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SmaSTATION特別企画 天才喜劇役者 藤山寛美
昨年12月に発売された異色のお笑いDVDがヒットし、大きな話題になっています。それは『松竹新喜劇 藤山寛美・十八番字箱(おはこばこ)』。藤山寛美とはいかなる喜劇役者なのでしょうか? いま再び脚光を浴びる喜劇役者、藤山寛美の壮絶な役者人生に迫ります!
藤山寛美、衝撃のデビュー
日本で最初に喜劇を名乗った劇団は、明治37年に大阪で旗揚げされた、曾我廼家(そがのや)五郎、十郎(じゅうろう)の曾我廼家兄弟劇でした。初日にあたる2月10日は苦しくも、日露戦争開戦の日。そこで、十郎と五郎は夜を徹して、戦争を題材にした狂言を書き上げ、2日目から、急遽、演目を差し替えました。その狂言『無筆の号外』(むひつのごうがい)は、当時の世相を反映し、大当たり。曾我廼家兄弟劇の名は、瞬く間に関西中に広まったのです。 その影響で、渋谷天外(しぶやてんがい)の『楽天会』に代表される喜劇団が数多く誕生。第2次大戦が終わって間も無い1948年、大阪道頓堀の中座(なかざ)で松竹新喜劇が旗揚げされました。この松竹新喜劇に加わったのが、当時19歳だった藤山寛美です。現在、テレビを賑わしている吉本新喜劇が登場するのは、実はこの10年以上も後のこと。ドタバタ中心でストーリーよりキャラクター性を重視する吉本新喜劇に比べ、松竹新喜劇は、笑いと人情が詰まった演劇として長きに渡り、関西の笑いをリードし続けて来たのです。

1951年(昭和26)11月30日、『喜劇役者・藤山寛美』のその後を決定する舞台 『桂春団治』が幕を開けました。寛美の役は、座頭でもあった大御所、渋谷天外扮する主役の春団治に、ツケを取立てに行く酒屋の丁稚役。台本に書かれていた台詞はたったの一行。「ツケを払うとくなはれ!」。それだけのちょい役でした。ところが、本番の舞台で寛美は思わぬ行動に出ました。寛美はアドリブで延々とやりとりを続けたのです。主役の天外と堂々と渡り合う寛美。ちょっとオツムの弱い丁稚のとぼけた会話が、観客の笑いのツボを捉えたのです。アホ役というハマリ役を得た寛美は、喜劇役者として一気に花開きました。大阪のみならず、東京公演でも『フジヤマ旋風』と呼ばれるほど、大人気を博したのです。アホ役・藤山寛美の巻き起こす笑いは時代を捕らえ、いつしか彼は、「新喜劇のプリンス」と呼ばれるようになっていきました。
豪遊と借金苦の末に・・・
1959年(昭和34)、寛美のアホ役の集大成ともいえる舞台『親バカ子バカ』のテレビ放送が始まりました。放送開始から視聴率はうなぎのぼり。最高視聴率は、なんと58%を記録。この作品によって、『藤山寛美』の名は全国区となり、松竹新喜劇の聖地、大阪・道頓堀の中座は連日満員御礼となりました。『親バカ子バカ』の大ヒットによって、寛美の給料も跳ね上がりました。当時大卒の初任給が2万円という時代に80万円…いまの額に換算すると月給1000万円以上を手にしたのです。寛美は夜な夜な、派手に遊びまわりました。西川きよしさんは、松竹と吉本、役者と漫才師という垣根も越えて寛美によく可愛がってもらったといいます。

豪遊を続ける寛美。しかしその一方で、家庭は火の車。5人の幼子がいたにもかかわらず、 寛美は給料を全くと言っていいほど家庭に入れなかったのです。なぜ、寛美は豪遊を続けたのでしょうか。そこにはお茶屋を経営をしていた母・キミさんの教えがありました。「役者は遊んでないと舞台で華が出ない・・・」。そのため寛美は、貧しかった大部屋時代から豪快に金を使ったのです。大阪から京都・祇園にタクシーで乗りつけ芸者遊びをしまくる寛美。実はその時、芸者として出会ったのが、後に妻となる峰子さんでした。寛美が結婚後も遊びをやめようとしないため、峰子さんは大事な着物を質に入れ、家計を支えました。

ある時、銀座のクラブへ行った寛美は いつもよくしてくれるクラブのドアマンに驚くべきものをプレゼントしました。それは『車』。しかし、そこには、寛美なりの狙いがあったのです。「寛美が来た!と噂になるためには、その飲み屋に5〜6回は足を運ばなくてはならない。しかし、車を買って与えれば、すぐに噂も広まり、そのうちの何割かは舞台へ足を運んでくれるだろう。宣伝料だと思えば、安いものだ」。連日の豪遊に高額なチップ・・・劇場へ足を運んでくれたご贔屓筋への恩返しと、寛美は湯水のように金を使いました。

やがて寛美は、羽振りの良さを誇示するため借金までするようになりました。気がつくとその額、5000万円。1年半で利息が付き、あっという間に1億8000万円にまで膨らみました。それは、いまの価値にして約7億2千万円にもなったのです。寛美は月々の返済も滞り、遂には、寛美が振出し人となっている手形が、不渡りを出してしまいます。そしてお決まりの『破産』。どんな借金があっても、寛美には信念がありました。役者であり続ける限り、客は応援してくれる――しかし、寛美の読みは甘かったのです。客席やロビーにもヤクザがたむろするようになると、当然、客が寄り付かなくなっていきました。そんな中、1965年(昭和41)に松竹は、寛美にクビを勧告。それは、三女・直美さんの小学校への入学式当日のことでした。

