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#964
2025年6月1日

加藤登紀子 歌とテレビ(前編)

【番組司会】山口豊(テレビ朝日アナウンサー)
      八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーター】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】加藤 登紀子(歌手・シンガーソングライター)
今年、歌手活動60周年を迎えた加藤登紀子さん。
1965年、東京大学在学中に
日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し歌手デビュー。
以降、「ひとり寝の子守唄」、「知床旅情」など
数多くのヒット曲を生み出してきました。
今回は、加藤登紀子さんに60年の歌手活動と
テレビについてお話を伺います。

<歌手活動60周年を迎えて>
やっぱり人生で無駄がないんですね。その時は失敗だったとか、
ちょっとやめておいたら良かったなとか、何の甲斐もなかったなとか
思うような仕事もいっぱいあるんですよね。
でも、全部面白かったって、今はね。
あんなこともやって面白かったなっていうようなね。
この60年というのは、とくに日本が変化する時代だった。
これからももちろんそうでしょうけど、作っていく…
日本のいろんなメディアも含めてね、
音楽もポップスも作っていく時代を見てきたっていうのは
すごく楽しいことだったなと思います。



<60周年記念コンサート>
毎年、コンサートはやっているんですけど、
60周年だからということではとくになくて、
でも、今年は全国ツアーで本当に各県に行けるように、
NHKホールは6月にありますけど、関西、北海道、九州、
日本全国でやれるっていうのが今年のツアーは
ちょっと張り切っているところです。
コンサートが私は元気の素ですから。

<初めて観たテレビの記憶>
最初はNHKの放送しかなかったんです。
民放が始まったのは、たぶん私が歌手になる何年か前。
テレビと一緒にスタートした感じなので、
やっぱり私のテレビの最初の記憶といったら、ドラマ「バス通り裏」とか
あとは印象に残っているのはイタリアオペラです。
中学生の時にイタリアオペラが日本に来た時、
テレビで放映していたんです。
家にテレビがなくて、ご近所の家にお願いして
見せてもらいに行ったっていうのは、うちの家族の大大事業でした。
― 当時のテレビというのは加藤さんにとってどんな存在だった?

まだまだ映画を観に行くのに近い特別なことです。
テレビが自分の家にあるものではなかったから。
自分の家に、たしかにあったという記憶は
60年安保のニュースです。
あの時は家にモノクロでテレビがあって、夜中じゅうテレビを観ました。
ニュースがそのままリアルタイムでお部屋で観られたという強烈な記憶。
あれが高校2年生の時でしたね。
テレビは必ず同じ番組をみんな観ているみたいな、そういうものでしたよね。
話のテーマがいっぱい広がって、共通のテーマができて、
テレビの登場で、いろんな意味で変わったと思います。



<テレビから流れてくる歌>
やっぱり1960年代というのがすごく私の中では、
何かいろんな目覚めの年だったのかもしれないけど、
秋だったと思うんですよね。
坂本九さんの「上を向いて歩こう」あれをみんなで歌ったわね。
肩を組んで、セーラー服で。
あの頃はバラエティ番組「夢であいましょう」があったと思うんですけど、
あとは水原弘さんの「黒い花びら」、
あの曲がレコード大賞第1回目の受賞曲ですから。
それなんかもちゃんとリアルタイムで知っている世代ですね。

<記憶に残るテレビ番組>
テレビ番組とは言えないかもしれないけど、
私が19歳の時、1963年です。 フランスのシャンソン歌手、
エディット・ピアフが亡くなったんです。
それはニュース映像で流れました。
みなさんちょっと分からないと思うんです、フランスで歌手が死んで
なんで日本のニュース映像に出るのか?っていうくらいの
すごい人だった訳です。
そのニュース映像で見た“エディット・ピアフの晩年”というんですか、
それに私は相当影響を受けました。
それが20歳になる前だったので、
20歳の時にシャンソンコンクールに参加して、
エディット・ピアフを歌って、1回目の参加は4位でしたけど2回目で優勝。
それが私の歌手の運命、歌手という職業を選ぶ運命ですね。
今から思うと歴史に「もし」はないというけれど、
「もし」だらけなんですよね。
「あのとき迷ったよね」「よく決心したな」みたいにちょっと思います。



