕方ない、を繰り返しながら。」 (『ミューズの真髄』あらすじより) 主人公の美優は「どこにでもいる平凡な私」から、自分で自分を肯定するために、少しずつ自分の意志を周囲に示すようになる。芸術の道に進むことに反対する母親のもとを飛び出し、自尊心を傷つける相手にはNOを突きつけ、自分の進むべき道を自ら選び取っていく。しかし、心の奥深くに根づいた自己否定の考えはそう簡単に変えることはできない。自尊心を取り戻す過程で立ち塞がるのが「才能」の壁だ。 24歳という年齢で美術予備校に飛び込んだ美優は、最初の作品講評で57人中47位と悲惨な成績に終わる。自分よりも年下の生徒たちが才能を見出されていくなかで、自分の才能を見つけることができない美優。その後挫折を繰り返しながら、予備校の講師である月岡との出会いによって少しずつ自分を肯定し、前向きに進んでいく姿には胸が熱くなる。 「私は地獄の住人だ あの人みたいにあの子みたいに漫画みたいに 才能もないし美術で生きる資格はないのかもしれない バカで中途半端で恋愛脳で人の影響ばかり受けてごめんなさい でももがいてみてもいいですか? 執着してみていいですか?」 冒頭で述べたとおり、本作の「才能」への向き合い方を端的に示しているのがこのセリフである。才能がなくても好きなことに執着する──功利主義の社会では蔑まれがちなこのスタンスこそが、他者の否定的な視線から自分を守り、自分の人生を肯定していくためには重要だ。才能に執着するのではなく、「絵」という自分の愛する対象に執着する。その執着が自分を愛することにつながるのだ。それは「好きなことを続けられるのも才能」のような安い言葉では語り切れるものではない。 才能と自意識の話に収斂していく美大受験マンガとは別の視座を、美優の生き方は示してくれる。そして、美優にとっての「美術」と同じように、執着できる対象を見つけることは、「才能」の物語よりも私たちにとっては遥かに重要なことのはずである。 文=山本大樹 編集=田島太陽 山本大樹 編集/ライター。1991年、埼玉県生まれ。明治大学大学院にて人文学修士(映像批評)。QuickJapanで外部編集・ライターのほか、QJWeb、BRUTUS、芸人雑誌などで執筆。(Twitter/はてなブログ)
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勝ち負けから離れて生きるためには? 真造圭伍『ひらやすみ』
【連載】生きづらさを乗り越える「大人のためのマンガ入門」 仕事、恋愛、家族、結婚……大人のありきたりでありがちな悩みや生きづらさと向き合い、乗り越えていくためのヒントを探るマンガレビュー連載。月1回程度更新。 30代を迎えて、漠然とした焦りを感じることが増えた。20代のころに感じていた将来への不安からくる焦りとはまた種類の違う、現実が見えてきたからこその焦りだ。 周囲の同世代が着々と実績を残していくなか、自分だけが取り残されているような感覚。いつまで経っても増えない収入、一年後の見通しすらも立たない生活……焦りの原因を数え始めたらキリがない。 真造圭伍のマンガ『ひらやすみ』は、30歳のフリーター・ヒロト君と従姉妹のなつみちゃんの平屋での同居生活を描いたモラトリアム・コメディだ。 定職に就かずに30歳を迎えてもけっして焦らず、のんびりと日々の生活を愛でながら過ごすヒロト君の生き方は、素直にうらやましく思う。身の回りの風景の些細な変化や季節の移り変わりを感じながら、家族や友達を思いやり、目の前のイベントに全力を注ぐ。どうしても「こんなふうに生きられたら」と考えてしまうくらい、魅力的な人物だ。 そんなヒロト君も、かつては芸能事務所に所属し、俳優として夢を追いかけていた時期もあった。高校時代には親友のヒデキと映画を撮った経験もあり、純粋に芝居を楽しんでいたヒロト君。芸能事務所のマネージャーから「なんで俳優になろうと思ったの?」と聞かれ、「あ、オレは楽しかったからです!演技するのが…」と答える。 「でも、これからは楽しいだけじゃなくなるよ──」 「売れたら勝ち、それ以外は負けって世界だからね」 数年後、役者を辞めたヒロト君は、漫画家を目指す従姉妹のなつみちゃんの姿を見て、かつて自分がマネージャーから言われた言葉を思い出す。純粋に楽しんでいたはずのことも、社会では勝ち負け──経済的な成功/失敗に回収されていく。出版社にマンガを持ち込んだなつみちゃんも、もしデビューすれば商業誌での戦いを強いられていくだろう。 運よく好きなことや向いていることを仕事にできたとしても、資本主義のルールの中で暮らしている以上、競争から距離を置くのはなかなか難しい。結果を出せない人のところにいつまでも仕事が回ってくることはないし、自分の代わりはいくらでもいる。嫌でも他者との勝負の土俵に立たされることになるし、純粋に「好き」だったころの気持ちとはどんどんかけ離れていく。 「アイツ昔から不器用でのんびり屋で勝ち負けとか嫌いだったじゃん? 業界でそういうのいっぱい経験しちまったんだろーな。」 ヒロト君の親友・ヒデキは、ヒロトが俳優を辞めた理由をそう推察する。私が身を置いている出版業界でも、純粋に本や雑誌が好きでこの業界を志した人が挫折して去っていくのをたくさん見てきた。でも、彼らが負けたとは思わないし、なんとか端っこで食っているだけの私が勝っているとももちろん思わない。勝ち/負けという物差しで物事を見るとき、こぼれ落ちるものはあまりに多い。むしろ、好きだったはずのことが本当に嫌いにならないうちに、別の仕事に就いたほうが幸せだと思う。 私も勝ち負けが本当に苦手だ。優秀な同業者も目の前でたくさん見てきて、同じ土俵に上がったらまず自分では勝負にならないということも30歳を過ぎてようやくわかった。それでも続けているのは、勝ち負けを抜きにして、いつか純粋にこの仕事が好きになれる日が来るかもしれないと思っているからだ。もちろん、仕事が嫌いになる前に逃げる準備ももうできている。 暗い話になってしまったが、『ひらやすみ』のヒロト君の生き方は、競争から逃れられない自分にとって、大きな救いになっている。なつみちゃんから「暇人」と罵られ、見知らぬ人からも「みんながみんなアナタみたいに生きられると思わないでよ」と言われるくらいののんびり屋でも、ヒロト君の周囲には笑顔が絶えない。自分ひとりの意志で勝ち負けから逃れられないのであれば、せめてまわりにいる人だけでも大切にしていきたい。そうやって自分の生活圏に大切なものをちゃんと作っておけば、いつでも競争から降りることができる。『ひらやすみ』は、そんな希望を見せてくれる作品だった。 文=山本大樹 編集=田島太陽 山本大樹 編集/ライター。1991年、埼玉県生まれ。明治大学大学院にて人文学修士(映像批評)。QuickJapanで外部編集・ライターのほか、QJWeb、BRUTUS、芸人雑誌などで執筆。(Twitter/はてなブログ)
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克明に記録されたコロナ禍の息苦しさ──冬野梅子『まじめな会社員』
【連載】生きづらさを乗り越える「大人のためのマンガ入門」 仕事、恋愛、家族、結婚……大人のありきたりでありがちな悩みや生きづらさと向き合い、乗り越えていくためのヒントを探るマンガレビュー連載。月1回程度更新。 5月に『コミックDAYS』での連載が完結した冬野梅子『まじめな会社員』。30歳の契約社員・菊池あみ子を取り巻く苦しい現実、コロナ禍での転職、親の介護といった環境の変化をシビアに描いた作品だ。周囲のキラキラした友人たちとの比較、自意識との格闘でもがく姿がSNSで話題を呼び、あみ子が大きな選択を迫られる最終回は多くの反響を集めた。 「コロナ禍における、新種の孤独と人生のたのしみを、「普通の人でいいのに!」で大論争を巻き起こした新人・冬野梅子が描き切る!」と公式の作品紹介にもあるように、本作は2020年代の社会情勢を忠実に反映している。疫病はさまざまな局面で社会階層の分断を生み出したが、特に本作で描かれているのは「働き方」と「人間関係」の変化と分断である。『まじめな会社員』は、疫禍による階層の分断を克明に描いた作品として貴重なサンプルになるはずだ。 2022年5月末現在、コロナがニュースの時間のほとんどを占めていた時期に比べると、世間の空気は少し緩やかになりつつある。飲食店は普通にアルコールを提供しているし、休日に友達と遊んだり、ライブやコンサートに出かけることを咎められるような空気も薄まりつつある。しかし、過去の緊急事態宣言下の生活で感じた孤独や息苦しさはそう簡単に忘れられるものではないだろう。 たとえば、スマホアプリ開発会社の事務職として働くあみ子は、コロナ禍の初期には在宅勤務が許されていなかった。 「持病なしで子供なしだとリモートさせてもらえないの?」「私って…お金なくて旅行も行けないのに通勤はさせられてるのか」(ともに2巻)とリモートワークが許される人々との格差を嘆く場面も描かれている。 そして、あみ子の部署でもようやくリモートワークが推奨されるようになると、それまで事務職として上司や営業部のサポートを押しつけられていた今までを振り返り、飲食店やライブハウスなどの苦境に思いを巡らせつつも、つい「こんな生活が続けばいいのに…」とこぼしてしまう。 自由な働き方に注目が集まる一方で、いわゆるエッセンシャルワーカーはもちろん、社内での立場や家族の有無によって出勤を強いられるケースも多かった。仕事上における自身の立場と感染リスクを常に天秤にかけながら働く生活に、想像以上のストレスを感じた人も多かったはずだ。 「抱き合いたい「誰か」がいないどころか 休日に誰からも連絡がないなんていつものこと おうち時間ならずっとやってる」(2巻) コロナによる分断は、働き方の面だけではなく人間関係にも侵食してくる。コロナ禍の初期には「自粛中でも例外的に会える相手」の線引きは、限りなく曖昧だった。独身・ひとり暮らしのあみ子は誰とも会わずに自粛生活を送っているが、インスタのストーリーで友人たちがどこかで会っているのを見てモヤモヤした気持ちを抱える。 「コロナだから人に会えないって思ってたけど 私以外のみんなは普通に会ってたりして」「綾ちゃんだって同棲してるし ていうか世の中のカップルも馬鹿正直に自粛とかしてるわけないし」(2巻) 相互監視の状況に陥った社会では、当事者同士の関係性よりも「(世間一般的に)会うことが認められる関係性かどうか」のほうが判断基準になる。家族やカップルは認められても、それ以外の関係性だと、とたんに怪訝な目を向けられる。人間同士の個別具体的な関係性を「世間」が承認するというのは極めておぞましいことだ。「家族」や「恋人」に対する無条件の信頼は、家父長制的な価値観にも密接に結びついている。 またいつ緊急事態宣言が出されるかわからないし、そうなれば再び社会は相互監視の状況に陥るだろう。感染者数も落ち着いてきた今のタイミングだからこそ本作を通じて、当時は語るのが憚られた個人的な息苦しさや階層の分断に改めて目を向けておきたい。 文=山本大樹 編集=田島太陽 山本大樹 編集/ライター。1991年、埼玉県生まれ。明治大学大学院にて人文学修士(映像批評)。QuickJapanで外部編集・ライターのほか、QJWeb、BRUTUS、芸人雑誌などで執筆。(Twitter/はてなブログ)
L'art des mots~言葉のアート~
企画展情報から、オリジナルコラム、鑑賞記まで……アートに関するよしなしごとを扱う「L’art des mots~言葉のアート~」
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【News】西洋絵画の500年の歴史を彩った巨匠たちの傑作が、一挙来日!『メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年』が大阪市立美術館・国立新美術館にて開催!
