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SmaSTATION特別企画『マドンナ伝説…vol.1』フロム・ハー・バース to 「ライク・ア・ヴァージン」
デビューから約25年経った今も進化をし続け、世界中を魅了するクイーン・オブ・ポップ、マドンナ。現在、47歳、2児の母となっても、その魅力は衰えることを知りません。幼い頃から「絶対にスターになる!」という強い意志を持ち、それを実現してしまうそのパワーの源はどこに?アメリカンドリームを体現し、現代のシンデレラストーリーといわれる彼女の半生に迫ります!
成績優秀な少女が見せた、周囲を驚かせるほどの猛烈な自己顕示欲
彼女の本名は、マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ。1958年8月、アメリカミシガン州デトロイト郊外のベイ・シティで生まれました(ちなみに、その2週間前には、となりのインディアナ州であのマイケル・ジャクソンが生まれているのです)。父は、イタリアの血を引くアメリカ人で、クライスラー社でエンジニアとして働いていました。母は、フランス系カナダ人。彼女が当時としては珍しい「マドンナ・フォーティン」という名前だったため、「マドンナ」という名前を母親から貰っていたのです。幼少の頃は、兄2人、妹2人、弟1人の大家族の中で育ち日曜日には家族そろって教会へ行くという中流階級の家庭に育ったマドンナ。6人兄弟の3番目だった彼女は、早くから周囲から注目されるコツを身に着けていたといいます。それは、家族全員でテレビを見ている最中に、突如テーブルの上に立ち踊り歌い出したり、コマーシャルのマネをしながら最後に茶目っ気たっぷりにスカートをちょっぴりめくったりというもの。幼いながらもお色気が人を喜ばせることを、知っていたのです。しかし、そんなマドンナを失意のどん底に落とす出来事が起こるのです。それは、母・フォーティンの死。いつも自分を甘えさせてくれた、最愛の母が、わずか30歳という若さでガンに侵され、衰弱していく様を目の当たりにすることは、5歳のマドンナにはあまりにも衝撃的で、それは彼女の人生を変えた出来事でもありました。

「母がいないなら、あたしは強くなる。自分のことは自分でやる」そう決意した幼いマドンナは、なんでも自分でやるようになり、さらに、一番上の娘として母親代わりもするようになったのです。食事の世話から兄弟みんなが学校に着ていく服選びにも気を配りました。彼女はこの頃に関して後に、こう語っています。 「父・トニーに認めてもらいたかった」と。 そう、幼いマドンナにとって父・トニーは親子を超えた特別な存在だったのです。「私は父に恋していた。母が死んで父は私のものになった」。

しかし、マドンナ8歳のとき、父は再婚。突如、主婦の役割を奪われ、大好きな父をも奪われたと感じたマドンナは、その怒りを父への反発という形で表現するしかなくなります。厳格なカトリックの学校に通うも、破った服を着たり、わざと裏返しにしたり、男子にわざと下着を見せるなどして、父や学校に反旗を翻さずにはいられなかったのです。5年生の学芸会では、肌もあらわなビキニ姿でセクシーなゴーゴーダンスを披露し、観客と父の度肝を抜いたことも。このように問題児と見られながらも、その一方で成績は優秀で、ほとんどの科目でAを取っていたとそうです。

マドンナが音楽と向き合うようになったのも、この頃のこと。彼女が育ったデトロイトは当時モータウンミュージック全盛であり、ラジオから流れるダイアナロス&シュープリームス、スティービー・ワンダーらに憧れを抱いていたのです。彼らの曲に合わせてダンスをする楽しさを覚え始めたのも、この頃です。高校(ロンチェスター・アダムス・ハイスクール)に進むと、マドンナはチアリーダー部に所属。熱狂する群衆の前で演技する快感を味わうことが、なによりの楽しみとなりました。しかし、そんなチームプレイの中でも、とにかく目立ちたいマドンナは人間ピラミッドではもちろん一番上。それだけでは物足りず、宙返りをするときにはわざと肌色のタイツをはき下着をつけていないかのように見せ、観客の視線を独り占めにしていたそうです。

「とにかく、目立ちたい」。幼い頃から個性を光らせるために、服装などに独特の工夫を凝らしていたマドンナは思春期になると同性のクラスメートもちょっと引くくらいの行動で個性を出していました。わき毛を剃らなかったのです。自分の体に自然に生えてきたものを取り去りたくないとの理由で、伸ばし放題。チアリーディングのノースリーブのユニフォームでも堂々とし、男子生徒の視線を釘付けにしたそうです。もちろん、マドンナ流の「他のモノと同じでは嫌だ」というこだわりがあった事は言うまでもありません。

