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SmaSTATION-6 特別緊急企画 美輪明宏特集
その圧倒的な存在感と、芸術に対する鋭い審美眼でも知られ、俳優、歌手、作家と、さまざまなジャンルで活躍されている美輪明宏さん。しかし、その実態は…? ヴェールに包まれた素顔に、香取さんが迫ります。

幼名を丸山臣吾(しんご)と言う美輪明宏さんは、1935年、長崎のカフェや料亭を営む裕福な家庭に生まれました。しかし、そんな豊かな生活を謳歌するまもなく、日本は忌まわしきあの光景の前に立たされる事になります。1945年、美輪さん10歳のとき、長崎に原爆が投下されたのです。奇跡的に一命を取り留めたものの、多くの友人が被爆。親族を亡くすとともに、直後の風景は美輪に強烈な記憶を植え付けました。それからまもなく美輪さんは、その後の人生を決めることとなるある1本の映画と出合います。「僕の父さん」です。古川ロッパ・加賀美一郎が披露するボーイソプラノの美しい歌声に衝撃を受け、早速、翌日から歌のレッスンを始めたのです。終戦後は本格的にコンサート歌手を目指し、東京の国立音楽大学附属高校に通うようになります。ところが、勝手に学校を中退したことで家族ともめ、ホームレスに近い生活を送ることに。

そんななか、美輪さんは、わずか17歳にして、日本のシャンソンの殿堂である銀座のシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」と専属契約。「丸山明宏」の名で歌手生活を本格的にスタートさせます。このとき、観客の入りの悪かった店の宣伝のため、髪の毛から靴まで全身紫色に染め上げて銀座を歌い歩き、広告塔となったのです。その姿が、「銀座に綺麗な紫のお化けが出る」と話題になりました。こうして銀巴里で人気を集め、22歳のとき「メケ・メケ」でレコードデビュー。「神武以来の美少年」「シスターボーイ」と各方面で取り上げられます。オペラ「フィガロの結婚」に登場する小姓の服装を参考にしたという、派手な衣装、そして奇抜な言動とともに、瞬く間に一世を風靡しました。

そんな美輪さんが29歳のとき、大きな転機が訪れます。小学校時代の同級生とその母親をモデルに作った、ある歌を発表したのです。それが、「ヨイトマケの唄」です。子が亡き母を思う気持ちを歌ったこの歌を、美輪さんは、トレードマークであった派手な衣装やメイクを捨て、絣の着物か、白いワイシャツ1枚という、地味ないでたちで唄いました。突然のイメージチェンジに、ファンは戸惑い、最初はまったく話題になりませんでした。しかし、30歳の時にテレビ朝日(当時NET)の「木島則夫のモーニングショー」で披露したのをきっかけに大ブレイク。当時、歌手が自分で歌を作り歌う、という前例はなく、歌い手、作り手ははっきり分かれていたため、「生意気だ」などといった批判も多数あったそうです。しかし、それにもめげず、自作の歌を披露した美輪さん。実は、美輪さんこそが、日本で初めてのシンガーソング・ライターなのです。

その後、役者としても活躍の場を広げていきます。1967年、大ヒットし、社会現象にまでなったのが、寺山修司演出の舞台「毛皮のマリー」、そして三島由紀夫原作の映画「黒蜥蜴」です。この映画の監督はあの深作欣二が務め、ニューヨークなど海外でも公開され高い評価を得ました。「ニューヨークタイムズ」は「丸山明宏は妖婦を演じているというより、壊れた理想そのものを体現している。『黒蜥蜴』を見た人は誰でも言葉を失うだろう」とその演技を高く評価しました。そして1971年、36歳のときに美輪明宏と改名。1984、87年にはシャンソンの本場、パリでもリサイタルを行い、高い評価を得ます。「ル・モンド」など多くの地元紙が1面を割いて取り上げ、「美輪の舞台は常に気高さとドラマ性が存在している」「美輪の歌うシャンソンはまさに無敵」と絶賛されたのです。日本人音楽家がパリでこれだけの評価を得たのは、あの小澤征爾氏以来だったといいます。以来、現在まで美輪さんは、舞台やテレビなど実に幅広い活躍を続けているのです。

カトリノギモン:29歳のころ、美輪さんはどんなことを考えていたんですか?

香取:いまボク29歳なんですけど、「ヨイトマケの唄」を歌っていた29歳のころの美輪さんは、どんなことを考え、生きていたのかのかな、と…。
美輪:考える、というより、生きるのに精一杯だったわね。というのはね、とにかく21歳か22歳で“ビジュアル系”を考え出して…あれ、江戸時代のお小姓を再現したわけ。
香取:あのアイデアは自分発なんですか?
美輪:そう。お店がつぶれそうになったわけ。「銀巴里」がね。で、19歳の若さで運営任されてたわけ。それで、人気バンドが引っこ抜かれてガラガラになったの。で、「何とかしなきゃ!」って思ってたら、私、進駐軍のキャンプ回りしてジャズを歌ってたときに、アメリカのファンの人たちが雑誌を持ってきてくれたらね、ジャン=ポール・サルトンとかボーヴォワールだとか、そういった哲学者のアジトのサンジェルマン・デュ・プレの写真があったの。その中に、もの凄い面白い格好した人がいっぱい…いまで言ったらパンクですよね。「これを日本でやろう!」って思って。ちょうど私の周りに、ノーベル賞とった川端康成さんとか三島由紀夫さん、寺山修司さんとかいろんな人がいたから、じゃあどういう格好しようかな、って図書館行って調べたら、室町時代の観阿弥とか世阿弥とかそういったころのお小姓の歴史…柳沢吉保という御側用人が綱吉の時代にいて、全国から美少年集めて仕込んで…。で、振袖で、男仕立てで、女物の柄、っていうのがあって、「それを現代的に移したらどうだろう?」って思って、それでああいうことを…男でもない、女でもない、っていう格好を編み出したわけ。そして、軍国主義が残ってたでしょ。日本は、明治時代までは…ゴーギャンもロートレックもモネもマネも、天才たちが日本に来たがったみたいに、日本の美術とか絵とかそういうジャポニズムっていうのがヨーロッパで流行ったわけ。尊敬されてたのよ。だから、アインシュタインもエジソンもジャン・コクトーもチャップリンも、日本に来てたの。それくらい尊敬されたのが、いまじゃ世界中で「金だけ持ったバカばかりの国」って言われてるでしょ。というのは、文化を失くしちゃったの。戦時中に、文化は軟弱である、国策に反する。美術でも、美しい女の人の絵を描いてるとね、「なんだ!戦争の絵以外描いちゃならない」。流行歌もクラシック・ジャズ・シャンソン、全部禁止。信じられる?色のものを着ていたら、ポリスに連れて行かれたのよ。文化をメチャクチャにしちゃったのね、軍国主義は。千数百年続いた日本の文化をよ。
香取:美輪さんの最初のアイデアは、日本の文化から始まってるんですね。
美輪:そうそう。そこから始まったわけ。私は、小さい頃から日本画を描いていたから、美術家になろうと思ってたわけ。で、原爆に遭ったでしょ、長崎で。私はちょうど別のところにいて助かったのね。それがずっと残ってて…。終戦後、すぐに行った学校がカトリックの学校だったの。そして、教会がプロテスタントだったの。で、家が仏教でしょ。ミックスなの。それで、フランス語が必修科目に入ってたの、カトリックの学校で。そこでフランス語を覚えて、それでシャンソンを歌うようになったの。
香取:シャンソンの始まりはフランス語なんですか。
美輪:で、隣が映画館で前が楽器屋さんで、クラシック・ジャズ・シャンソン・タンゴ…って全部聴けたのよ。隣では、グレタ・ガルボだとかマレーネ・デートリッヒだとかの昔のフランス映画、アメリカ映画をやってたから、全部見て育ったの。
香取:いやあ、いまのこの短い間でも、大下さんが最初に言った「美輪さんが何者なのか?」っていうところのクエスチョンがひとつずつひとつずつクリアされていく感じで、凄く楽しいです。
美輪:しかも長崎は、日本中が鎖国で外国との取引を一切やらなかった時代に、中国・朝鮮・ポルトガル・オランダとかと交流があったでしょ。そういった人たちが先祖にいたから、人種差別がないのよ。
香取:もうホントに最初の最初から、いろんな文化だったり、人種だったり、いろんなものがミックスされて美輪さんの中につまってるんですね。
美輪:そう。だから、東京に来て初めて人種差別があるのを知って、「えーっ、東京って何て遅れてるの?」って思ったわけ。野蛮だな、と。だから、そういうものがあって、もう一度、日本の良さを復活させようと思ったわけ。原敬っていう暗殺された首相がいて、この人が「日本は鉄も石油もニッケルも食料も何にもない。あるのは人的資源だけだ」って。だから、文化で、アートで生きていかなければいけない、って言ってたのよ。それを軍部が殺しちゃったの。そのツケがいま回ってきているのよ。
香取:う〜ん…もう、深い!ひとつ聞いたら、100、200…。
美輪:ごめんなさい(笑)。
香取:いえ、でもその中にクリアされていくものが…。「美輪明宏とは何者だ?」っていうのが、ちょっとずつちょっとずつわかっていって。まだまだあるんですよ、質問が…。

カトリノギモン:美輪さんはどうして女性の格好をするようになったの?

香取:どうして女性の格好をするのか、どうしてするようになったのか…。
美輪:だから、“ビジュアル系”のところから始まって、男でもない、女でもない、っていうのをやってたんだけど、そうしたら、興行の手違いで炭鉱の劇場に行ったわけ。ちょうど、石炭から石油に替わる途中だったの。石炭産業がダメになって大不況で…。そこへ行ったわけ。そうしたら、私は派手な格好で踊ったり歌ったりしてるのが恥ずかしくなっちゃったの。「この人たちはお金も着るものも住むところもないのに、歌ぐらいこの人たちの歌があってもいいのに。この人たちの歌はないのか」と。海外にはワークソングとかいっぱいあるのに日本にはないのよ。「じゃあ、私が作ればいい」と思って作詞・作曲して、戦争反対の歌とか、差別撤廃の歌とか、貧しいことへのいじめに耐える歌とかを作って…。それには、メーキャップとか宝石とか毛皮とか邪魔でしょ。だから素顔で、普通のワイシャツで歌うようになったの。そしたら、「商品価値が無い」っていうことで仕事を干されちゃったの。「銀巴里」の収入だけだったの。そのときに「木島則夫モーニングショー」っていう日本で最初のバラエティーショーができたんですよ。そこの星野さんっていう素晴らしいディレクターの方が私のコンサートに来て、「素晴らしい歌だから是非歌ってくれ」って来て、テレビで歌ったら全国から2万通のハガキが来たの。で、異例のアンコールを1週間後にここでやったの。そうしたら、今度は家の床が抜けそうなくらいの手紙の山。そして、やっとマスコミが騒ぎ出して再浮上したの。
香取:1回普通の着物で歌を出して、それからしばらくお仕事がなく、ここで復活したときはもうスカートだったんですか?
美輪:そのときはちゃんとボーイッシュな格好してたわけ。それで、ブームになって売れてたわけ。
香取:シンガーソングライターの元祖だったんですね。
美輪:ビジュアル系の元祖をやって、シンガーソングライターの元祖をやって、「ヨイトマケの唄」が当たって…。そしたら、寺山修司がニューヨークから手紙をよこしたの。「あなたのためにお芝居を書いたからやってみないか?」って。で、日本にはアンダーグラウンド・シアターっていうのがないから、「アングラをやりたい」って言うの。台本を読んだら面白かったんで、周りは全部反対したけどやったの。そうしたら、新宿が全部人で埋まるくらい集まって、大当たりだったの。今度は「毛皮のマリー」っていうのをやったら、これも大当たりで、入りきれなくて夜中にもう1回やったのよ。それくらいだったの。そしたら三島由紀夫さんがちょうど見に来てて、自分の「黒蜥蜴」をやってくれ、って言うわけ。初め、3回くらい断ったのね。でも、ある事情があってOKして…。そしたらこれが社会現象になって、今度は映画にしたい、っていうんで、「いい監督だったら…」っていうことになっていろんな有名な監督の名前が挙がったの。でも「違う。もっとはじけた新しい人がほしい」って言ったら、東映でひとりクビになった人がいる、っていうのよ。「呼んできて。話してみて、その監督にエスプリがあれば使えばいいじゃない?」なんていったら、アラゴンの詩をフランス語で知ってたのよ、その人が。「あれ、化けるかもしれない。彼でいこう」っていうことになったんだけど、それが深作欣二さんだったの。
香取:深作監督を、「あれは化けるかもしれない…」。
美輪:そして、「黒蜥蜴」がニューヨークでもパリでも大ヒットして、それが向こうでコンサートをやるきっかけになったの。
香取:いまの美輪さんのスタイルは、舞台というか、お芝居がきっかけでこのスタイルが決まった感じなんですね。
美輪:そうね。それからずーっとこの格好を…。イメージをあんまりクルクル変えるとがっかりするでしょ。

カトリノギモン:美輪さんの肩書きは?

香取:美輪さんの肩書きは何なのか…。ご自分では、「これだ!」っていうのがあるのかないのか…。
美輪:雑業家。
香取:雑業家?
美輪:何でも屋よ。お芝居も、自分で脚本書いてるでしょ。で、演出してるでしょ。で、照明プランでしょ。それから美術全部でしょ。衣装も、自分で仮縫いまで全部やるでしょ。音楽もやるでしょ。で、主演もやるでしょ。「椿姫」なんかも全部そうだし。で、あとは本を出して、身の上相談やって、そして、あなたの愛人もやって(笑)。
香取:ボクの愛人ですか!? いろんなことをやって、一番好きなものは何ですか?
美輪:全部ね。あのね、私が中学生のときに5級上の上級生がいたの。そのころはラジオしかなかったの。その人がね、「君ね、ラジオのどのダイヤルを回しても楽しめる人になりなさい」って言われたの。政治・経済・社会・音楽・美術・文化・スポーツすべて…。それが目標なの。だから日本舞踊も花柳と藤間でやって、三味線も習って、スペイン舞踊も習って…。コンセルヴァトワール出た人がいて、その人からフランス歌曲習って…。いろんなことやったわけ。それが全部、生きてるわけ。
香取:いまの段階で、やり残してることってありますか?
美輪:別にやり残したことはないし、再演が…。いつも切符が半年前に売り切れちゃうでしょ。見られない人がいっぱいいるのね。だから、再演再演で、5年先まで再演が決まってるわけ。5年先っていったら、76になってるわけよね。 香取:70歳…。美輪さん、先ほどのVTRの中で気になったことなんですけど、お名前の『美輪』さんっていうのが、美輪さんに凄くぴったりだと思うんですよ。どうして違う名前に変えたのか…。
美輪:姓名判断って日本にしかないんだけど、それですよ。ただ、丸山臣吾っていうのは生まれたときの名前で、小さい頃から家の周りにメイドさんがいろいろいたんだけど、その人たちが占いが好きだったのね。で、行くと「この子は不幸な子で…」っていうのが全部当たったわけ。「東京に出て、散々苦労した挙句、野垂れ死にする」って言われて、全部当たったわけ。死ぬ、っていうことだけが当たってないだけで。そのときの私の音楽学校の先生が、姓名判断を勧めてくれて、『丸山明宏』に替わったわけ。だけど、「これは一発勝負だよ。安定じゃないから浮き沈みが激しいから。だから、スターになったら安定の名前に変えなさい」って言われたの。だけど私は、「私の運が強いから名前のせいじゃない」って変えなかったの。そうしたらドーンって落ちたわけでしょ。でも替える気なかったの。下がったらまた上がるだろう、って思ったら、上がったの。そのときに…私、ブッディストだからいつもお経を上げるじゃない? そのときに『美』という字と車輪の『輪』という字が出てきたの。
香取:目の前に?
美輪:目の前に。「何だろうな?」って思って、「神様が名前を替えろ、っていうことかしら?」って思って、『丸山美輪』で調べたの。そうしたら良くなかったのよ。じゃあ、豊臣秀吉が羽柴秀吉から姓が替わっていったみたいに、姓を変えろってことかなって思って『美輪明宏』の字画を調べたら完全無欠だったの。パーフェクトだったの。だから、周りは全部反対したけど替えたの。そうしたらおかげさまで安定して…。
香取:どこかで調べたんじゃなく、最初のきっかけは『美』『輪』がボンときたわけですね。最初に下につけてみた、っていうのが凄くリアルで…。

カトリノギモン:美輪さんはお化けとかが見えるの?

香取:「オーラの泉」をボクはいつも見させてもらってるんですが、美輪さんはお化けとかが見えるんですか?
美輪:私は、見えないっていうことになってるの。それは江原(啓之)さんのお仕事なの。国分(太一)くんが一般視聴者の代表。
香取:太一くんは、凄い頑張ってるな、って思いながらいつも見てますもん。
美輪:賞もらったのよね、あれで。
香取:見えないということになってる、っていうことは、見えてる?
美輪:私はそういう本も出しているし、バレてるんだけど…。「オーラの泉」の最初のときに、私が触ると、その人のエネルギーがバーっといい方に変わるの。だから、私とお付き合いする人は、みんな運が良くなるの。
香取:「ハウル〜」の荒地の魔女は、触ったらドロって死んじゃうけど、実際は反対なんですね。
美輪:私はホワイト・マジックの方だから。ブラック・マジックじゃないの。
香取:江原さんとはどういう関係なんですか? もともとお友達なんですよね。いま改めて見ていると、「あれ?このふたりはどういう関係なんだっけ?」って。
美輪:前世で、修道院で仲間だったの。
香取:それを覚えてるんですか?
美輪:私がドイツに演奏旅行に行ったときに、シュツットガルトでね、「どこかで見たな、これ」って思ったら、私が生まれたところで宗教革命があって追われて、シュツットガルトを通ってスイスに逃げてるのよ。で、スイスで白十字団っていうのに入って、それからまたフランスに逃げてるの。そういう前世もあるんですよ。日本人だったり、女だったり、男だったり…いろんなものがあるの。前世の回数が多いから、いろんなことができるわけ。
香取:あの…いろんなところをクリアしたところで、さらに前世まで行って、またちょっとわからなくなってきました。深すぎて…。
美輪:いや、だからね、分析して探して、そういうことに一生懸命になればいいのよ。みんな探そうとしないんじゃない? 宇宙だって地球だって、知らないことはいっぱいあるでしょ。もっと謙虚になって貪欲になって…。常に、宇宙の向こうから地球を見るようにすればいいのよ。
香取:地球を、宇宙の向こうから見る?
美輪:そうすれば絶望しなくて済む。だって、人類はどんどんいい方向に来てるのよ。フランス革命以後、王侯貴族のものだった芸術が庶民のものになってきてる。で、アメリカの独立戦争につながって、今度は日本に飛び火して…20世紀くらい、王侯貴族とか独裁政権が倒れた世紀はないのよ。だから、グローバルに上からずっと見てればいいの。自分の人生もね。
香取:言葉が下手で、凄く単純な言い方になっちゃうんですけど、美輪さんは凄くプラス思考ですよね。
美輪:そうね。
香取:マイナスのときってあるんですか?
美輪:No!一度もない。私、ホームレスやってるときだってなかったですもの。
香取:どうしてそういう気持ちになれるんですか?ボクも、どちからと言えばプラスで生きていこうと思ってるんですけど、でもマイナスになっちゃうときもあるんですよ。
美輪:だから、自分を信じてればいいのよ。地球にはプラスとマイナスの法則があるの。何かを得れば何かを失う、何かを失えば何かを得られる。超一流の美しい人は、みんな不幸になるのよ。もの凄いリッチになってお屋敷建てた人は、それと同じ不幸が来るの。ずーっとデータを見てきたの。私、芸能界入ってことしで56年でしょ。それをずーっと見てたの。だから、羨ましがる必要ないのよ。

カトリノギモン:スマスマのコントは…

香取:これは「スマステ」ですけど、ちょっと違う「スマスマ」のコントは…。
美輪:「ニワさん」でしょ? 私がちょうど真裏で番組やってるじゃない?で、ちょっと見たら「ニワさん」が出てたのよ。私はあんなひどい食べ方しませんよ(笑)。だけど、私ね、あんまり面白くてね、自分の方の番組はVTRで撮って、こっちを見ちゃったのよ。
香取:ありがとうございます!ホント、すいません…。あの…OKですか?
美輪:だって、この間、「スマスマ」出たじゃない?「ビストロSMAP」に出させてもらったときに、すでにこれやって出てたでしょ。OKよ。あんなにキレイじゃないけどね(笑)。
香取:OK出ました!バリバリやります!!


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