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SmaSTATION特別企画:世界に誇る日本のもてなし・帝国ホテル
明治23年の開業から実に116年もの間、皇居から程近い東京都千代田区内幸町に佇み続け、いまでは当たり前となった「ホテルでの結婚式と披露宴」を日本で最初に始めた帝国ホテル。海外の王族や、政府要人などの国賓、世界のセレブリティーが日本での定宿とし、そのもてなしの素晴らしさに感嘆の声を上げたのもこのホテル。その歴史と、「もてなし」の精神にスポットを当てます。
帝国ホテルの誕生
帝国ホテルが誕生したのは、いまから1世紀以上前の1890年(明治23年)。幕末・維新の混乱もようやく落ち着いたこのころ、日本が次に目指していたのは、近代国家としての地位でした。井上馨ら明治政府は日本の文化が進んでいることを示すため、外国人の社交場として西洋風俗を存分に取り入れた外交施設、「鹿鳴館」を建設。そこで連日舞踏会を開き、世界列強に向け「近代国家・日本」をアピールしていたのです。当時、維新後に開港した横浜には「グランドホテル」や「オリエンタル・パレス」、そして神戸には「オリエンタルホテル」があり、多くの外国人を受け入れていました。しかしこれらホテルも欧米のホテルに比べると所詮中等以下、という評価であり、さらに首都東京には本格的ホテルは存在しませんでした。当時、東京を訪れた外国の要人たちは、旧幕府の海軍伝習屯所(浜離宮)などを補修して宿泊していたのです。「日本は所詮、ホテルも無いような二流国・・・」。こんな評判を払拭するために、明治政府主導で、財閥、そして宮内省なども出資し、「帝都・ホテル建設計画」が進められたのです。
こうして鹿鳴館脇に広がる4200坪もの国有地に当時の建築の粋を結集し、日本のホテルのさきがけとして、帝国ホテルは誕生しました。建物はドイツ・ネオルネッサンス風の建築で、総工費は23万円。いまの価値でなんと58億円。客室数は当時としては圧倒的規模の60室。このうち10室がスイートルームという贅沢な作りでした。世界各国の一流の家具や調度品が集められ、大食堂から舞踏室、ビリヤード場など豪華施設を完備したまさに「東洋一のホテル」です。当時の宿泊代金は最も安い部屋で三食付き2円75銭。これは現在の価値にして7万円。一般的な宿泊賃が20銭だったこの時代、一般庶民にとっては、まさに手の届かない金額でした。しかし日本の「迎賓館」たる最高級ホテルとしてスタートした「帝国ホテル」は、その高額な宿泊料から、経営は順風満帆ではありませんでした。
開業翌年の営業報告書、ここには「宿泊客1日平均3,5人」という月もあったことが記されています。外国政府要人が頻繁に来日するわけでもなく、宿泊客がひとりもいない…そんな日も珍しくはなかったのです。そこで、帝国ホテルでは、一般外国人にもっと泊まってもらおうと、施設、サービス、その両方においての大改革を実行しました。それまで鹿鳴館に代表されるように、西洋文化の真似事に躍起になっていた日本。しかし帝国ホテルでは欧米の真似だけでない、装飾や什器に日本の優れた製品を採用し、日本の本当の素晴らしさを帝国ホテルから発信しようとしたのです。また食事の質の向上には欠かせないと、ホテル内にパン工場を設置、ゲストに常に焼きたてのパンを振舞いました。更に故郷を遠く離れた外国人宿泊客の為に、日本で初めてホテル内に郵便局を設置するなどこれまでには無かった数々のアイディアを実現していったのです。
