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Vol.19 「レンズ越しの世界」 (2005/06/11)

街の色彩が、陽光に滲んで流れ出す。
駅前の花壇には、パンジーが咲いていた。
買ったばかりのデジカメを取り出しては立ち止まるため、最近は帰路がジグザグだ。
夢中でパンジーにピントを合わせ、かがめた膝のしびれを感じた時、
急に、新人の頃のアナウンス研修を思い出した。

出社後は、すぐにスーツからジャージに着替える。
誰もいないスタジオで発声練習をした後は、
先輩アナウンサーによる「実況」「フリートーク」等の実践練習が夕方まで続いた。

その日は、外でのリポートだった。
小型のテープレコーダーを持って近所の小学校へと向かうと、
学校の花壇には、ヘチマやひまわりが植えられていた。
「じゃあ、一人ずつここからリポートして」
考える時間は1分間。
脳内で、構成が高速で組み立てられる…はずであった。
「始め!」
ストップウォッチがカチッと押される。
「ひまわりは、空を仰いでいます。
地面に咲いているパンジーは、人知れず、風に揺られて、めそめそ泣いているように見えます」
一同に、しばしの沈黙が流れた。 
「村上、パンジーの花びらは何枚だ?」
「5枚…でしょうか…」
「パンジーの色は何色だ?」
「黄色と、紫の二色です」
「じゃあ、どうして情景描写が出来ないんだ?」
内容以前に、リポートの意味そのものが分かっていないことを厳しく指摘された。
今思えば、私が話したことは、客観的な視点に全く欠けていた。
苦いというよりも、苦しい思い出である。

あの頃は、目に映るもの全てを、「〜である」という「状態」ではなく、
「〜のように響く」といった「感覚」で見ていた。
状態はありのままの「写真」であり、感覚はデフォルメされた「絵画」である。
絵を描く時は、好きな色を使い、自在なタッチで筆を重ねる。
一方、被写体は状態そのものであり、
シャッターを押すタイミングは、常に時間と隣り合わせにある。
限られた時間内に一瞬一瞬の連なりを捉えるには、写真家であるべきだった。

折しも最近、デジカメで風景を撮っている。
レンズ越しの世界は、状態のみならず、感覚を呼び覚ます。
風に揺られるパンジーが寂しそうに見えることもあるけれど、
日差しや温度によって、その表情は驚くほど様変わりする。


(「日刊ゲンダイ」6月11日発刊)
   
 
 
    
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