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#921
2024年7月7日
渡辺宜嗣さんとテレビ
【司会】山口豊(テレビ朝日アナウンサー)
八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーション】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】渡辺 宜嗣(フリーアナウンサー)
八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーション】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【ゲスト】渡辺 宜嗣(フリーアナウンサー)
1977年、テレビ朝日に入社し、47年、アナウンサー一筋。
今年70歳。現在、フリーアナウンサーとして活躍する渡辺宜嗣さんに
テレビについてお聞きしました。
渡辺宜嗣(69歳)
1954年 愛知県生まれ
1977年 テレビ朝日 入社
2014年 定年退職
テレビ朝日専属キャスター
2023年 フリーランスに
今年70歳。現在、フリーアナウンサーとして活躍する渡辺宜嗣さんに
テレビについてお聞きしました。
渡辺宜嗣(69歳)
1954年 愛知県生まれ
1977年 テレビ朝日 入社
2014年 定年退職
テレビ朝日専属キャスター
2023年 フリーランスに

<シニア世代>
― 今年12月で70歳。シニア世代をどう感じていますか?
自分の今の年齢を意識することはないんですけど、
もっともっと見聞を広めたい、そんな毎日を過ごしたいなと。
「アクティブシニア」という言葉があるんですけど、
体力があって健康でないとそれはできないので、
そういう70代に入っていきたいな。
僕が今、一番やりたい番組は、
高齢者による 高齢者のための 高齢者のニュース番組なんです。
出演者もゲストもスタッフもみんな高齢者で。
なんせ高齢者が一番多いんですから。
若い世代に比べたら、長く生きている部分がありますので、
そういう番組がもしあったらやってみたいなと思います。
― 宜嗣さんは変わらずお元気そうですが、新しく始めたことはありますか?
街歩きをするようになりました。
家にいる時間が長くなった分、運動不足になりますし。
妻と一緒にお昼ごはんをどこかで食べて、その街を見て歩いてます。
つい先週も、人形町へ行って、甘味屋さんでクリームあんみつを食べて、とかね。
今日は、「昔話と自慢話、説教話はするな」って妻に言われてきたんですけど、
昔話はちょっとしちゃうかもw
自分の今の年齢を意識することはないんですけど、
もっともっと見聞を広めたい、そんな毎日を過ごしたいなと。
「アクティブシニア」という言葉があるんですけど、
体力があって健康でないとそれはできないので、
そういう70代に入っていきたいな。
僕が今、一番やりたい番組は、
高齢者による 高齢者のための 高齢者のニュース番組なんです。
出演者もゲストもスタッフもみんな高齢者で。
なんせ高齢者が一番多いんですから。
若い世代に比べたら、長く生きている部分がありますので、
そういう番組がもしあったらやってみたいなと思います。
― 宜嗣さんは変わらずお元気そうですが、新しく始めたことはありますか?
街歩きをするようになりました。
家にいる時間が長くなった分、運動不足になりますし。
妻と一緒にお昼ごはんをどこかで食べて、その街を見て歩いてます。
つい先週も、人形町へ行って、甘味屋さんでクリームあんみつを食べて、とかね。
今日は、「昔話と自慢話、説教話はするな」って妻に言われてきたんですけど、
昔話はちょっとしちゃうかもw