帝国ホテルがこのころ始めた、もうひとつの日本初のホテルサービスが『ランドリーサービス』。それまで日本のホテルには宿泊客の衣類を洗濯するというサービスは存在しませんでしたが、日本への長い船旅で一番困るのは替えの衣類であろうと発案。1910年、館内を改造しホテル内に自営の大型ランドリーを設置、サービスの向上を図ったのです。そんな100年以上の歴史を持つ帝国ホテルのランドリーサービスは、いまも高い評価を受けつづけています。帝国ホテルのランドリーサービスは海外で評判が高く、各国からの旅行者が、わざわざ汚れた衣服を持参するほど。洗濯やプレスは勿論、最初からとれていたボタンまでつけてくれるという徹底したサービスぶり。そのため帝国ホテルのランドリーには世界中の100種類以上のボタンと数え切れないほどの糸が常にストックされているのです。30年以上このランドリーで働いているという栗林さんは、ホテル内で付いた飲食物のシミなら100%綺麗に落とせるといいます。ホテルのレストランがどんな食材を使っているのか全て把握しているため、シミを完璧に落とすことができるのです。こうして改革を進めたことにより、帝国ホテルはその名をさらに世界へと轟かせました。
“世界一美しい”ライト館の伝説
しかし、大正時代に入ると、どうしても設備の老朽化が目立ち始めるようになりました。そこで経営陣はあるアメリカ人建築家に「帝国ホテル新館」の設計を依頼します。その人物こそ、アメリカが生んだ20世紀最高の建築家といわれる巨匠フランク・フロイド・ライト。当時既に世界的名声を博していたライトは東洋美術、とりわけ日本文化に強い興味を抱いていました。数千点にも及ぶ浮世絵コレクションを持つほどの日本通だったライトはこの依頼を快諾、早速設計に取り掛かりました。こうして完成した帝国ホテル新館「ライト館」は、まさに日本建築史上最高とも称えられる傑作。かの平等院・鳳凰堂からインスピレーションを受けてデザインされたというとおり、細部に渡りシンメトリーーーつまり左右対称に構成され、竣工から完成までに4年、当初150万円だった予算を大幅に越えた総工費900万円(現400億円)がつぎ込まれました。大谷石とレンガを巧みに組み合わせた独特の造形美を持つ新館「ライト館」は、後に世界中の建築家を魅了する事となり、「世界一美しいホテル」とまで称されるようになりました。
さらにライト館は更なる伝説を生むことに・・・。ライト館開業披露式典当日の大正12年9月1日。招待客500人を迎えるべく準備に追われていた正午直前、激しい地鳴りと共に激しい揺れが帝国ホテルを襲いました。関東大震災でした。死者9万人を出したこの未曾有の大災害。当時の建物は震度7以上ともいわれた激しい揺れに耐えることが出来ず、次々と倒壊。更に多くの家庭が昼食の準備で火を使用していた為、各地から火災が発生。東京は焦土と化したのです。しかし完成直後のライト館だけは大きな損傷もなく、「大震災にも耐え切ったホテル」として、一躍その名を世界に広めたのです。
こうして震災を免れた帝国ホテルは、被災者の避難場所として開放され、宿泊料を無料にした他、食料の供給や各国大使館に臨時施設を提供、社屋が崩壊した新聞社にはロビーを開放するなど復興に尽力しました。こうして誕生したライト館は日本を代表する社交場となり、連日数多くの文化人が集うようになったのです。そしてこのころ、ライト館で日本において初めて披露され、大きな話題をよんだものがあります。それがジャズ。初めて耳にするサウンドに文化人たちは瞬く間にとりことなり、その後日本中でジャズブームが巻き起こるきっかけともなりました。
しかし時代は第2次世界大戦へ。空襲で多少の被害が出たものの壊滅的な損害を免れた帝国ホテルは、戦後、連合国軍の宿舎として接収され、日本のゲストを迎えることができなくなってしまいました。しかしそんな状況下で話題となったのが、いまも帝国ホテルの最大の魅力のひとつである「フランス料理」。そのレベルは、まともなフランス料理が食べられるはずがないと考えていたアメリカ人達を驚愕させ、「パリはここにもある」と言わしめたほど・・・。あのマッカーサーもこのフランス料理を食べる為、何度も通ったといいます。
帝国ホテルから始まった新しいサービス
