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スマステーション特別企画 今、蘇える 俳優・松田優作伝説
年号が昭和から平成となったばかりの1989年。ハリウッド映画「ブラック・レイン」に出演を果たし、マイケル・ダグラス、アンディー・ガルシアといったハリウッドを代表する俳優陣を凌駕する存在感を見せつけ、ハリウッド関係者の度肝を抜いた日本人俳優がいました。松田優作です。
その生涯で、23本の映画と21本のテレビドラマに出演し、それぞれのキャラクターを完璧に演じることに一切の妥協を許さなかった俳優・松田優作。彼は一体、どのような人物だったのでしょうか。総力特集の第1弾です!
幼い頃から持つ続けた映画への強いあこがれと、反骨精神

1949年9月21日、松田優作は、山口県下関市の小さな港町に生まれました。母と兄2人との4人家族。優作は、自分の父親が誰であるのか、そしてどこにいるのかも知らずに幼い日々を過ごしました。さらに、二人の兄とも父親が違いました。貧しかったうえに、そんな家庭環境のせいもあり、優作少年はしばしば同級生からイジメられ、そのたび、悔しさから唇を噛み締めたことも。そんな優作少年は小学校の卒業文集にこう書き記しています。「偉大なことをしたい」と。少年時代の優作の楽しみは、とにかく本を読むこと。幼いながらに、小説をはじめ、ありとあらゆる本を読みあさりました。そして、もう一つが、家の近所にあった小さな映画館に行くことでした。そこでは当時の大スター、石原裕次郎や小林旭がスクリーンで大暴れしていました。後に優作はこう語っています。「映画館のあの感じが好きで、いつも見てるばかりじゃなく あの中に入ってみたいと(思っていた)」と。映画を見終わった後は、決まって友人と、ダンボールを使ってメガホンをつくり、板で作ったカチンコ、そしてライフル銃を片手に監督兼主演を繰り返し演じるという遊びに興じました。
そして、17歳となった優作に転機が訪れます。単身アメリカへと渡ることになったのです。それは、母・カネ子のすすめでした。かねがね、子供たちには立派な学歴を身につけてほしいと願っていた母は、当時、アメリカで暮らしていた妹に優作をアメリカに連れていってほしいと頼んだのです。自分の意思をまるで無視され、一方的にすすめられた渡米。しかし、優作はアメリカに渡ることを決心します。複雑な思いを抱いたままアメリカに渡った優作は、サンフランシスコのアパートで自炊をしながら高校に通いますが、英語がほとんど出来なかったため授業についていけませんでした。また、生活のためにしていたアルバイト先で待っていたのは、人種差別。有色人種の優作は、トイレひとつも白人とは別扱いされるなど、その生活はまさに惨めそのものでした。結局、優作は1年足らずで帰国することに。強烈な挫折感を引きずったまま、優作は、1970年、関東学院大学(文学部英文科)に入学します。俳優になりたいという夢を叶えるためには、東京の大学に行くのが近道と考えたからです。その頃の優作には、こんなエピソードがあります。19歳となった優作は、ある憧れの映画人の自宅前にやって来ると「なんでもします。門下生にしてください」と座り込みをはじめたというのです。その映画人こそが、黒澤明監督でした。優作は、黒澤監督の自宅前になんと3日間も座り続けました。しかし、黒澤監督は、その生涯で一人も弟子を取らなかったのです。結局、優作は黒澤監督に会うことさえできませんでした。この時、優作は友人に「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが、有名になっても、黒澤監督の映画だけには決して出んからな。いくら頼まれてもな」と語ったそうです。絶対に有名になってみせるという、幼い頃から抱き続けた反骨精神、それはこの時、より大きなものとなったのです。

「文学座」を経て、代表作「太陽にほえろ!」に出演が決定!

