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経営者必見企画第2弾世界に誇る経営の神様・松下幸之助
日本の高度経済成長を支え、「経営の神様」と謳われた松下電器産業創始者・松下幸之助。その経営手腕は、ソニー創業者・盛田昭夫、伊藤忠商事会長・丹羽宇一郎、ソフトバンクの孫正義など国内はもとより、世界中の経済界のトップに君臨する様々な経営者に影響を与えています。松下幸之助とは、いったい、どのような人物だったのでしょうか。そこには、関西商人だからこそ持ち得た驚くべき経営哲学があったのです。
江戸時代に大きく発展した商売の町・大阪

日本の商都の中で、最も長い歴史を持つ大阪。秀吉の時代に、堺の商人たちが移ってきたのがその始まりです。江戸時代には堂島や中之島界隈に、全国から集められた年貢米を売りさばくために、諸大名や豪商たちの蔵屋敷が135軒も立ち並び、「天下の台所」と言われました。そんな大阪には諸国の商人が自由に集まり、更なる発展を遂げていきました。彼らは、近畿を中心に四国、山陽と、周辺の出身者が多く、遠隔の地から来た者が多かった江戸と比べて、お互い非常に地元意識が強くありました。そんな土地柄から、何代にもわたって大阪に根を張り、じっくりとそれぞれの商いを拡張していくことができたといわれています。江戸時代、酒と流行は上方から江戸へと流れていきました。江戸の商人は権力を利用し、権力のかげに隠れた御用商人的なものが多かったのに対して、大阪商人はまさに裸一貫、自分の努力と運だけでのし上がる、そんなタイプが多かったのです。
ちなみに当時、上方から流れてくるものを「くだり物」と言い貴重な、上等なものという意味で使われ、逆に江戸から上方へ流れていったものを、関西商人は「くだらないもの」と呼んだのです。これが「くだらない」の語源とも言われています。江戸時代の経済は「米」を中心に回っていました。当時すでに貨幣は存在したものの、幕府の税収入も武士の給料も全て米で支払われていました。その米の流通の中心にあったのが大阪。水の都と言われるほど水運ルートが発達していたため、なかでも多くの商人が集う淀屋橋付近には全国の米が集まるようになり、大阪米市場での取引きが全国の米相場の基準となっていたのです。実はこの米市で行われていた取引こそが、現在世界各国で展開される商品・証券・金融の先物取引の先駆けなのです。もっとも古いといわれるシカゴ商品取引所よりも実に100年も前に、日本の大阪でそれが行われていました。そんな大阪商人によって生み出されたこんな諺があります。「商いは牛のよだれなり」。商売は、牛のよだれがたれるときのように、細く長く、根気よく努力せよ。まさに日本経済の礎を作ったともいえる大阪・関西。そこからは、シャープ、任天堂、京セラ、日清食品、ダイハツなど、現在も多くの大企業が生れています。

