5月18日

スタジオ : 吉澤一彦アナウンサー
松尾由美子アナウンサー



【放送内容】


今回はテレビ放送開始50周年、テレビ朝日開局45周年にちなんでテレビ朝日のベテラン制作者、ベテランアナウンサーに「テレビのこれまでとこれから」について話を聞きました。


編成制作局エグゼクティブプロデューサー
一杉丈夫

1967年入社。
ナショナルゴールデン劇場でドラマを担当。
その後、「欽ちゃんのどこまでやるの」の立ち上げから全てに関わる。


「ドラマ」について

当時は「ポーラ名作劇場」「ナショナルゴールデン劇場」という2枚看板でドラマを制作。
ドラマに力を入れている時期だった。
「ポーラ名作劇場」は文芸作品をドラマ化し、「ナショナルゴールデン劇場」はオリジナルの作品の書き下ろしだった。当時の担当は「向田邦子さん」「ジェームス三木さん」など。
作品は「ファミリー向け」のものだった。
夜の9時〜10時代を「ドラマ」がいい形で占めている時期でもあった。

現在では視聴者の「ドラマ」の見方も変わり、作り手の考え方も変わってきた。
ある時期から、ターゲットはF1(20歳〜34歳女性)中心となり、連続ドラマの形が変化してきた。
その結果、ファミリードラマが減少していった。
テレビを見る環境も「家族一緒」から「個人で」というように変化してきた。


「欽ちゃんのどこまでやるの!」


ドラマの制作志望であった自分が「バラエティー」を作ることになるとは思わなかった。
当初、「笑い」についてまったくわからなかった自分と「笑いのプロ」の萩本欽一氏が組んだことが良かったのかも知れない。
「笑い」の中身についてはお任せをし、自分たちは「彼が作り出す世界を視聴者にどう中継することができるか」ということに徹底した。このことが成功につながったのだろう。
そして自分にできること?当時、女優がバラエティーに出演するのは「タブー」とされていた。
そんな中、以前ドラマを担当していた自分は「女優さん」を出演させた。このことも成功の一つの要因だった。
当時、萩本氏は「視聴率100%男」と呼ばれていた。各局で彼のスケジュールの取り合いになって大変だった。
そこで生まれた画期的な特別番組が「欽ちゃん祭り」。
「TBS」「フジテレビ」「テレビ朝日」の三局が合同で特番を制作。各局で制作していた「欽ちゃんの番組」の出演者が
すべて揃う番組を「春」「夏」「年末」と三局が持ちまわりで作り放送した。
年末のこの番組(テレビ朝日制作分)が42%の視聴率を記録した。


「今のバラエティー」との違い

作り上げていく過程が違う。
当時は「面白いもの」を作っていた時代であった。今は「面白がられるもの」を見せることがウケる時代。
「笑い」の世界に、常に「刺激」を求める。これに答えることがひとつの「宿命」でもある。


これからの「笑い」

永遠に忘れてはいけないないこと。
「難しいことは、やさしく」「やさしいことは、深く」「深いことは、面白く」。
これは、井上ひさし氏が舞台などを作るうえでよく言われる言葉。まさしくこの通りで、どんなジャンルの番組にもあてはまることだと思う。
これから多チャンネル化が進んでも「見る人」に対する方向性さえ誤らなければ良いのではないかと思う。
その部分が難しい。





編成制作局アナウンス部アナウンス専任局次長
山崎正

1973年入社。「東京国際女子マラソン」「大相撲ダイジェスト」などのスポーツ実況を主に担当。

入社した当時は、「歌謡番組」のナレーションをやっていた。歌謡番組全盛の時期だった。
その後、主にスポーツ番組を担当することに。「大相撲ダイジェスト」「ワールドプロレスリング」「大井競馬中継」・・・等。
当時は「ボウリング番組」もあった。
昭和48年から「大相撲ダイジェスト」を担当。当時はスタジオはなく、実況だけだった。
画面がモノクロであったため、力士のまわしの色などがわからなくなり、力士の四股名などを間違える失敗などもした。
1980年モスクワオリンピック独占放送を機に「アマチュアスポーツ」を多く取り上げるようになっていった。
オリンピック独占中継というのは、プレッシャーだった。
毎日、研修に明け暮れていた。


「陸上競技」について

マラソンなどの中継について、中継技術の進歩はめざましいものがある。
中継を始めた当時は、トンネルに入ったり、歩道橋などを通過する際に映像などが途切れてしまっていた。
そこでタイミングを合わせコメントを調節し、CMに入ったり、空撮の映像に切り替えたり・・・と工夫をしていた。


「東京国際女子マラソン」

女子マラソンとして「初」。都心部を走るというコースが「初」。この中継を担当。
このレースは「日本女子」を中心に取り上げるという方針ではあったが、当時の日本女子は上位を走りレースに絡む者はいなく、実況なども苦労した。


「スポーツ実況」について

昔に比べ、見ている人が豊富な知識を持っている。その部分に答えていかなくてはいけないと思っている。
全体の内容を伝えるのは勿論のこと、サイドの情報も盛り込みながら放送していく必要がある。


「ボウリング番組」

1969年10月4日〜1975年3月30日に放送の「レディス・チャレンジボウル」で
プロ選手「中山りつ子」がパーフェクゲームを達成。一大ブームとなった。社会現象を起こした。




事業局局長
北村英一

1968年入社。ワイドショーをはじめ、歌番組・バラエティー・・・と数多く番組を手がけてきた。
「歌謡ドッキリ大放送!!」「大正テレビ寄席」「ビートたけしのTVタックル」「ミュージックステーション」ほか

ワードショーの制作から始まり、数本の番組を担当した後「タイムショック」を担当。


「クイズ番組」について

奇異な情報を集めただけの「今のクイズ番組」とは違っていた。
当時のものは、「情報」の中に人間本来の「反応度」などを計るものを上手く織り込みながら問題を作っていた。
今では見られないことの1つ。


「バラエティー番組」について

「歌謡ドッキリ大放送!!」という番組は、子供達がゲスト(タレント)に自由に「質問」を浴びせかける
コーナーが話題だった。
質問の内容にはいろいろなものがあったが、大人では聞けないことも「子供」なら・・・。
奇想天外の質問に答えるタレント達の姿が滑稽でもあった。


「ミュージックステーション」

タモリさんの起用。これは「司会」という立場でなく、パーティーの主催者のように振舞ってもらう・・・。
そんな感覚でいてもらいたい。ということで番組は始まった。
「歌番組」のイメージがあまりなかったテレビ朝日。このイメージを変えるために考えたこと。
制作者・技術スタッフにいたるまでの「若手導入」。それまでのルールを気にすることなく「1から作り上げる」
「マニュアルは自分たち」というスタンスで番組制作に望んだ。


「ビートたけしのTVタクッル」

政治・社会・時事問題、いずれのものも「どうやって視聴者と接点を持ちつつ」番組を作っていくか?
あらゆる角度から物事を見ていこうということが、基本にあった。
仮タイトルが「解体新書」というものだった。
物事を一度「解体」してみて「組み立てるのは視聴者の皆さん」です。というのが、この番組のコンセプトだった。


「視聴率」について

ノルマとして視聴率を考えたことはない。
絵でも文章でも同じ、自分が作ったものは「一人でも多く」見てもらいたい。そのための目標でしかない。


「これから」

今の制作者達は、自分たちの作ってきた「テレビ」を見て育ってきた。
その「今まで」を打ち破って、新しいことを考えて欲しい。テレビは「創造物」である。
クリエーティブな世界に教科書はない。すべてを自分たちで作り出して欲しい。