● ● ● ● 2月1日 ● ● ● ●
 
スタジオ : 吉澤一彦アナウンサー
市川寛子アナウンサー


【放送内容】

平成16年2月1日、テレビ朝日は開局45周年を迎えました。
1959年「株式会社日本教育テレビ(NET)」としてスタート以来、視聴者の皆様に夢や希望を提供するテレビ局として歩んできた45周年の歴史を振り返ります。



テレビ朝日の主な歴史

1959年 2月 株式会社日本教育テレビ(NET)開局
1977年 4月   全国朝日放送株式会社(テレビ朝日)に社名変更
1985年10月   アーク放送センターに移転
2003年10月   株式会社テレビ朝日に社名変更、六本木ヒルズに本社移転

番組の変遷

1959年
日本教育テレビ(NET)が2月1日放送スタート
「日本教育テレビ」は民放初の教育テレビ局としてスタートしました。
最初は文部省の定めた学習指導要領に基づいた学校放送番組。対象は幼稚園・保育園から中学校まででした。
開局の第一声を飾ったアナウンサー(大沢竜樹さん)
「一番最初はコールサイン こちらは日本教育テレビです。JOEX-TV、音声周波数○○・・・」
 
1960年
  教育番組だけでなく娯楽面では他局に先駆けて、外国ドラマを輸入しました。
「ローハイド」 最高視聴率43.4%を記録
「ララミー牧場」 最高視聴率43.7%を記録
当時の海外ドラマ担当ディレクター 武藤明さんの話
『「スポーツのNTV」「ドラマのTBS」、そしてこれらの洋画のヒットで「洋画のNET」と呼ばれた。』
 
1962年
「判 決」 時代を捉えた社会派ドラマとして注目されました。
 
1964年
「木島則夫モーニングショー」 朝の時間帯の開拓となり、のちのワイドショーの原型を作り出しました。
当時のディレクター 三成隆夫さんの話
ニュースといえば、NHKに代表されるように、額縁にはまったみたいなところでアナウンサーがしゃべっているだけだった。それをかえた生放送で当時の第一報を流そうとした。
   
1966年
「桂小金治アフタヌーンショー」

※ 「モーニングショー」と「アフタヌーンショー」でワイドショーの黄金時代を築きました。
   
1966年
「氷 点」 最終回では42.7%という驚異的な視聴率を記録しました。
演出家:北代博さんの話
一説には銭湯の女風呂がその時間になるとガラガラになるとか、医者の奥さん役の新珠さんがいうセリフ「いやですわぁ」が銀座のバーで流行ったといわれている。スタッフも若く、燃えていた。
   
1967年
白黒放送からカラー放送へ。
 
1967年
「日曜洋画劇場」 現在まで続いている「日曜洋画劇場」は、淀川長治さんの映画解説で「さよなら、さよなら、さよなら」のコメントが有名になり、映画番組に解説者が登場するというブームを作りました。
   
1969年
「ワールドプロレスリング」 力道山以来の第二次プロレスブームを生み出しました。
当時のプロデューサー 永里高平さんの話
当時金曜の夜は日テレのプロレスに押されどこの局も負けていた。それで日本プロレスに交渉に行ってアントニオ猪木たちが参加することになった。その後、アントニオ猪木が新日本プロレスを設立して、金曜 夜8時のヒット番組に定着した.
   
1966年
「欽ちゃんのどこまでやるの?」 現在のバラエティに大きな影響を与えた大人気番組
当時のディレクター 一杉丈夫さんの話
当時の欽ちゃんはすごかった。今のバラエティは「おもしろい」のではなく、「面白がられる」人を出すようになっているが、欽ちゃんは作り上げていく笑いを作っていた。井上ひさしさんの言葉で、「難しいものをやさしく、やさしいものは深く、深いものは面白く」というのがあるが、どの番組でも忘れてはいけない。
   
「徹子の部屋」 今年で7200回を超え、28周年を迎えました。
黒柳徹子さんインタビュー
アメリカでもトークショーはいっぱいありますけど、ゲスト3人とか、そういうのはありましても一人のゲストだけというのは、あまり世界でも類がないと思います。 やはり番組に対しての信頼感、「あなただから話すの」というお話もたくさん伺ったので嬉しかった。
   
1977年
全国朝日放送に社名変更。略称:テレビ朝日
「土曜ワイド劇場」 この後の「2時間ドラマ」ブーム先駆けとなり、現在も不動の地位を得て放送中。
   
1979年
「ドラえもん」 今年25周年を迎えた「ドラえもん」、当初は月曜から金曜まで10分間のベルト番組でした。
1981年10月に金曜よる7時のゴールデンタイムに進出しました。
     