自転車店での丁稚奉公で発揮された幸之助の商才

そんな大阪の隣、紀州和歌山県で、日清戦争の真っ只中にあった1894年、明治27年、松下幸之助は生を受けます。資産家の息子として生まれた幸之助でしたが、父の米相場での失敗をきっかけに、一家はバラバラに。幸之助は9才、現在の小学校4年生で、大阪へと丁稚奉公に出されることになります。丁稚に入ったのは、当時まだ新しく高価だった自転車販売する「五代商店」。本来であれば辛い丁稚奉公。しかし幸之助少年は、学ぶことがたくさんあり、まったく飽きることがなかったと言います。幸之助13歳のとき、商売の真髄を知るこんな出来事がありました。ある得意先で幸之助はこう言われたのです。「お前はなかなか熱心な子や。1割引いてくれたらこうたる」と。初めて自分の手で自転車を売ることができる、幸之助はそのことが嬉しくてたまらず、主人に伝えました。すると主人は、「1割も負けるわけにはいかん」とこれを拒否。しかし幸之助は、お客さんの喜ぶ顔が見たい一心で食い下がりました。「そういわんと、負けてあげて欲しい」と泣いて頼み込み主人をあきれさせたそうです。それを知った得意先は、5分引きで買うことを承諾。さらに、「お前がおる限り、自転車は五代商店から買おう」と約束してくれました。客のことを第一に考える、そしてその情熱は客の心さえ動かす。幸之助少年は幼くして、関西商人の真髄を知ったのです。そんな幸之助が「電気」にひかれるキッカケとなったのは、当時出始めたばかりの電車でした。幸之助は、大阪の街を行き交う電車を見るにつけ、「これからは電気の時代や。電気に関わる仕事をせなあかん」と、強く思うようになり、やがて電気の世界へと飛び込んでいくのです。現在の関西電力である、大阪電燈株式会社に採用された幸之助は、見習い工を経て、電気配線を直接行う担当者となります。最年少、16歳での昇格でした。住宅から劇場・工場での配線の仕事を担当するようになった幸之助は、電気のことをもっと知りたいという思いから電気科のある夜学へ通うことに。その甲斐あってか、22歳の若さで管理職である検査員に昇格。ここで幸之助は、後の人生を大きく左右する出来事に直面します。
検査員として各家庭を回った幸之助がまず気づいたのが、ソケットの故障の多さでした。そこで幸之助は「ソケットの改良」にたったひとりで乗り出したのです。検査員の仕事が終わってから、会社にひとり残り改良を続けて1年。 ついに試作品が完成します。それを上司に見せたところ、「こんなもんつくってんと、仕事だけしとったらええのや!」と、幸之助の提案は一蹴されてしまいます。しかし、幸之助は諦めませんでした。自分の作ったソケットは、必ず社会のためになるはず。そう信じた幸之助は、安定したサラリーマンの道を捨て、独立を決意するのです。23歳のときでした。そして、これが、松下電気器具製作所、現在の松下電器のはじまりです。

