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Vol.83 「ビーフストロガノフ」(2009/07/20)

新居に両親を招いた。
数か月前から、レシピ集を片手に献立を考える。
“子羊のハーブ焼き”や“ローストビーフ”は確かに豪勢だが、
オーブンレンジの応用機能を使いこなせる自信はない。
気を取り直して、まずは環境の整備を。
ナプキンリングに、鮮やかなランチョンマット。
肝心の料理は決まらぬまま、テーブルまわりだけが着々と整えられていく。
ようやく決まったメインディッシュは、ビーフストロガノフだった。
かつて、ハヤシライスだったら何度か作ったことがある。
双方の明確な違いは分からないが、要領はきっと同じだろう。
ストロガノフ。何よりも、名前の響きがいい。

週末は出勤しているため、前日から仕込んでおくことにする。
赤ワインも薄切り肉も買いそろえ、
あとはレシピ通りに作れば問題ないはずだった。

“焼いた肉にブランデーの香りをつけることで、プロのテクニックを織り込めます”

プロ。
レシピの一文にすっかり舞い上がった私は、ブランデーのミニボトルを牛肉に―。
なみなみ注いでしまった。
瞬時に炎が立ち、悲鳴に包まれる。
部屋を片づけていた夫が慌てて駆け付け、惨状を見て、再び悲鳴。

「まさか…これ、全部…?」

よく見ると、レシピには“ブランデーをふる”とある。
鍋の底には、お酒に溺れた牛肉。

「たまねぎ、2時間以上炒めたのに…」

むせ返るアルコールの香り。換気扇の轟音。時計は午前0時をまわった。
とにかく今は、台無しになったドミグラスソースを、何とかして元の味に戻さねば。
醤油を足してみる。生クリームを入れてみる。
涙ぐみながら、ホールトマト缶を開ける。
お腹は膨れ、味覚も麻痺して、いよいよ鍋の中はカオスと化す。
結局、すべて夫に作り直してもらうことにした。


当日は、サラダ、グラタン、
レシピ通りに作られたビーフストロガノフが食卓に並び、
壮絶な再生を試みた前作は、鍋ごとコンロの果てに追いやられた。

「おかわり、いる?」

お酒の勢いも手伝って、うっかり前日の顛末を話し始める。
「実は、裏メニューがあって…」
恐る恐る皿に盛り、母が一口。

「あら、美味しく出来ているじゃない!」

胸をなでおろす我々の耳に、「…このトマト煮込み」。
そう、そうなの。別のメニューなの。
買い置きのトマト缶には、一生頭が上がらない。


ビーフストロガノフ+トマト缶+α…


(「日刊ゲンダイ 週末版」7月20日発刊)
   
 
 
    
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