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SmaSTATION特別企画:ニッポンの血を引く天才アーティスト イサム・ノグチ
1956年、ユネスコ総本部を人類平和のシンボルで飾るというプロジェクトが発足し、20世紀を代表する世界の巨匠として、6人の芸術家が選ばれました。そのひとりとして、ユネスコ総本部に庭園を作り上げたのが、日本人の血を引く天才彫刻家・イサム・ノグチです。コスタ・メサの彫刻公園「カルフォルニア・シナリオ」、デトロイト「フィリップ・ハート・プラザ」の噴水、マイアミ「ペイフロントパーク」、NY「チェイスマンハッタンプラザ・沈床園」そしてレッドキューブ、イスラエル・ビリーローズ彫刻庭園といった作品を作り上げ、「ミケランジェロの再来」「地球を彫刻した男」とも評された彼の波乱に満ちた生涯にスポットを当てました。
世間の好奇の目にさらされた少年時代
1904年、日本では日露戦争が勃発していたころ、イサムはアメリカ・ロサンジェルスで生を受けました。父は、18歳でアメリカに渡り、当時全米で詩人ヨネ・ノグチとして有名だった日本人、野口米次郎。そして母はその翻訳を手伝っていたアメリカ人、レオニー・ギルモア。しかしこのふたりは結婚しておらず、イサムが生まれた時、父・米次郎はすでに日本に帰国していたため、イサムは「アメリカ人未婚女性の子」として人生を歩みだすことになったのです。
当時としてはまだ珍しかった混血の子供に、世間は好奇の目を向けました。さらにこの時代、父の祖国である日本は、軍事国家として世界中から批判を浴びており、カリフォルニアでも排日運動が本格化していたのです。そんな中、イサムは2歳のとき初めて父の国、日本へ渡りました。こうして幼いころを日本で過ごしたイサムでしたが、父はまもなく別の女性と結婚。イサムは、両親の愛情を知らぬまま成長していくのです。当時のことを、後にイサムは、自らこう語っています。「僕のファミリーは、バラバラだった。いや正確に言えば、生まれたときから僕にはファミリーなどと呼べるものは無かった・・・」と。神奈川県茅ヶ崎の小学校へ入学するも、周りと明らかに違うその風貌のせいで差別、いじめの対象となりました。そんなイサムを救ったのが、日本の自然と道端に転がる石でした。学校に行くことを拒否し、道端の石を削って遊ぶことが当時のイサムにとって唯一の楽しみだったのです。母は、登校を拒むイサムを近所の大工のもとに通わせ、モノつくりの楽しさを覚えさせました。
そんなイサム少年に転機が訪れます。13歳のとき、アメリカに開拓者精神を実践教育する全寮制の学校があるという記事を母レオニーが目にしたのです。単身渡米することを決意し、たったひとりでインディアナ州の片田舎に舞い降りたイサムは、初めて目にするアメリカの広大な自然に圧倒されたといいます。その地でイサムは、150人の生徒が丸太小屋に住み、自給自足で生活する「インタラーケン」校に入学。遠い日本から大工道具片手にやってきたイサムを不思議がっていた生徒たちも、工作の授業でイサムが作るいままでに見たことがない独特の彫刻に触れると、「東洋からやってきた天才少年」と、彼を受け入れたのです。その後、イサムは、その才能に惚れこんだ校長先生の家に家族の一員として迎え入れられ高校へと進学し、そこで医学の勉強を始めます。後ろ盾の何もない彼にとって、今後食べるのに困らない資格を手に入れたほうがいい、という医者でもある校長先生の助言があったからでした。
“イサムの運命を変えた野口英世の言葉
イサムは18歳のとき、名門コロンビア大学に入学しました。そこで再び彼に転機が訪れました。
それはある日本人との出会いでした。当時コロンビア大学に客員教授として迎えられていたその人物は、ノーベル賞候補にも名前が挙がるほど、世界的に有名な細菌学者で、日本医学の父ともうたわれた野口英世です。同じ苗字で、さらに父・米次郎とも親交があった英世は、彼を呼び出し食事を共にしました。互いの故郷でもある日本の話題で盛り上がったとき、イサムはふとこんなギモンを英世に投げかけました。「医者と芸術家は、どちらが偉大ですか?」。この質問に英世は即座にこう答えました。「医者に出来ることは限られている。父親のような芸術家になりなさい」。イサムはこの一言で、芸術家の道へ進むことを決心したのです。
コロンビア大学を中退し、同じマンハッタンにあるレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校に入学したイサム。自分のすすむべき道を見つけたイサムは、それまでの鬱憤を晴らすように急速に彫刻技術を身に付け、その才能の片鱗を見せ始めます。入学からわずか3ヵ月で21点もの作品を作り上げ、そのあまりの出来の良さに、学校側は特別にイサムの個展を開催するほどでした。美しい曲線を余すことなく表現したイサムの作品は、アメリカの人々に大きな衝撃を与え、地元「ワールド・アンド・ワード」紙は、「19歳の日系アメリカ青年、彫刻家として優れた才能を披露!」と大々的に報じました。