先史時代から現代まで5000年以上にわたる世界各地の考古遺物・美術品150万点余りを有しているメトロポリタン美術館。 同館を構成する17部門のうち、ヨーロッパ絵画部門に属する約2500点の所蔵品から、選りすぐられた珠玉の名画65 点(うち46 点は日本初公開)を展覧する『メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年』が、11月に大阪、来年2月には東京で開催されます。 この展覧会は、フラ・アンジェリコ、ラファエロ、クラーナハ、ティツィアーノ、エル・グレコから、カラヴァッジョ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、レンブラント、 フェルメール、ルーベンス、ベラスケス、プッサン、ヴァトー、ブーシェ、そしてゴヤ、ターナー、クールベ、マネ、モネ、ルノワール、ドガ、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌに至るまでを、時代順に3章で構成。 第Ⅰ章「信仰とルネサンス」では、イタリアのフィレンツェで15世紀初頭に花開き、16世紀にかけてヨーロッパ各地で隆盛したルネサンス文化を代表する画家たちの名画、フラ・アンジェリコ《キリストの磔刑》、ディーリック・バウツ《聖母子》、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ヴィーナスとアドニス》など、計17点を観ることが出来ます。 第Ⅱ章「絶対主義と啓蒙主義の時代」では、絶対主義体制がヨーロッパ各国で強化された17世紀から、啓蒙思想が隆盛した18世紀にかけての美術を、各国の巨匠たちの名画30点により紹介。カラヴァッジョ《音楽家たち》、ヨハネス・フェルメール《信仰の寓意》、レンブラント・ファン・レイン《フローラ》などを御覧頂けます。 第Ⅲ章「革命と人々のための芸術」では、レアリスム(写実主義)から印象派へ……市民社会の発展を背景にして、絵画に数々の革新をもたらした19世紀の画家たちの名画、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《ヴェネツィア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む》、オーギュスト・ルノワール《ヒナギクを持つ少女》、フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く果樹園》、さらには日本初公開となるクロード・モネ《睡蓮》など、計18点が展覧されます。 15世紀の初期ルネサンスの絵画から19世紀のポスト印象派まで……西洋絵画の500 年の歴史を彩った巨匠たちの傑作を是非ご覧下さい! 『メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年』 ■大阪展 会期:2021年11月13日(土)~ 2022年1月16日(日) 会場:大阪市立美術館(〒543-0063大阪市天王寺区茶臼山町1-82) 主催:大阪市立美術館、メトロポリタン美術館、日本経済新聞社、テレビ大阪 後援:公益財団法人 大阪観光局、米国大使館 開館時間:9:30ー17:00 ※入館は閉館の30分前まで 休館日:月曜日( ただし、1月10日(月・祝)は開館)、年末年始(2021年12月30日(木)~2022年1月3日(月)) 問い合わせ:TEL:06-4301-7285(大阪市総合コールセンターなにわコール) ■東京展 会期:2022年2月9日(水)~5月30日(月) 会場:国立新美術館 企画展示室1E(〒106-8558東京都港区六本木 7-22-2) 主催:国立新美術館、メトロポリタン美術館、日本経済新聞社 後援:米国大使館 開館時間:10:00ー18:00( 毎週金・土曜日は20:00まで)※入場は閉館の30分前まで 休館日:火曜日(ただし、5月3日(火・祝)は開館) 問い合わせ:TEL:050-5541-8600( ハローダイヤル) text by Suzuki Sachihiro
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【News】約3,000点の新作を展示。国立新美術館にて「第8回日展」が開催!
10月29日(金)から11月21日まで、国立新美術館にて「第8回日展」が開催されます。日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門に渡って、秋の日展のために制作された現代作家の新作、約3,000点が一堂に会します。 明治40年の第1回文展より数えて、今年114年を迎える日本最大級の公募展である日展は、歴史的にも、東山魁夷、藤島武二、朝倉文夫、板谷波山など、多くの著名な作家を生み出してきました。 展覧会名:第8回 日本美術展覧会 会 場:国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2) 会 期:2021年10月29日(金)~11月21日(日)※休館日:火曜日 観覧時間:午前10時~午後6時(入場は午後5時30分まで) 主 催:公益社団法人日展 後 援:文化庁/東京都 入場料・チケットや最新の開催情報は「日展ウェブサイト」をご確認下さい (https://nitten.or.jp/) 展示される作品は作家の今を映す鏡ともいえ、作品から世相や背景など多くのことを読み取る楽しさもあります。 あらゆるジャンルをいっぺんに楽しめる機会、新たな日本の美術との出会いに胸躍ること必至です! 東京展の後は、京都、名古屋、大阪、安曇野、金沢の5か所を巡回(予定)します。 日本画 会場風景 2020年 洋画 会場風景 2020年 彫刻 会場風景 2020年 工芸美術 会場風景 2020年 書 会場風景 2020年 text by Suzuki Sachihiro
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【News】和田誠の全貌に迫る『和田誠展』が開催!
