終戦の翌年、アメリカの新聞に驚くべき記事が掲載された。
「日本は原爆を開発していた。朝鮮半島北部で実験は成功」
なんと太平洋戦争末期、敗色が濃厚となっていく日本で起死回生を狙って極秘裏に原爆製造計画が進めてられていたのである!
陸軍の強い圧力のもとで必死にウラン濃縮に挑む若き科学者たち。
そして原爆用のウラン鉱石を掘っていたのは福島県に住む15歳の中学生たちだった。

「マッチ箱一箱分で米国のニューヨークを吹っ飛ばす爆弾が出来る」
少年たちはそう聞かされて素手にわらじ履きでウラン鉱石を掘らされた。
その一人、永沼不二夫さん(当時15歳)の証言を軸に物語は進行していく。

昭和16年4月、日米開戦を目前にした陸軍は、当時、東京駒込にあった理化学研究所仁科研究室に原子爆弾の開発を正式に依頼する。
仁科研究室には後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎をはじめとする優秀な科学者が集まる。
この極秘プロジェクトは仁科の頭文字から“二号研究”と名付けられた。
仁科は核爆発によるエネルギーをアメリカの科学者と同様にほぼ正確に予測し、原爆製造に必要なウラン235の濃縮分離実験を始めることになる。
一方でウラン鉱石掘りに駆り出されたのは、福島県石川町の中学生たち160人。石川町にある石川山は昔から稀少鉱物の産地として有名でウラン採掘の場所として白羽の矢が立ったのである。
このウラン鉱石を掘る作業が始まる直前、永沼少年のもとに戦地に行った父親から手紙が届く。父の赴任地はあの硫黄島だった…。

昭和20年3月21日、永沼不二夫さん(当時15歳)は、ラジオから流れた大本営発表の硫黄島玉砕のニュースで父・文男さんの死を知った。
中学生たちのウラン掘りが始まったのはその一週間後のことである。
この年、4月13日、仁科研究室にB29の空襲があり、原爆開発に欠かせない実験装置が炎上してしまう。
翌日、仁科は東京の研究室での計画続行を断念。研究員たちは大阪や山形に散って細々と計画を進めることになる。
それでも永沼不二夫さん等中学生たちはウランを掘り続けた。
グラマンの機銃掃射を受ける危険な日々が続く中、ついにその日がやってくる。
広島原爆…。
仁科博士はこのときこう書き記した。
「我々、二号研究の関係者は腹を切る時がきたと思う」
そして終戦。
ウラン鉱山で玉音放送を聴いた中学生たちに教師はこう語りかけた。
「明日からはスコップの替わりに教科書を持ってきなさい」