世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
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撮影日記1

スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ。バルカン半島の西部にある、今回はこの5カ国を巡る。この国々にマケドニア旧ユーゴスラビアを加えた6カ国は、かつてユーゴスラビアという一つの国だった。1991年から始まった紛争の結果、それぞれに独立して、今に至る。車窓では、かつてのユーゴスラビア地域が中心となる旅は実に22年ぶりだ。紛争前に訪れているのだから、番組の歴史を感じる。紛争終結から16年経った今、どうなっているのか?どきどきしながら、クロアチアはザグレブの空港に降り立った。

第一次世界大戦までオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったザグレブは、中世の街並みが並ぶ綺麗な町だ。この街では世界最短というケーブルカーと、ロトゥルシュチャック塔を取材。その後は、列車が走る外観を撮影に行く。場所を探している途中、サヴァ川の支流にかかる鉄道橋の脇に奇妙な建物を見つけた。どうやら第二次世界大戦中のトーチカということらしい。そうだとすれば、ナチスの傀儡(かいらい)だったクロアチア政府が、当時のパルチザンの攻撃に対して作ったものだそうだ。今は廃墟だが、壁に残る無数の銃痕を見ると、この地の複雑な戦争の歴史のことを考えてしまう。

中世の時代、バルカン半島、特にサヴァ川の流域は、ヨーロッパにおいて東西の境目であり続け、文明の衝突が何度も起こった。近代になると、列強諸国にとって、交通の要衝であったこの地は、各国の思惑に振り回され「ヨーロッパの火薬庫」などと呼ばれるようになる。そんな中でボスニアのサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発。その後、ユーゴスラビアが建国されるが、第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに国土を良いように分割されてしまう。それを解放したのがパルチザンであり、チトー大統領だったわけだが、大統領が亡くなると、今度は国内の民族対立からユーゴスラビア紛争が起こる。ざっと概観しても、あまりにもいろいろありすぎて、どう捉えて良いのか分からない。

ザグレブの青果市場に行ってみる。新鮮な野菜や果物が並んで、人々は明るく話しかけてくる。平和だし、楽しい。歴史は歴史。いろいろ考えても仕方ない。自分の目で見たものを大切に、シンプルにこの地の姿を伝えていきたいな、と思う。そんなこんなで、バルカン半島西部の国々を巡る旅が始まります。

ディレクター 宮部 洋二郎
世界最短のケーブルカー「ウスピニャチャ」
ザグレブ郊外のトーチカ
ザグレブの青果市場にて
撮影日記2

旅はクロアチアのザグレブから国際列車のユーロシティに乗って、まずは西のスロベニアに向かう。さて、スロベニアというと、みんなどのようなイメージがあるだろうか。おそらく場所もどこなのかピンと来ない人は多いはずだ。実際に僕も、恥ずかしながら今回の旅が決まるまではほとんど知識が無かった。そこでざっと、この国を概観してみよう。

スロベニアはかつてのユーゴスラビアの西の端、オーストリアの南、イタリアの東に位置し、国内にユリアン・アルプスを擁する山岳国家だ。ユーゴスラビアの中でも、経済的に豊かな地域だったスロベニアは、1991年に独立してからは、民主化と、西欧よりの政策を進め、2004年にはEU加盟を果たした。だから、この国は旧社会主義(ユーゴスラビア時代)の国だが、今では、西ヨーロッパの雰囲気にかなり近い。
スロベニアの首都リュブリャナは、いかにもヨーロッパという感じの可愛らしい街並み。街の中心部にあるリュブリャナ城に登ると、中庭では民族衣装を着た人がポルカを踊っていた。ちょっと、おとぎ話の世界に迷い込んだみたいだ。首都だけど、それほど大きくないので観光にはとても便利。旧市街を見て回るなら、歩いても十分だろう。

そして、ユリアン・アルプスの麓にあるブレッド湖は、スロベニア観光の目玉。エメラルド・グリーンの湖はとても幻想的だ。このブレッド湖に浮かぶ小島にある聖マリア教会の鐘を鳴らすと願いが叶う、ということは本編でも紹介したけど、実はこの教会はスロベニア人にとって憧れの結婚式場でもある。ただし、ここで式を挙げる場合はちょっと大変だ。ボートで小島に着くと99段の階段があって、結婚式の際にはこの階段を新郎が新婦を抱えたまま一気に上らなくてはならないのだ。そして、教会の鐘を鳴らすと幸せになれる、ということらしい。でも、新婦を抱えて駆け上るのはかなり重労働だから、式の日取りが決まると、新郎は体力づくり、新婦はダイエットに励むのだそうだ。

