【放送内容】 「テレビ朝日開局50周年特集」
皇太子ご成婚で日本中が沸いた昭和34年(1959年)2月1日、 NET日本教育テレビという名称でテレビ朝日が誕生しました。 新しいテレビ局の誕生は、苦労の連続。今回は、50年前、テレビ朝日誕生の舞台裏を大特集します。 さらに、開局50周年を記念して放送しているスペシャルプログラム「50時間テレビ」のみどころもご紹介します。
スタジオ1
○テレビ朝日 君和田正夫 社長
「テレビ朝日は2月1日に開局50周年を迎えることが出来ました。
これまでテレビ朝日を愛し、支えてきていただいた視聴者の皆様、広告主や広告会社の皆様、 株主の皆様、そして多くの関係者の皆様に心から感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
人間にとっての50年はまさに働き盛りですが、企業にとって50歳はまだまだ若者といえるかと思います。
現在、放送業界は地デジへの移行や広告費の減少、放送内容への厳しい批判など、
様々な課題を抱え、これまでにない厳しい時期を迎えております。 しかし、私たちテレビ朝日はその若さを武器にして課題を克服し、皆様の期待に応えていきたいと思っております。
一昨年11月から、開局50周年を記念して、スポーツ、ドラマなどの特別番組や数多くのイベントを展開してまいりました。 皆様への更なる感謝の心を込めまして、一昨日1月30日から10日間を「50周年スペシャル10DAYS」と銘打ちまして、 ゴールデンタイム中心に大規模な特別編成を実施しております。 2夜連続のドラマスペシャル、50年間の名番組特集など、スケール感たっぷりの魅力あるコンテンツを揃えました。 1日5時間、10日間あわせて『50時間テレビ』をぜひ、お楽しみいただければと存じます。
テレビ朝日は、今後とも独創的なコンテンツを通して、常に新しい時代の旋風 NEW AIRを起こして参る所存であります。 皆様とともに進化し続ける放送局として“NEW AIR ON AIR”を合言葉に大胆な改革を断行し、 更なる飛躍に挑戦してまいります。
テレビ朝日は地デジで5チャンネルに変わります。どうぞご期待ください」
○北代博さん(テレビ朝日 社友 ドラマ『氷点』など演出)の話
「テレビ朝日が開局する以前、テレビといえば当時の娯楽の王様、
映画に対し『ただで見られる映画』という存在。
街頭テレビでプロレスや時代劇などが人気だった。
識者から『一億総白痴化』などとテレビに対する批判が高まり、
結果、学校教育にテレビを利用する機運が高まり、教育専門局として
昭和34年2月1日NET 日本教育テレビ(現 テレビ朝日)が開局した」
○土岐邦三さん(テレビ朝日 社友 開局時 ニュースや学校放送番組など担当)の話
「学生時代、現在のTBSでアルバイトしていた。
年末番組を終えて、開局する年(昭和34年)元旦に『NET 日本教育テレビ』を訪れた。
胸が躍る気分で局舎に入ると部屋にはまだ机といすがあるだけで静まりかえっていたことを覚えている」
○大沢竜樹さん(テレビ朝日 社友 アナウンサー1期生)の話
「開局する前年(昭和33年)の4月に入社した。同期は男女各3人。
他局との交流が盛んで、入社後は、NHKで同期の押坂忍さんらと一緒にアナウンサー研修を受けていた」
VTR1
昭和34年(1959年)2月1日 NET日本教育テレビがついに開局。
放送開始は、あさ9時30分。テストパターン、お知らせ、に続いて10時から開局を祝い、古式ゆかしく獅子が舞ったのです。
続いては、大川博会長(当時)による挨拶。
当時は、VTRができたばかりで、ほとんどが生放送の時代でした。
4つあるスタジオはフル稼働、次々と番組を放送していました。開局当時は、試行錯誤の連続。
テレビカメラはもちろん白黒。現在のカメラとは違いレンズを回転させて切り替える大型のもの。
テレビという新しいメディアに取り組んだ日々。
これが、今日に続く番組作りの原点でした。
スタジオ2
○北代博さん(テレビ朝日 社友 ドラマ『氷点』など演出)の話
「開局当時は1週間にドラマ、クイズ番組、コーラス番組の3本のレギュラー番組を担当していて、
スタジオからスタジオへ毎日追われるように慌しく仕事をしていた。
基本は生放送。当然ドラマも生放送することが多く、本番で途中、芝居のテンポが上がって番組の後半、
時間が余りそうになり、フロアー・ディレクターに指示してゆっくり演じてもらったり、
逆に前半はゆっくり芝居し過ぎてしまい、途中のシーンを飛ばして時間調整したりしていた」
○土岐邦三さん(テレビ朝日 社友 開局時 ニュースや学校放送番組など担当)の話
