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【シリーズ 秘められた伝説】 『ニッポンが生んだ元祖天才女芸人 ミヤコ蝶々〜女芸人ゆえの試練と不幸〜』
『ニッポンが生んだ元祖天才女芸人 ミヤコ蝶々〜女芸人ゆえの試練と不幸〜』
最近では、男性同様に活躍の場を広げ、人気も博している女性芸人たち。今では、すっかり市民権を得ていますが、そこまでの道筋を作ったのは、あるひとりの女性の存在があったからにほかなりません。それが、元祖・女芸人と呼ばれるミヤコ蝶々さんです。彼女の激動の人生は、これまで数多くドラマや舞台化され、いずれも大反響を呼んできました。一体、ミヤコ蝶々さんの人生の何がそこまで人を惹きつけるのでしょうか。芸歴73年という芸人魂、そして、試練と不幸に彩られた激動の人生に迫ります!。

ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の一 大抜擢ゆえのいじめ

1920年7月6日。ミヤコ蝶々、本名、日向鈴子さんは東京・小伝馬町で家具店を営む裕福な家庭に長女として生まれます。しかし、蝶々さんが4歳のとき、父親が若い芸者と駆け落ちし神戸へと移り住むことに。当時の神戸は演芸が盛んな町。特に漫才が流行っていて、芸能好きだった父は毎日のように蝶々さんを連れて寄席通いをし、あげくのはてに、「ほな、うちも一座を持とうやないか! 座長は鈴子や!」と、当時まだ7歳だった蝶々さんを座長に据え、旅回りの「都家蝶々一座」を結成したのです。この頃は世界的な大不況のあおりで失業者が街にあふれ、日本中が笑いに救いを求めていた時代。地方の人々にとっての娯楽は、芝居小屋にやってくる劇団だけだったため、蝶々一座も各地の芝居小屋から引っ張りだこになったのです。 1942年、時は第二次世界大戦の真っ只中。一座の巡業生活が続くなか、ある日突然、思わぬ知らせが蝶々さんの元に飛び込んできたのです。 それは、大阪の吉本興業からの誘いでした。 地方まわりの芸人にとって吉本の舞台は、雲の上の憧れの舞台。蝶々さん22歳、夢の舞台への挑戦が始まるのですが、しかし、そこにも思わぬ試練が待ち受けていたのです。 蝶々さんの実力を高く評価していた吉本側は、当時人気があったミスワカナの二代目として彼女を売り出すために、公演の最後を飾る大看板のひとつ前に登場される「モタレ」を任せたのです。本来は、大ベテランが務めるこの「モタレ」への大抜擢。当然、周りの芸人たちからは大きな反感を買い、なかには 「あんなヤツの後はできん」と、「トリ」を務める大御所芸人が出演を拒否するといったことも。さらには、出番が遅いために、そのネタを自分より前の出番の人にやられてしまうことも、頻繁に起こるようになったのです。 困り果てた蝶々さんは、吉本側に「もう少し出番早めてもらえませんやろか?」と、訴えたそうです。そのときの心情を蝶々さんは、後にこう記しています。

「会社からひいきにされる分、余計、芸人仲間からは辛く当たられ、涙を流したことも一度や二度ではなかった」
(日本経済新聞に連載した「笑いと涙の女の一生」より)



ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の二 不倫、自殺未遂、そして無一文

そんな苦悩し続ける蝶々さんを、影で見守ってくれていた人物が、当時、人気落語家で後に漫才の世界に転進することになる三遊亭柳枝師匠でした。出演拒否で穴が開いた「トリ」を、いつも埋めてくれた柳枝師匠。さらに、芸人仲間から疎外されていた蝶々さんを、食事に誘うなどして励ましてくれたのです。 こうした優しさに、いつしか蝶々さんは、17歳も年上で漫才界の大御所である柳枝師匠に心ひかれるようになるのです。柳枝師匠は妻子を持つ身でしたが、それでも蝶々さんは思いを抑えることができず、いつしかふたりの関係は不倫の恋に発展。誰にも言わず密会を重ねていたものの、ついに父親、会社、そして、師匠の妻にもその関係を知られてしまいます。そんなある日。蝶々さんは、師匠の妻から「あんたか、蝶々いうのは。まぁ、たいした女やない。あんたも若いんや、よう考えなあかんで」と、厳しい言葉を投げられます。こうして、次第に追い詰められていったふたりは、睡眠薬を服用しての心中を決意。しかし、結局、「死ぬのはやめとこ。お前もまだ若い。堂々と夫婦になろ」と正式に結婚することを誓うのです。妻と別れた柳枝師匠は、1942年、22歳の蝶々さんと結婚。しかし、念願かなって新婚生活が始まったのもつかの間、 蝶々さんは夫から、「実は、わしにはあんた以外に3人の女がいんねん」ととんでもない宣告を受けるのです。驚きを隠せない蝶々さんに柳枝師匠は、「でも、ちゃんと手を切ろうと思ってんねん。せやけど、そのためには金が…」と女性との手切れ金の工面を要求。ふたりは、方々から借りられるだけの金を借りたものの、それでも足りずに、家中のものを質に入れてどうにか工面したのです。幸せな新婚生活も、一瞬にしてどん底へと突き落とされてしまいました。

ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の三 別れ、それでも舞台では…

1944年(昭和19年)、太平洋戦争が激化し、翌1945年(昭和20年)3月には、関西大空襲によって、大阪の街は一面焼け野原になってしまいます。劇場は跡形もなく焼かれ、壊滅状態となったため、吉本も一時休業を余儀なくされます。蝶々さんは、柳枝師匠とともに劇団を作り、地方の劇場回りをすることに。国民みんなが娯楽に餓えていたこともあり、ふたりの劇団は各地で大盛況。経営も順調で、蝶々さんはひと時の幸せな生活をかみしめていました。しかし、蝶々さんには大きな悩みがありました。それはいつまでたっても治らない柳枝師匠の女癖の悪さ。弟子として入ってくる若い女性に、片っ端から手を出していったのです。そんなある日。蝶々さんは夜遅くまで楽屋で舞台の台本を書き、クタクタになって家に帰ると、そこには、若い女性と布団にくるまっている柳枝師匠の姿が。 大喧嘩の末、劇団員が止めるのも聞かず、当時、蝶々さんの世話役を勤めていた若手の団員・吉村朝治さんとともに、一座を飛び出したのです。しかし、この時、蝶々さんは本気で別れる気などなかったのです。夫は、すぐにでも探しに来てくれるだろう。そうしたら黙って許してあげよう。そう思っていたものの、いつまでたっても夫は現れません。彼女の脳裏に不安がよぎり、気づけば彼女は世話役の弟子にしがみついていました。結局、翌日の夕方、彼女たちの居所を探し当てた柳枝師匠が迎えに来て、「みんな俺が悪かった。何もかも水に流して帰ろう」と謝罪。しかし、蝶々さんは、夫の胸に顔を埋めて泣くと、「あかん、もう帰られへん」とつぶやいたのです。実は、既に蝶々さんは、世話役の弟子と男女の関係になってしまっていたのです。こうして、夫に未練を残しながらも、蝶々さんは足掛け6年にも及ぶ夫婦生活に終止符を打ったのです。さらに、辛いことに契約が残っていたため、舞台の上では、それまで通り柳枝師匠と芝居を続けなければならなかったのです。それは、好き合いながら別れる二人が抱き合って泣くという内容。「この時ほど、芸人って、なんと辛いもんやろうと思ったことはない」と、後に蝶々さんは語っています。


ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の四 麻薬中毒の苦しみ

柳枝師匠と別れ、劇団も辞め、仕事も無くなり、残ったのはまだまだ芸人としては半人前の弟子であり夫の吉村朝治さんだけ…。そんな先の見通しもつかない状態に思い悩む日々が続き、蝶々さんはあろうことか、当時でいう「ヒロポン」、つまり、覚せい剤を心の逃げ場にしてしまうのです。実は、1947年(昭和22年)頃は、「ヒロポン」は疲労回復薬として日本中どこの薬局でも販売され、芸能人や受験生などが気軽に使用していたものだったのです。最初は抵抗のあった蝶々さんですが、使用を続けるうち、あっという間に中毒状態に。そのうち、お金が底をつき、薬を買うことができなくなったとき、襲ってきたのが強烈な禁断症状でした。しかし、そんな蝶々さんを見捨てず、献身的に支えたのが、夫・吉村朝治さんでした。こんなにも自分のことを思ってくれている吉村さんのためにも、一刻も早くこの地獄から抜け出さなければと心に誓い、病院に入院することを決意。禁断症状に襲われながらも、治療に耐え、1ヵ月で退院することができたのです。この事件を境に、蝶々さんは夫である朝治さんを相方とし、その名を、「上方トンボ」と命名。夫婦コンビ「蝶々トンボ」を結成します。蝶々さん28歳のときのことです。


ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の五 親の死に目にも会えない芸人の悲しみ

1948年(昭和23年)の蝶々さん退院以来、地道な活動を続けてきた「蝶々トンボ」は、実力も付き、徐々に人気も出始めます。ちょうどその頃、1951年(昭和26年)に、大阪に毎日放送、朝日放送と、初の民間放送局が誕生します。そんななか、1954年(昭和29年)に朝日放送で始まったのが「漫才学校」です。蝶々さんは校長先生に、夫の吉村さんは用務員に、人気漫才師(蝶々さんと同い年の森光子さんの姿もありました)が生徒に扮して登場するというこの番組。毎回、行われる映画館での公開録音は常に満員で、蝶々さんたちは一躍人気者となっていったのです。ちょうどこの頃、夫であり相方である吉村朝治さんは、それまでのトンボという芸名から、「南都雄二」に改名。再び新コンビ「蝶々雄二」が誕生します。そして、1955年(昭和30年)、伝説番組「夫婦善哉」がスタートしたのです。この番組は、まずラジオで8年間、その後テレビで12年間と、20年間も続いた長寿番組。毎回、「蝶々雄二」が素人の夫婦を招いて、その結婚生活を巧みに聞き出すと言う、現在の「新婚さんいらっしゃい!」につながる夫婦対談番組の先駆的存在だったのです。この番組のヒットで、「蝶々雄二」の人気も定着すると、この頃始まったテレビ番組に引っ張りだことなり、スケジュールはいつも満杯状態でした。そんななか、蝶々さんに思いがけない知らせが。父親が脳溢血で倒れ、意識不明の重体で、一刻を争う状態だというのです。しかし、蝶々さんはそんな父の側についていてあげることはできませんでした。その頃、彼女は、生放送ドラマに出演中だったからです。蝶々さんは一人の芸人として、悲しい顔など一切見せず、稽古に、本番に挑んだのです。危篤の知らせを聞き、本番終了後にすぐに病院に駆けつけましたが、目の前の父の顔にはすでに白い布が…。冷たくなった父にすがり、蝶々さんはいつまでも泣き続けました。蝶々さんの脳裏には、父親が口癖のように言っていた「芸人は舞台のためには、親の死に目にも会えないといわれている。それくらい責任感を持たなければ良い芸人にはなれないよ」と言う言葉が思い返されました。


ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の六 仮面夫婦の苦悩

1958年(昭和33年)、ふたりが出演するラジオ番組「夫婦善哉」の人気は絶頂で、「蝶々雄二」の知名度はうなぎ登り。お金にも余裕ができ、芸人として、女として、蝶々さんは幸せをかみ締めていました。しかし、そんな彼女にまたしても試練が訪れるのです。なんと、夫・南都雄二さんの愛人が身ごもったのです。またしても、夫の浮気が蝶々さんを苦しめることに。そして、まもなくふたりは、離婚を決意。蝶々さん、二度目の離婚です。しかし、離婚後も人気芸人としての辛い現実が待ち受けていました。夫婦で司会を務め、相変わらず好調の「夫婦善哉」の人気を維持するため、ふたりの離婚の事実は伏せられていたのです。そして、1963年(昭和38年)には、「夫婦善哉」は、テレビでも放送が開始されたのです。皮肉にも、年間平均視聴率34. 3%という驚異的な記録まではじき出す超人気番組となったのです。離婚し、すでに気持ちの離れた相手とも続けなければならない共演。しかも、そんな相手と笑いを商売にする辛さ。蝶々さんは、心のなかでそんな自身の運命を呪ったと言います。別れたことを明らかにしたのは、やはり「夫婦善哉」のなかでしたが、周知の事実だったため、さして大きな話題にはなりませんでした。


ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の七 相方の死

人気絶頂を博した蝶々さんは、1969年(昭和44年)には、映画界にも進出。山田洋次監督の代表作「男はつらいよ」の第2作に、寅さんの母親役で登場します。まさに、芸人として人生の絶頂を味わっていました。そんな彼女を、またしても、悲劇が襲います。相方の雄二さんが病に倒れたのです。すでに後妻に逃げられ、身寄りもない雄二さんの面倒を見続けたのは、蝶々さんでした。一度は自分を裏切った夫。しかし蝶々さんは、暇をみつけては病院に通い、一緒に病院食を食べ、歩けなくなった雄二さんの車椅子を押すなど、闘病生活を必死に支え続けたのです。しかし、その甲斐むなしく、1973年(昭和48年)、南都雄二さんは、48歳という若さでこの世を去ったのです。その葬儀の日。蝶々さんは、「友人代表」として雄二さんを見送りました。「親子でも、夫婦でも、兄弟でもない私と雄二さんが、愛情をも超えた深い絆で結ばれていたことは間違いない」と。


ミヤコ蝶々 女芸人ゆえの試練と不幸 其の八 女芸人の最期

その後、1974年(昭和49年)に、蝶々さんは自らの自伝「女ひとり」を舞台化。脚本、演出、主役と一人3役をこなすこの舞台を、毎年最低1本ずつ、25年間にわたって続けたのです。特に、蝶々さんのホームグラウンドであった大阪・道頓堀の中座においては、 連続21年間、女座長として定期公演を続けたのです。テレビや舞台では強気な発言と辛口なコメントで知られていた蝶々さんですが、健康面では、あまり恵まれていませんでした。 実は、片方の腎臓が生まれつき動いていなかったのです。強気な蝶々さんも歳には勝てず、70歳を過ぎた頃から入退院を繰り返すように。それでも舞台はもちろん、稽古でも病弱な様子は一切見せず、変わらぬ厳しい指導を続けていきます。幕が下りると楽屋で倒れこみ、車椅子がなければ移動すらできない。晩年の蝶々さんは、病気と闘い続けていたのです。当時、雑誌のインタビューで蝶々さんはこう語っています。「芸人は同情で生きていけるもんと違う。根性です。気力です。わたしがおとなしゅうなったら気持ち悪いでっせ。私はきれいさも何も無い。私はハートの役者です」と。戦後の貧しい時代に人々に喜劇を通じて生きるエネルギーを与え、女芸人ならではの不幸と試練を背負いつつ、常に前向きに芸の道を歩んだミヤコ蝶々さん。そして、2000年10月12日、ついにその人生に幕が下ります。享年80歳で、芸歴73年。まさに笑いと涙の人生でした。蝶々さんは、生前サインの色紙によくこう記していました。

「どんな悲しい涙でも いつかは乾くときがくる」







笑福亭鶴瓶さん
初めてお会いしたのは、26、27歳のときですね。蝶々先生のコンサートにゲストというか、対談相手として呼ばれたんですよ。初めてですから「どう呼びましょか?」と聞いたら、「『先生』言ったらあかんで!」って。で、僕、「蝶々ちゃん!」って言ったんですよ。そんな大先輩に、そんなこと言うのを面白いと思ったんでしょうね、僕も。向こうも喜んでくれはってね。僕は、南都雄二さんが好きで、もちろん蝶々先生も好きですけど。まぁ、(蝶々さんは)上手すぎますからね。「夫婦善哉」での、ふたりのあの雰囲気がめっちゃ好きだったんですよ。あのアドリブ感ですよ。あの年であのアドリブ感ってすごいですよ。なんにも台本無くてもフーッってやりますからね。僕、カラみましたけど、あの当時ねアドリブで誰かとカラむっていうのはありえないことでしょ? もう、そら、(藤山)寛美先生と蝶々先生って言うのは双璧ですよね。


森田健作さん
蝶々先生の舞台に出させていただいたときに、「健作、お前は好きなようにな。それをうまく演出するのはあたしなんだから」と言われたんですよ。それで、そのようにやったら、「お前みたいなのが、俳優としているだけでも、本当に不思議だ」って。「お前なんか、俳優やっちゃいかん」とよく言われましたね。それから、「芸っていうのは、教わるもんじゃないぞ。お前がな、見て盗め」とも言われましたね。それで後になって、私があるところで公演をやってるとき、蝶々先生が来てくれたんですよ。そしたら、「どっかで聞いた事あるしゃべり方だと思ったら、お前あたしの芸を盗んだな!」って。喜んでくれていたんだと思います。


宮川花子さん
ミヤコ蝶々さんは、うまく時を生きれた人だなと思います。よう、がんばりはったと思います。蝶々さんと同世代の女性では、森光子さんも健在でいてくれはる、これでも素晴らしいことだと思いますけど、あの時代の、しかも厳しい芸能界を、よう女性でトップまでいかれはったなと。まして、劇団員の方を引っ張っていって。劇団を持ち、本を書き、さまざまなものの主役に選ばれることもある。そのすべてを担えたのは、本当にミヤコ蝶々ひとりだったと言っても過言ではないと思いますね。



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