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SmaSTATION!!秘められた伝説シリーズ「燃える男・星野仙一を支えた2人の女性」
2008年の北京オリンピックに向けジャパン・ナインを率いるのが、日本代表監督に就任した闘将・星野仙一さん。現役時代は中日ドラゴンズのエースとして、気迫あふれるピッチングで敵を圧倒し、ついた異名は「燃える男」。引退後は「燃える闘将」となり2003年には、阪神タイガースを18年ぶりとなるリーグ優勝に導きました。これまで、幾多の勝利をつかんできた男の華々しい野球人生の陰には、彼を支えたふたりの女性の存在があったのです。野球へ導いてくれた母・敏子さんと、野球人の妻として支え続けた妻・扶沙子さん。しかし、そこにはあまりにも悲しい別れが…。そんな星野仙一さんの野球人生に迫ります。

昭和22年 いまだ終戦の混乱が冷めやらぬなか、岡山県倉敷市に星野さんは生まれました。実はその3ヵ月前に父・仙蔵さんが脳腫瘍で他界。母・敏子さんは亡き父から一文字をとり「仙一」と名付けました。戦後間もないということでどこの家庭も貧しかったとはいえ、一家の大黒柱を失った星野家の生活はとりわけ苦しかったといいます。母は、星野さんの姉・美和子さんと須恵子さん、そして星野さんを育てるために、午前3時から豆腐店で働き、それが終わると昼には亡き夫が働いていた工場の寮母として働き、そして夜には知り合いの店で皿洗いと、まさに身を削って一家を支えたのです。当然、息子に構っている暇もなく、その寂しさからか、幼少時代の星野さんは意外に泣き虫だったといいます。しかし、そんな星野さんを変える出来事が…。ある夏の日、ケンカに負けて泣きながら帰ってきた星野さんに、敏子さんはいきなり平手打ちするとこう言ったのです。「そんなに泣くんだったらケンカなんかするんじゃない! 男は負けたらおしまい。やり返しておいで!」。そんな母の言葉を受け、星野さんはすぐにやり返しに行き、相手を叩きのめしました。この時の母の一言が「どんなときも常に勝ちにこだわる星野仙一」という男を誕生させたきっかけにもなっているのです。 母子家庭だからこそ常に厳しくわが子に接した母。そんな敏子さんから星野さんが学んだもの。それを自らの著書にこう記しています。

弱気は相手を強気にさせる
弱気は強気に押し切られる
強気は弱気を制していく
強気は強気をも押し返す


そして、小学校の頃はやんちゃで喧嘩ばかりしていた星野さんでしたが、その一方、小学6年の1年間、筋ジストロフィーという難病におかされ、思うように歩けなかった友人を、背負って登校したというやさしい面も。そんな星野少年の心に大きな夢が芽生えたのは昭和31年のこと。当時、敏子さんが寮母を務め、一家が共に住み込みで働いていた工場の寮にテレビがやってきたのです。そこで、星野さんは衝撃を受けます。それは大阪タイガース(現・阪神タイガーズ)のスター選手たちの活躍ぶりです。タイガースの縦ジマのユニホームが、星野さんの目にはあまりにもまぶしく映りました。以来、近所の友人たちとの野球漬けの毎日がはじまったのです。すると、次第に星野さんにある欲求が芽生えます。当時の野球少年にとっては高嶺の花だったグローブが欲しくなったのです。しかし、一家を養うために朝から晩まで働きづめの母を思うと、とてもねだったりすることなどできません。そんなある日のこと、いつものように野球遊びを終え、自宅に帰った星野さんに敏子さんは、学校から帰ったら野球をせずに寮の草むしりをするように命じたのです。いつにない母の物言いに、星野さんは言うことを聞かざるを得ません。次の日から学校から帰ると、一家がお世話になっていた寮の草むしりを続けたのです。そして数日後、全ての雑草をむしり終えると敏子さんは星野さんをほめ、千円札を渡すと、グローブを買ってくるように言ったのです。当時の千円といえば、今の価値で6000円程度。朝から晩まで働いて、育ちざかりの子供たちをなんとかの養っていた敏子さんにとって、それは大変な出費でしたが、大好きな野球に夢中になっている息子のためなら、とひそかに貯めていたのです。新品のグローブ、それは星野さんにとって最高の贈り物でした。以来、そのグローブは星野さんの宝物となり、暇さえあればピカピカに磨きあげ、夜は抱いて眠ったほどでした。「あとは、ユニフォームがあれば完璧だ」。さらに、星野少年の夢は膨らみます。しかし、これ以上母に迷惑をかけるわけにはいきません。そこで星野さんは、なんと体操服にマジックで憧れの縦じまを描き、さらに上には開襟シャツを着用。手作りのユニフォームで周囲を驚かせたのです。こうして大好きな野球にどっぷりはまっていった星野さんは、昭和34年、地元の水島中学に入学。迷わず野球部に籍を置くと、すぐにその才能で他の部員を圧倒します。そして、昭和37年、名門・倉敷商業高校に進学。長身から繰り出される速球は周りの者たちを驚かせました。

