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#930
2024年9月15日

中村雅俊さんとテレビ(前編)

【司会】山口豊(テレビ朝日アナウンサー)
    八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーション】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】中村 雅俊(俳優・歌手)
1951年、宮城県に生まれた中村雅俊さん。
慶應義塾大学在学中、文学座に所属し俳優の道へ。
1974年、23歳のとき「われら青春!」の主役に大抜擢され、
青春の代名詞として瞬く間に国民的スターとなりました。
中村さんは歌手としても活躍。
多くのヒット曲を世に送り出してきました。
今年、デビューから丸50年。
中村雅俊さんにテレビについて、お話をうかがいました。

<デビューから50年>
すごく運が良かったなというのが第一です。
水先案内人というか誘導してくれる方が私の周りに多くて、
道に迷うことなく普通に歩んで来られたかなという気がします。
つまりは、出会いに恵まれ
すごく良い方優しい方が多かった。



<かけがえのない恩人>
大学3年の時に、英語劇クラブに入っていました。
その時の演出家が、会っているうちに
具体的にはありませんが、「雅俊は何かある」と言ってくれました。
文学座の研究生テストを受けようと考えていた時で、その言葉の後押しで
自分が考えた道を歩もうという決心をしました。
加えて人生を振り返れば、
まだ文学座の研究生でテレビも出てない時に、

いきなり主役でデビューを英断をした日本テレビのプロデューサーの方には感謝しています。



中村さんをデビュー作で主役に抜擢したドラマプロデューサー
岡田晋吉さんのインタビュー



<中村さんを主役に抜擢した理由>
(岡田さん)
大した理由もなく主役に決めてしまった。
中村さんに理由を聞かれても「背が高かった」としか言ってない。
文学座で「誰か推薦してよ」と言ったら中村雅俊を推薦されました。
「われら青春!」の主役がラグビー部の先生役なので、神宮外苑で
「走ってくれ」と言ってとにかく走らせた。
その姿を見て僕は中村さんに惚れてしまった。
イメージとピッタリで主役に決めました。
中村さんはいい加減なところはいい加減、それが良かった。
何を言われても笑って済ませられる度量があると思います。

<デビュー作以降も、多くの作品で中村さんを起用し続けた岡田さん。
 その理由は?>
(岡田さん)
縁を持ったら、どこでも通用するようになってもらわないと困る。
僕と一緒の間は自分の企画にキャスティングするけれど、
終わればどこのプロデューサーが声をかけるか?
声をかけてくれるところまで力量を持っていかなければいけない。

― 岡田さんのインタビューを観て、いかがでしたか?

びっくりしました。岡田さんに
「なんで俺を起用したのか?」といつも聞きますが
「お前、背がでかかった」しか言わず、
その続きを少し聞いたような気がします。



<ドラマ「われら青春!」で主役デビュー>
文学座に入ってまだ1年も経っていない時です。
いきなり映画放送部っていうところに呼ばれ
「中村、お前あの先生役決まったぞ」、
そのあとに「主役だよ」って言われてびっくりしました。
それもNHKの大河ドラマの裏番組ですからね。
当時は青春シリーズがすごく人気で、
ほとんどの作品の仕掛人は岡田さんでした。
岡田さんは「太陽にほえろ!」にも携わっていて、
手がけた企画は当たっていました。

<ドラマ挿入歌「ふれあい」>
― 「ふれあい」という曲を歌ってください、という話が来た時、
どういう風に思われましたか?


レコードを出すことがうれしくて、
大学時代に曲を作っていました。
自分の作った曲がレコードになればいいなというのが
夢でした。自分の歌をレコーディングして
レコードにする現実は、信じられませんでした。

中村さんをデビュー作で主役に抜擢したドラマプロデューサー
岡田晋吉さんのインタビュー

<挿入歌を中村さんに歌わせた理由>
(岡田さん)
「われら青春!」を観ている人には中村雅俊は大スター。
しかし観ていない人は中村雅俊を知らない。
歌わせることによって中村雅俊の名を広めたかったし、
青春ドラマを観ない人にも広めたかったです。
「ふれあい」を歌ったらいきなり曲が売れ、
人気が出ました。
「ふれあい」を歌い始めたのは十何話からでしたが、
最初から歌わせればよかった(笑)。

― 岡田さんのインタビューを観て、いかがでしたか?

