「引退します。いろいろ世話になったね」
10月3日深夜にきた電話の第一声です。
この日引退を発表しナゴヤドームで最終登板を終えた
中日ドラゴンズ 川崎憲次郎からの電話でした。
通算成績88勝。うち29勝が巨人戦。
ジャイアンツキラーとして名をはせた投手です。
川崎投手とは1999年にヤクルトを担当してからの付き合いでした。
当時のヤクルトは川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁という
セリーグ最強の先発3本柱を擁していました。
恵まれた体から150qを越えるストレートを投げ込む石井や伊藤に比べると、
川崎のストレートは140qそこそこ。
素人目には一番地味な存在だったかもしれません。
しかし、彼には“シュート”という大きな武器がありました。
絶体絶命のピンチで見せる川崎、古田バッテリーのシュート勝負。
闘志剥き出しでシュートを投げ続ける川崎と、
シュートを狙い続ける打者との真剣勝負は観ている者を熱くさせました。
一度、「打者が狙っているのにシュートを投げるの怖くないか?」と
尋ねた事があります。
すると「僕の持ち球はシュート。狙われているのは解っている。
でも、狙われても打てない球を投げれば良いんです」と答えました。
シュートに対する絶対の自信。これこそがこの男のアイデンティティ。
このシュートへのこだわりに現れているように、
川崎は一途な男です。そして 決して言い訳をしない男でした。
当時、「川崎の投げる試合は味方打線が打てない」というジンクスがありました。
強力巨人打線を1点2点に抑えても援護なく敗戦という試合が続きました。
それでも試合後、「こういうこともあるよ」と言うだけで、
決して愚痴をこぼしません。
ショートを守る宮本慎也は、「どんな場面でも絶対勝負を捨てない。
何とかしようと努力をする、その川崎の必死な姿を見ていると、
守っている最中に涙が出てきた」と言います。
何も語らなくてもチームメイトから絶大な信頼を受ける男です。
川崎の性格をあらわすもう一つのエピソードが2000年オフのFAの時。
ジャイアンツキラー川崎のFAは世間の注目を集めました。
通常、FA選手は球団から離れるため広報がつかず、
マスコミ取材は本人との直接交渉になります。
ここで、取材に応じず逃げる選手。
代理人に任せる選手。
選手によって対応は様々です。
そんな中 川崎は「正々堂々とやる」と、
毎日 神宮のクラブハウスに現れ記者の取材を受けることを約束しました。
そして、何も動きが無くても律儀にクラブハウスに来て取材に応じました。
ある時など、古田さんたちとのゴルフの約束をしていたのに
「記者さんが待っているから」とゴルフを断って神宮に来た事があります。
FA後に奥さんからこの話を聞いた時は、頭が下がる想いでした。
中日に移籍してからの川崎は肩痛に悩まされ続けます。
FA移籍1年目から登板機会はなくリハビリの日々。
複数年で高い契約金を得ているため、
給料泥棒と陰口をたたかれることもあります。
去年のオールスターではファン投票1位という
悪意のこもった仕打ちを受けました。
それでも川崎はいっさい不満をもらしませんでした。
川崎を励まそうと食事に誘っても、
逆に私の仕事を心配して慰めてくれるなんて事もありました。
そんな川崎が一度だけ、ぼそっと本音を漏らした事があります。
「俺だって投げたいんだよ…」
そう呟いた時の彼の表情は忘れられません。
そして迎えた2004年。
オープン戦から好調をアピールした川崎は開幕投手に抜擢されます。
「今年は東京で会おう」そんなメールもくれました。
しかし、またも肩の痛みが襲いリハビリの日々。
そして、痛みは引かないまま10月2日、
中日が優勝を決めた翌日に“戦力外通告”を受けます。
そして川崎が下した決断は、現役引退・・・
引退登板は古巣のヤクルト戦。
1番打者、古田にはシュート勝負で三振。
そして最後の打者、岩村へは渾身 138qのストレートで三振。
三者三振に討ち取り最後のマウンドを降りました。
その時、1塁側からは4年間の苦悩を見てきた中日ナインが、
3塁側からは苦楽を分かち合ったヤクルトナインが総出で川崎を胴上げしました。
その光景に川崎という男が表れています。
試合後、「まだ投げられるんじゃない?」と質問した私に
「もう、ひょろひょろボールしか投げられなくなったよ」と答えた川崎。
狙われていても自分のボールにこだわり続けた男が、
そのボールを投げられなくなったと判断した時、
ユニフォームを脱ぐ決意をしたのです。
最後まで、川崎憲次郎らしく…
こうして川崎投手の現役生活は幕を閉じました。
第二の人生をどうするかは、まだ決まっていません。
でも、再びユニフォームを着て戻ってくることを信じています。
憲次郎のような 闘志溢れる投手を育てるために
(元ヤクルト担当 瀬口大介)