その後、本格的に役者を目指し、当時、桃井かおりや村野武憲らが所属していた「文学座」の門を叩くことに。
しかし、駆け出しの優作にはセリフのある役はなかなか付かず、稽古を繰り返すだけの毎日でした。そんな日々の中でも、優作は劇団仲間に「俺は、絶対売れる役者になってみせる。人が10やったらおれは20やる。(人が)20やったら40やる。そういうことでは、俺は人には負けないんだ」と話していたそうです。そんな文学座時代の優作に、ある転機が訪れます。時は1972年、70年安保が翳りを見せ学生運動が行き詰まりを見せた高度成長期の日本。そんな時代に始まったのが、「太陽にほえろ!」でした。石原裕次郎をボスとした刑事ドラマは、初回から高視聴率を獲得。そこには、当時爆発的な人気を誇っていたショーケンこと萩原健一も出演。ショーケンが演じた長髪を振り乱すマカロニ刑事は、当時の若者そのものでした。しかし、人気絶頂期に、ショーケンは自ら番組降板を決意。当時のプロデューサー・岡田晋吉氏はその後継者探しに追われることになります。岡田氏は様々な劇団を見て回り、文学座で1人の青年と出会うのです。それが当時23歳だった松田優作です。岡田氏は、その時の直感を信じ、新人刑事に優作の起用を決めましたが、無名の俳優にショーケンの後釜が務まるわけがないと、周囲からは反対の声も多く聞かれました。そこで、まずは、ショーケンと対峙する市役所の福祉課の青年役でテスト出演させました。すると、このシーンの撮影後、スタッフからは自然と拍手が沸き起こりました。完全にショーケンを食う演技で、その場にいた全員を納得させてしまったのです。殉職による降板を決めていたショーケンも例外ではなく、「これで安心して殉職できるよ」と言ったそうです。こうして今でも、優作の代名詞ともいえる「太陽に吠えろ!」の新人刑事、ジーパン刑事が誕生しました。その撮影初日。優作は猛烈な不安とプレッシャーを抱えていました。そこに、石原裕次郎という男の存在があったからです。幼少のころ、故郷、山口県下関の映画館でいつも見ていた銀幕のスターが目の前にいる。プレッシャーを感じないわけがありません。緊張のなか迎えた最初のシーンは、留置所でボスと初対面を果たす場面でした。台本には、「おはようございます」のセリフだけだったのですが、優作は、いきなりの大あくびで、ジーパン刑事の人物像を見せ付けたのです。この「ジーパン刑事登場」はショーケン殉職の回を凌ぐ、高視聴率を記録しました。こうして誕生したニューヒーローは、たちまちお茶の間に認められ、ファンレターは週に1万通、2ヶ月で10万通を超えるほどでした。このジーパン刑事で有名なのが、走るシーンです。185cmの長身に、長い手足。当時、最も美しく走る俳優と呼ばれました。しかし、誰もがうらやむ成功の裏には、苦悩もありました。連続ドラマの「太陽にほえろ!」は、毎週放送があるため、俳優のスケジュールはいつも一杯。そのため撮影も次から次へと進んでいきます。舞台俳優出身の優作にとって、自分の納得がいかない演技にOKがでてしまうこともあり、スタッフとの衝突が後を絶えなかったのです。そして、1974年8月。ジーパン刑事が殉職する回の撮影が始まりました。今では有名なあの殉職シーン、実は最後のセリフは優作の希望もあって空白のまま撮影されたのです。そこにはたった1行、「ジーパン撃たれる」とだけ書いてありました。「人間なんてかっこいいもんじゃない」。常々そう語っていた優作が考えた壮絶なるラストシーン。その撮影現場には、とてつもなく緊迫した空気が流れていたといいます。

「「太陽にほえろ!」の降板と、苦悩の数々、そして、村川透監督との運命的な出会い

「太陽にほえろ!」降板後、何本かの映画に出演した優作は、かつてアルバイト時代に出会い、兄貴と慕った原田芳雄と映画『竜馬暗殺』(1974年)で、初共演を果たします。坂本竜馬が暗殺されるまでの3日間を描いたこの作品で、竜馬を原田が演じ、その竜馬を襲う暗殺者役に石橋蓮司と優作、さらに桃井かおりも出演しました。当時の映画界は、斜陽の時代。しかし現場は、情熱をたぎらせる役者たちによるまさに格闘場だったそうです。優作は、原田との初めての2人での共演シーンで台本にあったセリフをまったく言わず、表情と動きだけで表現し原田を驚かせました。出演作も増え、着実に人気スターとなった優作は、1975年、再びテレビ界に登場します。「俺たちの勲章」です。文学座の後輩、中村雅俊と組んだこの作品は、人情味を前面に押し出した青春ドラマのような作りが持ち味の刑事もの。2人のはみだし刑事が活躍するというこのスタイルは後の『あぶない刑事』へと引き継がれていきます。ところが、このドラマの撮影中、ある事件が起こるのです。鹿児島ロケの打ち上げパーティー後、優作とある女性が言い合っているのを、女性がからまれていると勘違いした青年が、バット片手に優作に襲い掛かりもみ合いに…。そして、そのまま、青年はクリーニング店のガラス窓に突っ込み全治3ヶ月の重症を負ってしまったのです。優作は、その場で、ケガをさせてしまった非を認め、謝罪し示談も成立しましたが、どこからかこの話がマスコミに洩れてしまい、事件は明るみに出てしまいました。結局、1週間の拘留後釈放されましたが、マスコミは人気俳優の暴力事件と、こぞって紙面に取り上げ、結局、テレビ出演自粛、謹慎の身となったのです。謹慎生活が解けた優作に、復帰の話が来たのは映画界からでした。映画『暴力教室』では、暴走族が支配する学園に元ボクサーの新任教師役で登場。学園を建て直し悪を一掃するというストーリーでした。暴走族役に起用されたのは岩城滉一、舘ひろしらが所属していたグループ・クールスでした。スタッフはいつ、優作とクールスの面々がケンカを始めるかと、冷や冷やしながらの撮影だったそうです。しかし当の本人同士は、実に馬が合い、撮影後、優作の車をクールスが取り囲み先導して帰ったという逸話も残っています。
1977年、優作はブラウン管に戻ってきます。石原プロ製作「大都会PARTII」です。渡哲也と組んだこの作品では、演技の幅を広げた優作の姿に誰もが感嘆の声を上げたといいます。この作品で優作は、村川透監督と運命の出会いを果たすことになります。その後、アクションスターとしての地位を不動とする村川監督が手がけた映画“遊戯シリーズ”に立て続けに主演。村川監督の手腕は優作の演技を際立たせ、まさに不動のコンビと謳われたのです。1979年公開の『処刑遊戯』では、優作は常に撮影現場に顔を出し、監督に対してライティング、カメラアングルなどにも貪欲にアイデアをぶつけていたといいます。さらに、ハードなアクションシーンの撮影中に右ひざから骨が飛び出るほどの大ケガを負ったときも、「俺にかまうな」と撮影を続行。低迷する日本映画界にありながら優作は、常に前へ前へと突き進んだのです。この映画は、後に数々の作品でコンビを組んだ脚本家・丸山昇一と出会った作品でもあります。優作は、当時行きつけだった下北沢のバー「レディジェーン」に丸山を呼び出し、朝まで脚本を練りあったというエピソードもあります。