「練習をしていると非常にいいボールを投げているから、2年、3年生で甲子園に連れて行ってくれ、甲子園に行こうやという話はしました」
(倉敷商業高校野球部監督・矢吹さん)



そして昭和39年、星野さんにとっては甲子園出場を賭けた最後の夏。決勝戦へと駒を進めるも、結果は、敗戦。結局、甲子園出場という夢は叶わなかったのです。しかし、プロ野球のスカウトはその才能を見逃しませんでした。星野さんのもとにプロ入りの話が舞い込んだのです。それは、星野さんにとって願ってもないチャンス。「これで今まで苦労をかけてきた母に楽をさせてあげられる」と考えた星野さんに、敏子さんは「あなたは大学に行くのよ。六大学に行きなさい。プロに入るのはそれからでも遅くはないでしょう」と告げたのです。星野さんはそんな母の思いを汲み、プロからの誘いを断念。昭和40年、明治大学に進学したのです。大学では、とにかく厳しい指導で有名だった名将・島岡監督の下、総勢225名の部員と共に地獄の練習が始まりました。そんな練習にも、星野さんは必死に耐えました。「苦しい生活の中、必死に働いて毎月仕送りを送ってくれている母に、ここで辞めたら申し訳ない」という思いがあったからです。「絶対に負けない!」。猛烈に練習に打ち込んだ星野さんは、そのかいあって、一年の春からベンチ入りを果たします。そしてちょうどこの頃、あるひとりの女性と出会います。のちに生涯の伴侶となる栗栖扶沙子さんです。慶応大学の文学部で星野さんよりひとつ年上の彼女がある日、練習中の星野さんたちのもとを訪れました。たまたま明大野球部に知人がいたことから差し入れにやってきた扶沙子さんを見た星野さんは、その美しさに一目惚れ。言葉を交わしたのをきっかけに、扶沙子さんとの交際にこぎ着けた星野さんは、選手としてもめざましい活躍を見せるように。大学時代には通算23勝を挙げ、ノーヒット・ノーランも達成したのです。そんな華々しい記録をひっさげ、大学卒業を前に、迷わずプロ入りを希望。昭和43年のドラフト会議で「中日ドラゴンズ」の1位指名を受け、小さい頃からの憧れであったプロ野球選手という夢をついにかなえたのです。入団時の昭和44年は大卒の初任給が3万円の時代。そんななか、星野さんの契約金は1800万円にも上りました。大金を手にした星野さんがまずしたこと。それは、敏子さんへの恩返し。苦しい家計を切りつめながら毎月毎月仕送りをしてくれた母に400万円を送り、さらに、残りをお世話になった人や、高校、大学への寄付などに使い、星野さんの手元にはほとんど残りませんでした。

「プロに入ってからは、ボールを送ってくれたり、バットを送ってくれたり、もうずっとですよね」
(倉敷商業高校野球部監督・矢吹さん)


