ミスティック・リバー
〜それぞれの心に傷を抱えて、少年たちは大人になった。
今、描かれるもうひとつの『スタンド・バイ・ミー』〜
『ミスティック・リバー』の宣伝コピーである。
監督 クリント・イーストウッド
主演 ショーン・ペン ティム・ロビンス ケビン・ベーコン
「River・少年・心の傷・大人へ」こうしたキーワードを持つ「映画」。私の頭で検索したらば、咄嗟に『スリーパーズ』と『泥の河』がヒットした。
『スリーパーズ』。少年院に送られることになった少年たちが看守から性的虐待を受け、大人になってから結束して復讐を遂げる物語だった。あの時は、そういえばケビン・ベーコンは悪徳看守を演じていたっけ。
頭の中のストックから、「集合」を使って類似性や共通性という要素でひっぱってくるというような、いわゆる仕組みで思い出したのがこの『スリーパーズ』ならば、『泥の河』は、「River」とくれば勝手に反応して現れてきてしまった映画、という感じである。言うまでもなく宮本輝原作。河べりの貧困の景色が焼き付いている。
そうなのだ。心への残り方、ということを考えると、私にとって映画のそれの象徴はストーリーというよりむしろシーン、それも寝て見る夢のように、停まっているんだか動いているんだかは曖昧なのに、印象だけは強烈に力のある「画」。本当に観た映画の「画」の通りかどうかはもう問題ではなくて、自分というフィルターを通して、というと聞こえは良いが、要は妄想を加えて作り直し仕上がった画像イメージ、これが関連した情報に遭遇した際に、静止画と動画の間のようになって再び現れてくるかこないか。
『泥の河』の「河べりの貧困の景色」がまさにそれであるように、積極的なアプローチをせずともおのずと思い出されてしまう(フラッシュバック?)、そんな現象を何年経っても引き起こす、それが「心に残るという症状」なのかと思っている。だから、心に残ったからといって、時を経てもストーリーを説明できるかといえば否だ。随分と以前に見た映画のあらすじを説明できる人に時々遭遇するが、よくもそんなに事の成り行きを覚えているものだなと感心してしまう。ほど、私はストーリーを記憶することが苦手なのか無意識に拒否しているのか容量が足りないのか、とにかくからきしダメである。観た端から、ストーリーに関してはどんどん忘れていく。ぜんぜん覚えていない。やっぱり、動であれ静であれ「画」なのだ。
そうした「心に残るという症状」と較べてみても、今回観た『ミスティック・リバー』という映画は少し違っている。「心に残る」というよりも、むしろどうやら、さらにやっかいだといっていい。なぜなら、この先「画」となり現れてくるのではという予測を超えて、底に横たわるテーマや背景が、時間をかけて、もしかしてずっとのしかかってくるのではないかと不穏な予感に苛まれるからだ。
目をそむけることのできない「大人になるプロセス」は、丁寧に描かれる背景があるだけに、執拗で逃げ場がない。
たとえば、境遇(境涯・境界)。
川べりの居住地区、この土地そのものが作品の核となっている。富とは対極にある集団居住地区は、ボストンのダウンタウンに近いイーストバッキンガムが舞台だそうだ。幼馴染の少年3人。ショーンだけは岬の一戸建てに住み、ジミーとデイブは、親も自分もそして自分の子供もその集団居住地区に生きる。何棟も立ち並ぶ同じ姿の住宅が、空撮でスクリーンいっぱいに映し出されるその画は、まるでドキュメンタリーのような具合で迫真だ。
少年時代の喪失。
無邪気な時代との別れは、もしかして突然やってくる。失うきっかけがあるとしたら、性的な事象と切り離しては考えられないだろう。そして、それが最悪の形でもたらされる場合がある。
少年という無邪気を、虐待され喪失することからこの映画は始まる。共に遊ぶ3人のうち、たまたまデイブだけが誘拐され監禁されるという非情なめぐり合わせ。彼は、少年時代どころか自分自身さえも奪われる。
「誘拐されたのが、もしデイブでなかったら?」
3人はこの問いに縛られながら生きる。封印しようとしても、結局この出来事が彼らの後の人生を支配するのだ。抗えない因果に掌られ、救いの無い悲劇が起きる。
悲惨な結末は容赦が無く、だからといって私は、3人に心を砕き不憫がるだけではすまなかった。やるせなさに乗っ取られて腹が立ちさえする。そして、その鬱屈した思いは続いている。
なぜそうなのか、なぜこの映画はこんなにものしかかってくるのか、それを考えてみようと思う。
この映画の解説や感想には、「運命」という表現が多用されている。「運命」という言葉の濫用は好きではない。それで片付けてしまっている感じがするから。しかし、「運命」を辞書で引いてみると「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐってくる吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。」とある。それならやはり、そうとしか言えないのだろうか。
