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#910
2024年4月14日
LiLiCoさんとテレビ 前編
【司会】山口豊(テレビ朝日アナウンサー)
八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーション】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【出演】LiLiCo(映画コメンテテーター・タレント)
八木麻紗子(テレビ朝日アナウンサー)
【ナレーション】田中萌(テレビ朝日アナウンサー)
【出演】LiLiCo(映画コメンテテーター・タレント)
2023年10月からテレビ朝日の放送番組審議会委員を務める
LiLiCoさんにテレビについてお話を伺いました。
LiLiCoさんにテレビについてお話を伺いました。

<プロフィール>

<放送番組審議会委員>
― 放送番組審議会委員はどんな思いで引き受けたのでしょう?
私びっくりしました!声がかかって。
もっとも呼ばれないテレビ局なんです(笑)
何度かだけお世話になっただけだったので、すごくびっくりしました。
「なんで!?」って。
出役(でやく)がそういう素晴らしい立場(放送番組審議会)に行っていいかどうか分からなくて。
でも声をかけてくださるっていうことは…喜んで!
だからもう今は、テレビ朝日のLock on!ですよ。毎日。
― 初めての審議会は2023年の10月5日。参加してみていかがでした?
とても静かで(笑)
大先輩の皆さんが並んでいるわけですよ。
私たちはこっち側にいて、会長や社長など他の皆様は四角く囲んだテーブルの前にいて。
一番最初、どういう風にお話すればいいのかが分からないじゃないですか。
だから、他の委員のお話を順番に聞いていて、ああ、この位の長さなんですねって思ったんですけど、すごいしゃべりすぎちゃって(笑)
だからもう、1回目で大反省しちゃいました。
私びっくりしました!声がかかって。
もっとも呼ばれないテレビ局なんです(笑)
何度かだけお世話になっただけだったので、すごくびっくりしました。
「なんで!?」って。
出役(でやく)がそういう素晴らしい立場(放送番組審議会)に行っていいかどうか分からなくて。
でも声をかけてくださるっていうことは…喜んで!
だからもう今は、テレビ朝日のLock on!ですよ。毎日。
― 初めての審議会は2023年の10月5日。参加してみていかがでした?
とても静かで(笑)
大先輩の皆さんが並んでいるわけですよ。
私たちはこっち側にいて、会長や社長など他の皆様は四角く囲んだテーブルの前にいて。
一番最初、どういう風にお話すればいいのかが分からないじゃないですか。
だから、他の委員のお話を順番に聞いていて、ああ、この位の長さなんですねって思ったんですけど、すごいしゃべりすぎちゃって(笑)
だからもう、1回目で大反省しちゃいました。

<V T R>
初めての放送番組審議会での発言
「学校で学ばなかったものをテレビから学ぶことが多い」
2回目の発言
“テレビは夢の箱”
― ご覧になってどうでしたか?
ちょっと早口だなと思いました(笑)
「学校で学ばなかったものをテレビから学ぶことが多い」
2回目の発言
“テレビは夢の箱”
― ご覧になってどうでしたか?
ちょっと早口だなと思いました(笑)

<印象に残っていること>
― 委員になって半年ですが、印象に残っていることは?
まず、見城さんに洋服を褒められないとちょっとのらない(笑)。
今の映像にあった2回目のスーツを「かっこいいな」って言われて、
「よし今日も頑張れる!」と思いました。
見城さんとか、藤田さんは本当におしゃれで、みんなすごくおしゃれで
大人の素敵なファッションなんです。
小谷実可子さんと毎回、すごく意見が似ているんです。
感想を言う時に「そこは言ってもいいけど、ちょっと細かいかな」と思って遠慮するじゃないですか、そう思っていると小谷さんが言ってくださるんですね。
同じく出役をされている方なので、「あ、やっぱりこういうことなんだな」と思って。
まず、見城さんに洋服を褒められないとちょっとのらない(笑)。
今の映像にあった2回目のスーツを「かっこいいな」って言われて、
「よし今日も頑張れる!」と思いました。
見城さんとか、藤田さんは本当におしゃれで、みんなすごくおしゃれで
大人の素敵なファッションなんです。
小谷実可子さんと毎回、すごく意見が似ているんです。
感想を言う時に「そこは言ってもいいけど、ちょっと細かいかな」と思って遠慮するじゃないですか、そう思っていると小谷さんが言ってくださるんですね。
同じく出役をされている方なので、「あ、やっぱりこういうことなんだな」と思って。
<番組を見るポイント>
― どんなポイントで番組を観ている?
