四月を迎え我輩の人生も47年目に突入する、若い頃からなぜか自分の中での一区切りであった五十歳までいよいよ三年をきることになる。
心境としてはまず正直にホッとしているというところだろうか。
五十歳という年齢にはずっとある種の憧れがあった。
ひとつにはきっと、父親が四十代になってから産まれた身であるということがある。
はっきり記憶がある中の父親はもう五十代であり、まず自分の中に最初にすり込まれた大人の男性であろう。
家庭内のアクシデントにさほどの動揺もなく対応する父親のそれも人生経験の成せる技に見え、その生きてきた年数は果てしない時間の積み重ねに感じたものだ。
そしてそこに一足飛びに到達する術などなく、やはり気が遠くなるほどの時間を生きていくしかないことに自ずと敬意を払った。
二十何歳と答えるのが嫌で、年齢を問われるのが苦痛な二十代だった。
三十歳になると
「やっと三十代になったばかりですよ」
などと応え少し気が楽にはなったが、年齢聞かれても本当に苦にならなくなったのは
「四捨五入すると四十歳です」
と、嘘なく言えるようになってからだ。
志半ばとか人生半ばという言葉があるが、五十歳という年齢が自分の中でどうやらそんな時期にも感じるようだ。
そして今それが目の前に迫ってきたことへの安堵は、まるで何か大きな責務を果たしたかのような爽快感を伴う。
それはもしかしたら自分をこの世に出してくれた親への、最低限の恩返しなのかもしれない。
親であれば、子供には健康に成長し愉快に毎日を過ごして欲しいと思うものであろうが悲しいことにそうばかりではない。
我が人生にもやはり満身創痍の日々はある。
しかし総じて振り返ると退屈のない愉快な毎日でもあった。
半世紀近くの時間を経た結果がそう思えれば上出来の人生である。
そこから自然に感じる自分の親への感謝の気持ちは、そのまま孝行にもなるのではないか。
自分が愉快な毎日を過ごせてきたのは、常に同じ時間を共有してきた子供達の存在があればこそである。
彼らにも是非それぞれのかたちで人生を謳歌してもらいたい、それが親としての願いでもあり
してくれる孝行はそれだけでいい。