3人が3人とも、「もしデイブでなかったら?」という仮定に縛られて生きている時点で、3人はすでに「運命」の前に無力だ。負けている。運命なんて意志で変えるもの、という流行の文句がかき消されるくらい、圧倒的に翻弄されている。
それを天命のいいなりとなんてあんまりだ、と指摘したい一方で、しかし彼らは確かに何かに支配され抗えなかった。「運命」が「人間の力を超えた作用」なら、確かに「運命」のいたずらということになるのか。けれど、「運命」という言葉だけで片付けることがどうしても気がかりで、その正体を探りたくなるのだ。
「運命」を、彼らを支配するうねりと考えるとき、彼らの住む街・土地はとても重要だ。
どこの家の誰が何をした、誰の親は昔こうだった、ということが世代を超えて引き継がれ今も誰もが知っている、そういう住区。当然デイブの過去に関してもそうで、そこに、ジミ−もデイブも生きつづけているのだ、今は妻と子供とともに。ジミ−の妻とデイブの妻が親戚同士であるなど、近隣同士の関係が、接触の頻度ではなく生まれとしての結びつきを重視して描かれていることも特徴的だ。
ジミ−の娘が、恋人と駆け落ち、すなわちこの街から去ろうとしたその矢先に殺される皮肉。さらに、その容疑者としてデイブが浮上し、ジミ−は警察の力を借りずに自ら制裁を加えようと動き回る。その土地のゴッドファーザー的存在である彼が正しいと信じる慣わし、習性。その仕業による波紋は広がり、後戻りできない悲しい結末を呼び込む。人間の力を超えた作用に対して意志の効力を過信することなど滑稽だと言わんばかりに。
そうなのだ。悲惨な結末の詳細には触れられないが、これだけは言える。
生まれたものの行動、あるいはそこに存在するということそのものが、別の在るものに誰かに何かに影響を及ぼして、影響を及ぼされた対象がまた何かに誰かに作用していくという連鎖、その連鎖の支配から逃れられない恐怖がこの映画にはあるということを。
連鎖、から、ふと「生態系」という言葉が浮かんだ。「運命」というよりも、生まれ出たものが生きていくなかで喰い喰われしてまわっていくことを考えると、「生態系」の方がしっくりくるような気さえする。
そうか、私は「運命」という言葉そのものに対してではなく、「運命だから」という表現にくっついてくる「酔っている臭い」に違和感を覚えていたのだなと思う。
この映画の中の彼らは、不幸に酔っていない。自分に酔っていない。それがこの映画の生命線だとさえ感じる。酔っていないどころか、自分の性(さが)に忠実すぎるくらいで、だからこそ喰うものと喰われるものの力の差が明確になる。肉食獣が草食動物を喰らうように。そこにもってきて「なぜ群れの中のあのシマウマだけがチーターに捕まえられなければいけなかったの」などと嘆くのはあまりにおめでたいではないか。
だとすれば、「彼」の人生があまりにも不条理なのは仕方のないことと諦めるよりないのだろうか。関わりあってしまった他の存在との結びつきは、良い方ばかりに働くとは限らない。願わない方向へ願わない力と速度で運ばれてしまうという作用に逆らいたくても逆らえず、そのくせ絶望を生むプロセスで影響しあっているのが紛れもなく人間であることを突きつけられることは、かなりしんどい。
それは自分自身がここに存在していることが既に他に影響を及ぼしていて、結果自分自身も作用の連鎖を生んでいる犯人であることを突きつけられたことにもなり、そうして自分自身に帰ってきてしまうからこそ、この追体験は「消去」できないということか。
『スリーパーズ』が、苦しい過程を経ながらも友情と復讐というゴールを提示したのに対して、この通り『ミスティック・リバー』は、心に「決着」というご褒美をくれない、波紋を投じて去ってしまう映画だ。
幼少の記憶がよみがえる。踏みつけてしまった虫の死骸を靴の裏から剥ぎ取りながら、何も私は今ここを歩かなくても良かったはずなのになぜここへ右足を踏みおろしたんだろうと後悔の念に駆られながらも、その一方でやり場のない苛立ちを感じて、どうしておまえはわざわざ私の右足の着地点を通過したのかと、殺された(私が殺した)虫の方を責める始末だった、そんな自分にやりきれなかった鬱屈。
そんな後ろ暗い記憶の「画」を引っ張り出されて思った。
映画は観るものだと思っていたけれど、『ミスティック・リバー』には、自分が視られているのだ。
完
さて、おまけです。
2003,8,20バックナンバーでお伝えしたソマリの仔。でかくなりました。
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