いずれにしても、かなり魅力的なスロベニア。あまり日本で知られていないのはちょっともったいない。特に新婚旅行やカップルで訪れたら、それは素敵な思い出になるだろうな、と思いますよ。

ディレクター 宮部 洋二郎
国際列車のユーロシティ
リュブリャナ城でポルカを踊る2人
ブレッド城から眺めるブレッド湖
撮影日記3

車窓のロケでよく語られるのが、列車の「走り」の撮影だ。列車が走るところを外から撮る撮影のことで、実はこれが一番厄介だ。時刻表と地図とにらめっこして、だいたいこの辺りが綺麗で、撮りやすいんじゃないか、などとあたりをつけて撮りに行くわけである。だけど、実際に行ってみると、うまくいかない事が多い。茂みが多くて列車が見えなかったり、良い場所を見つけても、天気が悪かったり、天気も場所も素晴らしいのに、やっと来た列車の車体がお目当てのものと全く違っていたり…。

今回のロケでも、「走り」は大変だった。まず、詳細な道路地図がない。(もちろんカーナビはついていない。)だから、「多分こっちに行けば線路が見えるはず」という感じで探すしかない。その上、ドライバーのライコさんは「方向音痴」という致命的な弱点を抱えていた。コーディネーターのドラガンさんはと言えば、老眼で地図がよく見えない。だから、途中ですぐ迷う。ああ、もう時間が無い、列車が来ちゃう…う〜!…ということで、僕が地図を見ながらナビをすることになる。やっとの思いでポイントに辿り着いたと思うと、全然車体が違う列車が来たりする。「きーっ!」となる気持ちがお分かりだろうか。

でも、そんな苦労の多い「走り」撮影だからこそ、うまく行った時には喜びもひとしおだ。スロベニア、ボーヒン鉄道の観光列車の撮影がそうだった。この列車は土日のみの運行で、1日1往復しかない。一回は乗車して車内を撮影するので、外から撮るには、実質的にワンチャンスしかない。だから、一度走りを撮影した後、列車を「追い抜い」て、なんとか1本の列車で2度のチャンスを作る、ということを考えた。でも、ボーヒン鉄道は途中、長いトンネルで山を抜けるが、道路にはトンネルが無いので車で行くには峠を越えないといけない。それでは絶対に間に合わないので、高速道路で大回りするしかない。
ブレッド湖駅の近くで走りを撮影した後で、大急ぎで高速道路に乗って、ノヴァ・ゴリツァに程近いソルカン橋を目指す。果たして、間に合うか?と、ソルカン橋に着いて、カメラをセッティング。車掌に連絡をとると、これから橋を渡るところ、という返事が返ってきて僕らは歓声を上げた。

ゆるやかに流れている「世界の車窓から」の映像ですが、撮影の陰にはこんな苦労があるものなのです。そんなことを考えて見てみると、また違った楽しみがあるかも、しれませんよ。

ディレクター 宮部 洋二郎
イェセニツェ近辺で撮影した車体違いの走り
ブレッド湖駅周辺で撮影したボーヒン鉄道の観光列車
ソルカン橋を渡るボーヒン鉄道の観光列車
撮影日記4

スロベニアの国では列車の車体にひどく、落書きがしてあることが多い。スロベニアに限らず、ヨーロッパでは全体的に多いらしい。日本では最近、大阪の地下鉄に落書きされて、大問題になったことを考えると、ヨーロッパではあまり気にしない人が多いということだろうか。

スロベニアにおいては、この落書きは独立後に特に増えたと言われている。中にはとても印象的で、強い主張が感じられるものもある。なかなか複雑なのだけど、社会主義から民主主義になって、自由な世の中になったから、落書きのような自由な表現が出来るようになったわけである。だけど、その批判の矛先はその民主主義に向けていたりすることもあるそうだ。実際に国は豊かになった反面、貧富の差が拡大した面もあるので、一概に何が良いとかは言えない。事実、社会主義時代の方が良かった、と言う人は未だに少なくないのは、正直驚かされる。