イラストレーター、グラフィックデザイナー和田誠わだまこと(1932-2019)の仕事の全貌に迫る展覧会『和田誠展』が、今秋10月9日から東京オペラシティアートギャラリーにて開催される。 和田誠 photo: YOSHIDA Hiroko ©Wada Makoto 和田誠の輪郭をとらえる上で欠くことのできない約30のトピックスを軸に、およそ2,800点の作品や資料を紹介。様々に創作活動を行った和田誠は、いずれのジャンルでも一級の仕事を残し、高い評価を得ている。 展示室では『週刊文春』の表紙の仕事はもちろん、手掛けた映画の脚本や絵コンテの展示、CMや子ども向け番組のアニメーション上映も予定。 本展覧会では和田誠の多彩な作品に、幼少期に描いたスケッチなども交え、その創作の源流をひも解く。 ▽和田誠の仕事、総数約2,800点を展覧。書籍と原画だけで約800点。週刊文春の表紙は2000号までを一気に展示 ▽学生時代に制作したポスターから初期のアニメーション上映など、貴重なオリジナル作品の数々を紹介 ▽似顔絵、絵本、映画監督、ジャケット、装丁……など、約30のトピックスで和田誠の全仕事を紹介 会場は【logirl】『Musée du ももクロ』でも何度も訪れている、初台にある「東京オペラシティアートギャラリー」。 この秋注目の展覧会!あなたの芸術の秋を「和田誠の世界」で彩ろう。 【開催概要】展覧会名:和田誠展( http://wadamakototen.jp/ ) 会期:2021年10月9日[土] - 12月19日[日] *72日間 会場:東京オペラシティ アートギャラリー 開館時間:11:00-19:00(入場は18:30まで) 休館日:月曜日 入場料:一般1,200[1,000]円/大・高生800[600]円/中学生以下無料 主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団 協賛:日本生命保険相互会社 特別協力:和田誠事務所、多摩美術大学、多摩美術大学アートアーカイヴセンター 企画協力:ブルーシープ、888 books お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル) *同時開催「収蔵品展072難波田史男 線と色彩」「project N 84 山下紘加」の入場料を含みます。 *[ ]内は各種割引料金。障害者手帳をお持ちの方および付添1名は無料。割引の併用および入場料の払い戻しはできません。 *新型コロナウイルス感染症対策およびご来館の際の注意事項は当館ウェブサイトを( https://www.operacity.jp/ag/ )ご確認ください。 ▽和田誠(1932-2019) 1936年大阪に生まれる。多摩美術大学図案科(現・グラフィックデザイン学科)を卒業後、広告制作会社ライトパブリシティに入社。 1968年に独立し、イラストレーター、グラフィックデザイナーとしてだけでなく、映画監督、エッセイ、作詞・作曲など幅広い分野で活躍した。 たばこ「ハイライト」のデザインや「週刊文春」の表紙イラストレーション、谷川俊太郎との絵本や星新一、丸谷才一など数多くの作家の挿絵や装丁などで知られる。 報知映画賞新人賞、ブルーリボン賞、文藝春秋漫画賞、菊池寛賞、毎日デザイン賞、講談社エッセイ賞など、各分野で数多く受賞している。 仕事場の作業机 photo: HASHIMOTO ©Wada Makoto 『週刊文春』表紙 2017 ©Wada Makoto 『グレート・ギャツビー』(訳・村上春樹)装丁 2006 中央公論新社 ©Wada Makoto 『マザー・グース 1』(訳・谷川俊太郎)表紙 1984 講談社 ©Wada Makoto text by Suzuki Sachihiro
logirl staff voice
logirlのスタッフによるlogirlのためのtext
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「誰も観たことのないバラエティを」。『ももクロChan』10周年記念スタッフ座談会
ももいろクローバーZの初冠番組『ももクロChan』が昨年10周年を迎えた。 この番組が女性アイドルグループの冠番組として異例の長寿番組となったのは、ただのアイドル番組ではなく、"バラエティ番組”として破格におもしろいからだ。 ももクロのホームと言っても過言ではないバラエティ番組『ももクロChan』。 彼女たちが10代半ばのころから、その成長を見続けてきたプロデューサーの浅野祟氏、吉田学氏、演出の佐々木敦規氏の3人が集まり、番組への思い、そしてももクロの魅力を存分に語ってくれた。 浅野 崇(あさの・たかし)1970年、千葉県出身。プロデューサー。 <現在の担当番組> 『ももクロChan』 『ももクロちゃんと!』 『Musee du ももクロ』 『川上アキラの人のふんどしでひとりふんどし』、など 吉田 学(よしだ・まなぶ)1978年、東京都出身。プロデューサー。 <現在の担当番組> 『ももクロChan~Momoiro Clover Z Channel~』 『ももクロちゃんと!』 『川上アキラの人のふんどしでひとりふんどし』 『Musée du ももクロ』、など 佐々木 敦規(ささき・あつのり)1967年、東京都出身。ディレクター。 有限会社フィルムデザインワークス取締役 「ももクロはアベンジャーズ」。そのずば抜けたバラエティ力の秘密 ──最近、ももクロのメンバーたちが、個々でバラエティ番組に出演する機会が増えていますね。 浅野 ようやくメンバー一人ひとりのバラエティ番組での強さに、各局のディレクターやプロデューサーが気づいてくれたのかもしれないですね。間髪入れずに的確なコメントやリアクションをしてて、さすがだなと思って観てます。 佐々木 彼女たちはソロでもアリーナ公演を完売させるアーティストですけど、バラエティタレントとしてもその実力は突き抜けてますから。 浅野 あれだけ大きなライブ会場で、ひとりしゃべりしても飽きがこないのは、すごいことだなと改めて思いますよ。 佐々木 そして、4人そろったときの爆発力がある。それはまず、バラエティの天才・玉井詩織がいるからで。器用さで言わせたら、彼女はめちゃくちゃすごい。百田夏菜子、高城れに、佐々木彩夏というボケ3人を、転がすのが本当にうまくて助かってます。 昔は百田の天然が炸裂して、高城れにがボケにいくスタイルだったんですが、いつからか佐々木がボケられるようになって、ももクロは最強になったと思ってます。 キラキラしたぶりっ子アイドル路線をやりたがっていたあーりんが、ボケに回った。それどころか、今ではそのポジションに味をしめてる。昔はコマネチすらやらなかった子なのに、ビックリですよ(笑)。 (写真:佐々木ディレクター) ──そういうメンバーの変化や成長を見られるのも、10年以上続く長寿番組だからこそですね。 吉田 昔からライブの舞台裏でもずっとカメラを回させてくれたおかげで、彼女たちの成長を記録できました。結果的に、すごくよかったですね。 ──ずっとももクロを追いかけてきたファンは思い出を振り返れるし、これからももクロを知る人たちも簡単に過去にアクセスできる。「テレ朝動画」で観られるのも貴重なアーカイブだと思います。 佐々木 『ももクロChan』は、早見あかりの脱退なども撮っていて、楽しいときもつらいときも悲しいときも、ずっと追っかけてます。こんな大事な仕事は、途中でやめるわけにはいかないですよ。彼女たちの成長ドキュメンタリーというか、ロードムービーになっていますから。 唯一無二のコンテンツになってしまったので、ももクロが活動する限りは『ももクロChan』も続けたいですね。 吉田 これからも続けるためには、若い世代にもアピールしないといけない。10代以下の子たちにも「なんかおもしろいお姉ちゃんたち」と認知してもらえるように、我々もがんばらないと。 (写真:吉田プロデューサー) 浅野 彼女たちはまだまだ伸びしろありますからね。個々でバラエティ番組に出たり、演技のお仕事をしたり、ソロコンをやったりして、さらにレベルアップしていく。そんな4人が『ももクロChan』でそろったとき、相乗効果でますますおもしろくなるような番組をこれからも作っていきたいです。 佐々木 4人は“アベンジャーズ"っぽいなと最近思うんだよね。 浅野 わかります。 ──アベンジャーズ! 個人的に、ももクロって令和のSMAPや嵐といったポジションすら狙えるのではないか、と妄想したりするのですが。 浅野 あそこまで行くのはとんでもなく難しいと思いますが……。でも佐々木さんの言うとおりで、最近4人全員集まったときに、スペシャルな瞬間がたまにあるんですよ。そういう大物の華みたいな部分が少しずつ見えてきたというか。 佐々木 そうなんだよねぇ。ももクロの4人はやたらと仲がいいし、本人たちも30歳、40歳、50歳になっても続けていくつもりなので、さらに化けていく彼女たちを撮っていかなくちゃいけないですね。 早見あかりが抜けて、自立したももクロ (写真:浅野プロデューサー) ──先ほど少し早見あかりさん脱退のお話が出ましたけど、やはり印象深いですか。 吉田 そうですね。そのとき僕はまだ『ももクロChan』に関わってなかったんですが、自分の局の番組、しかも動画配信でアイドルの脱退の告白を撮ったと聞いて驚きました。 当時はAKB48がアイドル界を席巻していて、映画『DOCUMENTARY of AKB48』などでアイドルの裏側を見せ始めた時期だったんです。とはいえ、脱退の意志をメンバーに伝えるシーンを撮らせてくれるアイドルは画期的でした。 佐々木 ももクロは最初からリミッターがほとんどないグループだからね。