そんなマドンナはこの高校時代、演劇部にも所属していました。ダンスとは違った表現方法の虜になり、スポットライトのあたる自分に快感を覚えます。そして、絶対に主役以外は演じなかったともいいます。有意義な高校生活を送るマドンナは、その後の人生に大きく影響を与えることとなる人物と出会います。クラッシックバレエの指導者だったクリストファー・フリンです。彼は、バレエというそれまでのマドンナに無かった芸術性の高いダンスを教え、その一方、ゲイバーやクラブへ連れて行き、家庭や学校では決して教えてくれない音楽や芸術をも教えてくれたのです。

「彼女の何かを知りたい、吸収したいという欲望はすさまじかった。いつも、もっとうまくなるにはどうしたらいいのかを常に考えていた」と、フリンは当時を振り返ります。こうして1976年、様々なものを吸収し、人並み以上の努力をしたマドンナは、他の生徒より3カ月早く学校を卒業。奨学金を手にした彼女は、地元のミシガン大学に進学します。大学では、本格的にダンスの勉強にのめりこみ、相変わらず自己主張の強さで注目を集め、輪の中心には常にマドンナがいました。何をやるにも一切手を抜かず、全力で行動したマドンナは、誰よりも早く授業前のアップをこなし、サタデーナイトの夜遊びでも一晩中踊りあかし、次の日に練習があっても決して遅刻することは無かったといいます。その妥協しない、自分に厳しい姿勢から、マドンナは誰もが一目おく存在となっていくのです。大学生活が1年半を過ぎた頃、マドンナは突如、大学を中退します。「大学で学べるものは全て学んだ。もっと先に進まなきゃ」。スターになるという夢の実現のため、自分が何をすべきかを考えての決断でした。
35ドルを片手にニューヨークへ。そこでマドンナを待つ過酷な試練
そして、1978年7月。19歳のマドンナは、季節外れのコートとバレエ用のタイツで一杯のボストンバックと、35ドルの現金を手に、故郷デトロイトを後にします。彼女が向かった先は、ニューヨークでした。初めて、ニューヨークの地に降り立った彼女は、どこに行く当ても無く、とりあえずタクシーに乗ると、「一番華やかな場所へ行って」と告げたといいます。運転手が向かったのは、タイムズスクエアでした。圧倒的な人の多さと、きらびやかなネオンに感動したマドンナは「神よりも有名になる」と決意します。彼女がニューヨークで最初に借りたアパートは、当時はまだ危険が多いイースト・ヴィレッジのはずれで、建物の前にはホームレスがうろつき、部屋はゴキブリだらけというもの。生活のため、ドーナツ店でアルバイトをし、さらに、高級レストランで帽子預かりのクロークとしても働くという日々。食事は、朝はバナナ、昼はリンゴ、夜はヨーグルトですまし、空いてる時間の全てをダンスのレッスンに充てたそうです。また、この時期にレイプされたことも、後に明かしています。「デートレイプ」、つまり知ってる相手に信頼を踏みつけにされたのです。しかし、その経験でずっと賢く抜け目無く世渡りが出来るようになった、とマドンナは語っています。

ニューヨークにきて4カ月後。マドンナはある有名ダンスカンパニーのオーディションを受け合格しています。そのオーディションでも目立つために、背中の大きく開いたTシャツを30センチの安全ピンで留めて審査員の目を引き、独特ともいえるフリースタイルのダンスで見事、合格しました。振付師のパール・ラングは後に「類まれなダンサーだった。集中力も高くプロ意識がありとても真剣だった。でも性格がね…」と語っています。ラングが言う通り、その強気な性格から、振付師と口論になり、結局、一度も舞台を踏まないままカンパニーを去ることに。地道な練習でダンスの腕は上達したものの、発表する場もお金も無く追い詰められたマドンナは、金銭面の解決のために、美術学校でヌードモデルを務めるようになります。90分で30ドル(約1万円ほど)という値段ながら、当時の彼女にとってそれは十分すぎる金額。夜な夜なダンスクラブに繰り出しては、新しいダンスを取得していきます。当時のニューヨークは、77年に公開された映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の影響から、ダンスが若者のカルチャーシーンとして定着し、数多くのダンスクラブが誕生していました。週末になれば満員状態のフロの真ん中で一心不乱に踊るマドンナは、当然、注目の的となりました。後に、マドンナ自身が当時をこう語っています。

