第10章 誰も知らない戦いがあった
 

 東戸塚にあるミズタ整形外科。アメフトの選手なども多く訪れる、スポーツ故障分野でもひそかに有名な病院である。
 多映子さんは、夏以降この病院に頻繁に通うようになる。
 院長の水田隆之先生に話を聞いた。

 「しばらく来ていなかったんですが、去年の7月5日からひざの腫れを訴え出して、以来頻繁に通院するようになりました。水がたまる症状です」

 実は多映子さん、右ひざ半月板接合部をかなり痛めていた。半月板は高校時代、一度手術経験のある古傷。当時、激しい着地とひざの粘りで剛速球を生み出すアメリカンスタイル投法が流行り、それをやりすぎたのが原因だった。
 手術後はほとんど症状が出ていなかったが、シドニー五輪前からちょくちょく痛み出し、2002年の夏に、大きな症状となって現れた。年々たまった疲労と、ルール改正による負担の増加。それが大きなストレスとなっていたという。

 「MRIを行ったところ、半月板の接合部がかなり傷んでいました。本来休むべきなんでしょうが、ピッチャーとしてやることがあるということでしたので、対処として軟骨注射と水抜きを行いました。かなりのストレスだったと思います」(水田院長)

 「歩いていても、普通にしてても痛むんですよ。実は結構つらいんです」(多映子さん)

とっても丈夫なイメージのある石川多映子選手。
しかし実際は、水を抜き、痛み止めを射つ毎日。
傷は、深かった。

そんな中、ひざをより粘る投法を取り入れた。
負担が増えても、やりたかったのだという。

 「あの投げ方は負担かかったし、あれで痛めたりした部分もあったけど、とにかく今はいいピッチングをしたいって気持ちが大きかったから。痛みに関係なくとにかく身につけなきゃっていうのが大きかったから」(多映子さん)

 このヒザの状態では、来年以降球にキレを生んだり、持ち前の絶妙なコントロールを作り出すことはできない。とても納得のいくピッチングなどできたものではない。何より、そんな状態で投げることが、大好きなソフトボールに対してもうしわけなかった。
 それほどに、限界だった。

 自己満足でもいい。納得のいくピッチングがしたい。
 そんな多映子さんの言葉が、リフレインされる。

 11月2日、日本リーグ・豊橋大会。対するはシドニー代表・増淵まり子と安藤美佐子を擁するデンソー。刻む打撃や俊足でかきまわすチームとして最近徐々に力をつけてきた。
 日立ソフトウェア、先発・石川多映子。

 日立ソフトウェアは大型ルーキー・山田恵里のホームランなどでじりじりと差を広げ、最終回時点で3−1。ソフトウェア2点リードだった。
 女子一部リーグにおいて、最終回の2点リードは、ほとんどひっくり返されることはない。そのままソフトウェアが逃げ切る。そう誰もが思った。
 ところが・・・このあと、信じられないことが起きる。

 石川投手、制球が乱れ四球が続いた。
 二死1、2塁。
 打たせてとる石川投手のピッチングでは、こうした追い込まれる展開は決して珍しくなかった。けれど・・・
 デンソー、続く一番・松尾真由子、ライト前ヒット。これで1点差。
 二死2、3塁。二番・立岩宏美。
 ボールで外して二球目。石川投手、チェンジアップを繰り出す。

 その1秒たらずあと、打球は二遊間に強く飛んだ。

 二人のランナーがホームベースを踏んだ。
 何と、逆転サヨナラ負けである。
 チェンジアップを、打たれた。

 まさか、まさかだった。
 終了の整列。その後スタンドへのあいさつ。多映子さんは静かにうつむいたままだった。
 あれを、打たれてしまった。

 多映子さん、質問に言葉少なに答え、バスに乗り込んだ。
 今、少し落ち込んでます、と。
 石川勝博さん運転の「応援カー」も、落ち込んだ空気が満ちていた。

 「ホントに今日は・・・何でああなっちまうかな」
 普段より、格段に口数が少ない。自分のことのように悔しがる。

 その足で、勝博さんは隣町にある豊川稲荷へ向かった。
 サヨナラ負けの後の、娘の必勝祈願。
 じっくりを手を合わせた。

 その後歩きながら、当たり前のことを、あえて聞いた。
 どうしてこんなにも娘の応援に、精魂込めるのですか?と。
 勝博さん、一言。

 「親子一緒にやってきたソフトボールなんだから、最後の最後まで看取ってやらなきゃ。責任が、まだ、続いてるんですよ。」

 勝博さんが、自分なりに感じた多映子さんの悪い箇所を、斎藤春香さんに伝えたのは、それから1週間後のことだった。足の着地の際、腕の位置が悪く、手投げ気味になっている、と。

 そのころ多映子さんは、週2回の通院と痛み止め注射を繰り返していた。
 平然とした顔をしながら、耐えていた。

 父もまた、戦っていた。
 娘もまた、戦っていた。