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#978
2025年9月14日
50年目の「徹子の部屋」(前編)
【番組司会】菅原 知弘(テレビ朝日アナウンサー)
桝田 沙也香(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーター】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】田原 敦子(「徹子の部屋」プロデューサー)
三ツ木 仁美(「徹子の部屋」プロデューサー)
江部木 和美(「徹子の部屋」ディレクター)
池田 由紀(「徹子の部屋」ディレクター)
桝田 沙也香(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーター】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】田原 敦子(「徹子の部屋」プロデューサー)
三ツ木 仁美(「徹子の部屋」プロデューサー)
江部木 和美(「徹子の部屋」ディレクター)
池田 由紀(「徹子の部屋」ディレクター)
今年放送開始から50年目を迎えた
「徹子の部屋」について、
番組スタッフの皆さんにお話を伺います。
「徹子の部屋」について、
番組スタッフの皆さんにお話を伺います。

<長年担当する番組スタッフ>

― みなさんは、いつから番組を担当されているんですか?
(田原)私は2002年の4月からです。
(三ツ木)私はちょっと新米で2014年からです。
(江部木)1990年です。
(池田)私は2000年からです。
― 「徹子の部屋」は長年働いているスタッフさんが多いんですか?
(田原)
徹子さんから「スタッフを変えないでほしい」という要望が
昔からあるので、なるべくスタッフは長く勤続することになっています。
(田原)私は2002年の4月からです。
(三ツ木)私はちょっと新米で2014年からです。
(江部木)1990年です。
(池田)私は2000年からです。
― 「徹子の部屋」は長年働いているスタッフさんが多いんですか?
(田原)
徹子さんから「スタッフを変えないでほしい」という要望が
昔からあるので、なるべくスタッフは長く勤続することになっています。

<50年目を迎えた気持ち>
(田原)
もうここまで来たら“55年・60年と続けていけたらな”と
本当に思っています。
(江部木)
テレビ史に残るであろう番組の、
この記念すべき時を一緒に迎えられるというのが
もう本当に感謝でしかありません。
もうここまで来たら“55年・60年と続けていけたらな”と
本当に思っています。
(江部木)
テレビ史に残るであろう番組の、
この記念すべき時を一緒に迎えられるというのが
もう本当に感謝でしかありません。
<長寿番組になった理由>
(田原)
一番は、徹子さんが健康であるということと、
視聴率がお陰様でずっといいんです。
ということは、お客様のニーズにとても合っている
番組なんだろうと思っています。
(三ツ木)
黒柳さんがよくおっしゃるんですけど、
「一つのことをずっと続けることが小さい頃から得意だった」
っておっしゃるんですね。
“疎開先でずっと同じシールを貼っていたんだけど、
一人だけ飽きずにずっと貼っていた“とか。
「徹子の部屋」も飽きずに毎日同じに見えているけど、
好奇心があるので違って見えていて、
私たちスタッフがそこについて行かせていただいているのかなと思います。
一番は、徹子さんが健康であるということと、
視聴率がお陰様でずっといいんです。
ということは、お客様のニーズにとても合っている
番組なんだろうと思っています。
(三ツ木)
黒柳さんがよくおっしゃるんですけど、
「一つのことをずっと続けることが小さい頃から得意だった」
っておっしゃるんですね。
“疎開先でずっと同じシールを貼っていたんだけど、
一人だけ飽きずにずっと貼っていた“とか。
「徹子の部屋」も飽きずに毎日同じに見えているけど、
好奇心があるので違って見えていて、
私たちスタッフがそこについて行かせていただいているのかなと思います。

(江部木)
いろんなことをみんなで楽しむというのが
心にあるような気がしています。
ゲストから面白いお話を聞く。
(ゲストに)面白いことをやっていただく。
それをみんなで楽しんで、徹子さんが一番楽しむのですけれども、
そういうこともあって続いているのかなと。
いろんなことをみんなで楽しむというのが
心にあるような気がしています。
ゲストから面白いお話を聞く。
(ゲストに)面白いことをやっていただく。
それをみんなで楽しんで、徹子さんが一番楽しむのですけれども、
そういうこともあって続いているのかなと。

