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10月11日 「アナの一分」より
Vol. 10 矢島悠子アナの「アナの一分(いちぶん)」
『武士の
一分
(
いちぶん
)
』はよく見るやうな、いわゆる「時代劇」と比べてみると、
日常の一風景を覗いてゐるやうな感覚になります。
いいえ、つまらないと言ってゐるわけでは無いのです。
劇場に行って頂ければ、その感覚が直ぐに分かって頂けることでせう。
主人公の新之丞は優秀と言はれながらも、位の高い武士ではありません。
質素な暮らしを営み、志は天下を狙うほど高いものでもない
(道場を開いて、子供たちに本当に必要な剣術を教へたいというのが彼の夢でした)。
そんな新之丞が何故主人公になり得たのか。
そこがこの『武士の
一分
(
いちぶん
)
』のとても興味深いところでもあります。
本作には「時代劇」でありながら、
現代を生きる私たちにも共感できるところが沢山あるのです。
例へば、新之丞は毒見役という仕事を“不本意で手応えのないお役目”と言って嫌がりますが、それでも仕事を辞めたりしません。
盲目になった新之丞のことで家族会議が開かれた時の親戚の反応は、
「自分の手は汚したくないけど、円満に解決して欲しい」と言ふものでした。
皆それぞれに口ばかり、本当の意味で救ひの手を差し伸べる人物は描かれてゐません。
これは現代に置き換えても本当にあり得る状況です。
結婚や生死と言った、
人生の節目に親戚との関係が露呈することが多いのは今も同じですが、
こういう時、私たちは新之丞の妻・加世が感じたやうな
心細さやもどかしさを感じることがあります。
血が繋がっているから余計に面倒でやり切れません。
新之丞やその家族の悩みは現代の一般家庭の様子と何ら変わりません。
本作はドラマにはあって、現実には無いやうな
ドラマティカルなハッピーエンドに向かふための事件が用意されていないのです。
まるで大きな団地の窓を一件、一件見ていくやうな、
ごく普通の不満と不安と家庭そのものが描かれてゐるからこそ、
現代の私たちにも共感出来るのでせう。
新之丞夫婦は自分たちの身の丈を非常によく理解した人間として描かれてゐます。
時はお構いなしで二人にゆっくりと季節を歩ませる。早回しはありません。
そんな新之丞が自らのプライド(すなわちこれが
一分
(
いちぶん
)
)と
愛する妻への純潔な心を貫き通すために選んだ道が“果たし合い”。
薄墨の風景に唯一つ漆黒で描かれたかのように鮮やかな印象で、
初めて新之丞の強い意志を感じ取ることが出来る場面です。
感情的になった新之丞ですが、それでも自分の身の丈を知ってゐました。
とどめは刺さなかったのです。
自分がすべきことは成し遂げたといふことで、彼の心は収まったからなのでせうか…。
個人的には、とどめを刺さない強さに惹かれました。
私たちはつい英雄に憧れます。
でも新之丞の魅力は自分自身であり続けるところ。
本作では、映画やドラマを見てよく感じるような「現実はそうも行かないのよ…」といった
自分への嘲笑が必要ありません。
新之丞を見てゐると、シンデレラ的展開の物語よりも数倍勇気が出て、励まされる。
綺麗事ではない、誰にでも起こり得る事件がこうして切り取られたことで『
武士の
一分
(
いちぶん
)
』は鈍い光を放ち続けます。
さて…ここで
「アナの
一分
(
いちぶん
)
」
ということになりますが、
私は新之丞の話にも繋がってきますが
“背伸びし過ぎない”ということを挙げてみたいと思います。
繰り返しますが、私たちは英雄に憧れます。
映画やドラマの影響も多分に受けている世代です。
困難にぶつかった時、白馬の王子様や暴れん坊将軍が助けに来てくれることを無意識のうちに期待していることがあるんです。
でも現実はそうじゃない。
ある日突然すごい人になっていた!なんてことは有り得ません。
どこかで努力をしたり、コツをつかんで行くことで経験値を上げていく以外の道はありません。
背伸びをし過ぎるとどこかで躓きます。
背伸びしないのも考え物だけど、し過ぎは今を見失うことに繋がりかねない。
ときどき背伸びし過ぎて頭から湯気が出るんじゃないかというくらいめいっぱいになってしまう時がある。
でも何十年も働いてきた大先輩に一日や二日で追いつこうなんて土台無理な話です。
「背伸びし過ぎない。」
ですから、二年目だって一歩一歩。遅いけど一歩の意味を確かに感じていたい。
その瞬間、その都度感じることを大事に、「私相応」で頑張ろうと思うのです。
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