第二回 2005/06/15 更新
「アストロ球団」が連載されていた「週刊少年ジャンプ」。少年マンガ誌市場の先陣を切っていた「少年マガジン」や「少年サンデー」の創刊に遅れること9年、「少年ジャンプ」は発行部数10万部の、後発誌として1968年に誕生しました(当初は隔週刊行)。10万部という数字はもちろん「マガジン」「サンデー」よりも圧倒的に少なかったが、翌年に永井豪の「ハレンチ学園」や本宮ひろ志の「男一匹ガキ大将」といった人気連載をスタートさせるとともに、部数は急上昇し、発売も隔週から週刊へシフトチェンジ。70年には早くも100万部の大台を突破するまでになりました。

そして72年、「アストロ球団」スタート。71年には一時的に売り上げが落ち込んだものの、この年から「ジャンプ」は毎年100万部をコンスタントに売り上げるようになり、少年マンガ誌のトップを走っていた「マガジン」から首位の座を確実に奪取するナンバーワン雑誌に成長を遂げたのです(後に600万部強を売り上げる“お化け雑誌”となったのはあまりにも有名)。

「少年ジャンプ」が後発誌でありながら急成長を遂げたのには、「マガジン」や「サンデー」を追い抜け追い越せの気概が編集部全体に流れていたのはもちろんのこと、マンガ家と編集者との間に、「単なる仕事のパートナー」という言葉では収まりきらない密な関係があったことも大きいと言われています。まず、後発ということで、他誌に大物人気マンガ家を押さえられているため、新人発掘に力を注ぎ、その人材で勝負をするしかなかったこと。となれば当然、編集者も自分の手でマンガ家を育て、ヒット作を生もうと必然的に命がけになる。マンガ家が必死なのは言わずもがな。「ジャンプ」内に、人気がなければ10回で連載が打ち切られるという恐怖のシステムがあったことも、必死感を煽る一因でもあったことでしょう。余談ですが、主要登場人物の多くが物語の途中で改名しているのは、そのような理由で打ち切られる可能性がある状態では、最初の5回くらいまでに人気を勝ち取らなければならず、最初の段階から長期連載になった際のことまで悠長に考えてはいられなかったかららしいです。

このような、マンガ家と編集者が切磋琢磨しあいながら毎号作品を作り出すという戦友のような交流は、「アストロ魂」である「一試合完全燃焼」をまさしく体現する作業でもありました。80年代以降、「ジャンプ」はひとつの巨大ビジネスのシステムとして機能し始め、作者の意志ひとつでは人気連載を終了させることは不可能に近いと言われましたが、「アストロ球団」は最終回でも読者投票でも2位を獲得するほどの人気連載。けれども、これ以上物語を続けることや、作者自身が自らの才能を消費することに疑問を抱いたため、作者から終了を申し出たという噂もあります。

ちなみに作画を担当した中島徳博氏は連載中、過度のストレスから手がグローブのように腫れ上がり、頭には凹凸のコブが出来て倒れ、入院したという凄まじいエピソードもあります。

男が命がけで何かに取り組む。そこまでやるならとことん共に戦う…熱くて汗臭いかもしれないけれど、そんな時代の気分が「少年ジャンプ」から「アストロ球団」を生んだのかもしれません。

第一回 2005/05/11 更新
「アストロ球団」がスタート(72年)したのは、65年から73年にかけて巨人がV9達成という前人未到の偉業を成し遂げた時代。64年の東海道新幹線開通、東京オリンピック開催といったいわゆる高度経済成長期を受け、お茶の間にテレビが普及。それと共にプロ野球中継が国民の娯楽となったことも追い風になり、ON(王貞治・長嶋茂雄)コンビという、今なお野球史に燦然と輝く二大スターの競演に日本中は湧き上がっていた。

打撃はもちろんのこと、守備においても、とくに「アストロ球団」内でもそのキャラクターが際立った描かれ方をしている長嶋は、自らの守備範囲も超えて、三塁手にもかかわらずショートへのイージーゴロにも猛ダッシュでキャッチに向かったりするといった派手なアクションで試合中おおいに見せ場を作る優れたパフォーマーでもあったため、たくさんのファンを獲得、魅了した。

だがオイルショックで戦後初のマイナス成長となった73年で巨人の連覇はストップ。中日の優勝により巨人のV10消滅が決まった74年に長嶋は「我が巨人軍は永久に不滅です」との言葉を残して現役引退を表明。翌月監督に就任するも、監督1年目の75年は最下位という結果を残した(76年には優勝奪還している)。

このように、野球といえば巨人といえるほど世間の関心が集中していた一方で、作中に登場するロッテの監督・金田正一もまた何かと注目を集めるお騒がせな存在だった。通算400勝という不滅の大記録を持つカネやん。漫画の中でも相当エキセントリックだが、実際にも、現役時代はキャンプに自分用の調理器具を持ち込むほど食事管理を徹底していた、一日の食費が当時の大卒の初任給に相当した、ピッチャーが打たれると試合中自ら審判に「ピッチャー金田」と告げたなど、真偽のほどはともかく、数々の最強伝説が語り継がれている。監督就任時には、ピッチングコーチを持たず自らが選手を管理し、バッティングにまで口を出したというそのワンマンぶりは、カネやんの象徴的な一面でもある。8回になるとコーチャーズボックスに立ち、「カネやんダンス」(別名タコ踊り)と言われた屈伸運動を行うことでも有名で、作中にもその描写は残されている。ちなみにタコ踊りはカネやんの調子のバロメーターとも言われていた。こんなカネやんだが、ロッテの監督就任2年目にして優勝に導いた実績も輝かしい。が、時は74年。長嶋の引退という球界のビッグニュースに野球ファンは気をとられ、あまりパッとしなかったという。

とはいえ、「アストロ球団」が描かれた頃の球界は、良くも悪くも名キャラクターやドラマティックなエピソードに事欠かず、下卑た野次馬精神も含め多くの人々の興味をそそる、熱い高揚を伴っていた時代なのは間違いない。