「ニュース番組は今と違ってアナウンサーの顔出しは無く、ニュース映像にテロップを流すだけ。
それにアナウンサーがナレーションをつけていた」
○大沢竜樹さん(テレビ朝日 社友 アナウンサー1期生)の話
「当時のスタジオ照明はとても強く、本番中に照明が強く当たり過ぎてスーツの肩の部分から煙が出てくることがあった」
VTR2 50時間テレビ①
テレビ朝日では開局50周年を記念してスペシャルプログラム『50時間テレビ』
をお送りしています。
●2/1(日)夜6:30~ 「よゐこの無人島0円生活スペシャル」
●2/1(日)夜9:00~ 「日曜洋画劇場 パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」
●2/2(月)夜7:00~ 「クイズプレゼンバラエティーQさま!!スペシャル」
●2/3(火)夜7:00~ 「ロンドンハーツスペシャル」
●2/4(水)夜7:00~ 「クイズ雑学王スペシャル」
スタジオ3
○土岐邦三さん(テレビ朝日 社友 開局時 ニュースや学校放送番組など担当)の話
「開局後、学校放送番組を担当したが、当時はスタジオの数も少なくていろいろ工夫して番組を作っていた。
スタジオで、別の番組の生放送中にその反対側で次の番組のリハーサルをみんな小さな声で行ったりしていた」
○大沢竜樹さん(テレビ朝日 社友 アナウンサー1期生)の話
「当時からアナウンサーはいろいろな仕事をしていた。
外国映画の吹き替えですぐ死んでしまう役を担当したり、ドラマに出演したりした。
もちろんニュースを読んだり、スポーツの実況は何でもやった。
営業担当者がボクシング中継の仕事を取ってきたとき、ボクシングの知識もあまりない、
試合の日、たまたま休みのアナウンサーを引っぱり出してきて、
ボクシング実況を行ったりと知識もないなりにみんな必死に実況していた」
VTR3 皇太子ご成婚
昭和34年4月10日皇太子ご成婚は、開局後、最初の大ニュースとなりました。
日本中が注目したご成婚パレード。この年できたばかりのテレビ朝日はTBSと全面協力。
系列各社の応援を含め、中継車11台、カメラ34台、スタッフ総勢200名を超える空前の中継を行いました。
スタジオ4
○北代博さん(テレビ朝日 社友 ドラマ『氷点』など演出)の話
「皇太子ご成婚の模様は、①NHK、②TBSとNET日本教育テレビ(現テレビ朝日)、
③日本テレビとフジテレビの3グループがそれぞれ独自の中継を行った。
民放局は1社では機材や中継車、スタッフが足りなくてチームを組んで中継を行った。
私はパレードのメイン中継を担当した。レールをしいて馬車が通るとき並行して横移動しながら中継を行った」
「テレビ局では昼夜関係なく仕事をしていることが多い。それは当時としては珍しかった。
仲間のテレビ局員の子どもが『うちのお父さんは朝、家に帰ってきて昼は家で寝ていて、夕方から家を出て行く。
もしかしたらうちの父さんは泥棒かもしれない』と作文に書かれていた」
VTR4 50時間テレビ②
テレビ朝日では開局50周年を記念してスペシャルプログラム『50時間テレビ』をお送りしています。
●2/5(木)夜7:00~ 「いきなり!黄金伝説。スペシャル」
●2/6(金)夜7:00~ 「ドラえもんスペシャル」
●2/7(土)夜7:00~ 「テレビ朝日が伝えた伝説のスポーツ名勝負~いま明かされる舞台裏の真実~」
●2/7(土)、8(日)夜9:00~ 2夜連続 「ドラマスペシャル 警官の血」
●2/8(日)夜7:00~ 「もう一度見たい! テレビ朝日の懐かし人気番組蔵出し大放出スペシャル」
スタジオ5
○大沢竜樹さん(テレビ朝日 社友 アナウンサー1期生)の話
「今は昔に比べて発音とか変わってきたり、省略語とかいろいろ新しい言葉が増えたりしているが、 新人アナウンサーのときに厳しく指導されたことをきちんと守って、 この先もアナウンサーとして常に美しい日本語を話すことを忘れないでほしい」
○北代博さん(テレビ朝日 社友 ドラマ『氷点』など演出)の話
「常に半歩先を行く気持ちでテレビ番組を制作することを忘れてはならない。
テレビ朝日は開局以来、どのテレビ局よりも早く外国映画を輸入して放送したり、
新たにニュースショーを放送したりと、常に半歩先を行く番組作りを行ってきた。
その遺伝子は今のテレビ朝日のスタッフにも受け継がれているはず。
これからもテレビ朝日はみんなでもっともっと考えてアイデアを出しあい、画期的な番組を作り続けてほしい」
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