(池田)
昔から黒柳さんがご自身で
「好奇心がなくなったら終わりだ」とおっしゃっていました。
まだまだ好奇心がある限りが続くんじゃないかと思います。
昔から黒柳さんがご自身で
「好奇心がなくなったら終わりだ」とおっしゃっていました。
まだまだ好奇心がある限りが続くんじゃないかと思います。

<番組を担当することになったきっかけ>
(田原)
報道局在籍時代に、
徹子さんがユニセフの親善大使をやっていらっしゃるので、
その番組のディレクターをしていたんです。
それで5年間くらい一緒にアフリカを中心に回っていたこともあって、
次は「徹子の部屋」のプロデューサーにというお話をいただきました。
(三ツ木)
私は子供がいまして小学生に入るタイミングでした。
わりとシフトが組みやすいということで、
参加させていただきました。
報道局在籍時代に、
徹子さんがユニセフの親善大使をやっていらっしゃるので、
その番組のディレクターをしていたんです。
それで5年間くらい一緒にアフリカを中心に回っていたこともあって、
次は「徹子の部屋」のプロデューサーにというお話をいただきました。
(三ツ木)
私は子供がいまして小学生に入るタイミングでした。
わりとシフトが組みやすいということで、
参加させていただきました。
― 「徹子の部屋」は伝統ある番組じゃないですか?
最初はどういう気持ちだったんですか?
(三ツ木)
最初はちょっと大丈夫かな?みたいなことと、
やっぱり長年同じスタッフでやっているというのを聞いていました。
“そこに入っていけるのかしら?”みたいな心配はありましたけれど、
みなさん優しかったです。
(江部木)
私は当時在籍されていたディレクターの紹介で入りました。
テレビっ子ですから、ずっと徹子さんを見ていました。
もう嬉しくて嬉しくて。
ただ本番で初めてディレクターの席に座った時は
本当に手と足って震えるんだ…って。
緊張のあまり3秒で本番は終わりました。
(池田)
私はそれまでのドキュメンタリーで
ロケをする番組をずっとやっていました。
ちょうどその番組が終わった時に、
「徹子の部屋」で欠員があるんで“ちょっと面接に行ってくれ”
って言われまして、
あまりスタジオ収録の番組は得意じゃないんですけどって言ったら
“大丈夫だよ。「徹子の部屋」はヒューマンドキュメンタリーだから”
と言われて、なるほど!だったらできるかなと思って入りました。
最初はどういう気持ちだったんですか?
(三ツ木)
最初はちょっと大丈夫かな?みたいなことと、
やっぱり長年同じスタッフでやっているというのを聞いていました。
“そこに入っていけるのかしら?”みたいな心配はありましたけれど、
みなさん優しかったです。
(江部木)
私は当時在籍されていたディレクターの紹介で入りました。
テレビっ子ですから、ずっと徹子さんを見ていました。
もう嬉しくて嬉しくて。
ただ本番で初めてディレクターの席に座った時は
本当に手と足って震えるんだ…って。
緊張のあまり3秒で本番は終わりました。
(池田)
私はそれまでのドキュメンタリーで
ロケをする番組をずっとやっていました。
ちょうどその番組が終わった時に、
「徹子の部屋」で欠員があるんで“ちょっと面接に行ってくれ”
って言われまして、
あまりスタジオ収録の番組は得意じゃないんですけどって言ったら
“大丈夫だよ。「徹子の部屋」はヒューマンドキュメンタリーだから”
と言われて、なるほど!だったらできるかなと思って入りました。
― 「徹子の部屋」はやっぱりヒューマンドキュメンタリーですか?
(池田)
そうですね。やっぱり会う人会う人、みんなそれぞれ人生も違います。
いろいろ勉強になることもあります。
(池田)
そうですね。やっぱり会う人会う人、みんなそれぞれ人生も違います。
いろいろ勉強になることもあります。
<記憶に残る放送回「ペ・ヨンジュンさん」>
当時、ドラマ「冬のソナタ」で一世を風靡していた
韓国の俳優、ペ・ヨンジュンさん。
徹子さん自らの希望もあって出演が実現。
収録中も若干テンション高めな様子でした。
大人気の韓流スターを迎えた放送回、
舞台裏では、多くのスペシャルなことがあったそうです。
韓国の俳優、ペ・ヨンジュンさん。
徹子さん自らの希望もあって出演が実現。
収録中も若干テンション高めな様子でした。
大人気の韓流スターを迎えた放送回、
舞台裏では、多くのスペシャルなことがあったそうです。
(田原)
徹子さんはご自分がこの人をお招きしたいっていう場合、
みんなに話をするんです。
お亡くなりになりましたけど、
俳優のショーン・コネリーさんをずっとお招きしたくて、
「ショーン・コネリーさん呼びたいわ」と。
いろんな人にも言っていたんですけど、
ある時「ちょっと後で楽屋に来て」って言われて
何だろうな…って、何に失敗したかなと思ってドキドキしていました。
「あなた冬のソナタはご存じ?」って。
「あっ、存じております」って言ったら、
「私、あの人が出たら見ている人がすごく喜ぶと思うの」って。
自分が会いたいって言わないんですよ。
「視聴者の方がすっごい喜ぶと思うの。だから呼ばない?」
って言われました。
徹子さんはご自分がこの人をお招きしたいっていう場合、
みんなに話をするんです。
お亡くなりになりましたけど、
俳優のショーン・コネリーさんをずっとお招きしたくて、
「ショーン・コネリーさん呼びたいわ」と。
いろんな人にも言っていたんですけど、
ある時「ちょっと後で楽屋に来て」って言われて
何だろうな…って、何に失敗したかなと思ってドキドキしていました。
「あなた冬のソナタはご存じ?」って。
「あっ、存じております」って言ったら、
「私、あの人が出たら見ている人がすごく喜ぶと思うの」って。
自分が会いたいって言わないんですよ。
「視聴者の方がすっごい喜ぶと思うの。だから呼ばない?」
って言われました。
まずお招きするまでもすごく大変だったんです。
大スターなので、ペ・ヨンジュンさんが放送局の入り口から入ってきたら
目について大変だろうというので、
徹子さんが「ペ・ヨンジュンさんを箱に隠して運べないか」と。
いろんな案を出して、スタジオへ行く導線も徹子さんが自分で確認。
それで、楽屋がどの部屋か分かるようにする案内の張り紙も
「ペ・ヨンジュン様」と書いたら、スタジオに来ている他の人たちも
大騒ぎになるから名前も変えましょうっていうことになりました。
「張り紙の名前は永六輔にしてくれ」って。
「永さんには私から言っておくから」って。
それで永六輔さんにしたんですよ。
大スターなので、ペ・ヨンジュンさんが放送局の入り口から入ってきたら
目について大変だろうというので、
徹子さんが「ペ・ヨンジュンさんを箱に隠して運べないか」と。
いろんな案を出して、スタジオへ行く導線も徹子さんが自分で確認。
それで、楽屋がどの部屋か分かるようにする案内の張り紙も
「ペ・ヨンジュン様」と書いたら、スタジオに来ている他の人たちも
大騒ぎになるから名前も変えましょうっていうことになりました。
「張り紙の名前は永六輔にしてくれ」って。
「永さんには私から言っておくから」って。
それで永六輔さんにしたんですよ。