1回自分を消します。タレントのLiLiCoを消します。
外国人ではあるんですけれども、長く日本にいたテレビ大好きな人。
1回まず削り落とさないとプロの目で観ちゃうから。
もちろん“プロのLiLiCo”がどこかにいないと発言はできないじゃないですか。
「楽しかったです」って言うと1行で終わっちゃうので、
多少奥深く「もうちょっと短かったら、もっと笑えたかな」とかっていう
ちょっとうるさいLiLiCoも1人いて
“男のLiLiCo”もいないといけないと思うんですね。
これは映画を観ている時もそうです。
もちろん“女の子のLiLiCo”でいないといけないし、
テレビにかぶりついて早く自分の好きな番組観たいって言って5分前に待つんですけど、なんであの5分が長いんでしょうね(笑)
自分の好きな番組があっという間に終わって、また1週間待たないといけないっていうその“日本のテレビが大好きというLiLiCo”でもいないといけないなと思っていますので、(色々な自分を)代弁しています。
1回自分を消します。タレントのLiLiCoを消します。
外国人ではあるんですけれども、長く日本にいたテレビ大好きな人。
1回まず削り落とさないとプロの目で観ちゃうから。
もちろん“プロのLiLiCo”がどこかにいないと発言はできないじゃないですか。
「楽しかったです」って言うと1行で終わっちゃうので、
多少奥深く「もうちょっと短かったら、もっと笑えたかな」とかっていう
ちょっとうるさいLiLiCoも1人いて
“男のLiLiCo”もいないといけないと思うんですね。
これは映画を観ている時もそうです。
もちろん“女の子のLiLiCo”でいないといけないし、
テレビにかぶりついて早く自分の好きな番組観たいって言って5分前に待つんですけど、なんであの5分が長いんでしょうね(笑)
自分の好きな番組があっという間に終わって、また1週間待たないといけないっていうその“日本のテレビが大好きというLiLiCo”でもいないといけないなと思っていますので、(色々な自分を)代弁しています。

<スウェーデンでの生活>
― 子どもの頃はどんな風に過ごしていました?
信じてくれます?(笑) 言いますよ…
すごく無口で…(え~) 家族の中で一番無口なんです(笑)
今、スタッフも「え~っ!?」て言っていた(笑)
父と弟がすごく話すんです。
私は学校でとてもいじめられていたのと、
家庭も崩壊していたので、学校へ行くのも嫌だったし、家に帰るのも嫌だったんです。
その現実逃避が映画館だったんですね。
テレビ放送が夜だけだったんです、当時のスウェーデンって。
2つのチャンネルで夜しかやっていないんです。
移民がとても多いので、フィンランド語のニュース、ポーランド語のニュース、ドイツ語のニュースっていうのは全部文字が出るんです。
1チャンネルと2チャンネルの国営放送でした。コマーシャルはないです。
夜だけ放送があって、コマーシャルがなかったので、何もない時は「時計」だけです。
時計がずっと画面に映ってるんです。
大きく普通の丸い時計が…。
日本だと時計はほとんど映らないんですけれども…
例えば時報が「ピピピ、ピー」ってなったら番組が始まるじゃないですか。
スウェーデンなんか「ピピピ、ピー」って言ってまた「ピピピ」って言って全然時間に始まらないんです!
この前にもうさすがに違うでしょって思うじゃないですか…
今は5個くらいかな?チャンネル、増えたんですね。
民放ができて、コマーシャルもありました。
朝のニュースはもう1回放送したら、あとはその録画が流れるんですよ。
なので再放送は途中で切れて終わっちゃうんですよ!大雑把なんです。
もちろんワイプがあるとか、テロップがあるとか
バラエティーで何かツッコんだりとかはないんです。
スウェーデンには90年代なんですけど
“助けて私、日本のバラエティに出てます”っていうテレビ番組があったんです。
枕で相撲みたいなことをしたり。小麦粉に落ちたり、スライムの階段上がってビリビリ(電流)みたいな、ああいうの一切ないんですよスウェーデンには。
だから、日本のバラエティを真似しようっていう、良く言えばオマージュ、悪く言えばパクッた(笑)。
当時すごく人気だったんです。日本のテレビは面白いんですよ。とにかく面白いから!