国境の街、ノヴァ・ゴリツァでは冷戦の間、ずっと、隣接するイタリアのゴリツィアの街との間に鉄条網があった。二つの街がもともと一つの街だったことを考えると、もう一つのベルリンの壁、とも言える。2004年にスロベニアがEUに加盟、2007年にシェンゲン協定に加盟したことで、鉄条網は撤去され、今では国境審査もなくなった。おかげで人々は日常的に国境線を行き来する。スロベニアの駅に、タバコを買いにイタリアからやってくる人がいるのはちょっとおもしろかった。

せっかくだからと、僕らもちょっと、ご飯を食べにイタリア側のゴリツィアの街へ行ってみる。ちょっと不思議な感じだ。レストランに入ると、やっぱりそこはイタリアで、イタリア人しかいない。言葉ももちろんイタリア語。イタリア料理に舌鼓を打ちながら、考える。時代が変わったおかげで、旅行者としてはやっぱり自由に行き来できるのはありがたい、と思う。だけど、そこに住んでいる人にとっては、良いことばかりじゃなかったりするのだろう。うーん。今回の旅は考えさせられます。だけど、考え続けるのが一番大事なことなんじゃないか、そんなふうにも思います。

ディレクター 宮部 洋二郎
車体に描かれた印象的な落書き
ノヴァ・ゴリツァ駅前 手前がスロベニア 奥がイタリア
ゴリツィアの街で食べたチーズとサラミ
撮影日記5

列車とは関係ないけれど、一つの漫画を紹介してみる。1980年代に描かれた坂口尚(故人)の「石の花」(講談社漫画文庫 全5巻)という漫画をご存知だろうか。第2次世界大戦中のユーゴスラビアを舞台に描かれた漫画で、ナチスドイツに国土が蹂躙されていく中、懸命に生き抜くスロベニア人の若者を描いた物語だ。作中にはパルチザンや強制収容所なども登場し、この地域について学ぼうと思ったら、かなり参考になる。

この漫画のタイトルにもなった「石の花」。実は10月28日に紹介した「ポストイナ鍾乳洞」のことだ。鍾乳石は石であって、「花」ではないけれど、人間だからそれを「花」と思える。どんなに辛い現実でも、それをただの現実と思ったらそれまでで、人間にはどんなときでも「想像力」という翼がある、そんな象徴的な意味合いで漫画の中には登場し、全篇を貫くテーマにもなっている。実際のポストイナ鍾乳洞はヨーロッパでも有数の広さを誇る鍾乳洞で、洞窟列車に乗って中に入ると、その大きさにちょっと圧倒される。いくつも立ち並ぶ石筍や石柱を撮影しながら、確かに花のようだな、と「石の花」の物語に思いを馳せてみる。

そんなふうに、どこかに旅をする前に、その場所が舞台となった映画や小説などに触れてみるというのは、その場所を理解するにも、より旅を楽しむためにも、とても良い方法だと思う。ちなみに「石の花」という作品自体、相当に深みのあるストーリーで、名作だ。作者の坂口氏は、その功績が認められて当時のユーゴスラビア政府から表彰も受けた。興味があれば、是非。おすすめです。

さて、ポストイナ鍾乳洞の後はいよいよスロベニアを離れて、再びクロアチアへ。アドリア海に面した港町リエカを出発した後は、クロアチアの内陸のオグリンを経由して、南のスプリトを目指す。クロアチア、と言えばアドリア海、という印象が強いけど、内陸にも見所はたくさんある。ちょっとディープなクロアチア、紹介できればと思います。

