柳亭小痴楽「親父のような男になるには、落語家になるしかないかもな」|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#15(前編)

若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>

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五代目・柳亭痴楽を父に持つ三代目・柳亭小痴楽(りゅうてい・こちらく)。
しかし小痴楽が父の落語を初めて聴いたのは、先輩から借りた録音テープだった。そのときの印象は、「おもしろくねぇな」。

親父の落語ではなく、噺家の親父が好きだったと言ってはばからない小痴楽は、もちろん父・痴楽から落語を教わったことはない。それでも彼の生き様と落語には、父のエッセンスが流れているようだ。

そんな小痴楽に、落語家になるまでの軌跡、そして初高座の思い出を聞いた。

若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>
注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。

「親父の落語はおもしろくない」

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柳亭 小痴楽

──落語家の息子として育った小痴楽さんは、昔から落語好きでしたか?

小痴楽 いや、15歳くらいまではほとんど聴いたこともないです。親父の落語を聴いたのも前座修行明けてから。いろんな兄さん方に「聴いたことないの?」と驚かれて、稽古の音源を聴かせてもらいました。

でも僕は、親父の落語をおもしろいとはまったく思えない。もっというと苦手です。落語家になってから聞いたもんだから、親父がどんな師匠に憧れてるのかも手に取るようにわかる。そうすると、「だったらもっと稽古しろよ」とか「これでいいと思って遊び呆けてたのかよ」って引いちゃうところもある。

でも、まわりからは「お前の落語、お父さんに似てるよ」なんて言われるんで、複雑ですよ。一番おもしろくないと思ってる落語に似てるなんてね(苦笑)。

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──子供のころに、お父さんの落語を観る機会はなかったんですか。

小痴楽 親父の落語会を家族で手伝うことはあって、落語好きの兄はよく合間に客席から観てましたけど、僕は興味がなかった。色物とか漫才になると客席に行く子供でした。当時の僕は漫才がやりたかったんですよ。

──漫才が好きだったんですね。

小痴楽 しゃべりで掛け合う人たちの漫才、いわゆるしゃべくり漫才が好きでしたね。テレビでも『(爆笑)オンエアバトル』(NHK)をよく観てましたよ。ハリガネロックさんとか中川家さんが好きでしたね。ただ、人としてだらしない自分なんかが相方と付き合ってネタをやっていくのは無理だろうと、ハナから諦めてました。

漫談はどうかなとも考えたんです。でも、もし一発何かできて、売れることができたとしても、そのあとも残り続ける自信はねぇなと。当時あったネタ番組とかだと、ピン芸人には使い捨てっぽく見えましたしね。

「パパが倒れてよかったね」

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小痴楽 そんなころ、なんの気なしに自宅にあった八代目・春風亭柳枝師匠の『花色木綿』のCDを聴いて、これ超いいなって思ったんです。「落語だったら全部ひとりでできるじゃん」って。

──灯台下暗しというか(笑)。

小痴楽 落語家の親父のもとで育ってたのに、落語の魅力にまったく気づいてなかった。で、親父に(春風亭)柳枝師匠の落語聴いたって言ったら、「これ読め」って渡されたのが『現代落語論』(立川談志著)。当然おもしろかったから、次は談志師匠の音源を聴かせてもらうんですけど、これがよくなかった(苦笑)。

僕が子供すぎたせいで、談志師匠の落語のよさがまったくわからなかったんです。それで親父に「ちょっとこの人イヤだ、センスねぇよ」と言ったら、外連れ出されてボコボコにされました。その直後に親父が病気で倒れちゃったんで、あのあとはろくに話し合えないままでしたね。

──その後、二代目・桂平治師匠(のちの十一代目・桂文治)のお弟子さんになられた。

小痴楽 はい。ただ、うちの母親が言うには「アンタ、パパが倒れてよかったね」と。僕が親父の弟子になっても、ガンガン親子ゲンカやり合っちゃう。それじゃ父は師匠として僕を破門しなきゃなんないので、僕は絶対に落語界に残れてなかっただろうと。たしかにそうなんですよ。落語家の僕としては、入れ違いになってラッキーでしたよ。親父が倒れて本当によかった(笑)。

それに僕は親父の落語が苦手ですしね。これのおもしろいところがひとつあって。僕の場合、その人の落語が好きだったら、その人自身も好きになる。逆に、その落語家の人柄に惹かれたら、その人の落語も好きになることがほとんどなんです。