チーフマネージャーの川上アキラさんが攻めた人じゃないですか。だって、自分のワゴン車に駆け出しのアイドル乗っけて、全国のヤマダ電機をドサ回りするなんて、普通考えられないでしょう(笑)。夜の駐車場で車のヘッドライトを背に受けながらパフォーマンスしてたら、そりゃリミッターも外れますよ。 (写真:『ももクロChan』#11) ──アイドルの裏側を見せる番組のコンセプトは、当初からあったんですか? 佐々木 そうですね、ある程度狙ってました。そもそも僕と川上さんが仲よしなのは、プロレスや格闘技っていう共通の熱狂している趣味があるからなんですけど。 当時流行ってた総合格闘技イベント『PRIDE』とかって、ブラジリアントップファイターがリング上で殺し合いみたいなガチの真剣勝負をしてたんですよ。そんな血気盛んな選手が闘い終わってバックヤードに入った瞬間、故郷のママに「勝ったよママ! 僕、勝ったんだよ!」って電話しながら泣き出すんです。 ああいうファイターの裏側を生々しく映し出す映像を見て、表と裏のコントラストには何か新しい魅力があるなと、僕らは気づいて。それで、川上さんと「アイドルで、これやりましょうよ!」って話がスムーズにいったんです。 吉田 ライブ会場の楽屋などの舞台裏に定点カメラを置いてみる「定点観測」は、ももクロの裏の部分が見える代表的なコーナーになりました。ステージでキラキラ輝くももクロだけじゃなくて、等身大の彼女たちが見られるよう、早いうちに体制を整えられたのもありがたかったですね。 ──番組開始時からももクロのバラエティにおけるポテンシャルは図抜けてましたか? 佐々木 いや、最初は普通の高校生でしたよ。だから、何がおもしろくて何がウケないのか、何が褒められて何がダメなのか。そういう基礎から丁寧に教えました。 ──転機となったのは? 佐々木 やはり早見あかりが抜けたことですね。当時は早見が最もバラエティ力があったんです。裏リーダーとして場を回してくれたし、ほかのメンバーも彼女に頼りきりだった。我々も困ったときは早見に振ってました。 だから早見がいなくなって最初の収録は、残ったメンバーでバラエティを作れるのか正直不安で。でも、いざ収録が始まったら、めちゃめちゃおもしろかったんですよ。「お前らこんなにできたのっ!?」といい意味で裏切られた。 早見に甘えられなくなり、初めて自立してがんばるメンバーを見て、「この子たちとおもしろいバラエティ作るぞ!」と僕もスイッチが入りましたね。 あと、やっぱり2013年ごろからよく出演してくれるようになった東京03の飯塚(悟志)くんが、ももクロと相性抜群だったのも大きかった。彼のシンプルに一刀両断するツッコミのおかげで、ももクロはボケやすくなったと思います。 吉田 飯塚さんとの絡みで学ぶことも多かったですよね。 佐々木 トークの間合いとか、ボケの伏線回収的な方程式なんかを、お笑い界のトップランナーと実戦の中で知っていくわけですから、貴重な経験ですよね。それは僕ら裏方には教えられないことでした。 浅野 今のももクロって、収録中に何かおもしろいことが起きそうな気配を感じると、各々の役割を自覚して、フィールドに散らばっていくイメージがあるんですよね。 言語化はできないんだろうけど、彼女たちなりに、ももクロのバラエティ必勝フォーメーションがいくつかあるんでしょう。状況に合わせて変化しながら、みんなでゴールを目指してるなと感じてます。 ももクロのバラエティ史に残る奇跡の数々 ──バラエティ番組でのテクニックは芸人顔負けのももクロですが、“笑いの神様”にも愛されてますよね。何気ないスタジオ収録回でも、ミラクルを起こすのがすごいなと思ってて。 佐々木 最近で言うと、「4人連続ピンポン球リフティング」は残り1秒でクリアしてましたね。「持ってる」としか言えない。ああいう瞬間を見るたびに、やっぱりスターなんだなぁと思いますね。 浅野 昔、公開収録のフリースロー対決(#246)で、追い込まれた百田さんが、うしろ向きで投げて入れるというミラクルもありました。 あと、「大人検定」という企画(#233)で、高城さんがタコの踊り食いをしたら、鼻に足が入ってたのも忘れられない(笑)。 吉田 あの高城さんはバラエティ史に残る映像でしたね(笑)。 個人的にはフットサルも印象に残ってます。中学生の全国3位の強豪チームとやって、善戦するという。 佐々木 なんだかんだ健闘したんだよね。しかも終わったら本気で悔しがって、もう一回やりたいとか言い出して。 今度のオンラインライブに向けて、過去の名シーンを掘ってみたんですが、そういうミラクルがたくさんあるんですよ。 浅野 今ではそのラッキーが起こった上で、さらにどう転していくかまで彼女たちが自分で考えて動くので、昔の『ももクロChan』以上におもしろくなってますよね。 写真:『ももクロChan』#246) (写真:『ももクロChan』#233) ──皆さんのお話を聞いて、『ももクロChan』はアイドル番組というより、バラエティ番組なんだと改めて思いました。 佐々木 そうですね。誤解を恐れずに言えば、僕らは「ももクロなしでも通用するバラエティ」を作るつもりでやってるんです。 お笑いとしてちゃんと観られる番組がまずあって、その上でとんでもないバラエティ力を持ったももクロががんばってくれる。そりゃおもしろくなりますよね。 ──アイドルにここまでやられたら、ゲストの芸人さんたちも大変じゃないかと想像します。 佐々木 そうでしょうね(笑)。平成ノブシコブシの徳井(健太)くんが「バラエティ番組いろいろ出たけど、今でも緊張するのは『ゴッドタン』と『ももクロChan』ですよ」って言ってくれて。お笑いマニアの彼にそういう言葉をもらえたのは、ありがたかったなぁ。 誰も見たことのない破格のバラエティ番組を届ける ──そして11月6日(土)には、『テレビ朝日 ももクロChan 10周年記念 オンラインプレミアムライブ!~最高の笑顔でバラエティ番組~』を開催しますね。 吉田 もともとは去年やるつもりでしたが、コロナ禍で自粛することになり、11周年の今年開催となりました。これから先『ももクロChan』を振り返ったとき、このイベントが転機だったと思えるような特別な日にしたいですね。 浅野 歌あり、トークあり、コントあり、ゲームあり。なんでもありの総合バラエティ番組を作るつもりです。 2時間の生配信でゲストも来てくださるので、通常回以上に楽しいのはもちろん、ライブならではのハプニングも期待しつつ……。まぁプロデューサーとしては、いろんな意味でドキドキしてますけど(苦笑)。 佐々木 ライブタイトルに「バラエティ番組」と入れて、我々も自分でハードル上げてるからなぁ(笑)。でも「バラエティを売りにしたい」と浅野Pや吉田Pに思っていただいているので、ディレクターの僕も期待に応えるつもりで準備してるところです。 浅野 ここで改めて、ももクロは歌や踊りのパフォーマンスだけじゃなく、バラエティも最高におもしろいんだぞ、と知らしめたい。 さっき佐々木さんも言ってましたけど、まだももクロに興味がない人でも、バラエティ番組として楽しめるはずなので、お笑い好きとか、バラエティをよく観る人に観てもらいたいです。 佐々木 誰も見たことない、新しくておもしろい番組を作るつもりですよ。 浅野 『ももクロChan』が始まった2010年って、まだ動画配信で成功している番組がほとんどなかったんですね。そんな環境で番組がスタートして、テレビ朝日の中で特筆すべき成功番組になった。 そういう意味では、配信動画のトップランナーとして、満を持して行う生配信のオンラインイベントなので、業界の中でも「すごかった」と言ってもらえる番組にするつもりです。 吉田 『ももクロChan』スタッフとしては、番組が11周年を迎えることを感慨深く思いつつ、テレビを作ってきた人間としては、コロナ以降に定着してきたオンライン生配信の意義を今改めて考えながら作っていきたいです。 (写真:『テレビ朝日 ももクロChan 10周年記念 オンラインプレミアムライブ!~最高の笑顔でバラエティ番組~』は、11月6日(土)19時開演 logirl会員は割引価格でご視聴いただけます) ──具体的にどういった企画をやるのか、少しだけ教えてもらえますか? 浅野 「あーりんロボ」(佐々木彩夏がお悩み相談ロボットに扮するコントコーナー)はやるでしょう。 佐々木 生配信で「あーりんロボ」は怖いですよ、絶対時間押しますから(笑)。佐々木も度胸ついちゃってるからガンガンボケて、百田、高城、玉井がさらに煽って調子に乗っていくのが目に見える……。 あと、配信ならではのディープな企画も考えていますが、ちょっと今のままだとディープすぎてできないかもしれないです。 浅野 配信を観た方は、ネタバレ禁止というルールを決めたら、攻められますかねぇ。 佐々木 たしかに視聴者の方々と共犯関係を結べるといいですね。 とにかく、モノノフさんはもちろんですが、少しでも興味を持った人に観てほしいんですよ。バラエティ史に残る番組の記念すべき配信にしますので、絶対損はさせません。 浅野 必ず、期待にお応えします。 撮影=時永大吾 文=安里和哲 編集=後藤亮平
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logirlの「起爆剤になりたい」ディレクター・林洋介(『ももクロちゃんと!』)インタビュー