ディレクター 宮部 洋二郎
ポストイナ鍾乳洞の入り口
ポストイナ鍾乳洞の鍾乳石
リエカへ向かう国際列車
撮影日記6

オグリンから先は、インターシティ・ナギブニという高速列車に乗って、南を目指す。番組ではこの沿線にある二つの国立公園をご紹介。

一つは世界遺産のプリトヴィツェ湖群国立公園。大小16の湖が連なる湖沼地帯で、非常に透明度の高いエメラルド・グリーンの水がとても印象的だ。ちなみに石灰岩の多いカルストによるこの特殊な地形は、中国にも九寨溝(きゅうさいこう)という有名な場所があるそうなので、そちらも是非行ってみたい。もう一つはパクレニツァ国立公園。やはり石灰岩による地形で、浸食されてできた、むき出しの岩壁が特徴だ。立ち並ぶ岩山はロッククライマー達にはたまらないようで、老若男女のクライマーたちで溢れかえっていた。
こうした石灰岩の地形は、バルカン半島西部を縦に走るディナル・アルプス山脈に特徴的に見られる。プリトヴィツェ湖群国立公園もパクレニツァ国立公園も、この山脈の一部に属するらしい。インターシティ・ナギブニの路線はこの山脈に沿うような形で南下して、途中で山脈を横断するような形で海へと抜ける。だから、列車に乗って車窓を眺めていると、ダイナミックな地形の変化が見て取れて、とても面白い。

それと、この沿線で忘れちゃいけないのは、戦争のことだ。リチュカ・イェセニツァ、ゴスピッチ、クニンなどの周辺はもともとセルビア人が多く住んでいた。クロアチアが独立を宣言した1991年にはこの地域のセルビア人勢力とクロアチア人勢力との間で大規模な衝突が起こった。実はこのとき、プリトヴィツェ湖群国立公園も戦争の舞台となって、当時は世界危機遺産に登録され、存続が危ぶまれたこともあった。この地域の沿線には、破壊された家屋や地雷原などが未だにそのままになっていて、ハッとさせられる。

クロアチア紛争をはじめ、ユーゴスラビア紛争は複雑で、一口には語れない。リチュカ・イェセニツァ駅の駅員さんに、「何故戦争が起こったのか」と聞くと、「分からない。みんなおかしくなっていた。」と言っていた。当事者ですら、よく分からないのだから、日本人の僕が分かるわけがない。今回の車窓ではクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、かつて敵同士だった国々を回っていく。彼らは総じて優しい人達ばかりだった。でも、その人たちが、互いに殺しあった。何故だったのか。そんなことは分からない。分からないけど、思いを巡らすことは出来る。そして、それが大事なことなんだと思う。

ディレクター 宮部 洋二郎
プリトヴィツェ湖群国立公園の水面
ホスニアとの国境付近に多い、「地雷注意」の看板
リチュカ·イェセニツァ駅を通過するインターシティ·ナキブニ
撮影日記7

オグリンからインターシティ・ナギブニに揺られること、およそ5時間。ようやくスプリトに到着である。国土の南部に位置し、アドリア海に面するこの辺りは、ダルマチア地方と呼ばれ、クロアチア観光の中でも一際人気の高いスポットだ。アドリア海の青い海、焼けるような日差し、豊富な海の幸…それは人気も高いだろうな、と納得。

スプリトでは街の中心部にある巨大な世界遺産、ディオクレティアヌス宮殿を紹介。古代ローマ時代の由緒ある遺産だが、内部はショッピングモールやレストラン、果てはアパートメントまでが整備されており、ちょっとした街になっていておもしろい。それと、本編では紹介できなかったけど、この街ではクラパと呼ばれるクロアチアの民族音楽が盛んだ。クラパは楽器を使わない。要は「アカペラ」だ。昔、ダルマチア地方の漁師達が海の上で漁をしながら口ずさんだのが始まりと言うことだ。映像として紹介はしていないけど、スプリトの回の音楽はこのクラパを使用しているので、興味ある方は是非見てみてほしい。

スプリトの街のあとは、少し列車を離れて、ドゥブロヴニクの街を訪れる。海に突き出した出島のようなこの町は、「アドリア海の真珠」と呼ばれるクロアチア最大の観光都市。驚くほど青いアドリア海の中に浮かんだオレンジ色の家々。町全体が旧市街になっていて、おとぎ話の世界みたいだ。スタジオジブリのアニメ、魔女の宅急便のモデルになったという話もあるが、まさにそんな感じだ。

