最終章 わすれなぐさの記憶
 

 石川多映子がソフトボールと歩んだ時代。それはソフトボールが急速な進化を遂げた時代でもあった。
 その象徴・日本代表「宇津木ジャパン」は12月、アテネオリンピックに向けて選考会が行われた。銀メダルから金メダルへ。
 多映子さんの激闘以来、一度も勝てていない宿敵アメリカ打倒に向け、あらたな道作りが始まろうとしている。
 そしてアテネへの卵、37名が選出された。当然石川多映子はそこにはいない。
 けれど彼女に共通するひたむきな情念は、すべての選手に、当たり前にように受け継がれている。
 時代が進化する一方で、決して変わらないものも、あるから。

 石川多映子がいなくなった日立ソフトウェア。
 練習は日々、続いている。
 今、エースの座をめぐって、2人のピッチャーが、熾烈な戦いを続けていた。

 その一人、入山真澄選手。おととしやめようとした石川を、泣いて引き止めた。
 しかし、気構えも少し変わった。
 「石川さんは勝つことの喜びを残してくれたと思います。初優勝できたのも、その前の年に準優勝だったのも石川さんがいたことが大きかったんです。すぐにはなれないかもしれませんけど、とにかく負けない。どんなに打たれても、負けない。そういう気持ちでいきたいです」
 もう一人、遠藤有子選手は他チームからの移籍組。腕など各パーツが大きいため石川さんから「大ちゃん」というニックネームをつけてもらう。投球面では1年間、自分らしさをつかめず苦しんでいたという。
 「ソフトボールにかける気持ち、石川さんって強いと思うんです。常に自分を持ってるって言うか、ダメなものはダメ。いいものはいいって信念を持ってて、自分には信念がまだないので、これからはマウンドにたった自分を強く持っていきたいです」

 努力の人・石川多映子がこのチームに残したものは、何だったのだろう。
 磯野稔監督に聞いた。
 「それはまだわからないです。・・・でも、きっとしばらくたってからその大きさや意味がわかってくるんだと思いますよ。そういうもんだと思います」

 しばらくして2人の遠投トレーニングがはじまった。
 勢いよく投げ、基礎動作をじっくり確認する。

 いなくなった大黒柱に、ならなければ。
 そしてあんなひたむきで大きな背中に、いつかなりたい。
 夕日の遠投、2人がインタビューで言っていた言葉をふと思い出した。
 そして、昔もがいていた石川多映子を、ふと思い出した。

 人はこうして、成長してゆく。



 2月4日、久々に栃木の石川さん宅を訪ねる。

 勝博さんは、あの裏庭にいた。
 丁寧にとんぼをかけ、雑草の芽をとる。こうした日課は、変わっていない。

 「やらずにはいられないんですよね」と勝博さん、言葉少なに。
 そして一息、空を見上げた。

 石川多映子さんは、元気だった。会社は1月いっぱいで退職。運転免許取得に向けがんばっている最中である。
 次、何をするのかは、まだ決まっていないという。
 「大変なことかも知れないし、不安でもあります。新しい道ですからね。モットーは変わらず、常に楽しく、頑張りたいです。全てを楽しんで、良かったなって思えるようになりたいです」

 これから先、きっと多映子さんは何があってもひたむきに立ち向かい、
 「楽しく」乗り越えてゆくに違いない。

 それにしても、人々に残る記憶とは、一体何なのだろう。
 残す記憶とは、一体何なのだろう。
 もしかしたらそれは、無意識の中に刷り込まれるものなのではないか。
 淡くほのかに咲く、わすれなぐさのような。

 石川多映子が続けたひたむきな努力は、ひっそりと、しかし着実に塁球戦士たちの魂に宿る。今は、そう思いたい。

 27歳の女性が、新たな道に向かおうとゆっくり、強く歩き出した。

 遠く離れる背中を見て、最後、月並みな質問をしたくなった。
 ソフトボール生活はどうでしたか?

 「最高でした」


 「わすれなぐさ。知られざる有終美 完」