<原点となる出会い>
― アナウンサー人生を振り返って、原点となる出会いや仕事はありますか?
22歳でテレビ朝日に入社した時に、
同期に恵まれたというのが最初の出会いでした。
ご存じの通り、古舘伊知郎、佐々木正洋、吉澤一彦、戸谷光照、
南美希子さん、宮嶋泰子さん、中里雅子さん、伊福保子さんの同期入社は9人。
たぶん東京の放送局で9人もアナウンサーを採用した年というのは
後にも先にもないと思うんです。
22歳でテレビ朝日に入社した時に、
同期に恵まれたというのが最初の出会いでした。
ご存じの通り、古舘伊知郎、佐々木正洋、吉澤一彦、戸谷光照、
南美希子さん、宮嶋泰子さん、中里雅子さん、伊福保子さんの同期入社は9人。
たぶん東京の放送局で9人もアナウンサーを採用した年というのは
後にも先にもないと思うんです。
<同期入社・南美希子さんから新人時代の渡辺宜嗣さんの印象を聞きました。>
南美希子さん
― 南さんのV T Rを観て…
ありがとうございます。昔から南さんは、華があった。
僕らが入社したのは1977年なんですけど、
3年後の1980年にモスクワ・オリンピックという大イベントがあった時で。
テレビ朝日がモスクワ・オリンピックの独占放送権を獲得したのが1977年。
大量採用した理由もそこにあるわけですけど、
先輩アナウンサーたちがみんなモスクワ要員でアマチュアスポーツを勉強していく。
僕ら新人が、上手いとか下手とか関係なく、もうやらざるを得ない状況の中で、
僕は「大相撲ダイジェスト」「ゴルフ中継」「ボクシング中継」を担当。
古舘伊知郎は、もう当時から喋りの天才でしたから「プロレス実況」をすぐに始めた。
先輩が今までやっていたジャンルの種目、スポーツ実況をやるわけです。
3年経って、モスクワ・オリンピックはご存知の通り、
旧ソ連がアフガニスタンに侵攻したことによって、西側諸国が50カ国近くボイコットした。
そのオリンピックが終わって、
1980年の秋に始まったのが「トゥナイト」という番組。
これはね、僕の原点の番組。
「不適切にもほどがある!」というドラマで、
主演の阿部サダヲさんが「トゥナイト観てぇー!」と言って
ソファーに寝転がるPRが流れていたんですよ。
それを観るたびに「トゥナイトやってた!」とテレビに向かって言っていました。
「トゥナイト」は僕にとっては原点で。
その原点の番組が5年間あって、
1985年の「ニュースステーション」が始まる時も加わることになって。
この2つの番組が僕の原点ですね。
最初の印象は、色が白くてすらっとして、顔が和風で
「麻呂、麻呂」って呼ばれていました。
宜嗣さんは当時から正論を言うんです。
それは別に良い子ぶってじゃなくて、
彼は本当に普通に発言すると、気が付くと正論になっていた。
そういう意味で本当に平衡感覚があるというか、素晴らしいと思う。
当時から人間的に信頼できると思っていましたね。
私はナベ(宜嗣さんの愛称)と同期であるということが非常に誇りです。
これからも年齢に負けずお互いに頑張りましょう。
― 南さんのV T Rを観て…
ありがとうございます。昔から南さんは、華があった。
僕らが入社したのは1977年なんですけど、
3年後の1980年にモスクワ・オリンピックという大イベントがあった時で。
テレビ朝日がモスクワ・オリンピックの独占放送権を獲得したのが1977年。
大量採用した理由もそこにあるわけですけど、
先輩アナウンサーたちがみんなモスクワ要員でアマチュアスポーツを勉強していく。
僕ら新人が、上手いとか下手とか関係なく、もうやらざるを得ない状況の中で、
僕は「大相撲ダイジェスト」「ゴルフ中継」「ボクシング中継」を担当。
古舘伊知郎は、もう当時から喋りの天才でしたから「プロレス実況」をすぐに始めた。
先輩が今までやっていたジャンルの種目、スポーツ実況をやるわけです。
3年経って、モスクワ・オリンピックはご存知の通り、
旧ソ連がアフガニスタンに侵攻したことによって、西側諸国が50カ国近くボイコットした。
そのオリンピックが終わって、
1980年の秋に始まったのが「トゥナイト」という番組。
これはね、僕の原点の番組。
「不適切にもほどがある!」というドラマで、
主演の阿部サダヲさんが「トゥナイト観てぇー!」と言って
ソファーに寝転がるPRが流れていたんですよ。
それを観るたびに「トゥナイトやってた!」とテレビに向かって言っていました。
「トゥナイト」は僕にとっては原点で。
その原点の番組が5年間あって、
1985年の「ニュースステーション」が始まる時も加わることになって。
この2つの番組が僕の原点ですね。


<深夜の情報番組「トゥナイト」>
20代の渡辺さんが担当したのは、深夜の情報番組「トゥナイト」。
話題となっている様々な現場を取材しました。
いろんなことやりましたね「トゥナイト」は。
政治経済、事件事故、風俗から芸能ニュース。
様々なジャンルの取材に行くわけです。
当時、ドラマ「西部警察」をテレビ朝日が放送していました。
あのドラマは爆破シーンが有名で、爆破シーンがある日には、
朝、現場へ行って夕方まで地方で取材して飛行機で帰ってきて、
その日の夜に放送するとかね。
そんなことを毎日やっていました。
夕方帰ってくると、ディレクターは編集作業に入るわけです。
その編集に僕は夕方から本番までずっと付き合うんですよ。
今だとナレーターがいて、ナレーションを入れてくださる。
僕らの頃はそういう仕組みがないので、
「ここでナベ、30秒喋り」と言われて、自分で原稿を考えて。
ナレーションも生でスタジオで僕がつけるんですよ。
だから時間の中に入れなきゃいけない、はみ出すわけにもいかないし。
そういう意味でいうとね、毎日が突貫工事の連続でした。
話題となっている様々な現場を取材しました。
いろんなことやりましたね「トゥナイト」は。
政治経済、事件事故、風俗から芸能ニュース。
様々なジャンルの取材に行くわけです。
当時、ドラマ「西部警察」をテレビ朝日が放送していました。
あのドラマは爆破シーンが有名で、爆破シーンがある日には、
朝、現場へ行って夕方まで地方で取材して飛行機で帰ってきて、
その日の夜に放送するとかね。
そんなことを毎日やっていました。
夕方帰ってくると、ディレクターは編集作業に入るわけです。
その編集に僕は夕方から本番までずっと付き合うんですよ。
今だとナレーターがいて、ナレーションを入れてくださる。
僕らの頃はそういう仕組みがないので、
「ここでナベ、30秒喋り」と言われて、自分で原稿を考えて。
ナレーションも生でスタジオで僕がつけるんですよ。
だから時間の中に入れなきゃいけない、はみ出すわけにもいかないし。
そういう意味でいうとね、毎日が突貫工事の連続でした。