ところで、僕は今回の旅で、このドゥブロヴニクだけは何とかして時間を作って、アドリア海で泳ごうと思っていた。だけど、やっぱりそんな時間は無かった。あんまり綺麗だったので、時間ギリギリまでカメラを回してしまったのが原因だ。コーディネーターのドラガンさんは「ここまで来て海に入らないのはバカよ。あなたたちだけよ。」としきりに言っていた。そうですね。そう思います。でも、これが日本人のサガなのです…。
まあ、良いのだ。仕事でなくプライベートで必ずまたここに来る!という目標が出来たのだから。そのときは絶対に泳いでやる、と心に誓ったのである。

ディレクター 宮部 洋二郎
ディオクレティアヌス宮殿内に干されていた洗濯物
ドゥブロヴニクの街を見下ろす
ドゥブロヴニク周辺を行く観光船
撮影日記8

バルカン半島西部(かつてのユーゴスラビア地域)を巡る旅。ドゥブロヴニクを訪ねた後は港町、プロチェから再び列車に乗って北上する。ここからはいよいよボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)に入る。ボスニアというと、ユーゴスラビア紛争ではかなり被害の大きかったところだ。特に首都サラエボでは民族同士の激しい衝突があり、一般人も含めて大変な数の犠牲者が出た。戦後16年が経過した現在でも、紛争時に使用された武器が出回っており、治安は良いとは言えない。外務省の海外安全ホームページでは未だに『全土:「十分注意してください。」』というレベルだ。

ただ、実際に旅をしてみての感想だけど、僕はボスニアはとても魅力的な国だと思った。
まず、景色がいい。ネレトヴァ川に沿ってモスタルからサラエボに行く路線は本当に綺麗だった。森が深く、緑が濃い風景はスロベニアやクロアチアともまた違って、味わい深いものがある。途中、奇怪な岩石群が立ち並ぶネレトヴァ峡谷は特に圧巻だ。この辺りは線路に平行して道路も走っているので、ドライブをしても相当に楽しい。

そして、食事がおいしい。サラエボで食べたチェバプチチというソーセージの味は忘れられない。小さいケバブと言われるこの食べ物は、かつてのユーゴスラビア諸国で食べられているが、特にサラエボのものが有名。サラエボでは、これをピタパンにはさんで食べるのが一般的だ。

ボスニアはオスマン・トルコ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国の影響を受けた場所だ。そして、ボスニア・ムスリム、セルビア人、クロアチア人、など多様な民族、宗教、言語が一つの場所に入り混じっている。文化的にも歴史的にもとても興味深い。1984年には冬季オリンピックが行われたこともあり、現在でもバルカン半島最大の、サラエボ映画祭が行われる街でもある。
自然、食事、歴史、文化。これだけ揃っていれば、観光地としては十分魅力的だ。近い将来、もう少し落ち着いて、安心して旅行を楽しめるようになったらいいのにな、と思う。いずれにせよ、個人的にはまた来てみたいと思う場所でした。

ディレクター 宮部 洋二郎
列車から見たネレトヴァ峡谷の眺め
サラエボへ向かう途中にある鉄道橋
サラエボの街で食べた「小さいケバブ」
撮影日記9

サラエボという街は、個人的にとても行ってみたかった場所の一つだ。昔、ボスニア紛争を扱った映画で、荒廃しきった様子のサラエボを見て、衝撃を受けた事があったからだ。あの街はいったいどうなったのだろう、という気持ちだった。実際はどうだったかというと、今のサラエボの街は綺麗で活気のある街、といった印象だ。街では時折、銃弾の跡がたくさん残っている建物を見かけるが、それ以外は普通の観光地、という感じでホッとした。

サラエボはとても不思議な街だ。路面電車に乗ると、ものの30分程で車窓の風景はガラリと変わる。近代的な駅前の通りを抜けると、古風なヨーロッパの建物が立ち並び、そして、軒の低い建物が現れて、いつの間にかアジアっぽい雰囲気になる。ボスニア・ヘルツェゴビナには主に、イスラム教を信仰するボスニア・ムスリム、ローマ・カトリックを信仰するクロアチア人、セルビア正教を信仰するセルビア人が同居しているので、それぞれの文化が交じり合っている様を感じる事が出来るのだが、サラエボという街では特にそれが顕著だ。90年代はこの3つの民族の勢力が衝突してボスニア紛争が起こった。

