1月26日放送
「闇そして光 〜地獄を見た長距離ランナーの壮絶なる生き様〜 」

 

尾方と坂口監督の2ショット

全身脱毛症の写真

祈る坂口監督

尾方とアベラのデッドヒート

「ちょっと気になるあの監督の素顔」

2002年11月某日。

お好み焼き屋で、僕はムンムンの熱気と対峙していた。鉄板からか、その人からか、はたまたその両方か。相手は中国電力の坂口泰監督。今年1月26日に放送したマラソンランナー尾方剛(つよし)企画の要所要所で登場し、尾方選手を全身脱毛症から復活へと導いたあの監督である。この日坂口さんは、広島一おいしいと評判の店をわざわざ調べ、取材で訪ねた僕を連れて行ってくれたのだ。「ツヨッさんはね・・・」と尾方選手を語る口調は熱く、かつ愛情に溢れている。だが歯に衣着せぬ辛口発言ゆえに、時に周囲から「悪代官役に見られてしまう」ことを、少々気にしてもいる模様。
そんな坂口さんの素顔と、辛口発言に隠された奥深い思想を紹介したいと思う。

「言葉攻め」

中国電力陸上部を同好会レベルからマラソン最強軍団に育て上げた坂口さん。選手に多くは語らず、ベタベタすることもない。大人の男同士だからと、つかず離れずの距離を保つ。指導方針は明快。競技に誠実に取り組む者は静かに見守り、驕りや慢心が見られようものなら、容赦ない言葉攻めで高くなった鼻をへし折る。自己主張を髪の毛の色に頼ろうものなら「幼稚」とバッサリ切り捨てる。

入社直後の剛さんも、そんな言葉攻めを受けた一人である。

「おまえが走らなくたって世の中は変わらない」
「マラソンも会社もやめてしまえ」
「おまえの目は死んでいる」
少々、酷ではないかと思い、聞いてみた。
「温かい言葉で励まそうとは思わなかったのですか」と。
当時の剛さんは、全身脱毛症の病がようやく癒え始めた頃。
心身ともに走れる状態ではなかったのだから。

「ダメ。温かい言葉なんて何の助けにもならない」と坂口さん。
「僕自身がそうだったから」。

闇そして光 −坂口監督の現役時代

坂口さんの現役時代は、剛さんのそれと驚くほど共通点が多い。大学駅伝のスターからどん底に落ち、苦しみ、そして這い上がったのである。早稲田大学で箱根駅伝優勝、区間賞、区間新記録。SB食品では伝説のランナー瀬古利彦らとともにカリスマ中村清監督の指導を受け黄金時代を築いた。ちなみに坂口さんがマラソンに取り組む姿勢を重視するのは、瀬古さんの修行僧にも例えられた生活を間近で見ていた影響でもあり、坂口さんの話が奥深いのは、あらゆる宗教のエッセンスを取り込んだ「中村学校」の影響でもある。
その間坂口さんは、大学3年から4年半もの長きにわたり(まさに剛さんと同じ時期に)故障で走れない「闇」の中をさまよった。世の中が灰色に見えたという。剛さんがそうであったように、自分を恨み、他人を恨んだ。自分の嫌な部分を見続けた日々・・・
「でもあとあと考えると、その闇は、自分自身が作り出した影でもあるんだよね」
この意味深な言葉を説明するため、独自の人生観を披露してくれた。

マラソンの神様は、灼熱を放つ太陽のようなもの。
背を向けて逃げようとすれば、自分の影を見続けることになる。
焼け死ぬ覚悟を決めて立ち向かう時、初めて影が消えるのだ。

覚悟はやさしい言葉からは生まれない。
過去の栄光は逃げ道でしかなく、プライドは足かせにしかならない。
人格さえもズタズタに引き裂くような言葉を浴びせるのは、覚悟を決めるための手助け。
「言葉攻め」の狙いはそこにあった。もちろん、真意が伝わらないこともある。

「ま、僕は恨まれている選手はたくさんいるんですけどね」と笑う。
「でもツヨッさんは僕の言葉を糧にしてくれたから・・・そういう選手はなんとかしてやらなきゃと思うのが人情でしょう」。
僕はまさかスポーツ界で、人情という言葉を聞くとは思わなかった。

マラソン王国へ

2002年12月福岡国際マラソンで、剛さんが2003年世界陸上代表の座を掴んだ。残る選考レースは2月東京国際マラソン、3月びわ湖毎日マラソン。坂口さんはさらに2人の選手、油谷繁と佐藤敦之を世界陸上に送り込むつもりだ。2004年アテネ五輪では代表独占も決して夢ではない。中国電力が「マラソン王国」の名を戴く日は、近い。もっとも選手たちは、そんな評判にも眉ひとつ動かさず、黙々と走り続けるのだろうけれども。

そういえばあの時、すっかりできあがった坂口さんを見て、ふと思った。
灼熱を放つ太陽、それは実は、坂口さん自身なのではないだろうかと。


尾方剛企画 担当ディレクター  酒井秀行