偶然で必然の出会い、渋谷に響くひとつの歌声──島田隆一『ドコニモイケナイ』

文野紋のドキュメンタリー日記 ~現実(リアル)を求めて~

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文野紋のドキュメンタリー日記 ~現実(リアル)を求めて~
人生を変えた一本、退屈な日々に刺激をくれる一本、さまざまな愛に気づく一本など──
漫画家・文野紋によるリアルな視点、世界観で紹介するドキュメンタリー映画日記

 

『ドコニモイケナイ』は2012年に公開され、第53回日本映画監督協会新人賞を受賞したドキュメンタリー映画である。

物語は2001年の渋谷から始まる。1996年生まれの自分には当時の渋谷の空気は想像でしかわからないが、ギャルブームやメディアの注目もあり若者のファッション・トレンドの街だったという。本作のパンフレットによるとゼロ年代初期の渋谷は「行き場のない若者が集まっては、ただひたすらにたむろしている場所」であったと書いてある。今でいう「トー横(※新宿の歌舞伎町にある東宝ビル横のこと)」のような位置づけだったのだろうか。

監督の島田隆一は2001年当時、映画専門学校に通う学生だった。本作は当初、専門学校の実習課題として撮影され始めたものだった。ほかの学生より大人しく、課題を探しあぐねていた島田に講師が「渋谷へでも行ってみたら?」と提案したことがきっかけだった。

2001年10月23日、ひしめく若者たちの中で島田とスタッフたちはひとりの女性と出会う。あまり上手とはいえない声で歌う彼女は、佐賀からヒッチハイクでやってきたストリートミュージシャンの吉村妃里(よしむら・ひさと/当時19歳)であった。
「元気で行こう 精一杯の力を出して
元気で行こう 無理しなくて いい
元気で行こう 気楽な気持ちでリラックスして」
そう歌う彼女に惹かれた島田とスタッフたちは彼女を追いかけて撮影をすることに決める。

渋谷吉村妃里02

(C)JyaJya Films

妃里は、新宿で出会った芸能事務所の社長という人間からスカウトをされ、事務所が借りたウィークリーマンションに住むようになる(最終的には妃里は「貧血」を理由にわずか1カ月ほどで切り捨てられ、住む場所を失ってしまう)。そのあと路上で知り合った友人・幸香の家に居候したりと妃里を取り巻く環境が不安定に変わっていくなか、2001年12月13日、島田らスタッフの元に幸香から連絡が届く。
「妃里の様子がおかしい」
妃里は統合失調症を発症していた。

翌々日の12月15日には妃里は都内の病院に緊急入院し、翌年3月には故郷である佐賀の病院に転院することとなる。こうして映画の撮影は中断され、妃里を映したテープは放置されたまま、島田らスタッフは映画専門学校を卒業してしまう。

私個人の話で恐縮だが、私の祖母は私が物心ついたころ、すでに統合失調症を患っていた(母から聞いた話だと、母が小学生のころにはすでに発症していたという)。

当時はまだ統合失調症という病名に改称されて日も浅かったからか、母からは「ばーちゃんは精神分裂病だから」と言われて育った。家族で帰省したときには祖母が私を罵倒することもあったようだから、「精神分裂病だから、ばーちゃんの言うことは気にしなくていいよ」という母から子への思いやりから出ていた言葉だと思う。私の中の祖母の記憶は、誰かに怒っているか、上のほうの何もない一点を見つめて何かぶつぶつと話している姿しかない。

母には「神様と話してるらしいよ」と教えられた。祖母は歩くことも難しかったので、母は祖母を風呂に入れることにすごく苦労していたような記憶がある。もちろん、統合失調症の症状はさまざまで、これは私の祖母の話でしかないので主語を大きくするつもりはない。

私は、発症する前の祖母を知らないので祖母とはそういうものだと思っていたし、祖母の話す言葉は方言がきつかったこともあり罵倒されても特別傷つくということはなかったが、母が「母さんも発症したらどうしよう」、「遺伝かもだから」とひどく心配していたのは今でも強く印象に残っている(実際、遺伝的要素は示唆されているものの、未だ解明はされていないようだ)。

母は発症前の祖母を知っている。母にとって統合失調症は「突然、自分にも起こってしまうかもしれないこと」なのだと思う。私もそうなんだろうな、と思う。人間は現実に物語性を見出したくなってしまうが、それは必ずしも正しくない。

本作のパンフレットでも精神科医の春日武彦は統合失調症の発症について「率直に述べるなら、運が悪かったとしか表現できない」(『ドコニモイケナイ』パンフレットより引用)と述べている。