今でも民族の問題にはかなり神経質になっている。たとえば、紙幣の事だ。日本では1000円札と言えば野口英世が印刷されているタイプの一種類しかない。ボスニアでは兌換(だかん)マルク(KM)という単位の通貨を使用しているが、紙幣は、(200兌換マルク以外)それぞれ2種類存在する。一方は、ボスニア・ムスリムないしクロアチア人の重要人物をデザインしたものと、もう一方は、セルビア人の重要人物をデザインしたものになっている。これはそれぞれの民族感情に配慮しての事だそうだ。

歴史的にもいろいろあったし、今でもいろいろあるのだけど、さまざまなものが散りばめられたサラエボの街には独特な雰囲気がある。ボスニアには、郷土愛が強い人たちが多かったが、とりわけサラエボには格別の思い入れがあるように思う。ちょっと言葉にしにくいけど、この街には何か人を惹き付ける魅力があるような気がした。

ディレクター 宮部 洋二郎
ヨーロッパ風の建物が立ち並ぶ街並み
アジア的な雰囲気のバシャチャルシャ広場周辺
流通している2種類の10兌換マルク紙幣
撮影日記10

ボスニア・ヘルツェゴビナを出た後は、一旦、再びクロアチアのスラヴォニア地方を経由して、ベオグラードへと向かう。クロアチアとセルビアとの国境を越えると、列車にセルビア人が多く乗ってきた。と、急に車内の雰囲気ががらりと変わる。なんというか、陽気な人が増えた感じがする。気さくに話しかけてくれるし、挨拶をするととても元気に返してくれて気持ちが良い。ユーゴスラビア紛争当時、セルビアのミロシェビッチ大統領は民族主義者として、国際的な非難を浴びた。その印象があってか、実際のセルビア人というのはどんな人たちなのだろう、と多少構えていた部分があったのだけど、ちょっとホッとした。

さて、ベオグラードである。かつてのユーゴスラビアの首都であり、現在のセルビアの首都だ。人口はおよそ160万人。これまで訪れてきたいくつもの都市と比べてもずいぶん大きい。スロベニアやクロアチアはどちらかというとヨーロッパ的なのだが、セルビアはもう少しエスニックな感じだ。だけど、宗教はセルビア正教なので、イスラム教徒が多いボスニア・ヘルツェゴビナともまた違う。ユーゴスラビア地域を渡り歩くと、少しずつ文化や風土が変わっていくのが、目に見えて楽しい。

ベオグラードはナイトライフが楽しめることで有名だ。明け方まで営業しているクラブがいくつもある。是非行ってみたかったけど、撮影の疲れが激しすぎて、とてもそんな気になれなかった…残念。夜通し踊り明かすほどの体力は残っていなかったけど、せめておいしい夕食を食べたいということで、「ベオグラードのモンマルトル」と呼ばれるスカダリヤ通りに連れて行ってもらった。ここの通りは、両脇をお洒落なレストランが軒を連ねており、中には生演奏を楽しめるお店もある。だいぶ素敵だ。とてもロマンチックだ。是非プライベートでまた来て見たい。打ち合わせをしながらではなくて、ちゃんと食事をじっくり楽しんでみたい。セルビアの料理は素朴だけど、とてもおいしいのです。

あとは、セルビアは日本に対してはとても友好的で、今回の東日本大震災でも多額の援助をしてくれている。だから、「日本から来た」と言うと、人々はとても喜んでくれる。そして、流通している通貨のディナールは日本円と価値があまり変わらない。だから、計算が楽だ。ということで、個人的には、この街はとてもお気に入りです。

ディレクター 宮部 洋二郎
スカダリヤ通り
レストランでの生演奏
ベオグラードで食べたピーマンの肉詰め
撮影日記11

ベオグラードの駅を出た後は、ウジツェへ向けて南へと向かう。この途中の沿線近くにある村で行われる「草刈り祭り」を撮影しに行く。このお祭りは、男達が一列に並んで、いかに早く草を刈れるかを競争するもので、19世紀に親類や友人達が集まって、いっぺんに牧草を狩るという伝統から生まれたそうだ。