親父だけですよ。人間は好きなのに、落語が苦手というパターンは(笑)。弟子になったとしても、どの道絶対うまくいかなかったと思いますよ。

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──でも、お父さんの人柄は好きだった。

小痴楽 そうですね。うちの親父みたいな大人になりたいってずっと思ってました。親父みたいな落語家になりたいと思ったことは一度もない。でも、親父のような男になるには、落語家になるしかないかもなと思ったことは何度もあります。

──どんなお父さんでしたか。

小痴楽 毎日遊んでるように見えましたね。「ちょっと行ってくる」って平気でひと月帰ってこない。ようやく帰ってきたら手ぶらで「お金ない」。かと思えば、「麻雀行ってくる」と言ってなぜか大金を持って戻ってくる。

親父の行動のすべてが、仕事なんだか遊びなんだかよくわからない。家にもいろんな大人がしょっちゅう出入りしては、わあわあ騒いでいる。カタギの人も落語家も芸能関係の人も一緒になって、ハワイに行ったりとかね。毎日すごい楽しそうなんです。

親父の隣にいたら「明日は何が起こるんだろう」って毎日ワクワクできる。「親父みたいに生きられたらな」と思うのも自然な流れでしたね。傍から見れば、いい加減な親だったかもしれないですけど、僕も兄貴も一応仕事を見つけて生活できてる。親父は間違ってなかったんだと思いますね。

初高座は絶句…そして観客に「黙ってろよ!」と言い放つ

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──小痴楽さんが入門されたのは16歳のときですね。

小痴楽 そうですね。親父に相談してから1年後、高校途中で辞めて、文治師匠のところに入れてもらいました。でも、当時はとにかく上下関係もちゃんと守らないし、寝坊はするしで、破門されて……。

当時の僕は本当ダメで、先輩に対して「なんで2〜3年しか違わないのに、こんなに偉そうにされなきゃなんねぇの」って常にケンカ腰の学生了見が抜けてませんでした。大人のイジリ的なのも、かなりキツかったのは事実ですけど、いちいちマトモに受け取ってて僕も悪かった。

うちの母親は「やっぱ覚悟足んねぇな」って言ってくれましたしね。二世の落語家なんだから、まわりから妬み嫉みあってもしょうがないだろうと。もともと親父がいたから、あっさりと落語家になれたものを、今になって「まわりと平等に見てほしい」ってのは虫がよすぎる。そう言われて、気持ちをちょっと改めましたね。

──初高座はいつですか?

小痴楽 2005年の10月ですかね。17歳になる直前です。7月に入門して、まだ前座にもならない見習いのときです。先輩たちが新宿末廣亭の『余一会』で、「痴楽を励ます会」みたいにやってくれて、そこに昼夜で上げてもらったのが最初なんです。

『子褒め』っていうネタをやりましたが、2度とも絶句しました。先輩が「どっから出てこない?」って助けてくれて、それで一応おしまいまでやらせてもらいましたけど。

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──緊張して絶句したんですか。

小痴楽 いや、写真撮ってるお客さんが何人かいて、そのフラッシュにビクっとして止まってしまった。「なんで高座中に勝手に撮るんだよ」っていう怒りと、些細なことに動揺した自分への腹立ちでいっぱいになったのを覚えてますね。

あと、フラッシュひとつがこんなにもじゃまになるんだという驚きもありましたね。それまで客席で落語を観たことがなくて、CD聴いてただけなんですよ。だから客席の小さな動きがこんなに高座に影響することも知らなかった。

正式な初高座はその直後の浅草演芸ホールでした。そのときはただただ頭真っ白になっちゃって絶句しました。緊張しいなんですよ。

──意外です。

小痴楽 そのくせ、お客さんに「初高座か、がんばれっ!」って声かけられたら、「うるせぇな、今思い出してるんだよ。黙ってろよ!」って啖呵切っちゃってね(笑)。

当時はもう16歳の落語家ってほとんどいない。おまけに当時の僕は身長も150センチくらいしかないし、坊主頭で、ガキなんですよ。お客さんからすれば、二世代くらい前の初高座感があって、かわいく見えたんでしょうね。あの声援は浅草らしい人情だったのに、僕は殺気立って噛みついてしまった。