昭和44年、星野さんは入団1年目から大車輪の活躍を見せチームの勝利に貢献しました。そして、プロ生活1年目を無事終えると、星野さんはすぐにあの女性にプロポーズしました。「もう決めた。お前に決めたから」というまさに星野流の言葉で。一方的にこう言われた扶沙子さんは、ただうなずくしかなかったと言います。そしてこの年、5年間の交際を経てふたりは結婚。よき伴侶を得た星野さんは、ひたすら野球に打ち込み、入団5年目の昭和49年、中日を20年ぶりの優勝に導いたのです。しかもこの年、星野さんはピッチャーにとって最大の栄誉である沢村賞を受賞。その後も燃える男・星野さんは、常に真っ向勝負の野球人生を歩んで行くのです。そんな星野さんを影で支えたのが妻の扶沙子さん。当時、野球が全てであり、星野さんは家では完全な亭主関白でした。その後、度重なるケガからも復帰し、マウンドに登り続けた星野さんでしたが、プロ入りから14年目を迎え、選手としての肉体は限界を超えていました。そして昭和58年、星野さんは遂にその選手生活に幕を閉じたのです。

「“燃える男”という素晴らしい形容詞を皆様に頂きまして、どんな世界に行っても、燃えて、燃えて、燃えまくりたいと思っております」
(星野さんの引退会見より)


すると、そんな星野さんの今後の生活を誰よりも案じたのが母・敏子さんでした。しかし、そんな敏子さんの心配をよそに、星野さんはスポーツキャスターとして引っ張りだこに。息子の活躍を母は、テレビにかじりついて見つめていたと言います。そして昭和62年、星野さんは再びユニホームに袖を通すことになったのです。当時、低迷を続けていた古巣・中日ドラゴンズの監督を引き受けたのです。しかし、監督就任当初は、星野さんの熱血ぶりが空回りし、選手たちの中には不満の声も少なくなかったといいます。

「ミーティングを聞いている時に、どれだけ厳しい事をやるのかと思って。これは俺はついていけないんじゃないかなと思った」
(宇野勝選手)


そんな両者の間をとりもったのが扶沙子夫人でした。名参謀として、中日・阪神と星野さんを支え続けた、島野育夫氏は扶沙子夫人についてこう語ります。

「監督以上に野球好きだったんじゃないですかね。必ず僕らが家にお邪魔した帰り際には、外まで見送ってくれまして、『島野さん、本当にわがままなパパだけど宜しくお願いします』って言ってね。そういう奥さんだったですよ」
(島野さん)


細かい気配りで星野さんを支え続けた扶沙子夫人。また、誰よりもドラゴンズの優勝を願っていた彼女は星野さんには内緒で、大事な試合の前日には近所の寺社、3箇所を巡っていたといいます。そんな扶沙子夫人の献身的な支えもあり、昭和63年、ついに星野さんは名古屋の夜空に舞ったのです。しかし、悲劇は突然訪れたのです。平成2年の夏、扶沙子夫人は体調不良を訴え、緊急入院。試合の後、急いで病院に駆けつけた星野さんは担当医から、妻が白血病であると告げられたのです。愕然とする星野さんに医師は、余命が2年ほどだろうと伝えます。わがままな自分に文句ひとつ言わずに尽くしてきてくれた妻。その最愛の妻の命があと2年と聞いた星野さんは、すぐに監督から退く決心をします。しかし、その責任感の強さが星野さんの決心に待ったをかけたのです。さらには、誰よりもチームを愛した妻のためにも星野さんは監督を続けながら、扶沙子夫人の看病にあたったのです。しかし、監督の激務をこなしながらの看病は現実的に不可能となり、平成3年、扶沙子夫人の病気のことは一切明かさず、自らの体調を理由に星野さんはドラゴンズ監督の座を退いたのです。

「私事ですが、これでドラゴンズのユニホームを今日限り脱ぎます。どうも5年間ありがとうございました。さようなら」
(星野さんの引退発表より)


それまで野球が全てであった男が、初めて野球以外のものを選択した瞬間でした。以来、星野さんは片時も扶沙子夫人のそばを離れず献身的な看病を続けました。星野さんの手厚い看護もあって、余命2年といわれた扶沙子さんの病状は奇跡的に回復へと向かいます。そして4年後、扶紗子夫人は星野さんにこう言ったのです。「私ね、やっぱりあなたのユニホーム姿が一番好き」と。妻の後押しを受けて、星野さんは再び中日の監督に復帰したのです。そして就任1年目はリーグ2位。来年こそは、と意気込む星野さんに冷たい現実が突き付けられました。それは、扶沙子夫人の病状の悪化でした。辛い病状にあっても扶沙子夫人は星野さんの前では決して辛い顔を見せなかったといいます。あえて笑顔をふりまき、つねににドラゴンズの優勝だけを心から願っていたのです。しかし平成9年1月31日、扶沙子夫人は天国へ旅立ちます。51歳でした。