<リポート術>
昔はとにかく何の予定もなく取材に行くわけですよ。
テーマだけ決めて行く。
とにかく、つぶさにそこの人に話を聞く。
現象を見て、まったく何にもないところからリポートする。
僕は取材っていうのは、
そのリポーター、その人の「言葉探しの旅」だと思っているんです。
これは世界に羽ばたこうが、日本のどこへ行こうが、
東京都内であろうがすべて一緒で、
行った先で何を見つけるかという、
その見つける目線というかね、アングルというか、
「トゥナイト」でそれを鍛えられたなっていう感じがありますね。
テーマだけ決めて行く。
とにかく、つぶさにそこの人に話を聞く。
現象を見て、まったく何にもないところからリポートする。
僕は取材っていうのは、
そのリポーター、その人の「言葉探しの旅」だと思っているんです。
これは世界に羽ばたこうが、日本のどこへ行こうが、
東京都内であろうがすべて一緒で、
行った先で何を見つけるかという、
その見つける目線というかね、アングルというか、
「トゥナイト」でそれを鍛えられたなっていう感じがありますね。

<渡辺宜嗣と報道番組>
「トゥナイト」でお茶の間の人気者になった渡辺さん。
40代は、報道番組を担当。
「ニュースステーション」ではメインキャスターを務めることもありました。
2010年からは「スーパーJチャンネル」を担当。
テレビ朝日の夕方の顔として10年半、メインキャスターを務めました。
40代は、報道番組を担当。
「ニュースステーション」ではメインキャスターを務めることもありました。
2010年からは「スーパーJチャンネル」を担当。
テレビ朝日の夕方の顔として10年半、メインキャスターを務めました。
<「ニュースステーション」>
僕、最初はね、ニュース番組ってあまりやりたくなかったんですよ。
昔はクイズ番組とか歌番組とか、
そういうのをやりたいと思ってアナウンサーになったので、
ニュース番組って一番遠い世界だったんです。
ニュースを伝えることの充実さと面白さと、その意義みたいなものを、
感じるようになったのは「ニュースステーション」を始めてからです。
僕は「ニュースステーション」が始まる時に、久米さんが
「宜嗣、この番組には肩書きを外して参加してほしい」と言われたんです。
それはつまり、アナウンサーでもなく、キャスターとかレポーターでもなく、
渡辺宜嗣という人間に関わってほしいと。
昔はクイズ番組とか歌番組とか、
そういうのをやりたいと思ってアナウンサーになったので、
ニュース番組って一番遠い世界だったんです。
ニュースを伝えることの充実さと面白さと、その意義みたいなものを、
感じるようになったのは「ニュースステーション」を始めてからです。
僕は「ニュースステーション」が始まる時に、久米さんが
「宜嗣、この番組には肩書きを外して参加してほしい」と言われたんです。
それはつまり、アナウンサーでもなく、キャスターとかレポーターでもなく、
渡辺宜嗣という人間に関わってほしいと。

<「スーパーJチャンネル」>
― 宜嗣さんは「スーパーJチャンネル」放送前の時間に、
僕たちアナウンサーは、何かものを分かっているように話していますけど、
全く知らないじゃないですか。
世の中に起きていることも、いろんな仕組みも。
僕はとてもアナログな人間なので、どうしても新聞の切り抜きをしたいんですよね。
それがあるのが自分の安心材料、みたいなね。
そんな感じで作業をしていましたし、いまだに切り抜きはやっています。
新聞をスクラップして、それも相当時間をかけて資料を作っていた。
やはり準備というのも相当こだわってらっしゃいましたか?
僕たちアナウンサーは、何かものを分かっているように話していますけど、
全く知らないじゃないですか。
世の中に起きていることも、いろんな仕組みも。
僕はとてもアナログな人間なので、どうしても新聞の切り抜きをしたいんですよね。
それがあるのが自分の安心材料、みたいなね。
そんな感じで作業をしていましたし、いまだに切り抜きはやっています。