イベントは午後1時から始まる、ということだったので、それに間に合うように車を走らせたのだけど、何故か予定が早まってしまい、着いたらもうメインの競争は終わってしまっていた。早めた理由は「去年やった時は、時間がおしたせいで天気が崩れて出来なくなったから。」ということなのだけど、ちょっと困る。撮影的には一応、草刈りする様子は撮れたので、なんとかはなったけど、やっぱりメインの草刈り競争が撮りたかったなあ。選りすぐりの草刈り男が集まり、ブラス・バンドの楽隊がはりきって、かなり盛り上がったらしいのだ。見物していた観光客から「スゴかったよ!」とか言われて、かなり悔しい。

ここのお祭りでは「豚の丸焼き」も撮影。こういうのは漫画でしか見たことがないので、びっくり。実際はすごいインパクトだ。食べてみると、豚肉は豚肉でも、ちょっと食べたことの無い食感にまた驚く。皮はパリパリで肉は柔らか。セルビアでは伝統的な料理ということだ。時間にはやられたけど、珍しいものが食べられたので、まあ、いいかあ。

それと、今回は取材できなかったけど、ウジツェへ向かうこの路線があるセルビア中部・南部ではブラス・バンドがとても盛んだ。実際に、放送でもよく使わせてもらったが、ブラス・バンドの「ブンプカブンプカ」という感じのセルビアの音楽はとても楽しい。特にグチャという街で開かれる、グチャ・トランペット音楽祭は有名で、毎年国内外から多くの人が訪れるらしい。是非、そちらのお祭りも一度行ってみたい。


ディレクター 宮部 洋二郎
草刈り祭りの様子
豚の丸焼き
切り分けられた豚の丸焼き
撮影日記12

シャルガンスカ・オスミツァ鉄道。日本語にすると「シャルガン山の8の字鉄道」。その名のとおり、上空から見ると、路線の形が8の字をしている。短い距離で高低差をかせぐために、こんな形になったということらしい。しかし、これが乗ってみた感じだと、何がどうなっているのか全く分からない。1月5日「8の字」の回で、「ちょうどこの場所が8の字の交わる点にあたります」と言う地点があって(右上の写真)、ここでは乗客たちも一旦降りて線路の様子を見る事が出来るのだけど、8の字のどの部分をどこから見ているか分からない。そこで右の路線図で簡単に説明すると、この写真は☆印から南を向いているところにあたる。どんな風に列車がこの風景を通過していくのか、この図と合わせて放送を見てもらえるとよく分かるはずだ。

ところで放送では紹介できなかったけど、シャルガンスカ・オスミツァ鉄道は、『ライフ・イズ・ミラクル』(2004)という映画の主要なロケ地でもある。作ったのはカンヌ国際映画祭で2度のパルムドールを獲得した、サラエボ出身の映画監督エミール・クストリッツァだ。この映画はボスニア紛争中のセルビアとボスニアを結ぶ路線で働く鉄道員の話なのだけど、映画の通りこのシャルガンスカ・オスミツァ鉄道はもともとはベオグラードからドゥブロヴニクを結ぶ長い路線だった。実は撮影時はモクラ・ゴーラ駅が終点だったけど、現在はもう少しだけ路線が復活して、ボスニアのヴィシェグラードまで線路が延びている。来年の春から実際に列車も走るそうだ。

クストリッツァ監督はライフ・イズ・ミラクルの映画を作ったときに、とてもこの場所を気に入ったらしく、路線から少し離れたところにドゥルヴェングラードという映画村を作った。ジョニー・デップも訪れた事があるという、映画ファンなら興味がそそられる場所だ。けっこう監督本人も滞在していることがあるらしいので、もしかしたら監督に会えるかも、と思って最後に訪ねてみたのだけど、会えなかった。残念。仕方がないので、エミール・クストリッツァグッズを買って、シャルガンスカ・オスミツァ鉄道を後にした。


ディレクター 宮部 洋二郎
8の字の交わる点にあたる場所
シャルガンスカ・オスミツァの路線図
ドルヴェングラードにあるジョニー・デップ像
撮影日記13

「スゴイ…!」
トンネルを抜けて現れた車窓に、思わず僕とカメラマンの松永さんは息を飲んだ。視界の上から下まで岩山が広がる、見た事の無い眺め。それは、モラチャ峡谷の途方も無く雄大な風景だった。