その後も創作に没頭し、次々と作品を作り上げるイサムに対して、NYの芸術界ではこんな言葉がささやかれ始めました。「ミケランジェロの再来」。こうして芸術家生活のスタートをいい形で切ったイサムは、パリ、中国、東南アジアと世界中をめぐり、さまざまな分野のアートに触れ、独創性を高めていったのです。
そんなイサムがその旅の最後に訪れたのがもうひとつの故郷・日本でした。13年ぶりに訪れた日本では京都の禅寺の庭に足しげく通い、新しい発見をします。「日本の庭は彫刻ではないか・・・」。
その景観に感銘を受けたイサムは「空間を彫刻する」という新分野を見つけ出したのです。こうして7ヵ月の滞在で日本の美を再認識したイサム。NYへ戻り、新たな創作意欲が湧き上がった彼の元に、突然訃報が届きました。母、レオニーの死です。幼いころからイサムの芸術家としての才能を見出し、何かと手を差し伸べてくれた母の死はイサムにとって大きな衝撃でした。しかし、母親が求めたのは立派な芸術家になること――イサムはこれまで以上に創作へとのめり込んでいきました。
1940年、イサム35歳。報道記者たちをモデルにしてつくった作品「ニュース」が当時ニューヨークの新しい象徴として世界中の観光客が集まる建物ロックフェラーセンターの1階、AP通信社正面玄関に飾られました。ステンレススチールで作られたこの作品は評判を呼び、「ニューヨークタイムズ」紙は、「芸術作品としてだけでなく、最新技術面からしても大勝利」と絶賛しました。この作品でイサムは一躍アメリカトップアーティストの仲間入りを果たし、ついにアメリカ社会に受け入れられたかに見えたイサム。しかし、時代の波が再び彼を窮地に追い込んでしまったのです。
「ふたつの故国」の狭間で・・・
1941年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃。母の国と父の国の戦争、太平洋戦争がはじまったのです。日系人が多く住んでいた西海岸では、アメリカで生まれた日系人であろうと日本人の血が流れるものは全て「ジャップ」とののしられ、戦争開始から3ヵ月後には、全ての日系人が強制収容所へと連行されました。イサムがいた東海岸には当時まだ数えるほどしか日系人の姿はなく、彼は強制収容所入りを免れました。が、イサムは日本人の血を引く者としてただひとり、特別な行動を起します。なんと、自ら進んで強制収容所へ入ったのです。イサムは、同じ血が流れる同胞のために、少しでも収容所内を改善し、理想のコミュニティーを作るために向かったのです。しかし、当局に対して「公園」「プール」などリクリエーション施設の設置を提案するは、ことごとく却下されました。落ち込むイサムに、更に追い討ちをかけるような事件が起こります。仲間であったはずの日系人たちの間で、イサムはスパイではないかという噂が広まったのです。日米混血であったイサムの容姿は、あきらかに周りの日系人と違い、当局に頻繁に出入りしていたこともそんな噂を呼ぶ一因でした。ここにいる意味はもうない・・・そう感じたイサムは、出所願いを出すも、日本人の血を引くというだけで拒否され、引き続き孤独な収容所生活を送ることになりました。まさに孤立無援、地獄の生活で日に日にストレスが増し、精神的に追い詰められていくイサム。そんな彼を救ったのが、イサムの芸術家としての才能を高く評価していた偉大なアメリカ人建築家であり、日本とも深いかかわりのあった人物フランク・ロイド・ライトでした。先週のスマステーションでも紹介した、帝国ホテルのライト館を設計したあの天才建築家です。ライトは直接軍にイサムの出所嘆願書を提出し、イサムを窮地から救い出したのです。
失意のうちNYに戻ったイサムは、日系人問題を断ち切るかのように、作品作りに没頭していきましたが、それらの作品を発表する場は与えられませんでした。敵国民の血が流れるイサムの作品を扱うことが芸術界ではタブーとなっていたからです。それからしばらくして戦争が終結。満を持したように美術界から声がかかり、イサムは再び脚光を浴びることとなりました。このころイサムが取り組んでいたのが、後年イサムの代表作となった大理石片の組み合わせ彫刻「クーロス」。この作品で1946年、ニューヨーク近代美術館で開催された「14人のアメリカ人」展に出展。14名の作品の中で最も話題をさらったのです。当時の批評家は、こぞって彼の作品を現代美術の第一級の芸術と評価したのです。
こうしてイサムはアメリカ美術界の第一線に返り咲きました。そしてイサムは1950年、19年ぶりに日本の地を踏みます。そしてこの日本滞在中に、いまも人気の高いある家具をデザイン・製作しました。それが「あかり」です。1300年以上の歴史を持つ日本の伝統、鵜飼いを見たイサムは岐阜提灯の技術を知り、和紙と竹と光によるそれまでにないまったく新しい彫刻を生み出したのです。