1952年、昭和27年、ようやく自由営業が許されたとき、帝国ホテルは日本文化の発信地として新しいサービスを次々と生み出していきました。まずは「ホテルウェディング」。いまではあたりまえとなった、結婚式と披露宴をセットに行うというこのアイディア。実は、帝国ホテルの支配人・犬丸徹三が考え出したもの。神社から会場への移動は大変・・・というゲストの便利さを考えてのことでした。この斬新なアイディアはすぐに評判となり、以降、帝国ホテルでは数々の「世紀のウェディング」が執り行われました。現在も、帝国ホテルではチャペルウェディングや神前式など、さまざまなタイプの結婚式が行われ、帝国ホテルならではの華麗さと品格で、人々の門出を祝っています。
そして、いまでは全国各地の商店街でも普通に使われている「アーケード」。これも帝国ホテルが発祥です。1922年、「ゲストがホテルから出なくても買い物ができるように」と、宝石店や写真館、旅行代理店など20店舗ほどが作られたのが最初でした。このアーケードは特に海外からのゲストには高い評価を受けたといいます。更にいまや年末年始のホテルの定番となった「ディナーショー」。これも1966年、昭和41年、帝国ホテルが最初に行いました。初めてのショーは雪村いずみ主演、「チェリーブロッサムショー」。これはラスベガスで行われていた食事付きナイトショーを参考に始められたもので、当時は「シアターレストラン」と呼ばれていました。1974年にはあの世界的大スター、マレーネ・ディートリッヒも登場。ホテル史上最高額の10万円、(いまの価値で約20万円)でチケットが売られました。
このほかにも、帝国ホテルのレストランから始まった、いまでは定番となっている料理スタイルがあります。それは「バイキング」。1958年、決まった料金で好きなだけ食べることのできるバイキングは、もともとスモーガスボードという北欧伝統のサービス形式。料金はランチで1200円、ディナー1500円。当時の宿泊料金と変わらないほどの値段でしたが、初めて目にするサービスに、連日行列ができるほどの大盛況となりました。ちなみにバイキング、という名称は当時流行っていたカーク・ダグラス主演で北欧の海賊が活躍する映画「バイキング」からとられたもの。いまでは、バイキングという名称は日本のみならず、海外でも使われるようになっています。
ホテル内のサービスではありませんが、帝国ホテルのシェフが日本で最初に提供したものがあります。それが「機内食」。1929年(昭和4年)日本に初めて訪れた飛行船・ツェッペリン号。贅を尽くしたサービスを提供していたこの飛行船で、日本からロサンゼルスまで6日間の食事の全てを担当したのが帝国ホテルのシェフ、剣持確麿だったのです。水素で飛んでいたため火気厳禁だった飛行船。このときの調理・保存技術がいまの飛行機での機内食にも引き継がれているのです。
帝国ホテルを愛したセレブたち
いまでは世界中のレストランのメニューに登場する「シャリアピンステーキ」。フィレ肉を薄くのばし、細かく切りおろした玉ねぎを乗せて焼き上げる、というこの料理は、ロシアの声楽家・シャリアピンが滞在した際に、歯が悪く硬い肉が食べられなかったことから作られた特別メニュー。こうして開業以来、「日本最高のホテル」として世界中にその名が知れ渡った帝国ホテルにはその時代ごとに各国のセレブが集うようになりました。
日本通としても有名な喜劇王・チャップリンは、昭和7年、初めてこのホテルを訪れた際、ホテルの和牛ステーキのあまりの美味しさに感激。以来、帝国ホテルを常宿としホテルでの全ての食事で和牛ステーキを注文したそうです。実は帝国ホテル、いまも肉の質の高さには定評があり、「日本最高の肉が集まる」といわれています。というのも、帝国ホテルには、日本のホテルでは唯一、肉の吟味役、という担当が存在するのです。牛肉だけで1日牛20頭分消費するというこのホテルでは、ブッチャーシェフの小笠原氏が仕入れから熟成まで、すべてを管理しているのです。
そして新婚旅行の宿として帝国ホテルを選んだのがマリリン・モンロー。大リーガー、ジョー・ディマジオとの新婚旅行で日本にやって来たモンロー。帝国ホテルで開かれた記者会見で、「夜は何を着て寝るんですか?」との質問に対し、「シャネルの5番」と応えたのは余りにも有名です。このときモンローらが泊まった部屋に置かれていたというデスクは、いまも帝国ホテルのバーに置かれています。
