52 草津
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 草津(安藤広重)
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 瓢泉堂(草津市矢倉)
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絵のタイトルは「名物立場」 立場(たてば)とは宿場と宿場の間にある茶屋などの施設のこと。旅人が杖を立てて休んだことからきています。草津宿南に続く旧矢倉村にあった名物「姥が餅(うばがもち)」の茶屋の様子が描かれています。
現在はその場所に瓢箪(ひょうたん)の店があります。
実は大津への道は、俳優・塩谷瞬さんではありませんが、ここで二股分岐していました。一つは茶店の前をまっすぐ東海道を進み道なりに南下、瀬田の唐橋を渡って大津に入るルート。もう一つはここで右折し矢橋道に進み、矢橋湊から「矢橋の渡し」で琵琶湖を渡って対岸の大津に入るルートです。
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 矢倉道標(草津市指定文化財)
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店の前に今も1798年(寛政10年)に建てられた道標がありました。
「右やばせ道(矢橋道)これより廿五丁 大津へ船わたし」と書いてあります。
室町時代の連歌師・宗長(そうちょう)は、こういう歌を残しています。
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通常、京都方面に行くには矢橋の港から大津に向かった方が速いが、比叡山から吹き下ろす風(比叡おろし)の為、危険だし船が出ないこともあった。
だから、遠くなるが陸路で瀬田の唐橋を通っていった方が安全で確実。
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何と!ここから「急がば回れ」の諺が誕生したということです。
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53 大津
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 大津(安藤広重)
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 月心寺(大津市大谷町)
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絵のタイトルは「走井茶屋」 逢坂大谷町の茶屋と店のすぐ前にある「走井の井戸」から水が溢れ出している様子が描かれています。
この茶屋があった場所には、現在、月心寺があります。今も庭園に「走井の井戸」があって、名水が湧き出ているようです。
平安時代の作家・清少納言は「枕草子」に
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【逢う坂】という場所に、【走り井】という井戸があるのはおかしいことですね
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と書いています。
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え?それのどこがおかしいの?と突っ込みを入れたくなりますが…
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 逢坂山関跡
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 逢坂の関 案内板
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その【逢う坂】というのは、山城国と近江国の国境にある関所【逢坂関】(おうさかのせき)のことです。
百人一首でも有名な蝉丸の
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これがあの、京から出て行く人も帰ってくる人も、知り合いも知らない人も、ここで別れ、ここで出会う 逢坂の関だなあ |
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の逢坂の関です。
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 蝉丸神社
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 蝉丸「これやこの…」の碑
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終点 京都
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 京師(安藤広重)
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 三条大橋(京都市左京区)
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京師(けいし)とは都つまり京都のことです。昔は絵のように人が行き交い、今は車と観光客が行き交う三条大橋。豊臣秀吉の命によって増田長盛が奉行となって、1590年(天正18年)正月に日本で初めての石柱橋に架け替えられました。
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 旧三条大橋の石柱
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 下流側の橋脚
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橋の西側たもとに橋脚の石柱が立てられていました。ここには「天正十七年 津國御影七月吉日」と刻まれています。摂津国の御影(現在の神戸市東灘区の御影)から切り出された花崗岩だということです。現在の三条大橋の下流側の橋脚にも当時の石柱が使われているそうです。423年前に切り出された石が現在も現役で活躍しているとは驚きです。
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 鴨川の流れは昔も今も同じ
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 これ擬宝珠(ぎぼし)と言うのです
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去年の9月の「起点 日本橋」から始まってようやく「終点 京都」に辿り着いた「てら散歩」最後にやはりここを訪ねましょう。
浮世絵師・安藤(歌川)広重が眠っている場所、東岳寺です。
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 東岳寺(足立区伊興本町)
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 一立齋廣重墓
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ここは「東武スカイツリーライン」の愛称が付けられた東武伊勢崎線・竹ノ塚駅から徒歩10分の場所。
1858年(安政5年)9月6日62歳で亡くなった広重はもともと浅草・新寺町にあった東岳寺に葬られました。その東岳寺がその後、この地に引っ越してきたということです。
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 初代広重記念碑
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 広重の肖像
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記念碑は、真ん中にある「廣重」と書かれている石、三代歌川豊国が描いた死絵(しにえ)【冥福を祈るため門弟が描く似顔絵】からとった広重の肖像、やはり死絵にあった辞世の句が彫られた石などで構成されていました。
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 辞世の句
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広重は今も西方浄土を旅しているんでしょうね。
今回のような歴史の旅にいざなってくださってありがとうございます。
広重さんに感謝です!
そして皆様も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
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