「東京国際女子マラソン」 11月に「第1回東京国際女子マラソン」を生中継しました。
当時はオリンピック種目にもなく、競技人口も少ない女子マラソンを他社に先駆け番組化した。中継技術者にとっても新たな分野への挑戦でした。
当時の中継担当ビデオエンジニア 西脇正和さんの話
 世界初の女子マラソンとして「東京を走る」マラソンがコンセプト。
 都心を走る中継というのはあまりなくて、ビルが多い東京では電波が途切れるところがたくさんあり、苦労した。年を追うたびに機材・技術ともに上昇してきた。
   
1985年
六本木再開発に向け、アーク放送センターに移転
「ヤジウマ新聞」 いまや他局のワイドショーでも看板コーナーとなった新聞コーナーが拡大されました。現在の「やじうまプラス」に引き継がれています。
当時の報道局次長 小田久栄門さんの話
当時テレビは娯楽偏重で、ジャーナリスティックなものに関しては、いわゆる金にはならない、誰も見ないと。視聴者が「ニュースはもうNHKでいい」と。けどそのNHKを観ると、極めて画一的であるひとつのパターンで、何一つなかった。そういう中で僕は、CNNがニュース専門局としてアメリカで登場するとか、BBCやCBSというところが、徹底したニュース体制をとり始めているにもかかわらず、なんら日本で動きがない・・・これから舞台は国際化していくだろうと。同時に「テレビジャーナリズム」のようなしっかりしたものがなければ、本当のテレビの社会的機能みたいなものを果たせないだろうと。
     
「ニュースステーション」 「中学生にもわかるニュース」をテーマに、これまでにない夜10時台の報道番組としてスタートしました。18年間に渡って報道番組として不動の地位を築き、テレビ界に大きな功績を残しました。
久米宏さんの話
1967年にTBSにアナウンサーとして入社したが、右に行ったり左へ行ったりしたのではなく、すべてが「ニュースステーション」に繋がるまっすぐの広い道だったように思う。
     
早河洋常務取締役編成制作局長(当時プロデューサー)の話
ニュースステーションは4568回、平均視聴率14.4%という実績を残している。これは前人未到の業績である。加えて18年の間の放送業界の数々の賞をいただいた。このような形での貢献や功労に対して深く感謝している、大変強い信念と不断の努力、スタッフへの厳しさと優しさといった変わらぬ姿勢に敬意を表したい。

※ 「ニュースステーション」の成功をベースに“見せる報道番組”を続々と放送。
   
1987年
「朝まで生テレビ」
   
1689年
「サンデープロジェクト」
   
1986年
「ミュージックステーション」 歌謡曲のイメージが強かった音楽番組を一新し、アーティストを前面に押し出し、代表的な音楽番組となっています。
   
1988年
「はぐれ刑事純情派」 放送開始から16年に渡って高い人気を誇っています。1992年4月のシリーズは、平均視聴率20.9%を記録しました。
   
1990年代前半よりスタート番組
「23時台のバラエティ番組」を新たな試みとして編成。
現在も放送中の「内村プロデュース」「ぷっすま」「Matthew’s Best Hit TV」「銭形金太郎」と、若い視聴者層に支持を受けています。
   
1992年
「クレヨンしんちゃん」 これまでのアニメーションとは違った型破りのキャラクターが主役となって登場。
   
1995年
「ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー」 この番組の「電撃イライラ棒」はゲームとして商品化し、一大ブームを巻き起こしました。
   
2001年
「世界水泳福岡2001」 独占中継で、「水泳」を新しい人気のスポーツ番組として開拓しました。イアン・ソープの世界記録、日本勢のメダル獲得に日本中が沸きかえりました。
 
2002年
FIFAワールドカップ「日本VSチュニジア」戦 テレビ朝日45年の歴代最高視聴率45.5%を記録しました。
   
2003年
秋・六本木ヒルズに本社移転
「世界水泳バルセロナ2003」 開局45周年記念番組として放送しました。
   
  「テスト・ザ・ネイション」 生放送で日本中の人たちのIQをテストしてしまおうという、テレビ史上初の試みでした。
   
  「流転の王妃 最後の皇弟」 テレビドラマの常識を覆すスケールの大きさ、大規模な中国ロケも敢行したスペシャル番組。視聴率だけでなく、内容面でも高い評価を獲得しました。
   


次回の「はい!テレビ朝日です」の放送は、2月8日(日)の予定です。