「人を大事に」の経営哲学が、会社の危機をも救う

幸之助の発明家としての非凡な才能は、この独立によって開花します。寝る間を惜しんで改良したソケットは、故障もなく長持ちすると評判を呼び瞬く間にヒット商品に。さらに、当時の一般家庭では、天井から吊るされた1箇所のソケットからしか電源を取ることができませんでした。そこに着目した幸之助は、電源の口を2つにした二股ソケットを発明。夜中、電気をつけながらでもアイロンがかけられると、日本中の主婦が大喜びしたといいます。この発明は人々の生活をガラリと変え、松下の名前を一気に広めることとなったのです。この幸之助の開発への貪欲な思いは、経営者になっても衰えることは無く、自転車用砲弾型ランプや反射型ストーブ、ナショナルランプなど、生涯に渡って96もの発明をしたのです。1929年、社員数も500人を超え、時代の先端を行く中小企業として注目を浴びていたこの頃、海の向こうのNYでは、ある大惨事が起こります。世界大恐慌です。後に、「ブラックマンデー」と呼ばれる、NYの株価大暴落をきっかけとしたこの惨事は、瞬く間に日本をも直撃し、30万人もの失業者を街のいたるところに出し、当時の大銀行・大企業までもが倒産。当然、その不況の波は松下にも襲い掛かりました。製品の売れ行きが極端に落ち込み、多くの商品を倉庫に抱えたのです。もはや従業員の解雇、削減しか松下の生き残る道はないと叫ぶ幹部達。しかし、幸之助はこう言い放ちます。「従業員は1人も解雇してはならぬ。給与も全額支給する。その代わり生産は即日半減させ、店員は休日返上で全力をあげ倉庫の品の販売に努力すべし」と。ほかの会社では従業員が次々と解雇され、倒産に追い込まれる企業も続出する中、この幸之助の決断に、松下の従業員たちは、会社への忠誠を誓い、より仕事に精を出しました。なんと、全社員が一軒一軒、訪問販売に回ったのです。その結果、2カ月で、満杯だった倉庫が空になり、松下は不況前の生産体制を取り戻したのです。後に、「経営の神様」と言わしめた松下幸之助彼の経営理念の一つとして、幸之助が最も大切にしたのが「従業員を信頼する」ことでした。一国の主が民を信じなければ、下のものは付いてこない。最悪の危機から生まれた幸之助の経営哲学は、その後、昭和の日本経済成長を支えたある大きな制度へと受け継がれていきます。それは、一旦就職すれば定年まで雇用を保証するという、終身雇用制度です。会社側からの保証を受けることで、社員は会社のため全身全霊で働く。こうして戦後日本は世界一の経済大国にまで成長していったのです。
幸之助がこの頃残した有名な言葉に、「事業は人なり」というものがあります。会社とは、商品よりもまずは従業員である人が何よりも重要であり、そしてそれが財産なのだと唱え続けたのです。彼のその信念は、思わぬところでも、人の心を動かすことになります。戦後、GHQ統制下、幸之助の下に「旧軍需会社の役員としての公職追放」という一通の知らせが届きます。実は幸之助は戦時中、軍の強い要請により木造船、木製飛行機を製作していたため、GHQによって社長の地位を追放されてしまったのです。しかし、その幸之助を救ったのは、幸之助が信じ続けた従業員たちでした。「松下幸之助はわが社のみならず、日本の未来のためにもなくてはならない存在である」。そうGHQに訴えたのは、経営者と対立する立場にあるはずの労働組合でした。1万5000通にものぼる署名を集め、GHQに直談判したのです。この異例の事態に、戸惑ったGHQは、再度幸之助に関して捜査をし「彼には、アメリカの会社に劣らない進んだ経営理念がある」という特別な理由によって、幸之助の公職追放指定を解除したのです。幸之助の人を信じる経営哲学が、松下をひとつにした瞬間でした。そんな幸之助は、今では当たり前となった「週休2日制」を導入した最初の経営者でもあります。効率よく、質の高い仕事をするために必要なのは、ただ単に長く働くことではなく、仕事の発想・教養のために十分な時間を費やすべし、とそれまで週1日であった休日をさらにもう1日増やしたのです。これにより、従業員の労働の効率は上昇し、松下電器の販売高は、開始年度65年には2035億円、その2年後には、3473億円と急激な伸びを見せ始めました。「1日教養・1日休養」。賃金を減らすことなく、従業員の労働の質を向上させ、やる気を出させたこのシステムは、この後ありとあらゆる会社で採用され、今ではまったく当たり前のように浸透しています。さらに幸之助は、今では世界中の企業で当たり前のようになっている事業部制、分野ごとに会社を小さく分け、それぞれに責任を持って経営させる独立採算制を取りました。これもまた、世界で初めて幸之助が採用したシステムなのです。「経営の神様」、松下幸之助の残したものは、これだけにとどまりません。経営者として宣伝に関しても、天才的なひらめきを見せます。幸之助28歳、まだ松下が駆け出しの会社であった頃、幸之助の数々の研究・試作によって、生れた自転車用砲弾型ライト。当時の他社のライトは3時間しか持たず、故障があまりにも多かったため、松下の製品もまったく信頼されませんでした。実際に一度使ってもらえれば、必ずその良さが伝わると確信した幸之助は、自転車店に無料でライトを付けて回ります。今でいう試供品を配ったのです。その数は、1万個にも上りました。そして、その戦略は見事に的中。「30時間経っても、まだライトがついている」と好評を博し、対応できないほどの注文を受けるようになったのです。幸之助の革新的なこの手法は、今ではほとんどの企業が実施しているものとなりました。さらに、全盛期には、日本全国で2万6000店あったという「街の電気屋さん、ナショナル・ショップ」を始めたのも幸之助です。専門的な知識を持つ店員によって、電器製品を気軽に相談・購入できるようにし、アフターサービスもキチンと面倒を見る。そんなシステムを作り上げたのです。こうした幸之助の経営手腕の下、松下電器は爆発的な成長を遂げていきます。1953年の本格的テレビ放送開始、朝鮮戦争による55年からの神武景気なども手伝って、日本は未だかつて例をみない家電ブームを迎えます。テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」と呼ばれる家電が、多くの家庭に広がり、庶民の生活は劇的な変化を遂げることになるのです。