その後NYに戻ったイサムは運命の出会いを果たすことになります。日本でも絶大な人気を誇っていた女優、山口淑子との出会いです。戦争中・中国人「季香蘭」としてすごし、スパイ容疑までかけられていた淑子。自らの境遇とダブる彼女にイサムはひかれ、恋に落ち、出会いから1年足らずの1951年12月、結婚を果たしました。大女優と日系人芸術家の結婚。日本のマスコミはふたりのロマンスを大きく書きたて、イサムは「知る人ぞ知るアメリカで有名な芸術家」から「山口淑子の夫」として日本でも更に広く知られるようになったのです。そんなイサムの元に大きな仕事の話が舞い込みました。それは、「広島原爆慰霊碑」の建設です。「広島市」からの依頼を受けたイサムは、ようやく父の祖国、日本に受け入れられたと感じ、無償でこの仕事を引き受け、そのデザインに心血を注ぎました。が、完成したデザインの建設に取り掛かろうとしていたイサムに、一報が入ります。それは「デザインの却下」。理由は、「イサムの中に原爆を落とした同じアメリカ人の血が流れているから・・・」という、ただそれだけのことでした。結局、慰霊碑は日本人建築家丹下健三の手によって建造されました。ちなみにイサムがデザインしたのは、御影石で作られた平和のアーチを死者を偲ぶ場とし、地下の部分は犠牲を乗り越え、子孫たちが誕生してくる子宮を表現したものでした。再びイサムは日本とアメリカというふたつの祖国の間で、苦しむこととなりました。「自分の祖国はどこなのか・・」。
自問自答の日々を送ったイサムは、やがて妻・淑子と離婚しました。イサムの反対にも関わらず、淑子がハリウッド映画に出演したことで、ふたりの中に溝が生まれたのです。4年あまりの結婚生活でした。
イサムが見つけた「故郷」
それでもイサムの彫刻に対する情熱は冷めることがありませんでした。次々に作品を作り上げ1956年には20世紀を代表する世界の巨匠6人の中にピカソらと共に選ばれ、ユネスコ総本部の庭園を手がけました。さらに、自らのアトリエを構えたNYにも次々と作品を築き、イスラエルでは聖書の舞台となたエルサレムに2万平方メートルの彫刻庭園を作り上ました。世界規模で活躍するイサムにこんな話が舞い込みました。それは「ケネディ大統領墓所のデザイン」(1964)。この名誉ある仕事を即座に快諾しデザインに取り掛かったイサムは、そのときの気持ちを後年こう語っています。「アメリカ人として認められ、自分の最善を尽くすチャンスをもらった事が何よりもうれしかった」。
しかし、日米の混血という宿命がまたしても彼に襲い掛かりました。「アメリカの国民的ヒーローの墓地はアメリカ人の手で作るべきだ」。イサムの参加を強く拒絶する者が現れ、結局広島での出来事と同様に、イサムのデザインは却下されてしまったのです。ふたつの祖国に拒絶されたイサム。一体自分はどこに属する人間なのか――孤独だけがイサムの中に残りました。
しかしイサムは、日本とアメリカの狭間で人生を送り、その両方を理解したイサムにしか作り上げることができない作品を世に送り出すことで自らの故郷を見つけたのです。イサムが見つけた故郷こそ「地球」でした。70歳を過ぎても精力的に活動した彼は、数多くの庭園やパブリックアートを手がけ、NY、イタリア、日本を行き来し、常に新しい発見を求め続けました。そしてイサム82歳のとき、彼は遂に混血という宿命を拭うことができました。美術界のオリンピックとも呼ばれるアーティストにとっては最高の檜舞台、ヴェネツィア・ビエンナーレ展にアメリカ代表としてたったひとり選ばれたのです。自らの集大成とも言うべき作品群を展示した彼のパビリオンは大絶賛され、イサム・ノグチの名声は一層世界に響き渡りました。こうした世界的評価を受けたイサムは、1987年、当時のレーガン大統領から芸術家としては最高の栄誉、国民芸術勲章が授与されました。それはケネディ大統領の墓地デザインを拒絶されてから22年後のことでした。その翌年の12月30日、イサムはNYでその生涯を閉じました。享年84。この死の直前、イサムは日本政府から勲三等瑞宝章を授かりました。「私は東洋と西洋の二つの世界の融合である。そしてさらには両世界を超越する存在でありたい」。こう常に願っていたイサムの夢が死の直前でようやく叶ったのです。日本人の血を引く偉大なアーティストとして世界中で愛された彼は、芸術家を志すものに多大なる影響を与え続けています。地球を彫刻した男、イサム・ノグチ。彼の刻んだ作品は、いまなお、この地球上に数多く残され、これからも世界中の多くの人々に愛され続けることでしょう。
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