当時、オリコンという音楽雑誌で10週間1位という
大ヒットでした。岡田さんが言うように、
あの歌で皆さんが中村雅俊を知るようになってくれたと思います。

<岡田さんからのアドバイス>
とにかく自分のいま置かれている状況を、
ただただ一生懸命頑張れっていう感じでした。
言葉を思い出せませんが、
岡田さんの言っていることを信じていいなと思い、
ついていけば大丈夫という感じはしました。
先ほどの「道案内してくれる」っていう方が何人かいるんですが、
岡田さんは本当に信用してました。
道をついていけばいいなと思わせてくれた方です。



<岡田さんから中村さんへメッセージ>
(岡田さん)
あの年になると、どうしてもニーズが減ります。
その中でどう変化していくのか。
悪役をやるか、あるいは歌をヒットさせるか、
どちらかじゃないと吹っ切れないよ?という話もしています。
なんとか音楽は一発当ててほしいと思っています。
そうすれば、必ずどこかのテレビ局がドラマを作るでしょうから。
常に新しく、常に若々しくいてほしいと思います。

― 岡田さんからのメッセージを観て、いかがでしたか?

悪役はやれますが、歌のヒットはなかなか難しいですね。
大学の時に英語で芝居をしていたので、
いままでにアメリカの映画に2回出ています。
だから、悪役は可能性として頑張れそう。
オーディションを受けて、そういう努力はしたい。
英語を喋る映画や映像にチャレンジしてみたいと思います。



<デビュー50周年記念のCD>
4枚組のCDで、
4枚中2枚はファンの子が選んだ私の曲ベスト30ですが、
あとの30曲はデビューして作った曲です。
一番は、ファンの方たちと50年歩んできた時間や変化をファンの人と
味わいたい。「ふれあい」を歌っている時、
こんな感じの歌声だったが今すっかり変わったね、とか。
しみじみそういう変化を楽しみたいな。
それと同時に歴史や思い出をファンの方と一緒に味わいたいとの思いが
CDを作るきっかけでした。

<若さの秘訣>
とくに何てことありません。
自分のことを分析すると、老うスピードが遅いかな、と。
歳をとっていくスピードが遅いから
少し若く見られるのか?
としか考えようがありません。
以前はジムに行っていました。
いまは時々ウォーキングしたり、
何かをマメにやってはいません。

<「己を知る」ということ>
現実問題として「己を知る」というか、
デビューした時は自分のことを何にもわからないで頑張っていました。
キャリアを積んでいくと
自分自身が分かってきて、車のスペックで例えると、
排気量がいくつくらいでということが分かってくる。
残酷さがあり、自分のスペックが分かると、
あ、俺は2000ccくらいかと。
世の中には4500ccくらいの人もいるし、
それでも同じ役者として頑張らなければならない。
自分は2000ccしかないが、
チューンナップやカスタマイズなどの
努力をしなきゃいけない。
現実を知る厳しさやどういう努力をすべきなのか?
歌も私がめちゃくちゃ上手いわけではなく、
自分のスペックは分かるので、
「さあ、じゃあどうする中村?」という戦いはしてきています。
排気量があればいいということではなく、
スタイリングやほかのファクターを踏まえ、自分が自分らしくどう生きるかは、
キャリアを積むと分かってきます。
私自身そういう戦いもまた楽しく、
そういうものに押しつぶされず、
「よし!やってやる」という気持ちを持っています。
だから、「大変」が好きです。
みんなが「大変だ、大変だ」と言うと、
「よし!ちょっと頑張っちゃうかな」という気持ちになります。



<若者へのメッセージ>
自分もできないことですが、
もうこれ以上できない、
ギリギリの努力や苦労を味わってほしいですね。
最大限の努力をするとか、マックス状態の努力で追い詰めたりするのは、
若者にやってほしいと思います。
自分ができなかった時もあるので、
あの時もう少しやっておけば、みたいなところも
あります。
それはこの世界だけではなく
普通の人間として思うことですが、
あの時もっとやっていれば、難しそうなことをもっと努力、
もっと苦労すれば、そういうものは振り返ると
いくつかのシーンで出てきます。