<「朝まで生テレビ!」>
「トゥナイト」「ニュースステーション」「朝まで生テレビ!」は番組当初から関わっているんです。
この「朝まで生テレビ!」で田原総一朗さんから
「真ん中というのはよくわからないものなんだ」ということを教わったんです。
僕らアナウンサーはいつも公明正大、そして中立ということを
よく言われますけど、「中立って何だろう?」ということを考えさせられたのが
「朝まで生テレビ!」という番組でした。
座標軸が縦軸と横軸、ちょうど真ん中に重なるところがあるとして、
自分は真ん中にいると思っていても、
右から見たら左に見えるし、左から見たら右に見える。
では真ん中の水準点というのは、どこにあるのか?ということをね、
すごく迷うわけです。
だから真ん中というよりも、自分はどう思うんだ?ということ。
つまり、さっきの久米さんの言葉に戻れば、
肩書きではなくて、人としてどう思うの?人として参加してほしいというか、
きっとそういうことだろうということは、後になってわかるんですけどね。
― 1987年に始まった「朝まで生テレビ!」。
渡辺さんは、初回から現在まで番組進行を務めています。
司会の田原総一朗さんに、渡辺さんについて聞きました。
田原総一朗さん
― 田原さんのVTRを観て
ありがとうございます。10年、15年というのはたぶん、
田原さんはご自身におっしゃっているんだと思います。
「朝生」は、自分のアナウンサー人生の中で一番怖い番組でもありました。
オープニングで3分~4分間ぐらい、
今日はこういうテーマでこういう話をしますと、
論点はこういうことです、みたいなことを話すんですけど。
僕はそのオープニングトークをするだけで、足が震えるような感じでした。
田原さんも怖い方でしたから。
この「朝まで生テレビ!」で田原総一朗さんから
「真ん中というのはよくわからないものなんだ」ということを教わったんです。
僕らアナウンサーはいつも公明正大、そして中立ということを
よく言われますけど、「中立って何だろう?」ということを考えさせられたのが
「朝まで生テレビ!」という番組でした。
座標軸が縦軸と横軸、ちょうど真ん中に重なるところがあるとして、
自分は真ん中にいると思っていても、
右から見たら左に見えるし、左から見たら右に見える。
では真ん中の水準点というのは、どこにあるのか?ということをね、
すごく迷うわけです。
だから真ん中というよりも、自分はどう思うんだ?ということ。
つまり、さっきの久米さんの言葉に戻れば、
肩書きではなくて、人としてどう思うの?人として参加してほしいというか、
きっとそういうことだろうということは、後になってわかるんですけどね。
― 1987年に始まった「朝まで生テレビ!」。
渡辺さんは、初回から現在まで番組進行を務めています。
司会の田原総一朗さんに、渡辺さんについて聞きました。
田原総一朗さん
とにかくセンスがいい。柔軟性がある。
何より人柄がいい。信頼できる。絶対に裏切らない。
非常に頼りにできる人。僕は信頼しきっているから、
番組で討論が途中で行き詰まったり、困った時には必ず渡辺さんに
「どう思う?」と話を振る。
困った時に非常に頼りになる人。
渡辺さんがいなくなったら「朝まで生テレビ!」は終わっちゃう。
だからあと10年、15年はやってほしい。
― 田原さんのVTRを観て
ありがとうございます。10年、15年というのはたぶん、
田原さんはご自身におっしゃっているんだと思います。
「朝生」は、自分のアナウンサー人生の中で一番怖い番組でもありました。
オープニングで3分~4分間ぐらい、
今日はこういうテーマでこういう話をしますと、
論点はこういうことです、みたいなことを話すんですけど。
僕はそのオープニングトークをするだけで、足が震えるような感じでした。
田原さんも怖い方でしたから。



<テレビとは>
― 渡辺さんにとってテレビとは何でしょうか?
時代を映す鏡です。
鏡を絶対曇らせないように、テレビに関わっているスタッフも出演者も、
みんなテレビという時代を映す鏡を曇らせないように
一生懸命磨いてほしいなと。
いつもピュアで、いつも透明感があるものにし続けてほしいな。
鏡を磨いてほしいなっていう、そういう存在ですね。
時代を映す鏡です。
鏡を絶対曇らせないように、テレビに関わっているスタッフも出演者も、
みんなテレビという時代を映す鏡を曇らせないように
一生懸命磨いてほしいなと。
いつもピュアで、いつも透明感があるものにし続けてほしいな。
鏡を磨いてほしいなっていう、そういう存在ですね。