ももいろクローバーZ、でんぱ組.inc、AKB48 Team8などのオリジナルコンテンツを配信する動画配信サービス「logirl」スタッフへのリレーインタビュー第5弾。 今回は10月からリニューアルする『ももクロちゃんと!』でディレクターを務める林洋介氏に話を聞いた。 林洋介(はやし・ようすけ)1985年、神奈川県出身。ディレクター。 <現在の担当番組> 『ももクロちゃんと!』 『WAGEI』 『小川紗良のさらまわし』 『まりなとロガール』 リニューアルした『ももクロちゃんと!』の収録を終えて ──10月9日から土曜深夜に枠移動する『ももクロちゃんと!』。林さんはリニューアルの初回放送でディレクターを務めています。 林 そうですね。「ももクロちゃんと、〇〇〇!」という基本的なルールは変わらずやっていくんですけど、画面上のCGやテロップなどが変わるので、視聴者の方の印象はちょっと違ってくるかなと思います。 (写真:「ももクロちゃんと!」) ──収録を終えた感想はいかがですか? 林 自粛期間中に自宅で推し活を楽しめる「推しグッズ」作りがトレンドになっていたので、今回は「推しグッズ」というテーマでやったんですが、ももクロのみなさんに「推しゴーグル」を作ってもらう作業にけっこう時間がかかってしまったんですよね。「安全ゴーグル」に好きなキャラクターや言葉を書いてデコってもらったんですが、本当はもうひとつ作る予定が収録時間に収まりきらず……それでもリニューアル1発目としては、期待を裏切らない内容になったと思います。 ──『ももクロちゃんと!』を担当するのは今回が初めてですが、収録に臨むにあたって何か考えはありましたか? 林 やっぱり、リニューアル一発目なので盛り上がっていけたらなと。あとは、ももクロは知名度のあるビッグなタレントさんなので、その空気に飲まれないようにしないといけないなと考えていましたね。 ──先輩スタッフの皆さんからとも相談しながらプランを立てていったのでしょうか? 林 そうですね。ももクロは業界歴も長くてバラエティ慣れしているので、トークに関しては心配ないと聞いていました。ただ、自分たちで考えて何かを書いたり作ったりしてもらうのは、ちょっと時間がいるかもしれないよとも……でも、まさかあそこまでかかるとは思いませんでした(笑)。ちょっとバカバカしいものを書いてもらっているんですけど、あそこまで真剣に取り組んでくれるのかって逆に感動しました。 (写真:「ももクロちゃんと! ももクロちゃんと祝!1周年記念SP」) 「まだこんなことをやるのか」という無茶をしたい ──ももクロメンバーと仕事をする機会は、これまでもありましたか? 林 logirlチームに入るまで一度もなくて、今回がほぼ初対面です。ただ一度だけ、DVDの宣伝のために短いコメントをもらったことがあって、そのときもここまで現場への気遣いがしっかりしているんだという印象を受けました。 もちろん名前はよく知っていますが、僕は正直あまりももクロのことを知らなかったんですよね。キャリア的に考えたら当然現場では大物なわけで、そのときは僕も時間を巻きながら無事に5分くらいのコメントをもらったんですが、あとから撮影した素材を見返したら、あの短いコメント取材だけなのに、わざわざみんなで立ち上がって「ありがとうございました」と丁寧に言ってくれていたことに気がついて、「めっちゃいい子たちやなあ」って思ってました。 ──一緒に仕事をしてみて、印象は変わりましたか? 林 『ももクロちゃんと!』は、基本的にその回で取り上げる専門的な知識を持った方にゲストで来ていただいてるんですが、タレントさんでない方が来ることも多いんですよね。そういった一般の方に対しても壁がないというか、なんでこんなになじめるのかってくらいの親しみ深さに驚きました。そういう方たちの懐にもすっと入っていけるというか、その気遣いを大切にしているんですよね。しかもそれをすごく自然にやっているのが、すごいなと思いました。 ──『ももクロちゃんと!』は2年目に突入しました。今後の方向性として、考えていることはありますか? 林 「推しグッズ」でも、あそこまで真剣に取り組んでるんだったら、短い収録時間の中ではありますが、「まだこんなことをやってくれるのか」という無茶をしてみたいなと個人的には思いました。過去の『ももクロChan』を観ていても、すごくアクティブじゃないですか。だから、トークだけでは終わらせたくないなっていう気持ちはあります。 (写真:「ももクロChan~Momoiro Clover Z Channel~」) 情報番組のディレクターとしてキャリアを積む ──テレビの仕事を始めたきっかけを教えてください。 林 大学を卒業して特にやりたいことがなかったので、好きだったテレビの仕事をやってみようかなというのが入口ですね。最初に入ったのがテレビ東京さんの『お茶の間の真実〜もしかして私だけ!?〜』というバラエティ番組で、そこでADをやっていました。長嶋一茂さんと石原良純さんと大橋未歩さんがMCだったんですが、初めは知らないことだらけだったので、いろいろなことが学べたのは楽しかったですね。 ──そこからずっとバラエティ畑ですか。 林 AD時代は基本的にバラエティでしたね。ディレクターの一発目はTBSの『ビビット』という情報番組でした。曜日ディレクターとして、日々のニュースを追う感じだったんですが、そもそもニュースというものに興味がなかったので、そこはかなり苦戦しました。バラエティの“おもしろい”は単純というか、わかりやすいですが、ニュースの“おもしろい”ってなんだろうってずっと考えていましたね。たとえば、殺人事件の何を見せたらいいんだろうとか、まったくわからない世界に入ってしまったなという感じがしていました。 ──情報番組はどのくらいやっていたんですか? 林 『ビビット』のあとに始まった、立川志らくさんの『グッとラック!』もやっていたので、6年間ぐらいですかね。でも、最後まで情報番組の感覚はつかめなかった気がします。きっとこういうことが情報番組の“おもしろい”なのかなって想像しながら、合わせていたような感じです。 番組制作のモットーは「事前準備を超えること」 ──ご自身の好みでいえば、どんなジャンルがやりたかったんですか? 林 いわゆる“どバラエティ”ですね。当時でいえば、めちゃイケ(『めちゃ×イケてるッ!』/フジテレビ)に憧れてました。でも、情報バラエティが全盛の時代だったので、結果的にAD時代、ディレクター時代を含めてゴリゴリのバラエティはやれなかったですね。 ──情報番組のディレクター時代の経験で、印象に残っていることはありますか? 林 芸能人の密着をやったり、街頭インタビューでおもしろ話を拾ってきたりと、仕事としては濃い時間を過ごしたと思いますが、そういったネタよりも、当時の上司からの影響が大きかったかなと思います。『ビビット』や『グッとラック!』は、ワイドショーだけどバラエティに寄せたい考えがあったので、コーナー担当の演出はバラエティ畑で育った人たちがやっていたんですよね。今思えば、バラエティのチームでワイドショーを作っているような感覚だったので、特殊といえば特殊な場所だったのかもしれません。僕のコーナーを見てくれていた演出の人もなかなか怖い人でしたから(笑)。 ──その経験も踏まえ、番組を作るときに心がけていることはありますか? 林 どんなロケでも事前に構成を作ると思うんですが、最初に作った構成を越えることをひとつの目標としてやっていますね。「こんなものが撮れそうです」と演出に伝えたところから、ロケのあとのプレビューで「こんなのがあるんだ」と驚かせるような何かをひとつでも持って帰ろうとやっていましたね。 自由度の高い「配信番組」にやりがいを感じる ──logirlチームには、どのような経緯で入ったんでしょうか? 林 『グッとラック!』が終わったときに、会社から「次はどうしたい?」と提示された候補のひとつだったんですよね。それで、僕はもう地上波に未来はないのかなと思っていたので、詳細は知らなかったんですけど、配信の番組というところに興味を持ってやってみたいなと思い、今年の4月から参加しています。 ──参加して半年ほど経ちますが、配信番組をやってみた感触はいかがですか? 林 そうですね。まだ何かができたわけじゃないんですけど、自分がやりたいことに手が届きそうだなという感じはしています。もちろん、仕事として何かを生み出さなければいけないですが、そこに自分のやりたいことが添えられるんじゃないかなって。 具体的に言うと、僕はいつか好きな「バイク」を絡めた企画をやりたいと思っているんですが、地上波だったら一発で「難しい」となりそうなものも、企画をもう少ししっかり詰めていけば、実現できるんじゃないかという自由度を感じています。 ──そこは地上波での番組作りとは違うところですよね。 林 はい、少人数でやっていることもありますし、聞く耳も持っていただけているなと感じます。まだ自分発信の番組は何もないんですけど、がんばれば自分発信でやろうという番組が生まれそうというか、そこはやりがいを感じる部分ですね。 logirlを大きくしていく起爆剤になりたい ──logirlはアイドル関連の番組も多いです。制作経験はありますか? 林 テレビ東京の『乃木坂って、どこ?』でADをやっていたことがあります。本当に初期で『制服のマネキン』の時期くらいまでだったので、もう9年前くらいですかね。いま売れている子も多いのでよかったなと思います。 ──ご自身がアイドル好きだったことはないですか。 林 それこそ、中学生のころにモーニング娘。に興味があったくらいですね。ちょうど加護(亜依)ちゃんや辻(希美)ちゃんが入ってきたころで、当時はみんな好きでしたから。でも、アイドルに熱狂的になったことはなくて、ああいう気持ちを味わってみたいなとは思うんですけど、なかなか。 ──これからlogirlでやりたいことはありますか? 林 先ほども言ったバイク関連の企画もそうですが、単純に何をやればいいというのはまだ見えてないんですよね。ただ、logirlはまだまだ小さいので、僕が起爆剤になってNetflixみたいにデカくなっていけたらいいなって勝手に思っています。 ──最後に『ももクロちゃんと!』の担当ディレクターをとして、番組のリニューアルに向けた意気込みをお願いします。 林 『ももクロちゃんと!』はこれから変わっていくはずなので、ファンのみなさんにはその変化にも注目していただければと思います。よろしくお願いします! 文=森野広明 編集=中野 潤