「昭和44年から、名古屋で一緒に生活しました。やんちゃな私をあの手この手で、なだめながら、今思えば扶沙子の手のひらで、一所懸命がんばった気がします。私には直接申しませんけど、娘たちには『名古屋ドームでパパの胴上げを見たい。もう一度胴上げを見てから死にたいね』。そんな事を言っていたみたいです。私は病魔に負けたとは思いません。あんなにがんばった女房をほめてやりたい。すばらしい女房でした。妻でした。すばらしい母親でした。すばらしい娘たちを教育してくれました。自慢できます。さみしいです。悲しいです。くやしいです」
(告別式より)


その2年後、7年間に及ぶ闘病生活を支えた星野さんは、夫人の夢を実現させ宙に舞ったのです。そのポケットには、扶沙子夫人の写真を忍ばせていました。そして、くしくもその場所は扶沙子夫人と初めて出会った思い出の地…神宮球場でした。

「本当に選手をここまで信じてきてよかったなと、つくづく幸せな男だと思います。皆さんの約束を果たしました。ありがとう」
(中日ドラゴンズ優勝インタビューより)


平成13年の暮れ、星野さんはある大きな決断をします。「阪神タイガース」の監督就任です。それは、星野さんが野球をはじめるきっかけを作ったチーム。あの縦ジマのユニホームに袖を通すことになったのです。すると星野さんは、それまで4年連続最下位に沈んでいたチームを、就任1年目から4位に浮上させました。そして迎えたシーズン2年目、星野阪神は開幕直後から、首位の座をキープし快進撃を続けていました。日本一の星野ファンでもある母・敏子さんは、試合を観戦する際に、正座して観戦するというルールを作っていました。息子が戦っているときに姿勢を正すのは当たり前、敏子さんにはそんな思いがあったのです。ところが、優勝までのマジック30が点灯したその日、敏子さんは体調を崩し入院。入院生活で唯一の楽しみは阪神が勝った翌日のスポーツ新聞を見ることでした。しかし、優勝を目前にした阪神は9月に入り足踏みが続きます。一方、敏子さんは衰弱が進み、意識が遠のく日が続くようになります。大事な試合の合間を縫って、星野さんは母の元を訪れました。これまで自分の支えになってくれた母。こうして今、野球をやれているのもそんな母のお陰である。母の為にも、もう一度だけ胴上げを見せてやりたい。星野さんは一刻も早く優勝を手にしようと、奮闘を続けます。しかしそれは、母の病状を誰にも告げられない孤独な戦いでもありました。そして迎えた9月15日、星野さんの悲願は達成。その瞬間、甲子園球場は18年ぶりに大歓声に包まれました。

「ああ、しんどかった。やはりこの縦ジマで甲子園でみんなの前で胴上げされたかった」
(優勝監督インタビューより)


しかし、星野さんがこの胴上げを一番見せたかったファンこそ、母・敏子さんだったはずです。実は、この歓喜の中、星野さんは人知れず悲しみを押し殺していたのです。優勝を決めるわずか2日前の9月13日、最愛の母・敏子さんは、すでに永遠の眠りについていたのです。星野さんはそのことを誰にも明かすことなく試合に臨んでいたのです。試合を終えた星野さんは、ひとり通夜に駆けつけ、母の前でこうつぶやいたといいます。「どうして優勝まで待っててくれなかったんや」と。甲子園の大歓声は、その優勝を誰よりも願っていた敏子さんの元に届いたに違いありません。まさに誰よりも野球人としての誇りと気概を兼ね備えた“燃える闘将”星野仙一。そしてそんな男を陰ながら支え続けてきた母と妻。ふたりの女性の死を乗り越えて、いよいよ、星野ジャパンが始動しました。昨日、北京オリンピック出場をかけたアジア最終予選の最終候補が発表されました。

星野さんはファンからサインを求められると、よく「夢」という一文字を添えるといいます。母に夢を与えられ、妻のために夢を勝ち取ってきた、星野さん。そんな彼の次なる目標は北京オリンピックでの金メダルです。頑張れニッポン 頑張れ星野ジャパン!






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