<(都立)駒場高校の放送部>
駒場高校は放送部がすごく盛んで、学校放送を毎日流したり、
受験の時も全部、女子アナウンサーが
「鉛筆を置いてください」「試験開始5分前です」とか、
そういうアナウンスを全部やっていたんですよ。
それで、それに憧れてアナウンサーを目指して、
アナウンスの練習は本格的にやりました、「赤巻紙、青巻紙、黄巻紙」とか(笑)
その時1年後輩に吉永小百合さんが入ってこられたんです。
私が1年先輩で、講習をする時に彼女はずっと来て
「赤巻紙、青巻紙、黄巻紙」とかやって。
だから吉永さんの朗読の声を聞くと、あぁあれは駒場高校放送部の
テクニックから始まって、私はちょっと似ているっていうか、
滑舌の感じとか共通の出発点がそこにあるんです。

<歌手になったきっかけ>
高校時代に放送部でした。
アナウンサーをとくに目指したわけではないんですけど、
演劇をやっていました。大学で舞台の上に立って、
芝居は3本くらい学生演劇をやったんですけど、
その頃、ミュージカルみたいなのが流行り始めていました。
それでステージの上で役者だって歌ったらいいとか、
みんなでちょっと歌の練習はしていたんですよ。
それを聴いていて私の父が、シャンソンコンクールに申し込んじゃった。
それがもう全てのドンデン返しでした。
― コンクールで歌った歌は何だったんですか?

優勝した時はエディット・ピアフとかじゃなくて、フレンチポップ。
可愛いラブソングで、その曲はレコーディングしていないんですよ。
コンクールで優勝しても、
「こんなものは日本で売れるわけがないから」っていうことで。
だけど、私のテレビ初出演は
コンクールに優勝した翌日、朝の「小川宏ショー」です。
優勝したら出演するっていうことは決まっていたんですよ。
レストラン経営を私の家族は営んでいたんですけど、
そこの常連さんでディレクターの人たちが何人かいらして、
「おとき頑張れよ」「明日待ってるよ」って言われていたんです。
だからそんなわけで、初めてのテレビだったんだけど、
周りに知っているプロデューサーがいたり、
“何か楽しいなって”感じで出演できました。



<歌手デビュー>
「誰も誰も知らない」という、
なかにし礼さんが作詞の曲がデビュー曲です、ムード歌謡で。
今から思えば、なかにし礼さんも終戦後、満州から帰国されて。
(加藤さんも終戦後ハルビンから帰国)
心の奥に深く隠している、誰にも知られないで、
自分の悲しみを隠しているっていうのを、
こっそり私がハルビン生まれということを知って、
この歌に託したのかもしれない。
その頃はそんなことはつゆ知らず、私は「ちょっとムード歌謡嫌だな…」
とか思いながら、「艶っぽく歌え」とか言われて。
いま聴くとすごくかっこいい、すごく伝わるものがありますね。
歌ってそういうものなんですよ。出会った時に分かんないんですよ。
この頃になって、やっぱり若かったんだなっていう。
大して理解もできなくて、一生懸命はやっていたんだけど、
よくは理解できてなかった。
歌手っていうものが歌うことで何を伝えることができるのかっていうのは、
相当時間が経ってからやっと分かったような気がするんですね。



<記憶に残る出演番組>
後の橘家圓蔵さん(五代目 月の家圓鏡)と一緒にお笑い番組をやっていました。
毎週1本撮っていたんですけど、1回ずつ番組にテーマがあるから、
それに合わせて「登紀子、お前曲を作れ」と言われて、
まだ作詞作曲をまるでしていなかったのに作詞作曲をしたんですよ。
番組の2回目が「お酒」がテーマだった。
まだ20歳くらいの半分アイドルで売ろうとしていた人だから、
全然誰もなんとも反応がなかった。
それでも3曲目はね「電気」がテーマで、
それはレコーディングしたんですね、それはレコードになった。
週に1曲作っていた“すごいでしょ!”
そういう「なんでもやってみよう」だったんですよ。
いろんな人が「やってみよう」って気持ちで番組を作っているから、
「できるんじゃない? できるでしょ? 曲作る? なんて」
っていうノリです。
「あ、すいません、やってみます」っていうことでやって。
私が週に1回レギュラーをやらせていただいた時、
母が張り切って、毎週1着ずつ洋服作ってくれました。
一緒に生地を買いに行ってデザインを決めて、
仮縫いしてっていうのをやっていたんです。
うちは洋裁屋さんだったので、私の母は。それで一生懸命縫ってくれてね。
ミニスカートの時代に可愛いワンピースがいっぱいあるんですけど。
やっぱりテレビの衣装はね、
「すごく頑張らなきゃいけないよね」っていうのはあって。
「ひとり寝の子守唄」くらいからすごいテレビでの露出が増えたんですよ。
それでその時に「もう1着ずつ新調できないわ」っていうことで、
ギターを弾いているので、ジーンズとシャツみたいな簡単な
こればかり着ているみたいな、そういう作戦でいったと。