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言葉を引き出すために「絶対的な信頼関係を」プロデューサー・河合智文(『でんぱの神神』等)インタビュー
ももいろクローバーZ、でんぱ組.inc、AKB48 Team8などのオリジナルコンテンツを配信する動画配信サービス「logirl」スタッフへのリレーインタビュー第4弾。 今回は『でんぱの神神』『ナナポプ』などのプロデューサー、河合智文氏に話を聞いた。 河合智文(かわい・ともふみ)1974年、静岡県出身。プロデューサー。 <現在の担当番組> 『でんぱの神神』 『ナナポプ 〜7+ME Link Popteen発ガールズユニットプロジェクト〜』 『美味しい競馬』(logirl YouTubeチャンネル) 初めて「チーム神神」の一員になれた瞬間 ──『でんぱの神神』には、いつから関わるようになったんでしょうか? 河合 2017年の3月から担当になりました。ちょうど、でんぱ組.incがライブ活動をいったん休止したタイミングでした。「密着」が縦軸としてある『でんぱの神神』をこれからどうしていこうか、という感じでしたね。 (写真:『でんぱの神神』) ──これまでの企画で印象的なものはありますか? 河合 古川未鈴さんが『@JAM EXPO 2017』で総合司会をやったときに、会場に乗り込んで未鈴さんの空き時間にジャム作りをしたんですよ。企画名は「@JAMであっと驚くジャム作り」。簡易キッチンを設置して、現場にいるアイドルさんたちに好きな材料をひとつずつ選んで鍋に入れていってもらい、最終的にどんな味になるのかまったくわからないというような(笑)。 極度の人見知りで、ほかのアイドルさんとうまくコミュニケーションが取れないという未鈴さんの苦手克服を目的とした企画でもあったんですが、@JAMの現場でロケをやらせてもらえたのは大きかったなと思います。 (写真:『でんぱの神神』#276/2017年9月22日配信) 企画ではありませんが、ねも・ぺろ(根本凪・鹿目凛)のふたりが新メンバーとしてお披露目となった大阪城ホール公演(2017年12月)までの密着も印象に残っていますね。 ライブ活動休止中はバラエティ企画が中心だったので、リハーサルでメンバーが歌っている姿がとても新鮮で……その空間を共有したとき、初めて「チーム神神」の一員になれたという感じがしました。 そういった意味ではねも・ぺろのふたりに対しては、でんぱ組.incという会社の『でんぱの神神』部署に配属された同期入社の仲間だと勝手に感じています (笑)。 でんぱ組.incが秀でる「自分の魅せ方」 ──でんぱ組.incというグループにどんな印象を持っていますか? 河合 僕が関わり始めたころは、2度目の武道館公演を行うなどすでにアイドルグループとして大きく、メジャーな存在だったんです。番組としてもスタートから6年目だったので、自分が入ってしっかり接していけるのかな、という不安はありました。 自分の趣味に特化したコアなオタクが集まったグループ……ということで、それなりにクセがあるメンバーたちなのかなと構えていたんですけど、そのあたりは気さくに接してもらって助かりました。とっつきにくさとかも全然なくて(笑)。 むしろ、ロケを重ねていくうちにセルフプロデュースや自己表現がすごくうまいんだなと思いました。自分の魅せ方をよくわかっているんですよね。 ──そういったご本人たちの個性を活かして企画を立てることもあるのでしょうか? 河合 マンガ・アニメ・ゲームなどメンバーが愛した男性キャラクターを語り尽くすという「私の愛した男たち」はでんぱ組にうまくハマった企画で、反響が大きかったので、「私の憧れた女たち」「私のシビれたシーンたち」と続く人気シリーズになりました。 やはり好きなことについて語るときはエネルギーがあるというか、とてもテンション高くキラキラしているんですよね。メンバーそれぞれの好みというか、人間性というか……隠れた一面を知ることのできた企画でしたね。 (写真:『でんぱの神神』#308/2018年5月4日配信) ──そして5月に『でんぱの神神』のレギュラー配信が2年ぶりに再開しました。これからどんな番組にしていきたいですか? 河合 2019年2月にレギュラー配信が終了しましたが、それでも不定期に密着させてもらっていたんです。そのたびにメンバーから「『神神』は何度でも蘇る」とか、「ぬるっと復活」みたいに言われていましたが(笑)。そんな『神神』が2年ぶりに完全復活できました。 長寿番組が自分の代で終了してしまった負い目も感じていましたし、不定期でも諦めずに配信を続けたことがレギュラー再開につながったと思うと、正直うれしいですね。 今回加入した新メンバーも超個性的な5人が集まったと思います。やはり今は多くの人に新メンバーについて知ってほしいですし、先ほどの「私の愛した男たち」は彼女たちを深掘りするのにうってつけの企画ですよね。これまで誰も気づかなかった個性や魅力を引き出して、新生でんぱ組.incを盛り上げていきたいです。 (写真:『でんぱの神神』#363/2021年5月12日配信) 密着番組では、事前にストーリーを作らない ──ティーンファッション誌『Popteen』のモデルが音楽業界を駆け上がろうと奮闘する姿を捉えた『ナナポプ』は、2020年の8月にスタートしました。 河合 『Popteen』が「7+ME Link(ナナメリンク)」というプロジェクトを立ち上げることになり、そこから生まれたMAGICOURというダンス&ボーカルユニットに密着しています。これまでのlogirlの視聴者層は20〜40代の男性が多かったですが、『ナナポプ』のファンの中心はやはり『Popteen』読者である10代の女性。そういった人たちにもlogirlを知ってもらうためにも、新しい視聴者層への訴求を意識した企画でもあります。 (写真:『ナナポプ』#29/2021年3月5日配信) ──番組の反響はいかがでしょうか? 河合 スタート当初は賛否というか、「モデルさんにダンステクニックを求めるのはいかがなものか?」といった声もありました。ですが、ダンス講師のmai先生はBIGBANGやBLACKPINKのバックダンサーもしていた一流の方ですし、メンバーたちも常に真剣に取り組んでいます。 だから、実際に観ていただければそれが伝わって応援してもらえるんじゃないかと思っています。番組も「“リアル”だけを描いた成長の記録」というテーマになっているので、本気の姿をしっかり伝えていきたいですね。 ──密着番組を作るときに意識していることはありますか? 河合 特に自分がディレクターとしてカメラを回すときの場合ですが、ナレーション先行の都合のよいストーリーを勝手に作らないことですね。 僕は編集のことを考えて物語を固めてしまうと、その画しか撮れなくなっちゃうタイプで。現場で実際に起きていることを、リアルに受け止めていこうとは常に考えています。一方で、事前に狙いを決めて、それをしっかり押さえていく人もいるので、僕の考えが必ずしも正解ではないとも思うんですけどね。 音楽の仕事をするために、制作会社に入社 ──テレビ業界を目指したきっかけを教えてください。 河合 高校時代に世間がちょうどバンドブームで、僕も楽器をやっていたんです。「学園祭の舞台に立ちたい」くらいの活動だったんですけど、当時から「仕事にするならクリエイティブなことがいい」とはずっと考えていました。初めは音楽業界に入りたかったんですが、専門学校に行って音楽の知識を学んだわけでもないので、レコード会社は落ちてしまって。 ほかに音楽の仕事ができる手段はないかなと考えたときに浮かんだのが「音楽番組をやればいい」でした。多少なりとも音楽に関われるなら、ということで番組制作会社に入ったのがきっかけです。 ──すぐに音楽番組の担当はできましたか? 河合 研修期間を経て実際に採用となったときに「どんな番組をやりたいんだ?」と聞かれて、素直に「音楽番組じゃなきゃ嫌です」と言ったら希望を叶えてくれたんです。1998年に日本テレビの深夜にやっていた、遠藤久美子さんがMCの『Pocket Music(ポケットミュージック)』という番組のADが最初の仕事です。そのあとも、同じ日本テレビで始まった『AX MUSIC- FACTORY』など、音楽番組はいくつか関わってきました。 大江千里さんと山川恵里佳さんがMCをしていた『インディーウォーズ』という番組ではディレクターをやっていました。タレントさんがインディーアーティストのプロモーションビデオを10万円の予算で制作するという、企画性の高い番組だったんですが、10万円だから番組ディレクターが映像編集までやることになったんです。 放送していた2004〜2005年ごろ、パソコンでノンリニア編集をする人なんてまだあまりいませんでした。ただ僕はひと足先に手を出していたので、タレントさんとマンツーマンで、ああでもないこうでもないと言いながら何時間もかけて動画を編集した思い出がありますね。 ──現在も動画の編集作業をすることはあるんですか? 河合 今でもバリバリやっています(笑)。YouTubeチャンネルでも配信している『美味しい競馬』の初期もそうですし、『でんぱの神神』がレギュラー配信終了後に特別編としてライブの密着をしたときは、自分でカメラを担いで密着映像とライブを収録して、それを自分で編集したりもしました。 