静かなそのLiLiCoが観ていた当時のテレビは、トップテンがあったり、ニュースがあったり、子どもの番組があって、古いヒッチコックかチャップリンの映画があって、
スポーツニュースがあって終わるんです。
それは「夢の箱」だと思いますよね、日本に来たら。
1chから12chっていうのがあって、「信じられない!」ずっとテレビをつけていました。
信じてくれます?(笑) 言いますよ…
すごく無口で…(え~) 家族の中で一番無口なんです(笑)
今、スタッフも「え~っ!?」て言っていた(笑)
父と弟がすごく話すんです。
私は学校でとてもいじめられていたのと、
家庭も崩壊していたので、学校へ行くのも嫌だったし、家に帰るのも嫌だったんです。
その現実逃避が映画館だったんですね。
テレビ放送が夜だけだったんです、当時のスウェーデンって。
2つのチャンネルで夜しかやっていないんです。
移民がとても多いので、フィンランド語のニュース、ポーランド語のニュース、ドイツ語のニュースっていうのは全部文字が出るんです。
1チャンネルと2チャンネルの国営放送でした。コマーシャルはないです。
夜だけ放送があって、コマーシャルがなかったので、何もない時は「時計」だけです。
時計がずっと画面に映ってるんです。
大きく普通の丸い時計が…。
日本だと時計はほとんど映らないんですけれども…
例えば時報が「ピピピ、ピー」ってなったら番組が始まるじゃないですか。
スウェーデンなんか「ピピピ、ピー」って言ってまた「ピピピ」って言って全然時間に始まらないんです!
この前にもうさすがに違うでしょって思うじゃないですか…
今は5個くらいかな?チャンネル、増えたんですね。
民放ができて、コマーシャルもありました。
朝のニュースはもう1回放送したら、あとはその録画が流れるんですよ。
なので再放送は途中で切れて終わっちゃうんですよ!大雑把なんです。
もちろんワイプがあるとか、テロップがあるとか
バラエティーで何かツッコんだりとかはないんです。
スウェーデンには90年代なんですけど
“助けて私、日本のバラエティに出てます”っていうテレビ番組があったんです。
枕で相撲みたいなことをしたり。小麦粉に落ちたり、スライムの階段上がってビリビリ(電流)みたいな、ああいうの一切ないんですよスウェーデンには。
だから、日本のバラエティを真似しようっていう、良く言えばオマージュ、悪く言えばパクッた(笑)。
当時すごく人気だったんです。日本のテレビは面白いんですよ。とにかく面白いから!
静かなそのLiLiCoが観ていた当時のテレビは、トップテンがあったり、ニュースがあったり、子どもの番組があって、古いヒッチコックかチャップリンの映画があって、
スポーツニュースがあって終わるんです。
それは「夢の箱」だと思いますよね、日本に来たら。
1chから12chっていうのがあって、「信じられない!」ずっとテレビをつけていました。

<スウェーデンで好きだった番組>
「T O P10」とかの音楽の番組が好きで、もう音楽が大好きなんです。
音楽が私を本当にハッピーにしてくれて、今でもやっぱり80年代の音楽に浸ってます。
その「T O P10」に「第8位!」と言う方が出演していたんです。
シーア・ベリーっていう女性が。
毎週まっ赤なリップとか青いカツラだったりとか、何か色んな洋服もすごく派手で。
私、すごく好きだったんです。でも私はすっかりその人のことを忘れていたんですね…
9年前ぐらい前に、スウェーデンの父が私が来日してから初めて日本に来たんですね。
26年経って私、今35年いるんですけど。
父が「私が映画紹介をやっている番組」のスタジオに来てくれたんですよ。
家族みんな、生で観てくれたんですよ。
それで、「あなたシーア・ベリーと同じオーラです」と父に言われて。
「あっ!」て思って、何で私は40年近く、シーアさんを忘れていたのか!?