アクションスターというレッテルからの脱却を図った優作がとった超人的行動

村川、優作コンビが放った、アクションスター松田優作の真骨頂を堪能できる作品といえば大藪春彦原作のハードボイルド『蘇える金狼』。昼は普通のサラリーマン、しかし夜は金のためなら殺人も平気でこなすという2つの顔をもつ、朝倉哲也を演じ切りました。こうしてアクションスターとなった優作は、このころ、ある悩みを抱えていました。それは、アクションスターとしてのイメージがあまりにも強烈であること。「自分は俳優としてアクションスターを演じているだけで、決してアクションスターではない」。常に葛藤を続けていたといいます。そこで、アクション俳優のイメージを脱却しようと臨んだのが、映画『野獣死すべし』です。この作品で、優作は誰もが予想だにしない主人公像を作り上げようとしました。原作通りのアクション映画にすれば、ヒットは約束されていました。しかし、優作はここでも己の俳優生命をかけて、役作りに取り込んだのです。狂気に満ちた主人公を演じるため山篭りをし体重を10キロ減量、さらに奥歯を4本抜いたのです。また、高すぎる身長を嫌い、本気で足を10cm切ることも考えたといいます。それまで誰も見たことない優作の狂気に満ちた迫真の演技は、まさに圧巻です。こうしてアクションの概念を覆す、肉体だけに頼らないアクション映画が完成。役者・松田優作の代表作のひとつとなったのです。そしてこの頃、もうひとつの代表作がテレビ放映を開始します。「探偵物語」です。当初は、真のハードボイルド、ハンフリー・ボガードなどが演じたクールな探偵が設定されていましたが、優作はさまざまな小説や映画を参考に、自らのハードボイルドを作り上げたのです。優作にとって、ハードボイルドとは…、1匹狼の反体制であり、己の美意識に従って行動し、仲間を大切にする。そしてタフな肉体に男の優しさを持ち、「粋」であることでした。そうして作り上げたのが、工藤俊作という探偵でした。優作はこの「探偵物語」で独自のハートボイルドを打ちたて、心配された視聴率も初回25.3%を記録。優作が作り上げた探偵・工藤は、若者たちを虜にしました。スーツにカラーシャツ、サスペンダー、ソフト帽、丸渕のサングラス、酒はシェリー酒、乗り物はべスパ…。なかでも、当時の若者が最もまねしたのが「火力最大のライター」でした。ユーモアと人間味を兼ね備えた工藤俊作、その細部のこだわりを優作はとても大事にしていたといいます。
こうして自らの俳優として進むべき道を模索した優作は、その後、精神的葛藤を表現する役柄に多く挑戦するようになります。
その代表作が映画『家族ゲーム』です。当時新人であった森田芳光監督と組んだこの作品、脚本を読んだ優作が「足が5cm浮いた」というほど、森田監督の才能に惚れ込み引き受けたのです。森田と優作が織りなす独特な雰囲気をもつこの映画はニューヨークでも公開され、連日チケットは売り切れ、拍手喝采を浴びたのです。既成の枠には納まりきらず、狭い日本映画界では理解されないこともあった優作。「日本映画だってやれば出来る」と常々心に誓い、「映画の父」と憧れたアメリカの地で、それを証明した喜びは、優作にとって最高のものだったのです。その後、優作はさらに映画の世界へとのめり込んでいくのです…。


次回、「俳優・松田優作伝説 完結編」へつづく。

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