前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー
 
 
3月26日 一杯のつけ麺

早朝の池袋は、驚くほど寒かった。
ビルの隙間から吹きつける北風に、指先が凍るんじゃないかと思うほど。
くじけそうになりながら、ふと思った。
「なんでこの人たちは並んでいるんだろう?」
お客さんは、ひたすら待っていた。
ぶるぶる震えながら、
夜のふきさらしの中で、私が到着する、はるか6時間も前から。
   

気温は3℃。風が強いので体感だとさらに寒い。


だから、聞いてみた。
「そこまでして食べたかったのですか?」
そうするとお客さんは言った。
「はい、どうしても。」

30人ほどに同じ質問をすると、それはそれはいろんな答えが返ってきた。
仕事そっちのけで並んでいるある女性は、
これまで出勤途中に、毎日のように行列の脇を通り過ぎていた。
いつか行こうと思いながら今日を迎え、
ラストチャンスだから、どうしても食べたいそうだ。
暖簾分けのお店で働いている男性も並んでいた。本店の味を味わいたくて、と。
昔から通い慣れたこの店に最後のラーメンを食べに来た地元の若者もいたし、
どうしても食べたいと言う彼と一緒に並んであげる彼女や、
有名なラーメンを一生に一度は食べておきたいという、
最初で最後のラーメンを経験しに来た人、
テレビで見た元祖つけ麺の生みの親、山岸さんに会いたいと言う人、
山岸さんに美味しいつけ麺のお礼をと、寄せ書きを持ってきた人、
学生、サラリーマン、就職活動生、近所の奥様、おじいちゃん、
色んな理由でお客が集まって、店の周りの区画を一周するまでに膨れ上がっていた。
目を引いたのは、お手伝いをしているお弟子さんの多いこと。


上野大勝軒の店長も来ていました。
なんと女性です。

何か力になりたくて、いてもたってもいられず集まったそうで、
都内はもちろん、大阪、静岡、群馬、埼玉などから、
中には店を閉めて駆けつけた人もいた。

10時頃、山岸さんの乗った車が、店の前に停まった。
あっという間にマスコミが取り囲む。乗り遅れた私のところから、もう彼は見えない。
ものすごい注目度の高さだ。
その後、山岸さんは、
押し寄せるサインのおねだりにも、私たちの質問攻めにも、
丁寧に、そして歯切れよく、温もりのある声で応えてくださった。
誰かがお店のことを「実家」と表現していたが、
彼には他人とは思えない何かがあるような気がした。

やがて。


「11時半、いよいよ順番が回ってきました。
大勝軒という看板がすぐそこです。
あ〜、穴とツギハギだらけ、年輪を感じさせます、味がありますねぇ。
そしてラーメンの方の味はどうなんでしょうか?」
なんてリポートしながら、松尾、ついに店の中に潜入。
店内はこじんまりしていて、わずか16席しかなかった。

『そんなに並びたい味なのか』
マスコミの注目度の高さから透けて見える視聴者の前で
味を表現しなければならないという責任と重圧に押しつぶされそうになりながら、
自分の純粋な興味と五感を研ぎ澄まして、一杯のラーメンと向き合う。

最後の貴重な一杯を、いただいた。


チャーシューとお葱の入ったスープに浸して…


いただきます。

「あぁ、じわーっと染み渡ります…。
見てください、このチャーシュー!2cmはあるでしょうか。分厚い。柔らかい!
麺は柔らかめでつるっとしていて、スープはしっかりした味、すごくダシが効いています。唐辛子でしょうか、最後にピリっと来るのが隠し味になっていて、いいですねぇ。
…でも…もう言葉なんていらない気がします。いただきます!」

思いつくことを全部喋りつくしてみたが、
喋っているうちに、味を表現するのがナンセンスな気がしてきた。
これは、黙って食する、つけ麺なのだ。
美味しいのは言うまでもない。でも、みんな、違うものを味わっているんだ。
この店の歴史とか、山岸さんの思いとか、
この一杯のラーメンに込められた、何か別のものを感じているんだ。
ふと気付いて顔を上げると、
店内には、ひたすらラーメンをすする音が響いていた。


色を付けたところが大勝軒。

その光景は対照的だった。
道路を挟んで、右手には、色あせた屋根の小さな大勝軒、
左手には、綺麗に整備された土地に真新しい高層ビル。
押し寄せる再開発の流れが、すぐそこに迫っているように感じた。
大勝軒は、新しく建つビルの前の緑道になる。
山岸さんは言っていた。「店がなくなっても、人はいるから。」
再開発により、昔ながらの景色がなくなるのを寂しいと言う人もいる。
確かに高層ビルは、どこかシステマチックで無機質な感じがする。
でも、それはきっと、そういう外観をかぶっているからそう見えるだけで、
大勝軒に色んな思いで集まったお客さんがいるように、
一杯のラーメンに人生をかけてきた人がいるように、
またその味を引き継いでいくお弟子さんがいるように、
真新しい建物の中にだって、人の温もりは変わらずあるんだと思う。
それがちょっと見えにくくなっているだけ。
一杯のラーメンに行列を作る。一杯のラーメンでいろんな思いを共有する。
人生って、すばらしい。
   
 
    
前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー