世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
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「撮影日誌1」

 6月の中旬、プラハに舞い降りた。暑い。日差しが強い。街の温度計を見ると、34℃。ワオ!湿度が低いから不快ではないが、初夏の爽やかさを通り越している。東ヨーロッパは異例の猛暑なのだった。撮影はまずプラハの街から。どこから見ても美しい。西のフィレンツェ、東のプラハと呼びたいような歴史あるたたずまい。街そのものが美術館のよう。さすが、多くの芸術家を育んだ街だ。
 最初の乗車は特別列車。チェコスロヴァキア時代につくられた蒸気機関車、アルバトロス号とアントン号の牽引でブラティスラヴァまで行くことに。蒸気機関車にしては新しく、アントンが1936年、アルバトロスが1947年に誕生している。蒸気機関車の洗練された最終形とでもいうべきか、たいてい蒸気機関車というのは黒くて無骨なのだが、アントンは緑でアルバトロスが青。アーティストがまずデザインし、エンジニアがそれを形にしたそうで、なんともエレガントだ。天下一品の蒸気機関車に乗るのは、ヨーロッパ各地から集まった鉄道ファンだった。インターネットなどで運行を告知したらしいが、見事に満席。みんな、てっちゃん。これほどまでに、てっちゃんに囲まれての乗車はかつてない。てっちゃんは男子ばかりではない。女性や子供もけっこういる。そして、みんな底抜けに明るい。今でこそ「鉄子」「鉄道女子」という言葉が日本でも流布しているが、同じ嗜好を持つ同性として、なんだか嬉しい。
 運行は出発から燃えていた。ゆっくり座っている人がほとんどいない。窓から顔を出して、先頭のアントンとアルバトロスの姿をじっと見ているのだ。飛んでくる煤防止のために、ゴーグルを持参している人も多い。鉄道ファンとして年期を積んでないと、こうはいかない。実際、素顔で外に顔を出すと、煤で目は痛くなるし、顔は黒くすすけてくるし、髪はゴワゴワになる。けっこう体を張っているのです、はい。
 普通、プラハからブラティスラヴァまでは3、4時間あれば着くのだが、この運行は16時間もかかる。はて?謎はすぐに解けた。記念撮影のサービスタイムが設けられていたのだ。駅でもないところで唐突に停車する。ぞろぞろと乗客は列車を降り、ベストアングルの場所へ移動する。そして列車はバックし、みんなの前を走ってくれる。そんなことが3回ぐらい繰り返された。目的地に急ぐ人はいない。列車と戯れていることが幸せのようだ。なるほど、こんな旅もあるんだな。ふむふむ。
 
ディレクター 中澤 洋子
アントン号
記念撮影
車窓から
「撮影日誌2」

 またもや、列車が停まった。今度は溜め池の脇。また記念撮影かと思ったら、乗客は溜め池の脇で唐突に服を脱ぎだすじゃあ、ありませんか。そして次々と、溜め池の中へドボン。水着を着用している訳ではない。ある人はパンツ一丁。ある人はスッポンポン。いや、スッポンポン率はかなり高い。男も女も、大人も子供もスッポンポン。目の遣り場に困りながら、唖然としてしまった。どうしちゃったの?みんな。しばらくウロウロしてようやく分かった。蒸気機関車の給水が本来の目的だったのだ。私の耳には届かなかったが、「溜め池の脇で給水しますよ。泳ぎたい人は泳いでくださいね」という伝達があったのかもしれない。溜め池で給水というのも、はじめて見た。普通、駅の水道でやるもんだ。そして鉄道ファンというと、生真面目なイメージを抱いていたが、見事に覆された。かなりワイルドである。チェコは海のない国。水を見ると、どこでも泳ぎたくなるのかもしれない。なにかの本で、カフカも夏になると、ヴルタヴァ川で泳いでいたという記述があったしなあ。なんて考えている内に、再び出発の汽笛が鳴った。
 スッポンポンになれる間柄だから、車内の雰囲気はすごくいい。車内を撮影していると、ビールを飲め、これを食べろと、色んなものを勧められる。チェコの人は特に「そうか、アルバトロスの名声は日本にも届いているのか。けっこう、けっこう」てな感じで、嬉しそう。乗客はお互いの鉄道経験を話しているのだろうか。どの車両も盛り上がっている。特に食堂車はテンションが高い。生ビール・サーバーはフル稼働。まるで酒場のように、飲んで歌っている。テープはくるくるまわるし、バッテリーもどんどん消費してしまった。最初はブラティスラヴァまで行く予定だったが、カメラのバッテリーがなくなりそうということで、11時45分着予定のクジジャノフで降りることに。我々以外は、この先も旅がつづく。ブラティスラヴァに夜明けに到着して、中央ヨーロッパ最大の鉄道フェスティバルを見学。その翌日、再びアントン号とアルバトロス号の牽引で、プラハに戻るのだ。ずっと車内泊。寝具はないので、寝袋などを持ち込んでいる。タフじゃないともたない旅だ。でも、それだけ鉄道には魅力があるという証拠だろう。鉄道は「キング・オブ・ホビー」と称されるが、その言葉を実感した一日だった。
 
ディレクター 中澤 洋子
ため池の中へ
給水のための停車
食堂車の様子
「撮影日誌3」

 プラハからボヘミア地方を巡る旅に出る。チェコは日本の1/5ほどの国土で、その西半分がボヘミア地方である。ボヘミアとは、ボイ族の住む地域という意味らしい。じゃあ、どうして自由を愛し、さすらう人を「ボヘミアン」と呼ぶのだろう?ボヘミア地方の人々が一時期、フランスに渡って、そこから「ボヘミアン」という言葉が生まれたという説もあるが、ほんとのところはわからない。いずれにせよ、ボヘミアってロマンを掻き立てられる響きがある。そんなボヘミア地方を反時計まわりに巡る。プラハを出発すると、右手にラベ川が並行して流れる。泥っぽい川だが、水を目にするのは、まことに気持ちよい。3時間ほどでカルロヴィ・ヴァリに到着。カルロヴィ・ヴァリはチェコを代表する温泉保養地であり、世界的にも有名なボヘミアン・グラスの工場がある。工場の職人さんの面構えが良い。ひとつの道を極めている人は、やっぱり違うね。そこからまたローカル線で温泉地のマリアーンスケ・ラーズニェへ。線路脇にはきれいな森がつづき、木漏れ日が心地いい。マリアーンスケ・ラーズニェ、なんとも舌を噛みそうな地名。ドイツ語のマリエンバードの方がなじみ深いかも。アラン・レネ監督の「去年、マリエンバードで」でご存知の方も多いかもしれない。数々の芸術家や政治家に愛されたマリアーンスケ・ラーズニェだが、ゲーテは特別なのか、銅像があります。なんでもゲーテは、ボヘミア北部の温泉巡りをしている途中、19歳の女の子に恋をしたそうで。ゲーテは70を過ぎていたというから驚く。男の人って、いつの時代も若い娘が好きなのね。ふん。ちょっと憤慨しながら、街を散策。そこかしこの緑、華やかな建築物、いたるところに噴水、お爺ちゃんとお婆ちゃんがいっぱい。今でも老いらくの恋が繰り広げられているのだろうか。なんてことを思いながら、温泉水を飲んでみる。ぬるい炭酸水のような味。美味しいとは言えないが、体には良さそうだ。恋より健康だ!再び列車に乗って南下し、プルゼニに到着。ここはビールで有名な街。淡い琥珀色のピルスナー発祥の地である。本場にやってきたのだから、飲まない訳にはいかない。日本のビールよりちょっとほろ苦いかな。それにしてもチェコの人って、朝から晩まで、ひっきりなしにビールを飲む。チェコではビールを「飲むパン」と呼ぶらしい。ちなみにチェコのパンは美味しくない。パサパサ。クネドリーキという蒸しパンやパンケーキが美味しい。もぐもぐ。
 
ディレクター 中澤 洋子
ボヘミアングラス
カルロヴィ・ヴァリ
マリアーンスケ・ラーズニェ
「撮影日誌4」

 ボヘミアの旅はつづく。プルゼニから急行列車でストラコニーツェへ。雰囲気は生活列車。通勤、通学、なんてことはない移動の人が多い。素顔のチェコというべきか。撮影の松永君は、恋人の別れ際、熱々のカップル、チューの場面などを積極的に撮る。若いのう。
 南ボヘミアの玄関口になるストラコニーツェは、ホテルが印象に残っている。プラハなどはインターネットも通じるモダンなホテルなのだが、ストラコニーツェというのは何の変哲もない地方の街。ホテルは社会主義時代に建てられたようで、独特の大袈裟でほの暗いムードが漂っていた。チェコは1989年に共産党支配の政治が終わっている。もうだいぶ時間もたっているので、社会主義時代の片鱗を街や人に見ることはほとんどない。だからかえって、社会主義ムード満点のホテルが新鮮にうつった。レトロな感じが、まことによろしい。
 ストラコニーツェから乗車したのは、赤いボデイが可愛いレールバスという列車。チェコではモトラーチェク、「エンジンちゃん」という意味の愛称で親しまれているローカル専用の列車。お天気も良くヴィムペルクからヴォラリにかけての森が美しい。ちょうど週末だったためか、森へキノコ狩りに行く家族や、キャンプに向かう高校生に出会う。いたって健康的。チェコに来るまでは、カフカの小説を読んだり、シュワンクマイエルの映画を見たりしたので、ちょっと影のあるシュールな世界をイメージしていたが、そんな先入観は見事に払拭される。チェコの人はアウトドアが大好き。表情にも屈託がない。自由主義が、すっかり板についているように見える。西側ほど管理がきつくなく、もっと東のロシアやルーマニアのようなハプニングはあまりない。穏やかでのびのびしている。風景も起伏があまりない。ゆるやかな森や牧草地がつづく。自然環境は人柄にも影響を与えるものなのね。なんてことを考えながら、列車に揺られる。ゴトゴト。
 
ディレクター 中澤 洋子
急行列車の中で
車窓からの森
森を抜けるレールバス
「撮影日誌5」

 オーストリアとの国境近く、チェスキー・クルムロフで「バラ祭り」を撮影する。バラの花が満開だー!っていう意味の祭りではない。チェスキー・クルムロフが最も繁栄していた14世紀から16世紀、この辺りを治めていたロジェンベルク家の紋章がバラの花をかたどっていて、それで「バラ祭り」。「バラ祭り」は、その中世の華やかな時代を再現している祭りだ。今でこそ世界遺産に登録され、わんさか観光客がやってくるチェスキー・クルムロフだが、ロジェンベルク家支配のあと、街はさびれる一方で、放置に近い形にあったらしい。だからこそ中世の街並がそっくり残った訳だ。「バラ祭り」もはじまって20年ほどの新しいお祭り。どこで誂えるのか、中世のスタイルの衣装を着て参加している人が多い。貴族、街娘、ロマ、聖職者…。舞台も中世の街並だから、コスチューム・プレイも映える。ちょっとタイムスリップした気分。
 チェスキー・クルムロフの近辺は、ヴルタヴァ川が流れ、湖も多い。外国人旅行者はチェスキー・クルムロフの街並を辿る人が多いけれど、チェコの人々は、アウトドアを楽しむ。ヴルタヴァ川に架かる橋のたもとで列車の走りを撮影しようと待っていたら、そこがちょうどカヌーの船着き場で、うじゃうじゃカヌーがやって来た。日本でカヌーを趣味にしている人ってあまりいないと思うが、チェコではかなりポピュラーなスポーツらしい。列車の中でも、カヌーを楽しんだ後という人にいっぱい会った。何十キロもオールを漕いできたはずなのに、やけに元気。ギターを弾きながら、えんえん歌っているグループもいた。ヴォラリからチェスケー・ブデヨヴィツェまでは、とにかくアウトドアを楽しんだ帰りという人ばかりだった。カヌー、キャンプ、サイクリング、トレッキング…。寝袋持参の人が多い。寝袋といえば、私は編集する時にお世話になる。その上、昼夜逆転。不健康、極まりない。そんな私には、チェコの人々のヘルシーさが眩しく感じられたのだった。キラーン。
 
ディレクター 中澤 洋子
チェスキー・クルムロフ
バラ祭りで
中世スタイルの衣装
「撮影日誌6」

 チェスケー・ブデヨヴィツェからプラハに北上。これでボヘミア地方を一周したことになる。ボヘミアという響きに壮大なロマンを感じていたのだが、それほどドラマチックではなかったかも。緑が多くて、地形に起伏も少なく、おだやかーな感じ。チェスケー・ブデヨヴィツェとプラハの中間にあったターボルだけは、ちょっと印象が違うかな。高校生の時に世界史で習ったフス派の人々がたてこもった街というだけあって、要塞だった過去が街並として残っている。敵の目を眩ますための街作り。迷路のようだ。カトリック教会の腐敗を批判し、果敢に戦ったフス派だが、その勢いは100年にも満たない間に沈静化する。今は丘の上に堂々としたカトリック教会がそびえ、街の隅っこにフス派の小さな教会がある。フス派というのは歴史上の出来事のように思っていたけど、その信仰は細々と受け継がれているんだなあ、と感慨深し。
 プラハに戻り、楽しみにしていたローカル線に乗る。2時間ほど揺られて到着したドブジーシュ。ここにはカレル・チャペックの別荘がある。チャペックはジャーナリスト出身で、SFから軽妙なエッセイなど、あらゆるジャンルの著作を残した天才。私はとりわけ「ダーシェンカ」と「園芸家12ヶ月」が大好き。子犬や園芸に向ける眼差しが、チャペックの優しい人柄を感じさせる。そんなチャペックの別荘は、深い緑に囲まれてポツンとあった。ここは女優のオルガと15年の春を実らせて結婚したチャペックへの親戚からの贈り物だった。15年も…。チャペックって、内気で一途な人だったのかも。素敵。別荘は今、チャペックの記念館になっているが、二人の幸せそうな写真がたくさん飾ってあった。また交友関係の広かったチャペックは、よく友人を招いたらしい。広大な裏庭を見渡すサンルームで、芸術家、政治家、ジャーナリストと楽しい時間を過ごしたと言う。悲しいのは、結婚してたった3年でチャペックが他界してしまったことだ。プラハの家の庭が嵐で荒れてしまい、それをせっせと修復している内に風邪をひき、悪化させてしまったらしい。チャペックらしい最期だが、なんとも切ない。3年の短い結婚生活はチャペックにとって、濃密な至福の時だっただろう。そう思うと、別荘から二人の笑い声が聞こえてくるようで、ジンとしてしまった。
 
ディレクター 中澤 洋子
ターボルの街並
カレル・チャペックの別荘
サンルーム
「撮影日誌7」

 プラハからブルノまでスーパーシティ・スメタナ号に乗る。スメタナ号に乗るのだから、その前にちょっとスメタナ記念館へ。中学生の頃、「モルダウ」を合唱コンクールで歌ったものだが、その歌に深い物語があることを知る。チャペックと対照的に、スメタナの人生は悲哀に満ちている。苦学して音楽家になったものの、なかなか評価されなかった。そんな中で、スメタナが希求したのが祖国への愛だった。他国の支配を受け続けてきたチェコでは、19世紀に民族自立運動が高まる。スメタナはその気運の中で、祖国への思いを音楽に託した。そして、聴覚を失うという作曲家としては致命的な障害を持ちながら「わが祖国」を生み出したのだ。モルダウ、チェコ語でヴルタヴァ川のせせらぎは祖国の象徴そのものだったのだろう。深い思いが込められていたからこそ、世界に知れ渡る普遍的な名曲が誕生したのかもしれない。ちなみにプラハの駅では、列車が出発するサインに「モルダウ」が流れる。軽快にアレンジしてあるけれど、やはりこの曲はチェコの人々の誇りのようだ。
 プラハからスメタナ号に揺られてブルノに到着。そして支線に乗り、モラフスキー・クルムロフへ。ここにはミュシャの晩年の大作「スラヴ叙事詩」がある。アールヌーヴォーの旗手として知られるミュシャはウィーン、パリ、ニューヨークと、活躍の場はいつも外国だった。「スラヴ叙事詩」はミュシャにとっての、原点回帰かもしれない。20枚に及ぶ作品はどれも巨大だ。ミュシャは17年の歳月をかけてスラヴとは?チェコとは?と問いながら、絵を描き続けたのだろうか。作品を前にして、その情熱に圧倒された。圧倒されながら、私は朦朧としていた。プルゼニからすでに風邪をひいていたのだが、ここで悪化の極みを自覚。ブルノに戻り、救急病院へ。なんと肺炎という診断がくだされる。熱をはかったら38度7分も。めったに風邪などひかないのに、なぜこのタフな長旅の途中で肺炎…。激しく落胆。翌日はブルノの市場や列車の走行シーンを撮るだけだったので、一日、ホテルで休ませてもらうことにする。肺炎というのは横になって寝ると咳が絶え間なく出る。体を少し起こしてないと寝られない。そして何も食べられない。カスタードクリームのような痰が絶え間なく出て苦しい。もはや思考能力ゼロ。この先どうなるのだろうという不安で泣きたくなった。
 
ディレクター 中澤 洋子
スメタナ号の中で勉強する女の子たち
ミュシャの絵
「撮影日誌8」

 ブルノから国境を越えてスロヴァキアのトレンチーンまで。実はこの列車に私は乗車していない。風邪の勢いがおさまっていないことと、出発が早かったことなどあり、車で「運搬」されることになった。もはやディレクターとしての機能は消失。お荷物さん。とほほ。トレンチーンでスタッフと合流。撮影の松永君は初めての「車窓」ロケなのに、負担をかけてしまった。申し訳ない。トレンチーンからは気力を振り絞って現場復帰。お城で野外演劇が催されたのだが、坂をのぼるのが辛い。呼吸が苦しい。チェコからスロヴァキアに舞台がうつったのに、朦朧としているから違いも感じられず。トレンチーンからブラティスラヴァまでの乗車で、少し、正気が戻る。車窓に、ひまわり畑を発見したから。ひまわりは特別に好きな花なのだ。小麦畑も広がっている。ちょうど収穫を迎えたようで、大きなトラクターがずんずん刈り取ってゆく。のどかな車窓とは裏腹に、車内は沿線で行われた野外ロックコンサートで朝帰りというソウルフルな乗客でいっぱい。ブラティスラヴァに到着して、チェックしておいたひまわり畑に戻り、列車の走行シーンを撮る。イタリアやウクライナで見たひまわりは埋もれてしまうような背丈だったけど、まだ咲きはじめのせいか、それともそういう品種なのか、スロヴァキアのひまわりは小ぶりだった。花束にしたら、きっと可愛い。同じ首都でも、ブラティスラヴァはプラハとは全く違う印象。街の中央を流れるドナウ川には近代的で大きな橋が架かっていて、社会主義時代に建てられたと思われる独特の集合住宅の群れが見える。路面電車に乗って、旧市街を走ってみる。街並より目をひいたのは、車内に美人さんが多いことだった。ちょうど土曜の夕暮れで、おしゃれして週末の街に出かけるようだった。子供の頃、オリンピッでスラヴ系の体操選手などを見ると、ちょっと翳りがあって近寄りがたい感じがしたものだが、ここ数年、東ヨーロッパを訪ねる度に、スラヴ系の女性ってキレイだなあと思うようになった。若き日のナスターシャ・キンスキーをもっとチャーミングにしたような顔立ちのお嬢さんが多い。民主化されて自由になったことも、表情やファッションに影響しているのかな。同性だけど、美人さんを見るとうっとりしてしまう。美人さん探しは「車窓」の隠れた楽しみかもしれない。
 
ディレクター 中澤 洋子
駅のホームで
ひまわり畑
車窓からのひまわり
「撮影日誌9」

 ブラティスラヴァから東のコシツェを目指す。地図を見ていただければわかると思うが、首都のブラティスラヴァは、国土の南西の端っこにある。オーストリアとの国境近くで、ウィーンまでは50キロほどしか離れていないそうだ。まあ、どうでもいい事なんだけど、今まで行った国は、たいてい国の真ん中あたりに首都があったので、ちょっと不思議な感じがする。そんな端っこのブラティスラヴァからウクライナ国境に近い東のコシツェまで大移動。途中、車窓には、ひまわり畑や小麦畑が広がり、なんとものどかな風景。途中、支線に乗り換えて、世界遺産の街、バンスカー・シュティアヴニツァへ。昔は金鉱、銀鉱で栄えた街だが、今は人口1万人ほどのひっそりした街。四方を山に囲まれていて、人通りも少なく、心地よい静寂が街を包んでいる。こんな街にくると、たいてい気持ちも静かになり、リフレッシュするものだが、我々はそれどころじゃなかった。今度は撮影の松永君が風邪に感染してしまった。顔色も悪く、列車の走行シーンを撮る時など、列車が来るまで地べたにうずくまっている。もとはと言えば、私が病原菌である。申し訳ないのと、可哀想な気持ちと、この先どうなっちゃうんだろうという不安で頭はグチャグチャ。とりあえず、街の病院へ行く。私もブルノで貰った薬が切れたので、二人で治療して貰うことに。そして病院で、想像だにしなかった事件が発生。なんと松永君が注射を打たれて失神してしまったのだ。それはカルシウム注射といって、私もブルノで打たれた。風邪をひいて、カルシウムを打つ。日本では聞いたことないが、チェコとスロヴァキアでは、それが常識らしい。私もはじめての経験だったが、この注射は強烈なのだ。打たれた瞬間に熱い炎の弾丸みたいなものが体中を駆け巡る。私の場合、瞬時に朦朧とした意識が吹っ飛び、体が灼熱地獄みたいになったが、松永君はそのショックで失神してしまった。ディレクターは現場にいなくても何とかなるが、カメラをまわす松永君に倒れられたら、一貫の終わりだ。実は撮影助手の清水君も、ロケのしょっぱな、蒸気機関車の煤が目に入り、眼科で治療を受けている。日本からやって来た3人全員、異国の地で病院に行くという異常事態。どうなる?私達。ゴールのプラハまで辿り着けるのだろうか…。
 
ディレクター 中澤 洋子
チェコとスロヴァキアで貰った薬
スロヴァキアの小麦畑
自然の中を走る列車
「撮影日誌10」

 ディレクターとカメラマン、二人とも重い風邪をひくという異常事態の中、気力を振り絞って、なんとかロケを続行。二人して、ゲホゲホ咳をしながら、撮影している。この番組では、魅力的な乗客を撮るために、列車の最後尾から先頭車両まで移動してキョロキョロ乗客をチェックするのだが、風邪のせいで連結部分の扉を開けるのが、いつもより重く感じられる。力が入らない。そんな中で救いだったのが、乗客がみんないい人ばかりで、身に余る親切を受けることだった。チェコでもそうだったが、スロヴァキアでもよく乗客から食べ物をいただく。松永君はおばさんから杏を貰って食べていた。私はブルーベリーのコンポートの瓶詰めを貰い、ホテルで食べた。すごく美味しかった。ここまで旅して来て、私が素敵だなあと思ったことがある。チェコとスロヴァキアは内陸国なので、森が多い。そして人々はその森と深く親しんでいる。森でブルーベリーやキノコを摘んだ帰りの人々とよく出会った。杏やサクランボの実を抱えた人もいた。そんな人々が例外なく持っているのが、可愛いカゴ。何の木で編んだカゴなのか分からなかったが、丸くてしっかりした年期物のカゴに、ベリーや果物やキノコが入っている。なんともラブリーな光景。けっこう感激してしまった。ブラティスラヴァからコシツェの間は、東へ行くほど森が多い。列車の走行シーンを撮るために来た道を戻り、ついでに森を散策してみた。そしてブルーベリーを発見。撮影そっちのけで、パクパク食べてまわる。かなり幸せな気分になった。コシツェから今度は、スロヴァキアの北部を通ってジリナに向かう。途中、世界遺産のスピッシュ城に寄り道。中央ヨーロッパでは最大級の規模を誇る古城だが、火災で焼け落ちて廃墟になってしまい、200年以上、放置されている。丘の上にたたずむ石の城郭。かなり寂寥とした風景。本来なら丘をえっちらおっちら登って、城を間近に見たいところだが、何せ私は、肺炎が治りかけの身。階段をのぼるのも苦しい。同じく風邪をひいている松永君には申し訳ないが、お城の下で待機することにする。当たり前のことだが、旅は元気じゃないと、楽しみも半減するなあと、しみじみ。とほほ。
 
ディレクター 中澤 洋子
可愛いカゴと一緒に
車窓から、スロヴァキアの自然
スピッシュ城
「撮影日誌11」

 スロヴァキアとポーランドにまたがる、ヴィソケー・タトリ山脈。カルパティア山系でいちばん高い山。山を撮るなら、なんてたって晴れてほしい。他のところは雨でもいいから、どうぞ晴れてちょうだい!と神様に祈った。地元の人の話によると、3日に1日ぐらいしか晴れないらしい。どうなるかなあ、と不安だったけれど…、これがまた二日の滞在期間、ずっと晴れたのである!嬉しい!ラッキ!ヴィソケー・タトリ山脈の山懐には、タトラ電鉄という山岳列車が走っている。標高1000メートルを越えるところまで、列車で行ける。車窓には緑の針葉樹の森、時折あらわれる迫力ある峰の姿。なんだか神々しい景色だ。残念だったのは、2004年に猛烈な大嵐に見舞われ、けっこうな数の木が倒れていたことだ。切り株だらけの荒涼とした風景を目にすると、自然の猛威を感じない訳にはいかない。ヴィソケー・タトリ山脈はスロヴァキアで最初に国立公園に指定された場所。スロヴァキアの人々にとっては、国の象徴であり、誇りである。心を痛めた人々は多く、森の再生のためにけっこうな援助金が集まったと言う。苗木が立派な木に育ち、ふたたび美しい森になるには、かなりの時間がかかるだろう。その姿を、きっと私は生きている内に見ることはできない。人の一生は儚いけれど、森は太古の昔から再生を繰り返し、人々の暮らしを支え、植物や動物を育み、地球上に酸素を供給してきた。哀しい切り株の姿を眺めながら「ああ、森って大事」。当たり前のことだけど、そんなことをしみじみと感じた。タトランスカー・ロムニツァからは、ロープウエイで、ロムニツキー・シュテート山(2634m)の中腹まで登った。透明な氷河湖があり、見上げると雄大な岩山の頂が空と接している。足下には、名も知れぬ高山植物が可憐な花を咲かせている。ああ、空気が美味しい。登山家もたくさんいた。ポーランドやハンガリーから、わざわざやって来る人も多い。人はなぜ、山に登るのだろう?ぜーぜー、はーはー、苦しいのに。苦しさを乗り越えて、頂上に辿り着いた時の達成感かな?私はものぐさなので、これまで登山の経験がない。そこに海があったら泳ぐけど、そこに山があってもたぶん登らない。でも登山している人達、みんな満ち足りた表情なんだよなあ。いい面構えなんだよなあ。
 
ディレクター 中澤 洋子
ヴィソケー・タトリ山脈
山岳鉄道の車内で
高山植物の花
「撮影日誌12」

 北西スロヴァキアの中心都市、ジリナから、再び国境を越えて、チェコのオロモウツまで列車に乗車する。途中、車内で、警察のパスポートチェックがあった。あまり意識してなかったけど、そういえばチェコとスロヴァキアって、1993年まで同じ国だったんだよなあ、と思う。連邦を解消し、それぞれ独立した時、流血のような惨事がなかったことから、それは「ビロード離婚」と呼ばれている。コーディネーターのマルチンさんによると、スロヴァキアが独立したいと言った時、チェコは「うん、いいよ」という感じで、すんなり分離したらしい。実際、両国に足を運んで感じたのは、どちらの国の人も温和で優しいということだ。そんな国民性も影響しているのかな、と思う。そして両国は今も友好関係にある。オロモウツでは、街の俯瞰を撮るために市庁舎に登れることになったが、私はまだ風邪の症状が重かったので、撮影は松永君にまかせ、下の広場でぼんやり行き交う人々の表情を見ていた。子供達が無邪気に遊んでいて、その表情が幸せそのものだった。屈託のない、子供達の笑顔。それは平和の証拠ではないだろうか。ちょうど天気も良く、子供達の笑い声を聞いていると、なんだかこちらまで幸せな気持ちになったのだった。夕方、オロモウツからプラハまでの列車に乗る。これが最後の乗車。松永君も撮影に慣れてきたので、彼に簡単な指示だけ出して、私は座席でぼんやり車窓の眺めを堪能することにした。強い西日から赤い夕焼けに変わり、太陽が山の向こうに隠れると、水色の薄暮に包まれる。列車はプラハに向かって前進あるのみ。朝があって、昼があって、夜があるということ。列車は前にしか進まないということ。車窓に流れる風景が、あらためて時間の不可逆性を教えてくれる。それは人生と重なる。今回のロケは、日本人スタッフ全員が病院へ行くという思いもかけない出来事が起きた。体が辛い中、力を合わせて、前進しつづけた。時に人生は、辛くても前に進まなければならない時がある。そのことを身をもって感じた。プラハの街の夜景が見えた時、胸がいっぱいになった。プラハからはじまった旅が、プラハで終わるのだ。その間に起きた出来事が、たくさん思い出された。中田英寿ではないけれど、「旅は人生であり、人生は旅である」ということを実感した1ヶ月の旅だった。
 
ディレクター 中澤 洋子
オロモウツの街並
プラハへ向かう列車の中で
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