やっぱり、自分で回した素材は自分で編集したいっていう気持ちが湧くんですよね。忘れかけていたディレクター心に火がつくというか……編集で次第に形になっていくのがおもしろくて。編集作業に限らず、構成台本を作成したり、けっこうなんでも自分でやっちゃうタイプですね。 (写真:『でんぱの神神』特別編 #349/2019年5月27日配信) logirlは、やりたいことを実現できる場所 ──logirlに参加した経緯を教えてください。 河合 実は『Pocket Music(ポケットミュージック)』が終わったとき、ADだったのに完全にフリーになったんですよ。そこから朝の情報番組などいろんなジャンルの番組を経験して、番組を通して知り合った仲間からいろいろと声をかけてもらって仕事をしていました。紀行番組で毎月海外に行ったりしたこともありましたね。 ちょうど一段落して、テレビ番組以外のこともやってみたいなと考えていたときに、日テレAD時代の仲間から「テレ朝で仕事があるけどやらない?」と紹介してもらい、それがまだ平日に毎日生配信をしていたころ(2015〜2017年)のlogirlだったんです。 (写真:撮影で訪れたスペイン・バルセロナにて) ──番組を作る上でモットーにしていることはありますか? 河合 今は一般の方でも、タレントさんでも、編集ソフトを使って誰でも動画制作ができる時代になったじゃないですか。だからこそ、「テレビ局の動画スタッフが作っている」というクオリティを出さなければいけないと思っています。難しいことですが、これを諦めたら番組を作る意味がないのかなという気がするんですよね。 あとは、出演者との信頼関係を大切に…..といったことですね。特に『でんぱの神神』『ナナポプ』といった密着系の番組は、出演者の気持ちをいかに言葉として引き出すかにかかっていますので、そこには絶対的な信頼関係を築いていくことが必要だと思います。 ──実際にlogirlで仕事してみて、いかがでしたか? 河合 自分でイチから企画を考えてアウトプットできる環境ではあるので、そこは楽しいですね。自分のやりたいことを、がんばり次第で実現できる場所。そういった意味でやりがいがあります。 ──リニューアルをしたlogirlの今後の目標を教えてください。 河合 まずは、どんどん新規の番組を作って、コンテンツを充実させていきたいです。これまで“ガールズ”に特化していましたが、今はその枠がなくなり、落語・講談・浪曲などをテーマにした『WAGEI』のような番組も生まれているので、いい意味でいろいろなジャンルにチャレンジできると思っています。 時期的にまだ難しいですが、ゆくゆくはlogirlでイベントをすることも目標です。logirlだからこそ実現できるラインナップになると思うので、いつか必ずやりたいと思っています。 文=森野広明 編集=田島太陽
大胆に予想!『美味しい馬券〜「美味しい競馬」スピンオフ〜』
仙波広雄@スポーツニッポン新聞社 競馬担当によるコラム。週末のメインレースを予想&分析/「logirl」でアーカイブ公開中『美味しい競馬』MC
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大胆に予想!『美味しい馬券〜「美味しい競馬」スピンオフ〜』(東海S)
大胆に予想!『美味しい馬券〜「美味しい競馬」スピンオフ〜』(東海S) 先週の小倉記念は△◎△で決着。9→3→2番人気でした。夏競馬のうちに一発当ててひと息つきたいところです。今週から中京と新潟は暑熱対策でメインレースが7Rになっています。ご注意ください。予想は7月27日(日)の中京7R・東海Sにします。昨年までのプロキオンSが東海Sとなり、そのプロキオンSは1月に移設。違和感はありますし、この年齢になると慣れるかも分かりませんが、ひとまず目前にあるレースをこなしていくことにします。 【東海Sの傾向・特異点】は昨年までのプロキオンSなのですが、これが近年は阪神やら小倉での開催が多く、12年以降の中京ダート1400に限って傾向を収集してみます。 ・父系はエーピーインディ系かミスプロ系 ・前走好走馬の成績がいい(調子が大事) ◎⑯サンライズフレイム。 本来は前走で先行して行き脚のいい馬を買いたいのですが…。栗東Sは2番人気で前半置かれていい脚を使ったものの5着。一応、59キロを背負っていたのがエクスキューズにはなるでしょうか。やや重馬場の京都ダート1400で4角14番手なら、そりゃそうやろ…という結果なので、悲観することもないかと。米国父系のいいレースですし、この馬は母父もミスプロ系のアフリート。好位に強力な馬が多いので、その一列後ろあたりから進められるなら展開も悪くありません。 ○③オメガギネス。 安田厩舎での転厩2戦目。この厩舎が岩田康誠を乗せてきたので、当然調教は岩田康がつけます。そして距離短縮で初7F。岩田康のコメントは「ワンターンの競馬はいいかもね」です。これが怖くない競馬ファンはそんなにいないのでは。 ▲⑩ロードエクレール。 ビダーヤやヤマニンウルスといった有力馬に少々不穏な気配を感じますので、▲は思い切ってひねってみます。このメンバーでもハナには行ける。行けたところで好位勢は強力なわけですが、こうも「ハナには行かないまでも好位がほしいタイプ」がそろうと、それはそれで逃げる馬にそれほど不利にはなりません。けん制しあってくれれば。まあ、後続がけん制しあったところでこの馬が残れるかという問題は残りつつ。 馬券は3連単軸2頭マルチ。 <軸>③⑯→<相手>①②④⑦⑧⑨⑪⑬⑭。54点。 text:仙波広雄@大阪スポーツニッポン新聞社 競馬担当/【logirl】でアーカイブ公開中『美味しい競馬』MC
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大胆に予想!『美味しい馬券〜「美味しい競馬」スピンオフ〜』(小倉記念)
大胆に予想!『美味しい馬券〜「美味しい競馬」スピンオフ〜』(小倉記念) 酷暑が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。くれぐれもご自愛しつつ、夏競馬ライフを過ごしてくださいませ。今週は7月20日(日)の小倉11R・小倉記念となります。このレースも小倉、中京の開催入れ替わりの影響を受けて施行時期が繰り上がり。前年までの傾向が全く当てにならないわけではありませんが、多少の割引は必要でしょう。 【小倉記念の傾向・特異点】(過去10年) ・前走2桁着順の好走例が多数 ・前走、直線の長いコースで負けた馬の一変例が多数(ここまで七夕賞と一緒) ・差し、追い込みが優勢。前走末脚勝負で着をまとめた馬の躍進あり ・トニービン、ディクタス持ち。母父ナスルーラ直系など血統的な偏りも目立つ ◎⑥シェイクユアハート。 準オープンを【1・7・4・3】と複勝率80%で15戦、1年8カ月かけて突破。過去を振り返って、準オープンで15戦しつつ複勝率80%以上をキープした馬は2000年以降だとこの馬だけです。まあ本当に強い馬は3勝クラスをそんなに走りませんが。ためにためて準オープンを突破した次戦は、過去の例だと4着あたりに収まることも多いのですが、シェイクユアハートの成績を眺めて思い至ったのがマヤノアブソルートです。01年小倉記念3着(前走準オープン1着)、02年3着(前走準オープン2着)、03年11着(前走準オープン1着)。当時は降級制度があったので長期にわたって準オープンに居座り、夏の小倉開催で活躍しました。要は準オープン最上位だった馬がハンデ戦で55キロなら、走ってもいいのでは、ということ。 ○⑦オールセインツ。 2頭出しの友道厩舎で人気が上なのはメリオーレムでしょうが、オールセインツは神戸新聞杯4着馬(メリオーレム5着)。もちろんメリオーレムには順調に使っている強みと勝ってここに臨む勢いがありますが、オールセインツも素質は負けていないでしょう。叩き2走目で一変の可能性はあります。 ▲⑨リカンカブール。 G3勝ち、G2での3着と重賞実績十分のリカンカブールが去勢されて休み明け。6歳になっての去勢ですから、フィジカルよりはメンタルにおける措置。効果があれば即、というところ。コース2本、坂路での仕上げは上々とみて。 馬券は3連単軸2頭マルチ。 <軸>⑥⑦→<相手>①④⑤⑨⑩⑯。<軸>⑥⑨→①④⑤⑩⑯<相手>。66点。 text:仙波広雄@大阪スポーツニッポン新聞社 競馬担当/【logirl】でアーカイブ公開中『美味しい競馬』MC
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大胆に予想!『美味しい馬券〜「美味しい競馬」スピンオフ〜』(七夕賞)