多分何か失念してしまったんですよね日本にいるから…
その彼女のいいところは、本当に「第8位、第7位」とかって言っているだけなんですけど、何かで元気になるんですよ。
― その人への憧れがあったのかもしれないですね
すごく暗い子だったので…やっぱり明るくなりたいなと。
だからLiLiCoというキャラクターを作り上げたんですね、
その中にシーア・ベリーはいるんですよ今でも。
いろんな人がいるんです。LiLiCoというキャラクターの中に。
家でも「いや、それでさ!それでさ!!」だったら疲れるじゃない(笑)
これはテレビに出ているから、ちゃんと伝えなきゃいけないからやっているだけで
もうちょっと静かですよ。ご安心ください。
音楽が私を本当にハッピーにしてくれて、今でもやっぱり80年代の音楽に浸ってます。
その「T O P10」に「第8位!」と言う方が出演していたんです。
シーア・ベリーっていう女性が。
毎週まっ赤なリップとか青いカツラだったりとか、何か色んな洋服もすごく派手で。
私、すごく好きだったんです。でも私はすっかりその人のことを忘れていたんですね…
9年前ぐらい前に、スウェーデンの父が私が来日してから初めて日本に来たんですね。
26年経って私、今35年いるんですけど。
父が「私が映画紹介をやっている番組」のスタジオに来てくれたんですよ。
家族みんな、生で観てくれたんですよ。
それで、「あなたシーア・ベリーと同じオーラです」と父に言われて。
「あっ!」て思って、何で私は40年近く、シーアさんを忘れていたのか!?
多分何か失念してしまったんですよね日本にいるから…
その彼女のいいところは、本当に「第8位、第7位」とかって言っているだけなんですけど、何かで元気になるんですよ。
― その人への憧れがあったのかもしれないですね
すごく暗い子だったので…やっぱり明るくなりたいなと。
だからLiLiCoというキャラクターを作り上げたんですね、
その中にシーア・ベリーはいるんですよ今でも。
いろんな人がいるんです。LiLiCoというキャラクターの中に。
家でも「いや、それでさ!それでさ!!」だったら疲れるじゃない(笑)
これはテレビに出ているから、ちゃんと伝えなきゃいけないからやっているだけで
もうちょっと静かですよ。ご安心ください。

<日本に来たきっかけ>
私は18歳で日本に来たんです。
葛飾の祖母がアイドル雑誌を送ってくれて。本当は母に送ってくれたんだと思うんです。
まあ可愛い日本のアイドルがね、ピンクのドレス、フリフリのレースでリボン頭につけて、そんなアイドルいないんですよスウェーデンに。
アイドルでもやっぱり革ジャンだったりとか、そこまでフリフリじゃないんですね。
日本でアイドルになるしかないなと、その雑誌を見て決めました。
毎月、箱が来るんです日本から。ダンボール箱。
その中に雑誌、レコード、スルメ、梅干し、海苔、これはもう母が子どもの頃の味を思い出すためにだと思うんですけどね。
最初に日本に来た時、おばあちゃんがオーディションの切り抜きを探してくれて、
それで行ったんです。
― どんなオーディションだったんですか?
タレント学校みたいな感じで、でも全然日本語を話せなかったので、英語の歌を歌って。
このセリフ読んでくださいって、ドラマに出るためにっていうことだったんでしょうけど、全く読めなくて。だから「葛飾から来たLiLiCoです。」しか言えなくて…
英語の歌を歌って、終わってしまいました。でも受かったんです!
レッスンをするための学校だったので。少しでも何か才能を見つけてくださったのであれば嬉しいんですけれども、そこは30人ぐらいのクラスのレッスンだったので、「これはマンツーマンじゃないと駄目だな」と思ってすぐ辞めてしまいました。
申し訳ないんですけれども。
LiLiCo さんは18歳のとき歌手を目指し来日
4年後にCDデビューしました
5年ぐらい車の中で生活していて、家はなかったんですけれども、飛び込みのキャンペーンをいっぱいしました。
歌手だったので、元々演歌歌手の付き人をやって、その前歌を歌わせて頂いていました。
愛知県とか静岡県って結構スナックとか並んでいるんですよ。
ビルではなくて東京はね、土地の値段が高いので、飲食ビルが多いんですけれども。
愛知や静岡では当時スナックも10軒ぐらい並んでいたので「歌手をやってますので、歌わせてもらえませんかっ?」ていうお願いをしてました。
仕事なんてないですもん。誰も知らないから。
当時はカセットテープだったんですけど、デビュー曲もカセットテープで手売りで。
「トップ10」なんて入るような感じではなかったです。
もちろん、そのためには頑張りましたけど、気持ちはありましたけど。
全国放送のバラエティーに出演させていただいたのはデビューして22年後でした。
葛飾の祖母がアイドル雑誌を送ってくれて。本当は母に送ってくれたんだと思うんです。
まあ可愛い日本のアイドルがね、ピンクのドレス、フリフリのレースでリボン頭につけて、そんなアイドルいないんですよスウェーデンに。
アイドルでもやっぱり革ジャンだったりとか、そこまでフリフリじゃないんですね。
日本でアイドルになるしかないなと、その雑誌を見て決めました。
毎月、箱が来るんです日本から。ダンボール箱。
その中に雑誌、レコード、スルメ、梅干し、海苔、これはもう母が子どもの頃の味を思い出すためにだと思うんですけどね。
最初に日本に来た時、おばあちゃんがオーディションの切り抜きを探してくれて、
それで行ったんです。
― どんなオーディションだったんですか?
