バックナンバー
#953
2025年3月9日
テレビディレクター田原総一朗90歳(後編)
【番組司会】山口豊(テレビ朝日アナウンサー)
八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーター】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【出演】田原総一朗(ジャーナリスト)
佐高 信(評論家)
原 一男(映画監督)
八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーター】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【出演】田原総一朗(ジャーナリスト)
佐高 信(評論家)
原 一男(映画監督)
テレビ番組の中でタブーに挑み続けるジャーナリスト田原総一朗さん。
90歳になった現在も衰えぬその情熱は
どこから生まれてくるのでしょうか。
テレビの過去、現在、そして未来を
どのように考えているのでしょうか。
90歳になった現在も衰えぬその情熱は
どこから生まれてくるのでしょうか。
テレビの過去、現在、そして未来を
どのように考えているのでしょうか。
<権力との距離>
- 田原:
- やっぱりある程度の知名度を得たら
共産党以外のあらゆる政党から「国会議員になれ」と勧められた。
とくに強く勧められたのは自民党。
「国会議員になってくれたらすぐに大臣にする」
僕はそれを断り続けた。
国会議員は一種の権力者ですよ。
権力者になりたくなかった、ジャーナリストでいたかった。
世の中を変える力はジャーナリストより、
はるかに政治家の方があるよね。
政治家は世の中を変えるためになっているんだから
そのために権力が必要。
僕は権力を持ちたくない。
好きなの。テレビ番組を作ることが好きなの。


<原発問題>
田原さんはジャーナリストとして
実に50年原発を取材しています。
70年代から原発推進派と否定派、両方を取材し、
本や映画にしてきました。
1987年に「朝まで生テレビ!」が始まると、
真っ先に原発推進派と否定派を同席させ、
日本初の対立する両派の討論会を行いました
2011年3月東京電力福島第一原発事故が起きた
翌年の元旦には、福島にスタジオを移して放送。
番組で毎年、原発問題を取り上げ続け、
2021年には、事故発生当時の菅元総理、
一時避難の末 帰還した川内村の村長など、
関係者一同が事故から10年を総括しました。
実に50年原発を取材しています。
70年代から原発推進派と否定派、両方を取材し、
本や映画にしてきました。
1987年に「朝まで生テレビ!」が始まると、
真っ先に原発推進派と否定派を同席させ、
日本初の対立する両派の討論会を行いました
2011年3月東京電力福島第一原発事故が起きた
翌年の元旦には、福島にスタジオを移して放送。
番組で毎年、原発問題を取り上げ続け、
2021年には、事故発生当時の菅元総理、
一時避難の末 帰還した川内村の村長など、
関係者一同が事故から10年を総括しました。
- 田原:
- 原発に反対している人がいる、推進している人もいる。
だから両者を対談させる、おもしろいじゃない。
僕は判断能力がないと思うから、
若い有識者たちに出演してもらってどう判断するか。
― 田原さんは、テレビの枠を大切にされているんですね?
- 田原:
- はい。
だって多くの人が観てくれるわけだから。
テレビの中でいかに言論の自由を守るか、
言いたいことを言うか、政府批判をいかにするか。
僕は、この国を良くしたいと思っている。
この国を潰そうとは思っていない、
良くしたいと思ってやっている。
良くするためには、あれを変えなきゃいけない
これを変えなきゃいけない、いっぱいある。
朝生はスタジオドキュメンタリーです。
新聞やテレビは、今、オールドメディアと呼ばれている。
それを百も承知でオールドメディアを守りたいと思っている。
SNSはとても危険だと思っている。
SNSは好きなものを見て読む。
テレビや新聞はいろいろな情報がある。
好きな情報も嫌いな情報も両方入っているのが大事だと思っている。
テレビやオールドメディアへの不信感が相当強いですね。
やっぱりその不信感をなくさなきゃいけない。
言論の自由を守りたい、つまりタブーはない。
だから相手になんでも聞く。
最近は悲観論が多いよね。
なぜ悲観論が多いかというと、悲観論を出した方が売れる。
視聴率も取れる。
悲観論は簡単だけど、この国をどうするかということを
まともに考えるのは非常に難しい。
ある大新聞の主筆であった人物に「なんで悲観論ばかりやるんだ?
もっとこの国をどうするべきかを真面目に考えるべきなんじゃないか」
と言うと
「田原さんの言うとおりだけど…」
前向きに考えることは非常に金がかかる、研究するからね。
そして何よりも才能が必要になる。
悲観論には金もかからないし才能もいらない。
今ね、前向きに考える方向になりつつある。
悲観論やっているだけではウケない。
前向きに考える必要がある、と思う人たちが増えています。
<若者への期待>
- 田原:
- 僕らみたいな年寄りはそんなに生きてない。
少子化によって時代がどうなるか、責任の持ちようがない。
若い連中が少子化で10年20年30年後に
日本がどうなるかって考えなきゃいけないでしょう。
少子化の問題、東京の一極集中もね、地球環境の問題も。
年寄りは10年20年先は見られないんだから
どっちかというと無責任になるね。
だから期待しないといけない。
だから若い世代の人たちと勉強会をやっています。
<テレビ局>
- 田原:
- テレビ局は免許事業でしょ?
免許は政府が出している。
政府から免許をもらっているから成り立っているわけね。
ということは基本的に政府とケンカができない。
政府から免許をもらって成り立っているテレビで
どこまで政府とケンカするかっていうところがおもしろい。