「目標達成に力を貸してくれそうな有力者と出会える場所に手当たり次第に出かけ、そこでおきるわずかなチャンスに全てを賭けていた」

「セックスは目標達成のための手段でしかなかった。それ以上の意味は何一つ無かった」


映画「フットルース」や、テレビシリーズの「フェーム」などのオーディションを受けるも、役にたどり着くことはなかったというマドンナ。この頃から、「スターになるには、歌うことが一番」と考え、知り合いのツテで、バンド活動を勢力的こなすようになります。しかし、ステージでのマドンナは常に他のメンバーを出し抜いて人気を独り占めしたがったため、メンバーとの確執が生まれ、 結局激しい口論の末バンドを辞めることとなるのです。いくつかのバンドを渡り歩いても、結果はいつも同じでした。 それでもマドンナは、積極的に売り込みをかけにいき、ライブハウスや人気ダンスクラブでのライブでは、たまりにたまったエネルギー、才能、そして注目の的になりたいという欲求をさらけ出し他のバンドを圧倒していきました。そうして少しずつ経験を積んでいったマドンナには、そのファンキーなイメージからカルト的なファンクラブもでき、彼女の姿を真似たファンが常に彼女の周りに群がるようになります。

1980年に入り、マドンナは自ら作った曲を当時のミュージックシーンを牽引していたナイトクラブ「ダンステリア」の人気DJに持ち込みます。「凄くいい曲があるわ。皆凄く気に入るわよ」と言って、DJの唇に強くキスをしたそうです。実際、初めて曲が流れたそのクラブでは、曲はもの凄い反響になったのです。「もし、家への最短距離が墓地を通り抜けることだとしたら、13日の金曜日の真夜中でも、マドンナはその道を行くだろう」と、無常なまでの強さで自己実現に向かうマドンナを、当時の音楽関係者はこう評しました。
ニューヨークへ来て5年で世界的ヒット曲「ライク・ア・ヴァージン」を発売
そして、遂にマドンナの才能を理解するレコード会社が現れました。当時、プリンスやヴァン・ヘイレンなどの有名アーティストを抱えていた「ワーナー・ブラザースレコード」です。その契約内容は、5000ドルと一曲ごとの印税。さらに、出版料として1000ドルを支払うというものでした。3年前、わずか35ドルを片手に、スターを夢見てやってきた少女が、やっとその扉を開いた瞬間でした。彼女の最初のリリースは、アルバムではなく12インチのダンスクラブ用シングル。1982年10月に発売したファーストシングル「エブリバディ」は、即座にビルボードのダンスチャートにランクイン。レコード会社は、ファーストアルバムの製作に即座に取り掛かりました。マネージャーには、マイケル・ジャクソンを担当していたフレディ・デマンが起用され、ビッグスターへの道が開かれたのです。

こうして1983年7月。8曲入りのファーストアルバム『マドンナ』を発売。そこからシングルカットされた「ホリデー」は、新人歌手としては快挙となる「ビルボード・ポップ・シングル・チャート」で16位に入り、続く「ボーダーライン」は10位、「ラッキースター」では4位と、マドンナの名は ヒットチャートの常連となっていきました。アルバムも、アメリカ国内で400万枚、全世界で800万枚を売り上げ、そのデビューは大成功をおさめました。しかし、そこにも彼女の持って生まれた運が影響していたと言えます。80年代前半といえば、プロモーションビデオが定着した時代でもあり、マドンナがそのムーブメントをうまく利用したことはいうまでもないからです。音楽専門チャンネルMTVでは、一日何度もマドンナの曲が流され、24時間アピールすることができました。さらに、彼女は成功するのに必要とあらば、あらゆるメディアに登場しました。「ダウンタウンのストリート」、「夜のクラブ」、「マリリンモンロー」と、自らのイメージを次々作り上げていきました。マスコミがマドンナのスタイルを下品といえばいうほど、親たちの批判が高まれば高まるほど、反抗的な子供たちは自分を真似るに違いない、そう信じていました。実際、多くの若者が彼女の真似をし、ポップカルチャーの象徴となっていったのです。

そして1984年。全世界にその名を知らしめることとなったセカンドアルバム「ライク・ア・バージン」をリリース。マドンナの並々ならぬポップ感覚を反映したこのアルバムは、プロデューサーにD・ボウイの「レッツ・ダンス」をプロデュースした大物ナイル・ロジャースを向かえ、時代の最先端を行くポップミュージックを作り上げていきました。莫大な制作費をかけ、イタリアで撮影されたプロモーションビデオで知られる 最初のシングル「ライク・ア・バージン」は 、 マドンナ自身、初のナンバーワンシングルとなり、全米で6週連続1位を記録。このアルバムからシングルカットされた曲のほとんどが、チャートに顔を出し、1985年最大級のアルバムセールスを記録。一日で実に8万枚を売り上げるという記録も作り、プロモーションツアーに出れば、チケットは24分で完売、数々の観客動員数の記録を塗り替えたのです。まさに、マドンナは当時の大衆がもっとも求めていた存在であったのです。1984年、マドンナはそのプロモーションで、初めて日本にも訪れています。スターを夢見て35ドル片手にニューヨークへ渡ったあの日から、わずか5年で世界を虜にしたクイーン・オブ・ポップ・マドンナ。しかし、マドンナ伝説は、まだまだ序章に過ぎません。

次回、第2弾に続く!
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