結局2回くらい止まりながら、おしまいまでやりましたけど、10分の出番のところを25分もやっちゃいましたね。師匠にも先輩にも叱られましたけど、僕は僕で「俺の初高座なんだぞ! 最後までやらせろよ!」と意地でした。

「二ツ目時代は不相応な仕事が多くてつらかった」

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──その後2009年に二ツ目に昇進し、柳亭楽輔師匠の門下に入った小痴楽さんは、2013年に落語芸術協会に所属する二ツ目のユニット「成金」を結成しました。

小痴楽 今でこそユニットは珍しくないけれど、当時は、一人ひとりで活動するよりも、みんなで集まって塊になったほうが目立つだろうってことで始めたんです。最近はむしろひとりでやってるほうが目立つかもしれないですね(笑)。

僕は成金で仲間のやり方を見たおかげで、どうやったらウケるか学んでいきました。まくらの作り方から落語のやり方まで、尊敬する仲間の高座を観るなかで、自分にできること、やりたいことが見つけられた。

「(桂)宮治さんめっちゃウケてるな〜」と感心するだけじゃなく、「あれは俺にはできないな」「俺はあのやり方したくない」って考えながら、自分の道を見つけていきました。上の師匠方や先輩方を見るのはもちろん大事なんですけど、同時に、対等である同期の落語を常に肌身に感じるのも、重要でしたね。

──そういう意味では今はユニットが当たり前になり、切磋琢磨できるいい環境が整った。

小痴楽 そういうわけでもないと思いますよ。今の人たちは、とりあえず組んで、塊で動くことのメリットばかり追っている。肝心の「尊敬できる仲間と組んで学び合う」ってところを疎かにしてるように感じることもあります。

そもそもお互いの芸が好きじゃないと、学び取ることも反面教師にすることもできない。ただ漠然と見ていてもしょうがないじゃないですか。まあ、ものさしは人それぞれなんで当人はじゅうぶんやってるつもりなんでしょうけど、僕らはもっと根本の部分で尊敬し合ってた気がする。

もちろんまじめにユニットで活動してる人もいますけど、本来の自分たちの根本にある「落語をやりたい」って気持ちを忘れてる連中もいますね。

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──成金で切磋琢磨して、2019年に小痴楽さんは真打になりました。真打としての初高座に当たる披露目も、緊張しましたか?

小痴楽 これは真打になった成金メンバーがみんな言うんですけど、まったく緊張しなかったんですよ。僕らより前に真打になった兄さん方は、「寄席の初トリは緊張するよ」と言ってたんですが、僕は披露目のときは完全に平常心。逆に、なんでこんなに普段どおりなんだろうって不安になるくらいでしたよ。

──緊張しいだと自覚されている小痴楽さんが緊張しなかった。

小痴楽 あとになって、その理由に気づきました。「成金」で、(神田)伯山さんとか宮治さんと闘ってきたんで、披露目の緊張感は正直どうってことないんですよ。

伯山さんが呼んだ1000人のお客さんの前に、僕が先輩だからってだけの理由でトリとして出ていくこともよくありました。1000人がみんな「いや、お前観に来てないんだけど……」って空気を放つなかで、結果を残さなきゃいけない。講談を観に来たお客さんに「落語だっていいんだぞ」と絶対に証明しなくちゃいけない。そのプレッシャーのほうが、よっぽど怖かった。

変な話、初トリのプレッシャーみたいなのは、すでに超えていたんです。二ツ目時代のほうが、身分不相応な仕事が多くて、つらかったですよ。「成金」やってなかったら、真打の披露目も、かなり緊張してたんじゃないですかね。

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文=安里和哲 写真=青山裕企 編集=龍見咲希、田島太陽

柳亭 小痴楽(りゅうてい・こちらく)
1988年12月13日、東京都渋谷区出身。落語家。五代目・柳亭痴楽のもとに生まれ、2005年、16歳で桂ち太郎として、二代目・桂平治(のちの十一代目・桂文治)の門下に入る。2009年に二ツ目昇進を期に三代目・小痴楽を襲名。柳亭楽輔の弟子となる。2013年、落語芸術協会所属の二ツ目落語家・講談師によるユニット「成金」を結成。2019年9月下席より真打昇進。『柳亭小痴楽 全国ツアー カチコミ'22』を開催中。

【前編アザーカット】

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【インタビュー後編】

柳亭小痴楽、落語界のために思うこと──師匠方の言葉を受け継いでいきたい|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#15(後編)

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