寛美がいなくなると、松竹新喜劇はすっかり客足が遠のいてしまいました。松竹はテコ入れのため、当時、人気漫才師だったミヤコ蝶々と南都雄二(なんとゆうじ)を呼んで2枚看板として売り出したり、チケットの値段を下げたりと、さまざまな対策を講じましたが、客足は一向に戻ってきませんでした。客は、藤山寛美を観たかったのです。一方、寛美は東映の任侠映画に出演するなどして活動を続けました。が、やはり自分は板の上の人間・・・と、舞台に立てない現実に苦悶する日々を送っていました。結局松竹は、寛美の莫大な借金を肩代わりすることで寛美を舞台に呼び戻すことを決定したのです。
前人未到の大記録
藤山寛美の松竹新喜劇復帰公演は大盛況のうちに幕を開けました。舞台へと帰ってきた寛美の演技は、まさに水を得た魚でした。寛美の芝居への打ち込み方は、尋常ではありませんでした。稽古場では、演技の鬼と化し、殺気すら漂っていました。 復帰から20年経った1987年(昭和62)2月、寛美は世界の演劇史上例を見ない、244カ月連続無休公演という大記録を打ち立てました。大阪、京都、名古屋、東京、それに地方巡業。 1カ月30日のうち25日間、昼3本、夜3本もの公演をこなし、残りの5日は次の公演への稽古に当てました。寛美はこのハードスケージュールを実に20年間、無休で続けたのです。

先月、ブロードウェイで連続公演回数の新記録を打ち立てた「オペラ座の怪人」の公演数は7486回。それに対し、藤山寛美の記録は、公演数に直すと単純に計算しても3万回以上と他を圧倒しているのです。しかも、「オペラ座の怪人」の場合は、途中で役者は何度も入れ替わっていることを考えると、同一人物で3万回以上という藤山寛美の記録が、どれほどの偉業かが分かるのではないででしょうか。 寛美は常々、こんなことを言っていました。『芸は水に文字を書くようなもの。書き続けないと見えない・・・』。大記録の樹立から2年後の1989年(平成元)には、その功績が称えられ『紫綬褒章』(しじゅほうしょう)を受賞。借金にまみれた「浪花の喜劇王」が国からも認められた瞬間でした。

1990年5月21日、喜劇役者・藤山寛美は『笑い』に全てを賭けたその壮絶な人生に幕を閉じました。享年60。死因は肝硬変でした。 現在新橋演舞場で直美さん共演中の18代目中村勘三郎さんが藤山家と中村家との意外な関係を話してくれました。松竹復帰から20年、ひたすら舞台に立ち続けた寛美。妻の峰子さんは、寛美をこう語ってくれました。

「最後の最後まで役者でしたよ。ですから、病院でも『手甲脚絆持って来い!』ですとか…。そして、自分でじっと考えて、『あ、ここは病院か…』って。亡くなる1時間前までは、ウロウロ歩いてたんです。で、最後に『ええ本が欲しい…』『芝居がしたい』と言うてね。それが本当に最後の言葉なんです」。

60年の生涯うち、実に56年を舞台に注ぎ込んだ天才喜劇役者・藤山寛美。彼の楽屋に掛けられていたのは『芸』のひと文字だったそうです。
西川きよしさん
「いろんな悩みを抱えたお客さんでも、松竹新喜劇の藤山寛美を見ると、今日一日、そのことを忘れさせてくれる…だから、遠くからもお客さんが来るんです。『松竹やとか、吉本やとか関係なしに、とにかくみなさんを笑いでもって幸せにすることが我々の使命やから…。笑いの少ない人たち、笑いを知らない人たち、笑いに興味のない人たち…を、笑いでもって幸せにしていこうや。頑張っていこうや』っていう師匠でしたね。」
月亭八方さん
「(借金のことを知った寛美さんが)私の仕事場まで来て、仕事を終わるのを待ってくれて、現金1000万円が入った黒いカバンをパッと開けて、『いるだけ持っていき』と。『僕は13億の借金があるから、この1000万はあってもなくても一緒やから、持ってき』って…。」
藤山直美さん
「この人は、やっぱり舞台の上では神が降りるんかな、って思いましたね。『お父さんや』とか、思わへんですね。舞台出ていても、身内と感じさせない役者なんですよね。やっぱり、その役になったときの思考回路と発想はすごい。喜劇は、発想やと思うんですよ。ピーンと瞬間に浮かぶもの。これは説明できないんですよね。その辺のところがちょっと違うな、と思いますね。」
十八代目中村勘三郎さん
「ウチの親父は大好きだったんです、寛美先生のこと。で、寛美先生もウチの親父のことを好いてくれていて…。面白い話ですけど、志ん生師匠っていますね、落語の。ウチの親父は、死ぬとき志ん生師匠の落語を聞きながら死んでるんですよ。そしたら、寛美先生も、志ん生聞いて死んでいるっていうから、何か似てんだね。寂しがり屋なんだね。私は勘九郎って名前だったけど、別に苦労しないでいいところに育っちゃったけど、先生にしろ、ウチの親父にしろ、凄いドラマがあるんだよね。」
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