それで、ペ・ヨンジュンさんが車から降りて
楽屋に入る時にみんなで整列して韓国語で
「ようこそいらっしゃいました」の練習をみんなでしていました。
ところが、実際にいらっしゃったら、
徹子さんが「カムサハムニダ(ありがとうございました)」って。
もう終わっちゃったんですよね。
緊張のあまり、やっぱり本物ですからね。
でもすごく笑って握手してくれました。
楽屋に入る時にみんなで整列して韓国語で
「ようこそいらっしゃいました」の練習をみんなでしていました。
ところが、実際にいらっしゃったら、
徹子さんが「カムサハムニダ(ありがとうございました)」って。
もう終わっちゃったんですよね。
緊張のあまり、やっぱり本物ですからね。
でもすごく笑って握手してくれました。
<思い出の放送回「永六輔さん・大橋巨泉さん」>
永六輔さんと大橋巨泉さん、そして司会の黒柳さん。
テレビの創世記から活躍してきた3人が揃い踏みとなった放送。
当時、永さんはパーキンソン病の闘病中、
巨泉さんも数度の手術をし体重が30キロも減った状態。
そんな中でも、「徹子さんに会いたい」と出演してくれました。
テレビの創世記から活躍してきた3人が揃い踏みとなった放送。
当時、永さんはパーキンソン病の闘病中、
巨泉さんも数度の手術をし体重が30キロも減った状態。
そんな中でも、「徹子さんに会いたい」と出演してくれました。
(三ツ木)
こういう体調が万全でない状況でテレビに出る方って
あまり見たことがありませんでした。
でも「徹子の部屋」が40周年だったので、
徹子さんが「是非お呼びしたい」って言ったんだと思うんです。
来られるかどうか分からないと仰っていたんですが何とか来てくださって。
それで、来てくださった時に徹子さんが本当に
楽屋を走るようにお二人の楽屋に行って
「大丈夫大丈夫!元気よね!」とか。
すごく「徹子の部屋」っていい番組だなって。
徹子さんが走り回ってた姿とか、今も忘れられないシーンです。
(江部木)
私は永さんを担当させていただいておりました。
永さんは旅先から必ずいろんな方にお葉書を書くことを取材で伺って、
徹子さんも何通もいただいています。
こんな私に、旅先からお葉書をいただいたことがございました。
ゲストでいらっしゃった時に素敵な法被を着ていらして、
“私の母は江戸っ子のものですから、法被が大好きなんです”
なんて言ったら「法被の好きなお母様によろしく」って
葉書をいただきました。
こういう体調が万全でない状況でテレビに出る方って
あまり見たことがありませんでした。
でも「徹子の部屋」が40周年だったので、
徹子さんが「是非お呼びしたい」って言ったんだと思うんです。
来られるかどうか分からないと仰っていたんですが何とか来てくださって。
それで、来てくださった時に徹子さんが本当に
楽屋を走るようにお二人の楽屋に行って
「大丈夫大丈夫!元気よね!」とか。
すごく「徹子の部屋」っていい番組だなって。
徹子さんが走り回ってた姿とか、今も忘れられないシーンです。
(江部木)
私は永さんを担当させていただいておりました。
永さんは旅先から必ずいろんな方にお葉書を書くことを取材で伺って、
徹子さんも何通もいただいています。
こんな私に、旅先からお葉書をいただいたことがございました。
ゲストでいらっしゃった時に素敵な法被を着ていらして、
“私の母は江戸っ子のものですから、法被が大好きなんです”
なんて言ったら「法被の好きなお母様によろしく」って
葉書をいただきました。
<ゲストの決め方>