世界が賞賛する経営理念と心を打つ名言の数々

そして、1959年には、アメリカ松下電器を設立。前年には32億円に過ぎなかった輸出額を翌60年には、108億円へと急成長させました。当時、日本の電気産業の代表としてアメリカ・タイム誌で5ページに渡り特集が組まれるほど、幸之助は注目の的となったのです。「日本の一般市民に持続的に製品を提供するビジネスにおいて、松下電器産業を設立した松下幸之助ほどの成功を収めた人物はいない。67歳の華奢な彼は、控えめな感じの高齢者で、安月給の教師のような風貌だが、実は大胆不敵な製造と販売の天才である」「松下製品は、日本人の生活を大きく変えた。炊飯器は、米食の日本人の生活にマッチし、おいしいご飯が自動で炊き上がるため、主婦は夫より1時間早く起床する必要がなくなり、姑の嫌みを聞くこともなくなった。かつて日本では、『ご飯も満足に炊けない妻』は、親元に帰されても仕方なかったのだ。日本女性にとっては革命的な出来事なのである」
64年には、ライフ誌が日本特集を組み、その中で「M EET Mr.MATSUSITA」(ミスター松下に会いましょう)と題する記事を掲載。幸之助を、「最高の産業人、最高所得者、思想家、雑誌発行者、ベストセラー著者」と5つの顔とともに紹介しました。さらに、自動車王・フォードと19世紀に活躍したアメリカの牧師兼作家・アルジャーになぞらえ、「フォードとアルジャーの2人を1人で兼ねているパイオニア」とも紹介。こうして国際的にも知名度を上げた幸之助。彼は常に従業員に対し、こんなことを語っていました。「松下電器は何を作っているところかと尋ねられたら、人を作っているところだと答え、しかる後に、電器製品も作っておりますと答えていただきたい」と。
商人の町大阪で、ゼロからスタートさせいかなる危機にも屈せず、常に先を見続け、日本を支えサラリーマンに夢を与えた松下幸之助は1987年、民間では最高位となる勲一等旭日桐花大綬章を受章。そして1989年、94歳の生涯に幕を閉じました。「事業は人なり」。常に従業員と顧客のことを考え、もの作りに励みそして商売をした幸之助は、日本の経営者、サラリーマンに対し、幸之助イズムを継承すべく数多くの言葉を残しています。

「何としても2階に上がりたい、どうしても2階に上がろう。この熱意がハシゴを思いつかせ、階段を作りあげる。上がっても上がらなくてもと考えている人の頭からは、ハシゴは生まれない」

「先ず汗を出せ。汗の中から知恵を出せ。それが出来ない者は去れ。生きた知恵は、汗の中から出るもんや」

「商売や生産は、その商店や製作所を繁栄せしめるにあらずして、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある」

「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ」

「一方はこれで十分だと考えるが、もう一方はまだ足りないかもしれないと考える。そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む」

「叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である」

「悩んでも悩まない、そういうように感じることができれば、人生は決して心配することはない」

「世の為、人の為になり、ひいては自分の為になるということをやったら、 必ず成就します」

「決心することが社長と大将の仕事である」

「会社を大きくするか、小さくするかは、経営者が決めることでも会社が決めることでもない。社会が決めてくれるのである」

「人生には損得を超越した一面、自分がこれと決めたものには命を賭けてでもそれに邁進するという一面があってもよいのではないだろうか」

「売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永久の客を作る」

「感謝の心が高まれば高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく」

「百人までは命令で動くかもしれないが、千人になれば頼みます、一万人にもなれば拝む心がなければ人は動かない」

「『ありがとう』言う方は何気なくても、言われた方はうれしい。『ありがとう』、これをもっと素直に言い合おう」

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