タレント学校みたいな感じで、でも全然日本語を話せなかったので、英語の歌を歌って。
このセリフ読んでくださいって、ドラマに出るためにっていうことだったんでしょうけど、全く読めなくて。だから「葛飾から来たLiLiCoです。」しか言えなくて…
英語の歌を歌って、終わってしまいました。でも受かったんです!
レッスンをするための学校だったので。少しでも何か才能を見つけてくださったのであれば嬉しいんですけれども、そこは30人ぐらいのクラスのレッスンだったので、「これはマンツーマンじゃないと駄目だな」と思ってすぐ辞めてしまいました。
申し訳ないんですけれども。
LiLiCo さんは18歳のとき歌手を目指し来日
4年後にCDデビューしました
5年ぐらい車の中で生活していて、家はなかったんですけれども、飛び込みのキャンペーンをいっぱいしました。
歌手だったので、元々演歌歌手の付き人をやって、その前歌を歌わせて頂いていました。
愛知県とか静岡県って結構スナックとか並んでいるんですよ。
ビルではなくて東京はね、土地の値段が高いので、飲食ビルが多いんですけれども。
愛知や静岡では当時スナックも10軒ぐらい並んでいたので「歌手をやってますので、歌わせてもらえませんかっ?」ていうお願いをしてました。
仕事なんてないですもん。誰も知らないから。
当時はカセットテープだったんですけど、デビュー曲もカセットテープで手売りで。
「トップ10」なんて入るような感じではなかったです。
もちろん、そのためには頑張りましたけど、気持ちはありましたけど。
全国放送のバラエティーに出演させていただいたのはデビューして22年後でした。


<日本で観ていたテレビ>
最初、お弁当屋さんで働いていたんです。
おばあちゃんに甘えちゃいけないと思って、お金は自分で稼ぐっていうのは母が昔からお小遣いではなく、弟の面倒見て100円とか、向こうのお金で貰っていました。
お弁当屋さんは言葉はいらないから。
ミートボール右上、モズク2キロみたいな。
高野豆腐を絞るとかっていうのをやっていました。
お弁当屋さんは、ランチ前がとっても忙しいんです。
ランチに売り出すお弁当を作らなければいけないから。
朝早くから帽子、白い服、白い長靴を履いて、ずっと高野豆腐を絞っていたんですけれども、そうするとランチのお休みが1時間半ぐらいあるんです。
それで「笑っていいとも!」と「ライオンのいただきます」後に「ライオンのごきげんよう」という番組になったあの2本からまず日本語を覚えたんです、それが日課だったんです。
タモリさんが日本語の先生です。
なので、出演させていただいた時に大号泣しました。嬉しくて。
おばあちゃんに甘えちゃいけないと思って、お金は自分で稼ぐっていうのは母が昔からお小遣いではなく、弟の面倒見て100円とか、向こうのお金で貰っていました。
お弁当屋さんは言葉はいらないから。
ミートボール右上、モズク2キロみたいな。
高野豆腐を絞るとかっていうのをやっていました。
お弁当屋さんは、ランチ前がとっても忙しいんです。
ランチに売り出すお弁当を作らなければいけないから。
朝早くから帽子、白い服、白い長靴を履いて、ずっと高野豆腐を絞っていたんですけれども、そうするとランチのお休みが1時間半ぐらいあるんです。
それで「笑っていいとも!」と「ライオンのいただきます」後に「ライオンのごきげんよう」という番組になったあの2本からまず日本語を覚えたんです、それが日課だったんです。
タモリさんが日本語の先生です。
なので、出演させていただいた時に大号泣しました。嬉しくて。