モンテネグロという国は、日本人からすると、相当になじみが薄い。それもそのはずで、国自体が独立したのが2006年と、まだ5年しか経っていないのだ。でも、この国にはスゴイ鉄道がある。それが、セルビアのベオグラードから、モンテネグロのバールまでを結ぶバール鉄道だ。その道中には合計114.435キロメートルに及ぶ254箇所のトンネルと14.593キロメートルに及ぶ435箇所もの鉄道橋が存在する。旧ユーゴスラビア時代の1951年から始まったバール鉄道の工事にかかった歳月は25年間。国家の威信をかけたこの事業は、1万4000人の若者達が全国からボランティアで工事に従事し、時には大きな犠牲を払いながら、完成したそうだ。特にモンテネグロ国内のビエロ・ポリエからポドゴリツァの区間、モラチャ峡谷の辺りはとんでもない難工事だったはずだ。冒頭に書いたように車窓から見える視界の上から下まで、向かい側の山が見える、ということは車窓のすぐそこに地面がないということだ。つまり列車は崖っぷちを走っているわけである。本当に、よくこんな所に鉄道を通そうなんて考えたものだ。

そんなバール鉄道のハイライトは、なんといっても、モラチェ峡谷のクライマックス、ポドゴリツァの手前にある、マラ・リエカ橋だ。この橋の高さは198メートル。世界でも有数の高さを誇る。車窓から見る谷の風景…本当に目がくらむ。もういろんなものが点にしか見えない。ひゃー。

ポドゴリツァの駅に着いた後も、僕と松永さん、それに助手の清水さんはちょっと興奮覚めやらぬ感じだった。うーん。その景観や作られた経緯等々考えると、世界遺産級なんじゃないかと思う。あくまで個人的な感想だけど。いずれにせよ、旧ユーゴスラビア地域を巡る鉄道旅としては、今回のクライマックスにふさわしい路線だったことは間違いない。

ディレクター 宮部 洋二郎
 
バール鉄道の乗客
モラチェ峡谷
マラ・リエカ橋
撮影日記14

今回の空撮はモンテネグロのポドゴリツァの前後、モラチェ峡谷のマラ・リエカ橋周辺から、アドリア海に面する港町のバールまでの間で行った。ヘリコプターを操縦するのは、モンテネグロ空軍のパイロットだ。ヘリコプターのパイロットにもいろいろいるけれど、概して軍隊の方は操縦が上手いという。映像を見ていただければ分かるけど、かなり低空を飛んでいる。地面すれすれの飛行は難しく、相当な操縦の腕が必要だと思うが、空軍パイロットはそれ難なくやってのけていた。そのおかげでモラチェ峡谷、マラ・リエカ橋、スカダル湖などはとても迫力のある映像が撮れたと思う。感謝。

さて、列車はとうとうアドリア海に抜けて、港町バールに到着した。穏やかな砂浜では多くの人が午後の日差しの中でゆっくりと午睡を楽しんでいた。特に何かがあるというわけではないけど、のんびりした雰囲気。旅の終着点としてはこんな場所がふさわしいのかもしれない。やしの木の下に腰を下ろすと、バルカン半島西部の国々を巡る長い旅の思い出がいろいろと思い出されてくる。

目まぐるしく5つの国を駆け巡ったわけだけど、楽しかったなあ。ヨーロッパの雰囲気が濃厚な西のスロベニアに始まり、東へ向かうに連れて、だんだんアジア的な匂いが立ち込める。辛い戦争の傷跡もあれば、底抜けに楽しいお祭りもあった。様々な民族がいて、色んな音楽や料理に出会った。歴史的にも文化的にも世界の縮図のような、極彩色の地域。とても一言では語れないけれど、少しでもこの国々の魅力が番組で伝わったなら、とても幸いです。見ていただいた方々、どうも、有難うございました!


ディレクター 宮部 洋二郎
 
低空飛行をするヘリから撮影したスカダル湖
アドリア海沿岸を行くバール鉄道の列車
港町バール

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ドイツ編撮影日記
ドイツ編の撮影日記が、中村ディレクターから届きました!
ハンガリー編撮影日記
ハンガリー編の撮影日記が、川口ディレクターから届きました!