監督である島田は語る。
「吉村妃里を統合失調症にまで追い込んだのは、カメラを回し続けた自分の責任ではないだろうか」

渋谷吉村妃里

(C)JyaJya Films

以前、『監督失格』について書いた記事でも引用したが『ゆきゆきて、神軍』の監督である原一男は「ドキュメンタリーをやる人間は畳の上で死ねない」と述べている。

『監督失格』の監督である平野勝之も「人の死で金儲けしていると言われるかもしれない」と心配していた。
(文野紋のドキュメンタリー日記 ~現実(リアル)を求めて~ #1:https://www.tv-asahi.co.jp/reading/logirl/2894/

『監督失格』も『ドコニモイケナイ』も不安定な、美しい女性とそれに惹かれた監督がカメラを通してコミュニケーションを取る、カメラを通してしかコミュニケーションを取れない、という構造で物語が進む。もちろん取り巻く状況や彼女らのキャラクターはまったく違うものなので単純に比較はできないが『監督失格』の被写体である林由美香は売れっ子のAV女優だ。どんな激しい場面でも撮りなさいと平野に言った。監督である平野もプロのAV監督であるから、悩みながらも彼女の言葉に従った。しかし『ドコニモイケナイ』の被写体である吉村妃里は歌手志望の19歳の若者でしかない。監督である島田も、当時20歳そこらの映画学校の学生だ。

本作の後半では、撮影を中断してから9年後、佐賀で暮らす妃里が描かれている。

妃里が佐賀に渡り撮影を中断してから島田やスタッフはそれぞれの道を歩んでいた。島田も起業用のPR映像の制作に携わるなど映画業界で仕事をするようになる。ただ、そうしている間にも島田の胸にはしこりのように妃里さんを映した映像のことが残っており、細々と編集作業もしていたという。2007年、冒頭で島田に「渋谷へでも行ってみたら?」と提案した映画学校の講師から「あれをまとめてみないか」と電話を受ける。講師から「現在の吉村妃里を描くべきだ」という言葉もあり、悩みながらも島田はカメラを持って現在の妃里に会いにいく。

佐賀作業所

(C)JyaJya Films

そこでは、母とふたりで暮らしながらNPO法人・鹿陽会チャレンジド支援センター「ザ・鹿島」に通っている妃里の姿があった。そこで軽作業(服をたたんでビニール袋に詰めるなどの単純作業)にも取り組んでいる。

2001年との渋谷とはあまりにも正反対の妃里の故郷の風景は、一種のやるせなさというか切なさのようなものを感じさせる。そして同時に映画を完成させるために、その対比を映さなければならないというドキュメンタリー監督という職業の業も感じさせられる。物語の終盤、彼女が博多の駅で再び「元気で行こう」を歌うシーンがある。道ゆく人は誰も彼女とコミュニケーションを取ろうとしない。

ただ、切なく感じてしまうというのも現実に物語性を求めてしまう鑑賞者である私たちの悪癖でしかなく、妃里の人生も島田の人生も続いているのだ。妃里は本作についてこう語る。
「50歳くらいになったら、この作品を持って講演をしたいな」
島田がこの作品を撮ることができたのはある意味“偶然”なのだろうと思う。当時の島田にとっては悪い偶然だったのだろうと思うし、自責の念を抱えていたことも窺える。だが、その映像を『ドコニモイケナイ』という一本の映画にまとめるに至ったのは、島田のドキュメンタリー監督としての性なのだと思う。

デリケートな題材であるがゆえ、すべての人が観るべきだとは思わない。だが、少なくとも私はこの映画を観ることができてよかったと思う。公開10周年を記念して再上映をしてくれたポレポレ東中野にも感謝でいっぱいだ。

この映画を必要とする人に届いてくれたらいいなと思う。そして願わくば、ふたりにとってもいいものであったらいいな、と思う。

文野 紋(ふみの・あや)
漫画家。2020年『月刊!スピリッツ』(小学館)にて商業誌デビュー。2021年1月に初単行本『呪いと性春 文野紋短編集』(小学館)を刊行。同年9月から『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)で連載していた『ミューズの真髄』は2023年に単行本全3巻で完結。2023年9月より、ウェブコミック配信サイト『サイコミ』にて『感受点』(原作:いつまちゃん)の新連載がスタート。

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(C)JyaJya Films
出演 吉村妃里 吉村はる子
撮影・録音 朝妻雅裕 島田隆一 城阪雄一郎
佐賀編撮影 山内大堂
編集 辻井潔
音楽 AMADORI モリヒデオミ
宣伝 酒井慧
配給 JyaJya Films
製作 JyaJya Films
監督 島田隆一

 

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