大胆に予想!『美味しい馬券〜「美味しい競馬」スピンオフ〜』(七夕賞) 先週の北九州記念は1着◎ヤマニンアルリフラ、2着▲ヨシノイースターでした。ここのところ言及している夏競馬の開催変更ですが、7月13日(日)の福島11R・七夕賞には施行条件の変更はありません。節句を名称にした重賞なので、1980年の第16回以降は7月5~13日で定着しています。その前は10月だったり、8月だったりしますが、このあたりの事情は知らないです。仙台の七夕は8月と聞きますが…。ともあれ七夕賞。 【七夕賞の傾向・特異点】(過去10年) ・前走2桁着順の好走例が多数 ・前走、直線の長いコースで負けた馬の一変例が多数 ・母父ノーザンダンサー系特注、特に欧州系 傾向の3つめがまさに特異点。母父サドラーズウェルズ、カーリアンが好走。純粋な欧州系といえるか微妙ですが、母父アンユージュアルヒートやマルジュも走っています。母父の血統にこれだけ偏りがある重賞は珍しいので、この視点の一点突破で。 ◎⑬セブンマジシャン。 ホープフルS3番人気6着。スプリングS1番人気6着。一歩足りませんでしたが、クラシック路線でも人気したほどの馬。そのため条件級でも人気して、延々3勝クラスを勝ちきれないところに落ち着いています。現3勝クラスからの格上挑戦。それでもそれなりには人気するでしょうが、母父メイショウサムソンで一点突破。メイショウサムソンはオペラハウス×母父ダンシングブレーヴ、在来ガーネット牝系という、走った当時でもとがった配合で、強い馬はとことん強いオペラハウスを体現した馬。種牡馬成績はもう一つでしたが、母父メイショウサムソンを買うとしたら七夕賞か道悪の中山記念でしょう。 ○⑫シルトホルン。 このレースは前走2桁着順からの好走例が多い一方、前走1着馬の成績がひと息。直線の長いコースで1着を取った馬は特に危なく、シルトホルンはそれに当てはまってしまいます。ただ、ラジオNIKKEI賞2着があるように、小回りが苦手というわけではなく、鞍上も大野なら構えすぎて圏外という形にはならないのではないかと。 7月13日の七夕賞に7枠13番のセブン◎。できすぎですねえ…。 馬券は3連単軸2頭マルチ。 <軸>⑫⑬→<相手>②③⑥⑧⑩⑮。36点。 text:仙波広雄@大阪スポーツニッポン新聞社 競馬担当/【logirl】でアーカイブ公開中『美味しい競馬』MC
その他
番組情報・告知等のお知らせページ
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WAGEI公開収録<概要・応募規約>
テレ朝動画「WAGEI 公開収録」番組観覧無料ご招待! 2025年1月18日(土)開催! logirl(ロガール)会員の中から抽選で100名様に番組観覧ご招待! 番組概要 テレ朝動画で配信中の伝統芸能番組『WAGEI』の公開収録! 番組MCを務める浪曲師「玉川太福」と、五代目三遊亭円楽一門の落語家「三遊亭らっ好」が珠玉のネタを披露します。 ゲストには須田亜香里と、SKE48赤堀君江が登場!出演者からの貴重なプレゼントも用意する予定です。 超レアなプログラムを是非お楽しみください。 日時:2025年1月18日(土)開場12:30 開演13:00(終演15:15予定) 場所:浅草木馬亭 東京都台東区浅草2−7−5 出演:玉川太福(浪曲師)・玉川みね子(曲師)/三遊亭らっ好(落語家)/須田亜香里/赤堀君江(SKE48) 応募詳細 追加応募期間:2024年12月27日(金)15:00~2025年1月9日(木)17:00締切 応募条件:logirl(ロガール)会員のみ対象(当日受付で確認させていただきます) 下記「応募規約」をよく読んでご応募ください。 応募フォーム:https://www.tv-asahi.co.jp/apps/apply/jump.php?fid=10062 追加当選発表:当選した方のみ、2025年1月10日(金)23:59までに 当選メール(ご招待メール)をご登録されたアドレスまでお送りさせていただきます。 「WAGEI公開収録」応募規約 【応募規約】 この応募規約(以下「本規約」といいます。)は、株式会社テレビ朝日(以下「当社」といいます。)が 運営する動画配信サービス「テレ朝動画」における「WAGEI」(以下「番組」といいます。)に関連して 実施する、公開収録の参加者募集に関する事項を定めるものです。参加していただける方は、本規約の 内容をご確認いただき、ご同意の上でご応募ください。 【募集要項】 開催日時:2025年1月18日(土)13:00開始~15:15頃終了予定 (途中、休憩あり) ※スケジュールは変更となる場合があります。集合時間等の詳細は当選連絡にてお伝えいたします。 場所:浅草木馬亭(東京都台東区浅草2-7-5) 出演者(予定):玉川太福(浪曲師)・玉川みね子(曲師)/三遊亭らっ好(落語家)/須田亜香里/赤堀君江(SKE48) ※出演者は予告なく変更される場合があります。 募集人数:100名様(予定) ※応募者多数の場合は、抽選とさせていただきます。 【応募資格】 ・テレ朝動画logirl(ロガール)会員限定 ・年齢性別は問いません 【応募方法】 応募フォームへの必要事項の入力 ・テレ朝動画にログインの上、必要事項を入力してください。 【ご参加お願い(参加決定)のご連絡】 ■ご参加をお願いする方(以下「参加決定者」といいます。)には、1月10日(金)23:59までに、応募フォームにご入力いただいたメールアドレス宛に、集合時間と場所、受付手続等の詳細を記載した「番組公開収録ご招待メール」(以下「ご招待メール」といいます。)を送信させていただきます。なお、ご入力いただいた電話番号にお電話をさせて頂く場合がございます。非通知設定でかけさせていただく場合もございますので、非通知拒否設定は解除して頂きますようお願いします。 ■当日の集合時間と集合場所は「ご招待メール」に記載します。集合時間に遅ることのないようご注意ください。 ■「ご招待メール」が届かない場合は、残念ながらご参加いただけませんのでご了承ください。 ■「ご招待メール」の送信の有無に関するお問い合わせはご遠慮ください。 ■公開収録の参加は無料です。参加決定のご連絡にあたって、参加決定者に対し、参加料等のご入金のお願いや銀行口座情報、クレジットカード情報等のお問い合わせをすることは、一切ございません。「テレビ朝日」や本サービスの関係者を名乗る悪質な連絡や勧誘には十分ご注意ください。また、そのような被害を防止するため、ご応募いただいた事実を第三者に口外することはお控えいただけますようお願い申し上げます。 ■「ご招待メール」および公開収録への参加で知り得た情報、公開収録の内容に関する情報、及び第三者の企業秘密・プライバシー等に関わる情報をブログ、SNS等への記載を含め、方法や手段を問わず第三者への開示を禁止いたします。また、当選権利および当選者のみが知り得た情報に関して、譲渡や販売は一切禁止いたします。 【注意事項】 ■ご案内は当選したご本人様1名のみのご参加となります。(同伴者はご案内できません) ■未成年の方がご応募いただく場合は、必ず事前に保護者の方の同意を得てください。その場合は、電話番号の入力欄に保護者の方と連絡の取れる電話番号をご入力ください。(保護者にご連絡させていただく場合がございます。) ■開催当日、今回の公開収録の参加および撮影・映像使用に関しての承諾書をご提出いただきます。(未成年の方は保護者のサインが必要となります。) ■1名につき応募は1回までとします。重複応募は全て無効になりますので、お気をつけください。 ■会場ではスタッフの指示に従ってください。指示に従っていただけない場合は、会場から退去していただく場合がございます。 ■会場でのスマートフォン等を用いての録画・録音についてはご遠慮ください。 ■会場までの交通手段は、公共交通機関をご利用ください。駐車場はございません。 ■会場までの交通費、宿泊費等は参加者のご負担にてお願いいたします。 ■当日は、ご本人であることを確認させていただくために、お手持ちのスマートフォン等で表示または印刷した「ご招待メール」と、「身分証明書」(運転免許証・パスポート等、氏名と年齢が確認できるもの)をお持ち下さい。ご本人確認が出来ない方は、ご参加いただけません。 ■荷物置き場はご用意しておりません。貴重品の管理等はご自身にてお願いいたします。貴重品を含む持ち物の紛失・盗難については、当社は一切責任を負いません。 ■公開収録に伴い、参加者・客席を含み場内の撮影・録音を行い、それらの映像または画像等の中に映り込む可能性があります。参加者は、収録した動画、音声を、当社または当社が利用を許諾する第三者(以下、当社および当該第三者を総称して「当社等」といいます)が国内外テレビ放送(地上波放送・衛星波放送を含みます)、雑誌、新聞、インターネット配信およびPC・モバイルを含むウェブサイトへの掲載をはじめとするあらゆる媒体において利用することについてご同意していただいたものとみなします(以下、かかる利用を「本件利用」といいます)。なお、本件利用の対価は無料とさせていただきますので、ご了承ください。 ■諸事情により番組の公開収録が中止又は延期となる場合がありますのでご了承ください。 【個人情報の取り扱いについて】 ■ご提供いただいた個人情報は、番組公開収録への参加に関する抽選、案内、手配又は連絡及び運営等のために使用し、収録後に消去させていただきます。 ■当社における個人情報等の取扱いの詳細については、以下のページをご覧下さい。 https://www.tv-asahi.co.jp/privacy/ https://www.tv-asahi.co.jp/privacy/online.html
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新番組『WAGEIのじかん』(CS放送)
CSテレ朝チャンネル1「WAGEIのじかん」 落語・浪曲・講談など日本の伝統芸能が楽しめる番組。MCを務める浪曲師玉川太福と話芸の達人(=ワゲイスト)たちが珠玉のネタを披露します。さらに、お笑いを愛する市川美織が番組をサポート!お茶の間の皆様に笑いっぱなしの15分をお届けします。 お届けするネタ(3月放送)は、玉川太福の浪曲ほか、古今亭雛菊・春風亭かけ橋・春風亭昇吉・昔昔亭昇・柳家わさび・柳亭信楽の落語、神田松麻呂の講談などが登場します。お楽しみに〜!(※出演者50音順) ★3月の放送予定 3月17日(日)25:00~26:00 3月21日(木)26:00~27:00 3月24日(日)25:00~26:00 ⇩【収録中の様子】市川美織さん箱馬に乗って高さのバランスを調整しました。笑