<ジャーナリストに駆り立てたもの>
田原さんは1934年、滋賀県彦根市生まれ。
現在の生き方に大きな影響を与えたのは
小学5年生、終戦の年の出来事でした。
現在の生き方に大きな影響を与えたのは
小学5年生、終戦の年の出来事でした。
- 田原:
- 小学1年生(1941年)の12月8日に戦争が始まって
小学5年生になったら本格的社会科が始まる。
先生が1学期に「この戦争は世界の悪い悪い侵略国であるアメリカや
イギリスをはじめヨーロッパの国々が世界中の国を植民地にしようとし
ている。」
植民地というのは、その国の主体性がなくなる。
つまり占領されているわけだからね。
多くの国が植民地にされている。
そういう国を解放し独立させる、そのための正義の戦争と言われた。
新聞もラジオも全部そう言った。
ところが夏休みに天皇陛下の玉音放送があり、日本が戦争に負けた。
2学期になったら先生や新聞やラジオも180度変わった。
「絶対やってはいけない悪魔の戦争だった」
「間違いの戦争だった」
2学期になったらね
「日本は絶対に戦争をしない、平和国家にならなきゃいけない」
新聞もラジオも政府も信用できない。
じゃあ一体どうすればいいのかと考えた。
ジャーナリストになろうと思った。
なんで価値観が大きく変わるんだろう?
戦争反対が賛成になる。
誰がどういうことを言うと変わるんだろう?
変わることがいいのか悪いのか、ということを確認したい。
<高校3年生の転機>
- 田原:
- 高校に入ったら中学より勉強が難しくなった。
僕は不登校になりかけた。
なんでこんな難しい勉強をしなきゃいけないんだ?
先生に聞いたら「当たり前だ」と。
「君は大学に行くんだろう?」
「君はいい大学に行きたいと思っているんだろう?」
「受験に受からなければならない、だから勉強するのは当たり前だ」
と言われた。
なんで大学に行かなきゃいけないんだろう?
「いい大学に行かないと就職できない、当たり前だろう」
「いいところに就職しないと生活ができない」
「変なところに入ると倒産する可能性もある」
でも、何人かの先生に聞いたら本当にいい先生がいて
なぜ大学に行かなければいけないか、就職しなければいけないか?
「1回しかない人生で一体何がしたいのか?
人生をかけて、それを見つけるために教育があるんだ」
「だから1回しかない人生で何がやりたいか探せ」と言われて
それで色々探してジャーナリストになろうと思った。

<信念>
- 田原:
- いまでも同じ。とにかく言論の自由を守る。
タブーはない。なんでも言う、言いたいことは。
日本を絶対に戦争させない。
野党を強くしたい。


<評論家・佐高信さんから田原さんへ>
- 佐高:
- 田原さんに期待するものというと、
タブーに挑戦するのがジャーナリストなんだから
やっぱり原発でも何でも田原 総一朗さんはタブーに挑戦してきた。
やっぱり最後に最大のタブーに挑戦してください。
- 田原:
- とてもありがたい。
佐高信に褒められることをやりたいと思っている。
どうしたら佐高信が褒めてくれるんだろうか
まったく僕は自信がないからね
コンプレックスのかたまりですから。

<映画監督・原一男さんから田原さんへ>
- 原 :
- 田原さんの姿勢は一貫して変わらないので、
これからも毒気を衰えることなく振りまいて生き抜いてください。
社会に対する毒気を振りまいて刺激を放射するという生き方だし、
エネルギーを衰えなく放射し尽くして、あの世へ旅立ってください。
線香1本供えに行きます。
- 田原:
- ありがたい限りだね。

<引退>
- 田原:
- 僕には趣味がまったくない。
ゴルフ、麻雀、酒を飲む、何もやらない。
こんなに趣味がない人間はいないと思う。
仕事が趣味なんですよ。
仕事を死ぬまでやろうと思っている。
好きなことを仕事にしているわけだから、
仕事がなかったら生き続ける意味がまったくない。
だから死ぬまでやる、死んだ時が引退です。

死んだ時が
ジャーナリストとして
引退です。
田原 総一朗
ジャーナリストとして
引退です。
田原 総一朗