昭和38年、フランス映画祭のためにやってきたのがアラン・ドロン。連日女性ファンが押しかけたため、アラン・ドロンはいつも従業員に付き添われ、地下の裏口から隠れるように出入りしていたといいます。帰国後もホテルにはファンが殺到し、彼が宿泊した部屋のドアのノブをこっそり触りに来るファンがあとを絶たなかったそうです。
そして、いまもアメリカのクリントン前大統領、国連のアナン事務総長、トム・ハンクスなど、帝国ホテルを利用とする要人・セレブは数知れず。フランスを代表する映画監督、リュック・ベンソンに至っては、帝国ホテルに惚れ込み、「WASABI」を撮影する時、支配人にホテルでロケをさせてくれるよう直訴したほど。これだけの国賓クラスのゲストを連日受け入れている帝国ホテルでは、日本のホテルとしては唯一、VIP専用の出入り口を持っています。先日行われた紀宮さまの結婚式で天皇・皇后両陛下も利用していたこのエントランス。通常のゲストから目に触れないよう、各所に防弾扉まで用意されているのです。
ホテルマンたちが実践するもてなしの心
世界のセレブたちにも愛され続けている帝国ホテル。ここで最高のサービスを提供するホテルマンたちには、帝国ホテルならではの「もてなしのこだわり」があるといいます。まずは、ホテルの顔ドアマン。数百人にも上る常連ゲストの車のナンバー、そして名前を覚えているのはもちろん、その配慮は初めて訪れるゲストにも向けられています。彼らはタクシーでやってきたゲストが1万円札しか持っていないことを想定し、常に両替ができるよう、ポケットに1000円札を忍ばせているのです。もちろん、外貨しかもちあわせていない海外からのゲストにもこのサービスは喜ばれているそうです。そしてゲストのホテルへの印象を決定付ける存在で、香取編集長が「THE有頂天ホテル」で演じたベルボーイ。帝国ホテルのベルマンたちは全員あるものを携帯しています。それは「マウスピース」。緊急のときにつかうものだそうです。
ホテルのサービスとしては欠かせない、モーニングコール。帝国ホテルでは、コールしたオペレーターが、「このゲストは2度寝しそう・・」と判断した時には、5分後、もう一度モーニングコールをするというきめ細かいサービスを実施しています。ゲストへの配慮はチェックアウトの後も続いています。松たか子さんが演じた客室係。何気なくゴミ箱に捨てる、数々のゴミ。これはチェックアウトの後ももう一日、保管されるのです。もちろん、「間違って捨ててしまった!」というゲストの要望に応えるため。そしてよくありがちな、部屋に放置した飲みかけのペットボトルや、使いかけの化粧品。これらはゴミとは判断されず、最短でも一日、長ければ2年間、保管されることになっています。そしてゲストのあらゆる要望、質問に答えるのが、ゲストリレーションズーーいわゆるコンシェルジュ。「近くにおいしいレストランは?」「歌舞伎のチケットを取って欲しい・・」というリクエストに応えるのはもちろん、「秋田犬を連れて帰りたい」「石灯籠を持って帰りたいんだが・・・」といった相談にも親身に対応し、さらには、初めて日本で生活する、というゲストのリクエストで、新居を探したこともあったそうです。
世界でも有数の歴史を誇り、日本文化の発信地でありつづけた、帝国ホテル。1970年には現在の本館が建てられ、数々の伝説の舞台となったライト館は老朽化が激しく、取り壊されました。保存運動もあり、いまは愛知県犬山市の明治村に正面玄関部分が移築されています。そして1983年には宿泊施設だけではなく、オフィスやショップなど複合ビルの草分け的存在「帝国ホテルタワー」を完成させるなど、帝国ホテルはいまも最新・最上の環境を提供しつづけています。日本人の誇りでもある「もてなしの心」・・・それこそが「帝国ホテル」なのです。開業から116年。時代がどのように変わろうとも、「日本のホテル」の象徴として、世界中の賓客たちに愛され続けていくことでしょう。
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