(田原)
徹子さんはすごく民主主義な方で、
プロデューサーが偉いとかADは何とかなくみんな平等。
昔から会議でみんなが、いま「徹子の部屋」にお招きしたい人を
プレゼンテーションするんです。
そういう会議をずっと昔からしていて、今もそれは残っています。
三ツ木プロデューサーを中心にADからディレクター、
みんながプレゼンテーションをして「その人いいんじゃない?」とか
「その人もうちょっと待ってもいいんじゃない?」とか。
そういうことがあります。
(三ツ木)
本当におっしゃるとおり民主主義で、
みんながいいって思わないと次のステップには進めません。
(田原)
辛辣でプロデューサーなのに私の案が駄目だったり、平等ですよね。
ちょっと話がそれちゃうんですけど、
たとえば頂き物でケーキをもらっても、選ぶのもアミダくじ。
徹子さんは「ざんざん」って呼んでいるんですけど。
ケーキをプロデューサーから選ぶのではなくて、
「ざんざん」でケーキを選ぶ人を決めます。
テレビの中ではなくても、生活の中で本当に平等です。
徹子さんはすごく民主主義な方で、
プロデューサーが偉いとかADは何とかなくみんな平等。
昔から会議でみんなが、いま「徹子の部屋」にお招きしたい人を
プレゼンテーションするんです。
そういう会議をずっと昔からしていて、今もそれは残っています。
三ツ木プロデューサーを中心にADからディレクター、
みんながプレゼンテーションをして「その人いいんじゃない?」とか
「その人もうちょっと待ってもいいんじゃない?」とか。
そういうことがあります。
(三ツ木)
本当におっしゃるとおり民主主義で、
みんながいいって思わないと次のステップには進めません。
(田原)
辛辣でプロデューサーなのに私の案が駄目だったり、平等ですよね。
ちょっと話がそれちゃうんですけど、
たとえば頂き物でケーキをもらっても、選ぶのもアミダくじ。
徹子さんは「ざんざん」って呼んでいるんですけど。
ケーキをプロデューサーから選ぶのではなくて、
「ざんざん」でケーキを選ぶ人を決めます。
テレビの中ではなくても、生活の中で本当に平等です。



